…あー、ダメだ。深追いはしない方が賢明なのかもな。
俺はホワイトボードを奪い取り、手のひらで乱暴に文字を消した。
『いつから入院してんの?』
当たり障りのない質問。
すずは目に見えてホッとした様子で、すぐにペンを走らせた。
『1週間前。昨日まで隔離病棟にいたけど、今日こっちきた』
やっぱりか。
あの飲みの直後、あの足取りで帰らせた時点で詰んでたんだ。
俺は彼女を「病気の先輩」として扱い、いくつか質問を投げた。
お互い、激痛で顔を歪めたり、咳のループで会話が中断したりしながらも、ボードの上で言葉を重ねる。
そして、ふと気になったことを書いた。
『病気で一番怖かったのって、何?』
すずの手が、止まった。
少しの間。
彼女はホワイトボードを見つめたまま固まり、それからゆっくりと、絞り出すように書き始めた。
『自分が自分でいられなくなること』
一旦それを見せてから、さらに書き足していく。
『当たり前のようにやってた研究も、バイトも、遊びも……食事でさえも、フツーにできなくなるのが、受け入れられないし、怖い』
…ああ、なるほど。
腑に落ちた。
すとん、と胸の奥に落ちた。
彼女が纏っていたあの重そうな鎧。
あれは誰かを攻撃するためじゃなく、そうやって「フツー」ができなくなっていく恐怖から、自分を必死に守るための盾だったんだ。
いかつい女だと思ってたけど、その中身は、驚くほど脆くて繊細な「女の子」だった。
そんな奴から「怖い」なんて言葉が出てくるとは、思わなかった。
(…参ったな。俺まで怖くなってくるじゃねーか)
正直、俺だって頭が回るような体調じゃない。
喉は焼けてるし、意識は朦朧としてる。
でも、何か「考えるべきこと」がないと、俺までその恐怖に飲み込まれそうだった。
俺は少し考えて、彼女にこう返した。
『確かに、俺もそれ、怖いよ
じゃ、それを吹き飛ばすおもしろいゲーム、俺が考えてやる
明日まで待ってろ。』
書き終えて差し出すと、すずが少しだけ目を見開いた。
何ができるかなんて、まだ何一つ思いついてない。
でも、何かを企んでいる間だけは、俺たちは「哀れな患者」じゃなくて、ただの「クソ生意気な大学生」でいられる気がしたんだ。
「……はぁ、……っ、げほっ」
一度ボードを置くと、また激しい咳が襲ってきた。
苦しい。
喉が痛い。
肺の底からせり上がってくる熱に、腫れ上がった扁桃腺がこれでもかというくらい、内側から圧迫される。
でも、明日までに何か「面白いこと」を考えなきゃいけない。
その小さな義務感が、今の俺には、どんな解熱剤よりもマシな気がした。