清流・誉川(ほまれがわ)のほとり、四季折々の風景に囲まれて広大な敷地を誇る私立誉川高校。
本校は全校生徒千名を超える地域屈指のマンモス進学校だ。
朝の教室。一限のチャイム前の賑やかな時間。
椅子が引かれる音。
誰かが昨夜の模試の出来を嘆く。
机に鞄が落ちる鈍い音。
誰かが眠そうに机へ突っ伏す。
ページをめくる乾いた音。
誰かが小テストの範囲を必死に確認する。
窓際では、誉川から吹く朝の風がカーテンをふわりと揺らし、光が斜めに差し込んでいる。
刹那、引き戸が勢いよく開いたかと思われると、
そのざわめきの海をまるでモーセの杖の一撃のように割る声が教室に響いた。
「うぉーーい!! 青葉ちゃん! 結婚してくれぃ!」
顎のラインでぱつんと切り揃えられた黒髪のボブ。
クリンとした黒目がちな瞳。唇の真ん中がわずかに尖り、猫のような輪郭を描いている。
ブレザーのボタンは全開。彼女の大胆な性格そのままだ。
引き戸の前で大きく手を広げ、静止した。
一瞬、シンと静まり返る教室。
しかし、すぐにざわめきは元に戻る。
なぜならこれは毎朝の恒例行事だったからだ。
「あーおーばーちゃーーん!!」
彼女は教室に入ってくると一直線に窓際の席へと滑り込む。
そこに座っているのは、肩甲骨あたりまでのストレートの黒髪。前髪を横に分け、いつもヘアピンで止めている。少し茶色がかった瞳と白い肌の女生徒。
迷惑そうな顔でその訪問者をじろりと睨む。
「毎朝、毎朝よくやるね」
「うぉいうぉーい。青葉ちゃん、結婚しておくれよ〜」
椅子に座る青葉の太ももの上に、まるで子猫のように頭を載せる。
「結婚しない」
そうピシャリと言い放ったのが青葉。
小林青葉(こばやしあおば)だ。
「そこをなんとか結婚しておくれよぉ〜」
甘えるように青葉に縋っているのが澪。
佐藤澪(さとうみお)だ。
「青葉、そいつ放っといて。朝、小テストあるよ」
澪の登場に一切の動揺を見せず、机にノートを広げたのは青葉の友人、柿崎すず(かきざきすず)。
健康的な体型に低い声。ふわふわのくせ毛をお団子に結んでいる。
「英単語だよね」
「はぁ〜〜。青葉ちゃん朝からいい匂い」
「二十問」
「髪の毛うるつや〜」
青葉とすずが澪を見下ろし、声を揃えた。
「「ignore」」
澪は目をぱちくりと瞬かせ、小首を傾げた。
「……"無視する"?」
「Exactly。早く自分の教室戻りな」
青葉が呆れて教室の引き戸を指した。
澪はひどく残念そうに肩を下ろし立ち上がると、よろよろとした足つきで教室を出ていった。
ようやくうるさい訪問客が居なくなり、青葉は鼻から短く息を吐いてノートに目線を戻す。
すずも同様にノートを見る。
「あの澪って子、いつまであんたに付きまとうんだろうね」
「さあね」
「あれだよね。あの子、いわゆる……」
「……さあね」
青葉はノートに「possibility」
――可能性と書き写した。
去年、高校一年生の春だった。
青葉は廊下の隅で座り込んでいる女生徒に声を掛けた。
酷い貧血で立っていられなくなったらしい。
それが澪だった。
すぐさま保健室の先生を連れてきて事なきを得たのだが、青葉が付き添った際に澪に名前を聞かれた。
恐らくそれがきっかけなのだろう。
名を答えた時に、澪は驚くほど嬉しそうに微笑んでいた。
一学年十クラスの中から澪は青葉を探し出した。
末恐ろしい執念を感じた。
(って言っても、体調不良を助けたくらいでここまで好かれなくても……)
すずの言いたい言葉はわかっていた。
澪が同性愛者――レズビアンなのではないかと聞きたいのだろう。
正直、青葉は澪の気持ちがわからなかった。
その可能性もあるが、ふざけて言っているようにも見えるからだ。
(どうして『結婚』なんだろ)
青葉はシャープペンのノックをカチ、と押した。
『付き合って』とか『好き』だとか言ってくるなら、そうなのかもしれないと思うのだが、彼女から出る言葉はいつも『結婚』だった。
そのワードは非現実的過ぎてジョークに聞こえるのだ。
しかし、彼女の本当の気持ちを知る気にはならなかった。
(なんか面倒だし……)
チャイムが鳴ると、一瞬、空気が引き締まる。
波がすっと引くように、ざわめきは収まり、教室は次の顔をつくる。
すずも慌てて自席へと戻るが、すずと入れ替わって着席した男子生徒が青葉にノートの切れ端を渡した。
「おはよー。ちょっと、これ」
「おはよ。なにこれ」
男子生徒は二度ほど顎でその紙切れを差すと、すぐに前を向いてしまう。
担任が教室に入ってきた。
青葉が訝しげにその紙切れを開くと、やたらと尖った字でこう書かれていた。
【小林 青葉さま
2年C組の遠藤 修一です。
お話したいことがあります。
放課後、合宿施設の中に来てくれませんか。
待ってます。】
「ん゛ん!?」
閉じたままの口から叫び声が出た。
周囲のクラスメイトと担任が青葉に注目する。
「どうした? 小林」
「あっ……スミマセン、窓から虫が入ってきて」
周りはすぐに納得してくれたようで、ホームルームへと戻る。青葉はすぐに紙切れを筆箱の中にしまい込んだ。
遠藤修一。
彼は学年でも人気のある男子生徒だ。学校祭や球技大会などイベントの際によく三年の先輩方が「しゅーくん、しゅーくん」と彼のことを呼んでキャーキャー言っているのを青葉は見ていた。
青葉の認識ではビジュアルが優れており、スポーツ万能。だが、勉強の成績は下の方だし、制服を着崩しているので、よく風紀委員長に怒られているという印象だ。話したことは一度もない。
(一体なんの用なんだろう)
ノートの切れ端で伝言。
青葉は小さく頭を抱えた。面倒だ。
次の時間は小テストがある。
そっちに集中したい。
青葉は小さく唸ると、床をトトトと三回蹴った。