朝方、ようやく白布が病室を出ていった。
静まり返った部屋に残されたのは、容赦のない静寂と、ツンとした消毒液の匂いだけだ。
隣からは、消え入りそうなほど弱々しい寝息が聞こえてくる。
(…生きてんな、こいつ)
カーテンの隙間から差し込む薄暗い光の中であいつの存在を確かめ、心の底から安堵した。
でも、同時に昨夜のあの光景が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
あんなに強がっていた勇者の、ボロボロに崩れた姿。
治の気遣いさえ跳ね返していたあの瞳が、絶望に濁っていた。
そして、次は俺がああなるんじゃないかという、逃げ場のない恐怖がじわじわと背中を這い上がってくる。
「…っ、はぁ、…っ」
喉の奥が焼けるように熱い。
自分の呼吸の音がやけに大きく響く。
熱が、俺の思考をじわじわと焼き焦がしていく。
このまま黙って天井を見上げていたら、俺もあの底の見えない暗闇に飲み込まれる。
そう確信した。
恐怖をかき消すには、もっと「別の熱」が必要だ。
それも、思考を強制的に逸らすくらいの、理不尽なやつが。
俺は点滴の管を引っ張らないよう注意しながら、震える手で共有のホワイトボードを引き寄せた。
キャップを外したペンの先から、独特の溶剤の匂いが鼻を突く。
ひと呼吸置き、一気にペンを走らせた。
『すず。毎日暇だし、ちょっとゲームしようぜ。
ルールは簡単。朝昼晩の検温で、より平熱に近かった方が勝ち。
負けた方は、罰ゲーム。
今回の罰は、「チェスの先手を譲ること」。
最高に不謹慎だけど、ちょっとワクワクするだろ?
俺もお前も病人。条件は一緒だ。』
書き終えた文字を眺める。
我ながら酷い悪筆だ。
「不謹慎だ」「病人をなんだと思っている」と白布が見たら、それこそ般若のような顔でブチ切れるだろうな。
でも、今の俺たちに必要なのは、正論じゃなく、こういう「クソみたいな遊び」だ。
可哀想な病人として労わり合うなんて、俺たちのガラじゃない。
俺はそっとベッドから身を乗り出し、まだ眠っている彼女の枕元、一番に視界に入る場所にそのボードを立てかけた。
目が覚めた時、昨夜の絶望を思い出すより先に、この頭の悪い挑戦状にムカついてほしい。
「ふざけんな」と、あの濁った目に怒りの光を灯してほしかった。
「病人」という無力な枠組みから、無理やり「対戦相手」の土俵に引きずり戻してやる。
(…さあ、いつまで寝てんだよ、勇者様。負けっぱなしで終わるようなタマじゃねーだろ、お前は)
バレー部時代、どれだけ強大な相手に点差をつけられても、絶望の淵でこそ「次はどう止めてやろうか」と指先を研ぎ澄ませていたあの感覚が、身体の奥で少しだけ蘇ってきた。
相手が強ければ強いほど、リードブロックは狂おしいほど熱を帯びる。
役目を終えた俺は、再び自分の枕に頭を沈めた。
熱のせいで視界は相変わらずぐにゃぐにゃと歪んでいるけれど、不思議と、さっきまでの冷たい恐怖は少しだけ遠のいていた。
次に彼女が目を開けて、このボードを掴み取った時。
俺たちの、最高に不謹慎で、最高に必死な「反撃」が始まる。