すずが俺の隣で固まっている。
その手に握られているのは、37.6と表示された体温計。
それを覗き込み、俺は36.7と表示された体温計を、わざとすずの目の前に突き出した。
無言で。
その代わり、最強にムカつくであろうスマイルをお供えして。
「太一って…クッソ意地悪。…まだ退院すら、告げられとらん私が、ゴホッ...明後日退院する、太一に...勝てるわけないやろ。」
不貞腐れた目を向けてくるすずに、俺は「どんな状況でも、一度決めた勝負を投げ出さないのが、勇者の鑑、なんじゃねーのか?」と意地悪くニヤついて見せた。
すずは低く「…今すぐ引っぱたいてやる」とぼやいた。
こいつ…最近やっとちゃんと回復してきたと思ったら…いっちょ前に悪い口まで回復させてやがる。
ま…それが俺に安心を与えないと言えば、嘘になる。
「で、今回は負けたやつがルールを決めるターンだろ?何すんだよ今から。」
「私の話を、聞いてほしい。」
間髪入れずに返ってきた返事。
その顔は、さっきまでのそれとは打って変わり、真剣そのもの。
思わず「お、おぅ…何だよ」と身構えてしまう。
俺ら以外の誰の気配も感じない、夜の静寂。
そのまま、すずの次の言葉を待った。
「あのね、私…今回の入院で、本気で人生が、終わるかと思った。病気で死ぬからじゃない。むしろ、退院しても、待っているのは生き地獄。...だったら、もう、ずっとこのままでいいと思った。人生で初めて、病気のままでいいって。そう思ったの。」
…衝撃だった。
入院した時から、俺よりもずっとしんどそうに隣でもがいていたやつが。
あんなにいっぱい、発作起こして泣いていたやつが。
むしろこの状態でいることを望んでいたなんて。
「私ずっと、自分がどうしたいのか、分からなかった。全部投げ出したいけど、諦めたくない。でも、今私が『すず』でいることを辞めたら…どうなるのか、分からない…得体のしれない、強迫観念…。」
そうだろうな。
下手クソでも必死に築き上げてきた自分を自らぶち壊したら。
こいつが守りたかったものまで、全部台無しになる。
そんな、逃れられない強迫観念。
「…それでも…家族も友だちも、優しかった。…治は、一番私を大事にしてくれた。私のことを、純粋に…心配して、くれていたのは…わかる。でも同時に…苦しかったし、怖かった。」
病室の静寂と消毒液の匂いが、ますます濃度を増していく。
「だって…それは…『求めているのは、元気なすず。』…そう、思えちゃったから。」
不意にすずが言葉を止めた。
しゃべりすぎたのか、喉を手で押さえて痛そうに顔を歪めている。
…回復してきたとはいえ、もう1か月以上、すずを苦しめる痛み。
でも…それとは違う、もっと慢性的な「痛み」を、彼女は今語ろうとしているのだろう。
「…わかってる。元気じゃない、私に…価値がない、わけじゃ、ないって。…でも、無意識に体が、動いちゃうの。いつも明るく…元気で、いなきゃっていう、使命感、みたいなもの、に。…だから、どんなに体しんどくても、心がグチャグチャでも…ギリギリまで、粘って、『元気なすず』で居たくて、いつも余裕ぶった、態度をとって…。」
ああ、そうか。
『やめろや治。大男3人に囲まれて女1人で寝れるわけあるかい。……お前は明日の私の分のおにぎり用意しときゃええねん。じゃあな』
おにぎり宮で治に放った、あの余裕たっぷりな毒舌。
あれは余裕なんかじゃない。
余裕が失われていく恐怖に抗うための、彼女の精一杯の「武装」だったんだ。
「でも…それが、幼馴染を、…治から、一番大事な生きがいを、奪うことになった。」
すずの目からサッと色が消える。
でも…今までと違って、涙は見られなかった。
「…それでも尚、こんな生き方しか、できないのなら…私はもう、外の世界の光なんか、要らない。…病院なら、誰も私に『元気な勇者様』なんて求めない。病気のままなら、これ以上、誰の心配も裏切らなくて済む。…そう、逃げ込んだ。」
チャチな使命感。
悲劇のヒロイン気取り。
自意識過剰も、いいとこだ。
自分の振る舞いが周りにどう見えるか、そんなことばかり考えて、勝手に自分の首を絞めて。
でも…それは、こいつ自身が一番よく分かっているはずだ。
かつてのこいつなら、そんな自分を隠すためにまた『勇者様』の仮面を被って逃げていただろう。
なのに、今はもう自分を卑下する言葉で誤魔化さない。
自分がどんなに格好悪くても、泥臭くても、ただ真っ直ぐな思いと一緒に、俺に向かって言葉を絞り出そうとしている。
…ほんと、強くなったな。
「でも…太一が来た。最初は、怖かった。治の友達だから、また私は評価、されるんだって。」
…ああ、思い出した。
入院初日、俺が病室に乗り込んだ瞬間に、こいつは俺に背を向けて横たわっていたっけ。
...失礼な。
めんどくさいにも程があるだろ。
『俺だって2人部屋とか最悪って思ったわ。』と言いたくなる気持ちを、今は我慢する。
