俺だけの聖域   作:ゆずみかん#HQ

8 / 10
#8 不謹慎な反撃

朝方、ようやく白布が病室を出ていった。

静まり返った部屋に残されたのは、容赦のない静寂と、ツンとした消毒液の匂いだけだ。

隣からは、消え入りそうなほど弱々しい寝息が聞こえてくる。

 

(…生きてんな、こいつ)

 

カーテンの隙間から差し込む薄暗い光の中であいつの存在を確かめ、心の底から安堵した。

でも、同時に昨夜のあの光景が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。

 

あんなに強がっていた勇者の、ボロボロに崩れた姿。

治の気遣いさえ跳ね返していたあの瞳が、絶望に濁っていた。

 

そして、次は俺がああなるんじゃないかという、逃げ場のない恐怖がじわじわと背中を這い上がってくる。

 

「…っ、はぁ、…っ」

 

喉の奥が焼けるように熱い。

自分の呼吸の音がやけに大きく響く。

熱が、俺の思考をじわじわと焼き焦がしていく。

 

このまま黙って天井を見上げていたら、俺もあの底の見えない暗闇に飲み込まれる。

そう確信した。

恐怖をかき消すには、もっと「別の熱」が必要だ。

それも、思考を強制的に逸らすくらいの、理不尽なやつが。

 

俺は点滴の管を引っ張らないよう注意しながら、震える手で共有のホワイトボードを引き寄せた。

キャップを外したペンの先から、独特の溶剤の匂いが鼻を突く。

 

ひと呼吸置き、一気にペンを走らせた。

 

『すず。毎日暇だし、ちょっとゲームしようぜ。

ルールは簡単。朝昼晩の検温で、より平熱に近かった方が勝ち。

負けた方は、罰ゲーム。

今回の罰は、「チェスの先手を譲ること」。

最高に不謹慎だけど、ちょっとワクワクするだろ?

俺もお前も病人。条件は一緒だ。』

 

書き終えた文字を眺める。

我ながら酷い悪筆だ。

 

「不謹慎だ」「病人をなんだと思っている」と白布が見たら、それこそ般若のような顔でブチ切れるだろうな。

 

でも、今の俺たちに必要なのは、正論じゃなく、こういう「クソみたいな遊び」だ。

可哀想な病人として労わり合うなんて、俺たちのガラじゃない。

 

俺はそっとベッドから身を乗り出し、まだ眠っている彼女の枕元、一番に視界に入る場所にそのボードを立てかけた。

 

目が覚めた時、昨夜の絶望を思い出すより先に、この頭の悪い挑戦状にムカついてほしい。

「ふざけんな」と、あの濁った目に怒りの光を灯してほしかった。

 

「病人」という無力な枠組みから、無理やり「対戦相手」の土俵に引きずり戻してやる。

 

(…さあ、いつまで寝てんだよ、勇者様。負けっぱなしで終わるようなタマじゃねーだろ、お前は)

 

バレー部時代、どれだけ強大な相手に点差をつけられても、絶望の淵でこそ「次はどう止めてやろうか」と指先を研ぎ澄ませていたあの感覚が、身体の奥で少しだけ蘇ってきた。

 

相手が強ければ強いほど、リードブロックは狂おしいほど熱を帯びる。

 

役目を終えた俺は、再び自分の枕に頭を沈めた。

熱のせいで視界は相変わらずぐにゃぐにゃと歪んでいるけれど、不思議と、さっきまでの冷たい恐怖は少しだけ遠のいていた。

 

次に彼女が目を開けて、このボードを掴み取った時。

俺たちの、最高に不謹慎で、最高に必死な「反撃」が始まる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。