『さとうみお』ちゃんは引っ手繰った体育帽子を再び地面へと叩きつけた。
青葉はハッとしてランドセルを降ろすと中から同じように体育帽子を取り出した。
「見て。私も同じ」
青葉の体育帽子には「さとう」に二本横線が引かれ「こばやし」と書かれていた。
「すごいね。私、『さとう』から『こばやし』になったの。あなたは『こばやし』から『さとう』になったんだね」
その子の顔から次第に怒りが消え、どこか申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんね」
「ううん。全然平気だよ」
青葉は地面に叩きつけられた体育帽子を拾い上げ、もう一度彼女に渡した。彼女はしばらくもじもじと帽子の紐を触っていたが、唇を尖らして青葉を上目で見た。
「……あのね。みおのママとパパ、離婚したんだ」
あまり言いたくなかったのだろう。言葉の端々が震えている。苗字が変わることなんて理由は限られている。青葉は特別驚きもせず「そっか」と返した。
「私はね、ママが再婚したの。家に新しいパパが来て、最近、その、赤ちゃんも生まれたんだ」
それを聞いてみおの頬がまた赤くなった。
「いーなぁ、赤ちゃん。みおも赤ちゃんのお世話したい」
「……あまり良くないよ」
胸の奥がザワッとする。
初めてだった。弟の誕生を「良くない」と口に出したのは。なんだか言ってはいけない気がして。
ずっと母親と新しい父親は弟に付きっきり。
青葉は家族の中でどこか疎外感を抱えていた。
「……体育帽子だけじゃないよね」
「……え?」
青葉も両親の再婚で体育帽子や体操着、教科書、ノートと全ての持ち物の苗字を変更した。
全ては親の都合で。
母親の苗字をずっと名乗っていたかった。
新しい父親の苗字など、私には必要無かったのに。
青葉がそう言うと、みおは嬉しそうに何度も頷いた。恐らく共感してくれる人が周りにいなかったのだろう。
みおは家族が離れ離れになったことを実感するので体育帽子を見たくなくなった。この体育帽子は無くしたことにして、新しい体育帽子を買ってもらおうと思っていたと青葉に教えた。
「ママに言いにくいよね〜」
「絶対悲しい顔する」
すっかり意気投合した二人は公園の遊具で遊んだ。空が夕日に染まりかけた時間。
そろそろ帰らなくてはいけない。
まだ名残り惜しかった。まだまだもっともっと遊びたかった。
最後に、二人は四つ葉のクローバーを探して遊んだ。
「二つ見つけよう」
「二人で一つずつ持とう……そうだ! 良いこと考えた!」
青葉が提案した。
もう苗字が変わるのは嫌だから、二人で新しい苗字を考えようと。
二人だけの苗字を作って、それを名乗れば苗字なんて変わらなくてもいいのだ。
青葉と澪は美術資料室の中で二人で並んで座っていた。
狭くて薄暗い美術資料室はどこかひんやりとしている。
「シロツメ」
「そう」
青葉と澪はその時目の前にあったシロツメクサを見て、二人の苗字を「シロツメ」にしようと決めたのだ。
「青葉ちゃん、あたしに言ったんだよ。『私の名前はシロツメ アオバ。青い葉っぱでアオバだから、なんだかぴったりだよね』って」
青葉はそれを聞いて吹き出した。
「よく覚えてるね。そこまで覚えてない」
「だから、あたしね、同じ苗字を二人で名乗るんだから結婚するのかなってその時思ったの」
澪は真っ直ぐに青葉を見つめた。
澪の大きな瞳が薄い膜を張って揺らぐ。
「あたしは、男の人とは結婚しない。苗字が変わっちゃうから。青葉ちゃんと結婚して『シロツメ ミオ』って名乗りたいんだ」
子供の遊びだった。
『シロツメ』なんて苗字、その時のノリで考えたものだ。
彼女にとって、苗字を奪われた澪にとって、あの時の遊びは真剣だったのだ。
「澪、約束なんだけど……」
澪が少し笑って首を振った。
「ごめんね、あたしも、さすがに……」
あの時公園で二人で探した四つ葉のクローバー。
結局一本だけしか見つからなかった。
仕方がないからその一本の四つ葉のクローバーを半分に割って、双葉のクローバーにしたのだ。
「どこかに失くしちゃった。捨てたかもだし」
「大丈夫。あたしも同じだから。でも、あれってあたしにとっては結婚指輪と同じ。二人ではんぶんこ。永遠の約束で永遠の思い出なの」
約束。
『いつかまた会おうね』。
「青葉ちゃん、ありがとう。あの時青葉ちゃんに会わなかったら、あたしはずっと元気になんてなれなかった」
青葉もあの時の弟に対する嫉妬や母親に対する不満な気持ちを澪に聞いてもらえた時、気持ちがスッとしたのを覚えていた。
あの時、お互いがお互いの心を救っていたのだ。
青葉も澪への感謝の言葉を口に出そうとしたが、子供の頃に思った素直な気持ちを口に出すのはなんだか気恥ずかしくて、口を開けたまま固まった。
「なぁに?」
「……ん。いや、なんでもない」
「なぁに、なぁに〜?」
「なんでもないってば」
青葉は立ち上がった。
「帰ろう」
「うん!」
青葉が差し出した手を澪が握って立ち上がった。
前と変わらない柔らかくて薄い華奢な掌。
前とは変わった澪への――。
「う〜ん。青葉ちゃん、思い出してくれて嬉しいよぉ〜」
立ち上がるなり、澪は青葉に抱きついた。
彼女のこうして素直に感情を言えるところは羨ましい。
「……澪」
「ん?」
「四つ葉のクローバー探しに行かない? 校庭に行ったらあるよね?」
澪は子供の頃に会ったときと同じように頬を赤く染めて頷いた。
私はきっと澪の気持ちに応えることは出来ない。
将来結婚して苗字が変わるかもしれないし、結婚せず、このまま今の苗字を名乗り続けるかもしれない。
でも、私は明日から彼女のことは『澪』と呼ぶし、彼女と一緒にハニベアのポップアップショップに絶対に行くのだ。
なんならもう一度映画を観に行っても良い。
いや、観に行きたい。
そうして、彼女に寄りかかって二度目の涙を流すのだ。
いいでしょ? 澪。
約束だよ。
この双葉のクローバーに誓ってね。
(完)