青柳蒼司が、数年ぶりに帰ってきた。
昨日、俺に――
「俺は、カイトのことが好きだよ」
そう、はっきりと言った。
曖昧でも、冗談でもなかった。
逃げ道のない、まっすぐな言葉だった。
その一言で、俺たちが積み重ねてきた時間も、すれ違ってきた想いも、全部、同時に思い出した。
これは、あの頃の続きを生きる物語だ。
海斗と蒼司が、同じ海を見つめながら、
それでも違う場所に立っていた、
その“先”の話。
* * *
朝練。
俺がグラウンドに着くと、もう佐伯青がいた。
俺の後輩であり、元教え子でもある。
青はいつも、俺より早く来て、
グラウンドの準備をしている。それが、あいつの日課だった。
「……おはよう、佐伯」
「佐々木先生、おはようございます」
「……いつも早いな」
自分でもわかる。
声に、まったく張りがない。
昨日は、ほとんど眠れなかった。
「佐々木先生、大丈夫ですか?」
「え?」
「最近、元気ないっていうか……上の空というか」
「そうか。まぁ、ちょっとな……」
青は心配そうに、俺の顔を見つめていた。
「……そうですか」
何か言いたげな表情だった。
でも、それ以上は何も聞かずに言葉を飲み込む。
俺も、その視線の意味には気づいていた。
それでも、気づかないふりをした。
「さっ、今日も頑張らなきゃな」
そう言って、俺はグラウンドへ視線を向けた。
――今日も、一日が始まる。
球児たちの声が響き、
グラウンドはいつものように活気づく。
朝は軽めのランニング。
ストレッチ中心のメニュー。
そんな中、フェンスの向こうを歩く姿が目に入った。
岡谷蒼太が、大学へ出勤するところだ。
蒼太が手を振る。
それに、青が笑顔で応える。
二人の左手の薬指には、同じ指輪が光っていた。
佐伯青と岡谷蒼太は、職員宿舎で一緒に暮らしている。
生涯をともに歩むことを誓った、かけがえのないパートナー。
そんな二人の姿は、もう学校では見慣れた光景になっていた。
……の、はずだった。
蒼太の隣に、今日はもう一人、立っている。
(……蒼司)
その姿を認識した瞬間、胸が、ドキッと跳ねた。
俺は無意識に、隣に立つ青と、少し距離を取ってしまう。
フェンス越しに、蒼太と蒼司が、何かを話している。
声は届かない。
(……何、話してるんだろう?)
理由もなく、胸の奥がざわついた。
「佐々木先生、どうしました?」
「え?」
「やっぱり、調子悪いんじゃ……」
青は、俺がフェンスの向こうにいる蒼太と蒼司を、じっと見つめていたことに、気づいたようだった。
俺はハッとして、慌てて視線を逸らす。
「いや……岡谷、元気そうだなって」
「はい。大学事務職員の仕事も、だいぶ慣れてきたみたいです。」
「先輩の松本さんの話、家でもよくしてくれますよ」
「……そうか」
それだけしか返せなかった。
俺らしくない。
話題が続かない。
青は少し考えるような表情をすると、ふと口を開いた。
「そういえば、最近入った青柳先生……」
「今日、珍しく早いですね」
「そうか?」
青は少しだけ首をかしげた。
「……佐々木先生、青柳先生とお知り合いなんですか?」
「えっ?」
思わず声が裏返る。
青は昔から洞察力に優れ、勘がいい。
ちょっとした変化も見逃さない。
「ああ……実は、ちょっとな」
「そうなんですか」
「この前、美術準備室の前を通った時、青柳先生が絵を描いてるのが見えて……」
「それで、少し見させてもらったんですけど……」
「なんか、すごくて。」
「あんな綺麗な青、見たことないっていうか……なんか、感動しちゃいました」
「そうか。佐伯もそう思うか」
気づけば、俺は少し身を乗り出していた。
「俺も、昔から好きでさ」
思わず声が大きくなる。
その瞬間――
「コホン」
ベンチの方から、監督がわざとらしく咳払いをした。
「……あっ、ヤバい」
思わず小さくつぶやく。
青はその様子を見て、
「ふふっ」
と、楽しそうに笑った。
俺も照れ隠しをしながら笑ってしまう。
さっきまで胸の奥に重くのしかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
