朝の10時。
ようやく「勇者様」が帰還した。
2時間前の朝の回診時、白布のやつは一睡もしてないくせにきっちり現れて、まだ泥のように眠っているすずに「二度手間だ。後でまた来る」なんて吐き捨てて去っていった。
カルテをめくる手つきも、いつも通り無駄がない。
あいつ、マジで血じゃなくて冷却水でも通ってんのか?
でも、そんな白布の容赦のない冷徹さも、今のこの湿っぽい病室の空気にはちょうどいいスパイスだ。
変に同情されるより、あいつのあの不機嫌な顔を見る方がよっぽど現実に戻される。
やがて、すずがぼんやりと目を開け、枕元のホワイトボードに視線を落とした。
文字を追うごとに、彼女の瞳に力が戻っていく。
(…よし、食いついた)
一瞬で、彼女の目に不敵な光が宿る。
昨夜のあの、消え入りそうに小さくなって涙を流していた姿はどこへ行った。
俺は熱で鉛のように重い腕を動かして、不敵な笑みを浮かべながら彼女に体温計を差し出した。
『よし、やるぞ。体温計バトル。ちなみに俺はもう済ませた。38.3℃を下回れば、お前の勝ちだ』
書きなぐったボードを渡すと、彼女は迷わず体温計をひったくり、脇に挟んだ。
1分間の沈黙。
1秒ごとに、体温計が刻む小さな電子音が、俺たちの間でやけに大きく響く。
すずは腕を組んだまま、じっと床の一点を見つめて勝負の瞬間を待っていた。
ピピピッ、と無機質な電子音が鳴る。
すずは、パッと花が咲いたような明るい顔をして、黙って俺の目の前に体温計の液晶画面を突き出してきた。
「38.0℃」
…チッ、負けか。
コンマ3分差。
すずはホワイトボードを勢いよくひっ掴んで、躍るような筆致で黒い文字を書き込んだ。
『やった! 結構良くなってきたよ! 私の勝ちね!』
小さく、だけどこれ以上ないほど得意げにピースを送ってくる彼女を見て、俺は心の底から安堵した。
昨夜、白布の腕の中で「怖い」と泣きじゃくっていたあの子が、今は38℃もの熱があるのに「良くなった」と笑っているんだ。
(…38℃で、喜ぶのかよ)
その事実に、胸の奥がギュッときつく締め付けられた。
この数日間、彼女がどれだけの地獄を見てきたのか。
どれだけの恐怖と、暗闇の中で一人で戦ってきたのか。
健常者の俺にとっての38.3℃は「最悪の体調」だけど、彼女にとっては「快方」に向かっている動かぬ証拠でしかないんだ。
世界の基準が、俺とあいつとでは最初から違いすぎる。
ぶり返しそうになる「病気への恐怖」と感傷を、俺は力ずくで脳内からねじ伏せた。
ここで俺まで情けない顔をしたら、またあの湿っぽい夜に逆戻りだ。
(…ま、一回目はハンデとして譲ってやるよ)
声には出さず、俺は天童さんがお見舞いに置いていったチェスボードをベッドの上に広げた。
木製の盤面が、カチリと軽い音を立てて水平に開く。
(…さあ、始めようぜ。勝負はここからだ)
俺は、ルール通り先手を譲る屈辱を隠すように、あえて面倒くさそうな顔を作って、彼女に白の駒を差し出した。
病室に響く、駒を置く小さな乾いた音。
それが、俺たちがただ生き長らえている「患者」じゃないことを証明する、唯一の鼓動だった。