魔王の間に立ち込めていた煙が、ようやく晴れてきた。
ボロボロになった身体を起こし、勇者がゆっくりと顔を上げる。
霞む煙の向こうで、魔王がぺたんと床に座り込んでいた。
――泣いていた。
豊かなバスト。きゅっとくびれたウエスト。ほどよく張ったヒップ。見る者を惑わす、絵に描いたような妖艶ボディ。
ついさっきまで凶悪な笑みを浮かべ、勇者を見下していたあの魔王である。
その魔王が、頭の上に「えーん、えーん」と擬音が浮かんで見えるほど、幼女みたいにわんわん泣いていた。
……そのギャップたるやどうだ。
いや、待て。
どうだじゃない。
え?
ドユコト?
魔王がふいに顔を上げた。
当然、ぽかんと見つめていた勇者と目が合う。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間。
太陽みたいにぱあっと満面の笑みを咲かせた魔王が、抱っこをせがむ幼児そのままに両手を勇者へ突き出し、
「お兄たま!」
…………。
え?
ドユコト?
魔王の間に突入した時、二十五名いた斬首部隊は勇者、術士、治癒士の三人にまで減っていた。
しかし三人の目の前にはたったの二人、暗黒大将軍「アラクノ・フォビア」とその奥の玉座に太々しく座る妖艶なる魔王「ドロテア・ロッセリーニ」
「よく来た、しかしここでお前達は、終わりだー」
アラクノが勇者達の前に立ちふさがった。身の丈三メートルはあろうか、八本の脚のうち二本で立ち上り、残りの脚の爪が鋭く光っている。目は複眼で両脇に牙のある口から粘液が垂れている。
アラクノは蜘蛛の魔人だ。
勇者は手にしていた聖剣「エクスチェンジャー」を鞘に納め、右手を胸にあてた。
「四天王が一人、暗黒大将軍アラクノ殿とお見受けする。我名はレオナルド・コンウェル・バーンスタイン、スタイン王国皇太子である」
「ほう、皇太子殿が最前線におるのか、勇猛であるな、敬意をもって八つ裂きにして差し上げよう」
勇者が再び剣を抜いた。
ポンメルの先に下がったアミュレットの入った小袋が揺れるのを見て、出撃前にこのアミュレットをくれた妹姫のことを想う。
歳の離れた腹違いの愛らしい妹姫レイネシアは随分とレオナルドに懐いていて、出撃の時このアミュレットを渡してくれた後、泣きじゃくりながら行かないでと駄々をこねた。
レオナルドはレイネシアの頭をなで「魔王を討ち果たし必ず戻ってくるから、良い子にして待っているんだよ」とそう言って城を離れた。
レオナルドが聖剣を構えると同時にアラクノも身構えた。
その後方、玉座に座る魔王はひじ掛けに肘を置き、頬に手をやり退屈そうに目をすぼめていたが、ふと顔を上げて勇者の方をじっと見た。
「怒号層圏!!」
動いたのはアラクノからだった。六本の脚が伸びその鋭い爪がレオナルドに襲い掛かった。
怒号のごとく幾層ものエリアを覆いつくすアラクノの技は凄まじく、レオナルドはかろうじてそれらをすべて受け流したが、しかし聖剣を構え直そうとしたその時には、目の前にアラクノが光のごとき素早さで迫っていた。
レオナルドは回避行動も間に合わずアラクノの強烈な体当たりを受けて、後ろに吹っ飛んだ。
壁に強く体を打ち付けたが、術師からの防御バフを受けていた分ダメージは大きくない。
素早く態勢を整えて追撃してくるアラクノの爪の攻撃を聖剣でいなしていく。
アラクノの後方では魔王ドロテアが心の中で悪態をついていた。
・・・アラクノの阿呆が、まったく何じゃアレは、バカ正直に勇者ばかりに攻撃しおって、六本も爪があるんじゃから、後ろの術者に1本づつ割けばあんなのイチコロじゃろうにの
ドロテアは右手をスッと前に出し小さく何かを呟いた。
レオナルドとアラクノの攻防は一進一退だった。
レオナルドはアラクノの脚を三本切り飛ばしたものの、自身も脇腹や大腿部を貫かれ、満身創痍だった。
「アラクノォ!おぬし糸を忘れておるんじゃないか!?拘束糸じゃよ!使えよ」
突然ドロテアが怒鳴る。
「おう!魔王様、そうであった、忘れておったわー!」
言うが早いかアラクノは口から大量の糸を吐き出したがレオナルドもその隙を見逃さずに残りの脚を切り飛ばした。
しかし回避は間に合わずあっという間に拘束され、アラクノの胸元に引き寄せられた。
「おや?魔王様!拘束したは良いがもう攻撃手段がねぇ、どうしましょう?」
「しらんがな」
ドロテアは額に手を当ててなにやらぶつぶつと愚痴りだした。
「全く、魔族ってやつは戦闘力は高いのにバカばっかりじゃ、なんでじゃ」
レオナルドは首を後ろに回して術者達を目で探したが二人とも床に突っ伏して倒れている。
戦っている間に魔王が何かしたのだろうか。