* * *
俺は、蒼司と話がしたかった。
その機会を、ずっとうかがっていた。
蒼司は職員室にいることが、ほとんどない。
空き時間は、美術準備室で絵を描いたり、授業の準備をしたりして過ごしていることが多かった。
昼休み。
昼休みは、体育準備室で青と昼飯を食べるのが日課だ。
青は毎日、自分で弁当を作ってくる。
一方、自炊が苦手な俺は、注文した弁当や購買で買ったパンで適当に済ませることが多い。
授業のこと。
野球部のこと。
それから、お互いのプライベート。
青との会話は、いつも自然と弾んでいた。
ある日。
俺は昼飯を急いでかき込み、美術準備室へ向かった。
意を決して扉を開ける。
……誰もいない。
蒼司の姿はなかった。
蒼司は臨時採用の美術教師だ。
授業がある日だけ出勤し、日によっては午前中だけで帰ることもある。
「……タイミング悪いな」
小さくつぶやき、体育準備室へ戻った。
「あっ、佐々木先生。お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
「急いで出かけた割には、早かったですね」
「ああ。大した用事じゃなかったからな」
何事もなかったように答え、いつものように雑談が始まる。
すると青が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、青柳先生……」
「今度、美術部の顧問になるそうですよ」
「えっ、そうなんだ」
——それなら。
部活動がある日の夕方なら、学校に残っている。
そんな考えが頭をよぎる。
ふと顔を上げると、青と目が合った。
……もしかして。
勘づかれたか。
一瞬そう思った。
けれど青は、いつもと変わらない穏やかな表情のまま、何も言わずパソコンへ視線を戻した。
* * *
ある日の放課後。
俺はブルペンで、投球練習を見ていた。
「よし。いい感じだな」
声をかけると、エースは小さく頷く。
「あとは、ゆっくりダウンして休め」
「はい。ありがとうございます」
時計を見ると、十九時。
練習は、予定どおり終了だ。
片付けの声が響くグラウンドを背に、俺は校舎の方を見る。
――あそこが、美術準備室。
まだ、明かりがついている。
胸の奥が、わずかにざわついた。
……と、その時。
ふっと、その明かりが消えた。
俺は、片付け途中の青に声を掛ける。
「佐伯。悪いけど、今日はこのあと頼んでいいか」
一瞬だけ、青は驚いた顔をした。
「はい。もちろんです」
そして、いつもの表情に戻り。
「……お疲れさまです」
「頼む」
それだけ答えて、俺はグラウンドを後にした。
* * *
校舎を出てくる蒼司の姿が見えた。
「……帰るのか」
自分でも、少し硬い声だと思った。
「お疲れさまです、佐々木先生」
蒼司は足を止めた。
「……今日、遅いな」
自分でも、少し柔らかい声だった。
蒼司は照れたように小さく笑う。
「今日は美術部の講評会だったから」
「終わってから、少し自分の絵を描いてたら……気づいたらこんな時間になってた」
「はは。」
思わず笑みがこぼれる。
「絵のことになると、時間忘れるのは相変わらずだな」
その言葉に、蒼司の表情がふっと柔らかくなった。
「そうだね……」
「……これしか取りえないしね」
「そんなことないだろ」
そう言いかけた言葉を、俺は飲み込む。
今は、もっと伝えたいことがあった。
一瞬、沈黙が流れる。
断られるかもしれない。
でも、このまま帰したくなかった。
俺は意を決して口を開く。
「……送ってく」
少し間を置いて続ける。
「……乗れよ」
蒼司は驚いたように俺を見つめる。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
蒼司はただ小さく頷いて、助手席のドアを開けた。
黙ったまま、車に乗り込む。
エンジンをかける音だけが、夜の校舎前に響いた。
「家まで送る」
「駅まででいいよ」
「大宮だろ。そこまで行く」
「……わかった」
ゆっくりと車が走り出した。
止まっていた俺の時間も、
この夜とともに、
また少しずつ動き始めていた。