「でも…太一は、違った。…驚くほど、容赦なくて、気遣いの欠片も、なくて。」
…今度は『失礼だな』なんて思えなかった。
何故かはわからないけど…胸の奥が、熱に支配されていく。
「私、病気で寝てたのに、毎日高熱で苦しんでたのに…それなのにこんな不謹慎な…『お前の体調?知らねぇよ。体温計の数字が高い方が負け、それだけだ。暇だから俺と勝負しろよ。』みたいな…そんな気迫を感じた。」
すずが「ふっ」と笑みを漏らす。
改めて、俺の「クソ生意気な大学生でいよう作戦」は成功だったのだという事実を、噛みしめる。
「太一の前では、初めて『元気かどうか』を気にしなくて済んだ。弱っていても、殻に閉じこもっていても、そのままの私を…ただの『勝負の相手』として生かしてくれた。」
…俺はお前と同じ「弱者」の目線で、寄り添っていたつもりだった。
同じ弱さを共有しているから、お前は俺を許しているんだと、そう思っていたのに。
…大誤算も、いいとこだ。
「私…本当はずっと、弱くて醜い部分を、誰かに気づいてほしかった、んだと思う。でも、…周りからの期待を裏切れないっていう、思いが強くて…どこにも、吐き出せなかった。」
周りからの期待…。
俺自身も、白鳥沢に居たときに、無意識に感じていた。
こいつ…俺と正反対と思っていたけど、根っこは似ている、のかもしれない。
「でも…太一っていう、外部からの砲弾。私の『光』の部分なんて、見ようともしない。それが…私に強制的に、でも自然に…ずっと誰にも見られたくなかったものを、私のプライドごと、ぶち壊した。」
すずの『光』。
この入院生活で、俺にとっては最も「ノイズ」だったもの。
「私が本当に欲しかったのは『優しさ』じゃなかった。自分の中の醜さを、土足で踏み荒らして、めちゃくちゃにしてくれるような…そんな強制力。太一だけが、それをくれたんだよ。」
治の身代わり。
気休めの空白。
俺が築き上げた卑屈な防御壁が、跡形もなく崩れ去る。
その時、すずの表情から緊張が消えたことを、俺は見逃さなかった。
ただ、すずの目を見つめる。
「…私を、『外の世界で生きたい』って…思わせて、くれたのは…他の誰でもない、太一、だけなんだよ。だから…」
その続きを、脳に一生焼きつけたくて。
目の前で一生懸命言葉を生み出そうとしているすずを、動画を撮るかのように凝視した。
すずの強張っていた顔が、熱のせいで赤くなった頬と一緒に、ふっと信じられないくらい柔らかく解ける。
ボロボロの、泣き出しそうな、でもどこか吹っ切れたような、見たこともない無防備な笑顔。
もう、誰かを突っぱねるためのどんな『鎧』も、ここには残っていなかった。
「ありがとう、太一。」
「ありがとう」も「太一」も、今まで何億回と聞いてきた単語。
でも…俺は。
俺という人間そのものへの、全力な肯定。
どんなに綺麗で、格好良く並べ立てられた言葉よりも。
今このタイミングで、こいつから放たれた「この8文字」。
そして、こいつの素の微笑み。
俺は一生忘れないだろう。
「不本意すぎる入院生活。この暇すぎる時間を使って、隣の勇者様の本質でも暴いてやろうか。」
入院当初ふと抱いた、今思えば超上から目線で無神経な好奇心。
普通の人間には到底持てないであろう、優しさの欠片もない「傲慢さ」。
そんな俺が持ち合わせていた唯一無二の武器こそが、こいつを地獄から救い上げたんだ。
…ちょっと前、白布と2人きりの時。
「太一。…お前に勝算など、あるわけがない。それは今も同じだ。…ただ、お前がその『言えなかった未練』のせいで、退院後にまでつまらねー顔してシャバを歩くってんなら、それは医療の敗北だ。…好きにしろ。後悔しない道を選べ。」
白布に突如告げられた言葉。
その時は「俺はやるべきことはやった。後悔なんかない。…これ以上ネチネチとあいつの懐に踏み込むなんて、柄じゃない。」なんて、威勢よく言ったけど。
でも…お前と俺の間では、とっくに「気遣い」なんて概念、すでにこの消毒液で除菌済みだ。
俺の気持ちを聞いたあとのこいつの罪悪感なんか、知らねーよ。
お前が俺の「傲慢」を特別だと言ってくれるのなら。
俺だって、それを最後まで振りかざしてやるよ。
俺を、こんな勝算のない非合理な泥沼に引きずり込んだ。
「治の代役」じゃなくて「唯一無二の存在」という称号をあたえられ、余計に逃げられなくなった。
その重罪を、『俺への感謝』なんていう綺麗な形でなんか、終わらせねぇよ。
俺はすずの目をじっと見つめ、静かに告げた。
「はい…。お前のターンは、一旦終わりだ。次は、俺のターン。俺の話も、聞け。」
ずっと胸の奥で凍結させて、ゴミ箱に捨てる予定だった想い。
退院2日前。
明日、最後の1日は…吹っ切れて、お前と最高に最低で、最後の不謹慎な夜を過ごしたいから。
俺はゆっくりと、その想いをすずの熱気で溶かし始めた。
「…感謝なんて言葉で、綺麗にまとめられると思うなよ。」