深夜3時。
病室の空気は、昼間とは比べものにならないほど重く、淀んでいた。
体温計の38.5℃という数字が、じわじわと俺の体力を削っていく。
ようやく眠気が痛みを上回り、意識が微睡(まどろ)みの淵に沈みかけた、その時だった。
「……ッ、ゲホッ、ゴホッ! ……ゴホ、ゴホッ、はぁっ……!」
隣のベッドから、聞いたこともないような悲鳴に近い咳が上がった。
俺の眠気なんて一瞬で霧散した。
カーテン越しでもわかる、ただ事じゃない気配。
「…すず! 喋るな、吸入するぞ。ゆっくり吐け!」
白布の声だ。
あいつのあんなに余裕のない、焦ったような怒号、高校の試合で追い詰められた時以来じゃないか?
俺は反射的に起き上がろうとしたが、体が鉛のように重い。
それに、今の俺がのこのこ顔を出したところで、何の役にも立たないどころか、白布の邪魔になるだけだ。
「し……らぶ、せんせ……ヒグッ、……っはぁ、……こわい、よぉ……」
カーテンの隙間から、薄暗い常夜灯に照らされた惨状が見えた。
いつも「勇者」の鎧を着込んで、どこかスカした態度を取っていたすずが、今は幼い子供のように顔を歪めて泣いている。
片手で自分の胸を掻きむしるように押さえ、もう片方の手で白布の白衣に縋(すが)り付いて。
「……寒い、……ゴホ、ゴホッ……! う゛ぇぇ……っ」
「泣け。泣いて全部吐き出せ。俺が受け止めるから。息は深く吸えよ!」
白布の白衣が、彼女の涙と汗でみるみる濡れていく。
あいつ、潔癖症のくせに。
でも、白布は眉一つ動かさず、ただ大きな手ですずの背中を、壊れ物を扱うようにゆっくりと撫で続けていた。
(……見てらんねーわ、これ)
普段なら最短ルートで最適解を探す俺の脳が、この惨状を前にしてフリーズした。
憐れみか、それとも同族嫌悪か。
自分も同じ淵に立っているという事実に、背筋が凍る。
俺はあえて「寝たふり」をすることに決めた。
今の俺に、あの剥き出しの絶望を受け止めるだけの器量なんて、どこを探したって見当たらない。
明日、いや数時間後には、俺もあんな風に誰かに縋り付いて泣きながら喘いでいるのかもしれない。
でも、それ以上に——。
あんなに強がって、誰にも弱みを見せないように踏ん張っていたあの子が、ボロボロに崩れて「助けて」と泣き叫んでいる。
その事実を直視するのが、俺には耐えられなかった。
すずの顎ラインで切り揃えられた黒髪が乱れ、白布の腕の中で激しく上下する。
彼女が必死に守ろうとしていた「自分」が、病魔に容赦なく剥ぎ取られていく音。
俺は布団の中で拳を握り、自分の呼吸を殺した。
(…すず、死ぬなよ)
喉の奥で、声にならない言葉が溶けた。
俺にできるのは、この地獄のような夜が明けるのを、隣で一緒に耐えることだけだった。
結局、朝方。
すずの呼吸が安定して、白布が疲弊した様子で病室を出ていくまで、俺は一睡もできなかった。
明るくなり始めた窓の外。
俺は、熱に浮かされた頭で、昨日天童さんが置いていったボードゲームをぼんやりと見つめた。
急性扁桃炎も肺炎も、俺たち程度の重症度なら、決して死ぬような病気ではない。
…データ上はそうだろうよ。
でも、今の俺にはその『確率』を信じるだけの余裕がねーんだわ。
あんな姿を見ちまった以上、そんな正論は何の役にもただないし、もうただの「同い年の隣人」でいるのは無理だ。
あいつが目を覚ました時、あの絶望的な夜を忘れさせるくらいの「何か」をぶつけてやらないと。
そうじゃないと、俺までこの重苦しい空気に押し潰されそうだったから。