「すずー来たぞ。そして検温結果教えろー。」
昼下がりの、白いレースのカーテン越しに、夏手前のギラついた日光が溢れる病室。
俺はまるでその場所が第2の自宅であるかのように、すずが寝転んでいるところに構わず入り込んだ。
「お、太一やん。37.2やけど。」
「はい今日も俺の勝ち。俺は退院してからすごく元気だからな。」
「…ってか太一、気になっとったんやけどさ…。来た時の挨拶毎回それなの何?斬新すぎるんやけど。」
ベッドから身体を起こしたすずが、心底呆れた顔で笑う。
あんな泥泥の告白をして、盛大に振られた後だっていうのに。
少しの腫れ物扱いも、気まずさも混じっていないそのまっすぐな笑顔に、俺はまたどうしようもなく安心させられてしまう。
「これはもうじゃんけんの代わりみたいなもんだろ。ただのじゃんけんなんてつまんねぇじゃん。」
「いやいや、私だけ負け確の条件そろっとるんよ。こんなの勝負じゃないからな?」
すずが気だるげに、2人で散々使い倒したチェスボードを取り出す。
もちろん勝負は勝負だ。
俺は有無を言わせることなく、白い駒を手にした。
すずはつい先日、やっと白布から退院を告げられた。
すずにとっては、1か月半もの長すぎた戦い。
でも俺にとっては、あと3日で失われてしまう聖域。
その事実をかみしめながらチェスの駒を動かす。
大分元気になったこいつの攻略は、一筋縄ではいかなそうだ。
「てか太一、マジで毎日来てくれるよね。暇なの?」
チェス盤を神妙な面持ちで眺めていたすずが、ふと俺に挑発的でいたずらっぽい問いを投げかけてきた。
俺は一切悪びれることなく、憎まれ口で返した。
「うるせぇ。就活終わった文系の大学4年生なんて、クソ暇でやることねぇんだよ。すずはちょうどいい暇つぶしだ。ボードゲームもあるしな。」
学校はもう週1しかないから、クソ暇なのは本当だ。
でも、もし忙しくても、俺は絶対に毎日すずの元に来てボードゲームをやるに決まっている。
まあ、今は面白いところだから、本音は敢えて隠しておく。
すずは「太一やっぱひどい」と不貞腐れたフリをしながら、黒い駒に手を伸ばした。
その時、病室の入り口に静かな、けどどこか台風のような勢いをまとった影を感じた。
「あ、治やん。やっほー。」
すずが軽く治に手を振ると、治が一瞬やわらかい笑顔を見せた。
が、すぐに俺の方を見てちょっと不貞腐れた顔をする。
「川西…また、おるやんけ…」
「おう治。お前が必死にシャケとかツナマヨ握ってる間、俺はずっとすずの対戦相手してたわ。お疲れ。」
病室のパイプ椅子に堂々と座り、すずとチェス盤を挟んで向かい合っている俺を、治は心底羨ましそうな絶望顔で見てきた。
ちょっと勝ち誇った気持ちになる。
よく見ると治が来ている上着の下は、おにぎり宮のTシャツのままだった。
きっとまた、数時間でも店を抜け出せるタイミングを見計らい、頑張ってやって来たんだろう。
「前にも思ったけど、川西。…学生特権使いすぎや。…なんか俺が、すずに時間割かん薄情なやつに見えるやん。悲しいわ。」
「おう、大学4年生最高だわ。週1の数時間以外はずっと自由に時間割組めるからな。」
静かに悔しさをにじませながらうなだれる治に、俺はわざと憎たらしい笑みを浮かべて追い打ちをかけた。
その大きな身体がすずの隣で小さくなっているのを見ると、なんだかすずに甘えている可愛い弟に見えてくる。
その見事なニコイチっぷりに、俺は微笑ましさを感じた。
…高みの見物だけどな。
「なあすず。俺、社会人辞めてええか?」
「ダメや。」
すずが治の方を見ずに、不敵な笑みを浮かべる。
チェスの駒を動かしながら、容赦なく即答した。
この世の終わりみたいな表情を見せた治に、すずは向き合って言葉を続ける。
「お前が社会人やめたら…治のおにぎり待っとるお客さんが…そして私が、治のおにぎり食べれんくなるやろ。そんなん許さんからな。」
すずの言葉に毒気を抜かれたのか、治は「しゃーない。早くここ出て俺のおにぎり食いに来いよ?」と、一瞬で店主の顔に戻った。
ほんと…すずの言葉に一喜一憂して、こいつの中も救いようがないくらい、すず一色だな。
治が出ていった1時間後くらいに、俺も病室を出た。
吹き抜けのロビーを抜け、自動ドアを出ると、ムッとした外の熱気が肌をなでる。
この後、バイトだ。
すずには「太一。働いてもいいけどここに戻ってくるのだけはやめろよ?」と、ケラケラ笑われた。
白布のやつ…俺が入院した理由、すずにバラしやがったな。
心の中で白布に毒づくも、すずの屈託ない笑い声を思い出すと、不意にニヤついてしまった。
白布に『おい俺の入院理由何すずにバラしてんだ。シフトは減らしたし早番多めに切り替えたから、これ以上バカにしないでくれ。』とLINEしようとすると、すずのアカウントが目に入った。
退院してから今日まで、ずっと送れずにいた、すずへのデートの誘い。
「クソ暇」なんて嘘ぶいていたくせに、いざシャバでの一通目を送るとなると、どんな不謹慎な文面ならあいつが「戦友」として乗ってくるか、情けないくらい何度も書いては消してを繰り返していた。
俺たちの聖域はあと3日で失われてしまう。
…物理的には、な。
今から俺があいつに送るのは、3日後に訪れる「形を成さない聖域」への橋渡し。
俺がここに居たときは、単なる追放通知だった「退院」という事実。
今のこの「病室」っていう聖域も名残惜しいけど。
でも、それ以上に。
今はシャバで新しく形成されるであろう俺らだけの形は、どんなものになるんだろうか。
そんな期待に胸が膨らむ。
歩きながらスマホを開き、すずのアカウントをタップする。
記念すべき一通目。
もう、スマートな誘い方なんて考えるのはやめだ。
送る内容は、最初から決まっている。
『来週の23日、12時に△△駅。不謹慎なゲームの第2ステージ始めるぞ。遅刻すんなよ戦友。』
送信ボタンをタップすると、画面の向こうに俺たちの「形を変えた聖域」がぽんと投げ出された気がした。
その瞬間、ポケットの中で小刻みにスマホが震える。
画面を見れば、すでに『既読』の文字と、呆れたようなトドのスタンプ。
早すぎだろ。
かつて、すずの損失の過去と絶望を全てさらけ出した、あの一際赤かった病院からの夕焼け。
今、俺のスマホの画面を、そしてアスファルトを朱色に染めるその光は、俺の希望を表すかのように、どこまでも果てしなく広がっている。
今日のバイトは、皿洗いでもしながら、あいつをシャバでどう振り回してやるか、最高のデートプランを練ってやろう。
―振られたって関係ねぇ。
俺たちの勝ち誇ったゲームは、ここからシャバへ続くんだから。
そんなワクワクをかみしめて、俺は夕焼けの下を歩いた。