「がはははははっは」
突然アラクノが高らかに笑い出した。
「一切合切承知!我、魔王様の御ために、勇者を道連れとし自爆致す!では、御免」
アラクノの身体が赤く光り始めると魔王が慌てて立ち上る。
「な、バカもたいがいにせぇ!」
ドロテアが右手を前に出し叫ぶように何かの呪文を唱えた。
それと同時にアラクノがフッと消えて、レオナルドは床に突っ伏した。
「まったく、こんなとこで自爆したらワシのデリケートなお肌が煤で汚れてしまうではないか・・」
ドロテアがぶつぶつと愚痴っているのを唖然と見ていたレオナルドもハッと我に返った。
「魔王ドロテア!貴様今何をした!?」
「飛ばした」
「飛ばした?」
「こんなところで自爆などされては叶わんので、どっか適当なところに飛ばした」
「部下だろう?」
「部下じゃが?」
「どっか適当って街中とかだったらどうするんだ?」
「しらんがな」
「貴様ーゆるせぬ!」
レオナルドが立ち上り剣を構え直すが満身創痍で、もはや力を使い果たし、よろめいていた。
それを眺めながら魔王はのんびりと考える。
・・・コイツも結構なバカじゃな。まぁ、斬首部隊に放り込まれるあたり、厄介払いにでもされたのじゃろう。哀れなことじゃの。
しかしあの剣は何だ?おそらくレジェンド級のものであろうが、思い当たらぬ・・・
魔王はもう、レオナルドには興味を失っていたが彼の持つ剣には強く興味を引かれていた。
彼女は超が付くほどのアイテムオタクだった。
アラクノだけを飛ばしたのもレオナルドが持つ剣を奪って調べたかったからだ。
「魔王様ー!」
遠くの方から声がした。
武具が立てる音と共に多くの足音も聞こえてくる。
陽動に釣られていた親衛隊が異変に気付き駆け付けているようだ。
それに気づいたレオナルドは覚悟を決めたような顔をしてドロテアを睨みつける。
・・・聖剣の力の解放、これをすれば何が起こるかわかっていない、しかし最後の望みを掛けてやるしかないか!
レオナルドが聖剣の柄をまわして手前に引くと聖剣が光りだした。
「聖剣エクスチェンジャー!その力を解放せよ!!」
聖剣からまばゆいばかりの光が発生してドロテアに向かって放たれた。
「な!?」
ドロテアを包み込んだ光は彼女が倒れるとそのまま上に打ち出されて天井を破って城外へ消えていった。
辺りは光の圧力で巻きあがった埃が視界を奪っていたが、やがて晴れていき玉座の前にぺたんと座っていた魔王ドロテアは・・・泣いていたのだった。
レオナルドが唖然としていると、魔王の間にどかどかとした足音と共に親衛隊が押し入ってきた。
万事休すかとレオナルドが肩を落とした時後ろから首根っこを引っ張られた。
「殿下!退却です!」
「ぐぁ!?」
魔王の術が解けたのか後衛の二人がレオナルドに重量軽減の魔術をかけ、二人で担ぎあげて超スピードで逃げ出していた。
その逃げ足たるや、まさにスタコラサッサであった。その時、術師は「これで勝ったと思うなよー」の捨て台詞まで吐いていた。
「魔王様!ご無事ですか!」
親衛隊を率いて魔王の間に駆け込んだウォルフガング・ブリッツこと暗黒宰相ウォルフが目にしたのは、スタコラサッサと逃げる勇者一行と、その後ろ髪を引いて泣いている魔王ドロテアの姿だった。
「お兄たまー!なんでシアをおいて行っちゃうのぉ~!」
「・・・魔王様?」
ウォルフが駆け寄るとドロテアはビクリと身を震わせ、怯えた表情を浮かべた。
「魔王様?勇者に何をされたのですか?」
「あう・・・あうぅぅ・・・」
「まさか・・・幼児退行、されたのですか・・・?」
あまりの事態に驚愕するウォルフ。しかしふと周囲を見回すと、魔王を取り囲む親衛隊の様子がおかしかった。
「幼児退行した魔王さま・・・」
「か、かわいい・・」
「魔王様萌えぇ・・・」
中には中腰になって目を血走らせて鼻息を荒くしている者までいる。
「えーい!散れ!散れーい!魔王様に破廉恥な目を向けるな―!」
そう怒鳴って振り返ったウォルフがドロテアを見下ろすと、ドロテアは震える瞳に涙をため、上目遣いでおずおずと尋ねた。
「・・・いぢめる?」
その一言は、ウォルフの下腹部に稲妻となって突き刺さった。
「ぐっ・・・」
思わず前かがみになり、目を血走らせるウォルフ。その鬼気迫る形相を見たドロテアは、つぶらな瞳から堰を切ったように涙をあふれさせた。
「び~~~えぇぇぇぇぇ!!!」
その泣き声はドロテアの身体に宿る膨大な魔力を乗せ、凄まじい衝撃波となって周囲に解き放たれた。
親衛隊は紙屑のように吹き飛び、天井は砕け、壁は弾け、床はめくれ上がる。
そして――魔王城は、あっけなく崩壊した。