夕暮れの風が、花壇に咲く花々を揺らしていた。
「あたしから離れていかないで……青葉ちゃん……」
澪は悲痛な声を青葉の胸の中で漏らした。
青葉はスクールバッグからポケットティッシュを取り出し、澪に差し出す。
さすがの遠藤も戸惑っていたようだが、彼よりもっと青葉は戸惑っていた。
ここまで執着されているとは思っていなかったのだ。
場に残ったのは重たい沈黙だけだった。
遠藤はその空気を読んだのか、青葉と澪を交互に見て、ふっと息を吐いた。
「……俺、帰るな。ここ、人目つくし、中、入れば?」
「え……あ、うん」
いつもの軽さはなく、どこか気まずそうに頭を掻きながら、遠藤は施設の裏手へと歩いていった。
(……気を使ってくれたんだ)
胸元にしがみついていた澪が顔を上げた。
目は真っ赤に腫れ、鼻水をすすりながら、まるで子どものようだ。
「中、入ろう」
青葉がそっと手を差し伸べると、澪はその手をぎゅっと掴んだ。掴んでいる手に不必要なほど力が入っている。合宿施設の中に入り、青葉が手を離そうとすると、澪はそのまま青葉のブレザーの袖を掴んだ。
「青葉ちゃん、しゅーいちろーが好きなの?」
心配そうに見つめる澪に青葉はため息を吐いた。
「全然好きじゃないよ。遠藤くんも別に私のこと好きじゃない。今までちょっかい出してきたこと謝ってくれただけ」
澪はグッと奥歯を噛みしめ、唇を震わせるとそのまましゃがみこんだ。
「すごく怖くなったの」
「……何が?」
「あたしの大事なものはみんなあたしから離れていっちゃうのかなって」
その言葉を聞いて青葉は以前本で読んだことを思い出した。
『愛着障害』
相手に依存しやすい。見捨てられるのが怖いのだ。
きっと澪自身、何かを抱えているのだろう。
家庭のことだろうかと青葉は心配になり、澪に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
寄り添ってあげるべきだ。
「……不安にさせてごめん。あんたから離れていったりしないよ。……ほら」
青葉はそう言ってスマホを取り出し、ケースに挟んだクッキー・バニー親子のステッカーを見せる。
「今度一緒にハニベアポップアップショップ行こう」
彼女はこれで落ち着くと思った。
安心を与えれば落ち着くはずだと。
しかし、澪は悲しそうに瞳を伏せた。
「どうして……思い出してくれないの……?」
「……え?」
澪は唇を噛み、再び濡れた睫毛を震わせ、涙をぽろぽろと落としながら続けた。
「青葉ちゃん……忘れちゃったの……? ずっと……ずっと思い出してくれるの待ってるのに……」
喉の奥から搾り取るような声。
自身を落ち着かせるためか、ふうふうと小さく息を吐きながら澪は立ち上がる。
呆気にとられている青葉を澪は涙を拭って見下ろした。
「約束したんだよ。青葉ちゃんとあたしは結婚するんだ」
背後から差し込む夕日の光に澪が照らされている。なぜだか意識が淡く霞む。
オレンジに包まれた澪はただただキレイだ。
今、彼女は、なんと言った?
息が止まっていた。
ひゅっと息を吸い込み、唾を飲み込むと、ようやく青葉は口を開く。
「待って……何の話?」
青葉が慌てて聞くと、澪は再び顔を歪ませた。
「なんで……なんで思い出してくれないの……! 青葉ちゃんは……いつになったら……約束思い出してくれるの……!」
「……ごめん。私……」
彼女との『約束』、『結婚』、どちらも記憶の奥底に引っかかるようで、掴めない。
虚言、もしくは妄想なのだろうか。
彼女と初めて会ったのは、高一、去年の春だ。
間違いない。
体調不良を助けただけで、約束のようなことは何一つしていない。しかし、その時確かに感じたのを覚えている。
名乗ったときの違和感。
ずっと青い顔をしていたのに、名前を教えた瞬間、驚くほど嬉しそうな顔をしたのだ。
春風が舞ってるような、花々が咲き乱れるような。
彼女とはあの時より前に会ったことがあるのか。
思い出せ。
思い出せ。
約束。結婚。
誰かとそんな約束を――。
「思い出せない……」
青葉が力なくそう言うと、澪の目から光が消えた。
落胆の色を滲ませながら、呟く。
「……もういいよ」
澪が鞄を掴み、玄関へと向かった。
青葉が慌てて立ち上がりその後を追う。
「待って。教えて。高校に入る前に私たちどこかで会ってるってこと?」
「……」
澪は青葉を無視して靴を履くとそのまま合宿施設を出ていってしまった。
線を引かれた。
今まで迷惑なほどに愛情を向けてきてた子からの、はっきりとした拒絶。
呆然と立ち尽くした。
早く、思い出さないと。
思い出さないと?
青葉は自問した。
思い出さないとどうなる?
ちょうどいい厄介払いが出来たじゃないか。
覚えていないものは仕方がないのだ。
これで平穏無事な学校生活を送れる。
早く思い出さないと。
違う。思い出さなくていいのだ。
何を?
思い出すべきことがあるのでは?
何か大切なことなのでは?
ガヤガヤと人の声が近づいてきた。
ドアが開けられると、サッカー部の面々が驚いた顔で青葉を見ていた。
「え、誰?」
「着替えたいんだけど……」
青葉はハッとしてすぐに謝ると、部屋の中に置きっぱなしになっているスクールバッグを取りに行った。
身体を屈ませるとブレザーのポケットからカシャンと音を鳴らしてスマホが落ちた。
そのケースに「クッキー・バニー親子」のステッカーが並んで貼り付けてある。
スマホを取ろうとした手が止まる。
一緒に映画を観に行った。
しゃくり上げて泣く青葉に、澪はこのステッカーを買ってくれたのだ。
嬉しかった。
このステッカーを貼っていれば、離れ離れになった親子も一緒になれるんだよ、と。
そう言って笑う澪の顔が脳裏に蘇った。
(……やっぱり思い出そう)
夕暮れの光が差し込む合宿施設。
青葉は強く決意すると鞄を肩に掛けた。