俺は、竜司の運転する車に乗っていた。
エンジンがかかり、車が夜道へと滑り出す。
フロントガラスの向こう、
街灯の光が一定の間隔で流れていく。
無言の車内。
エンジンの音だけが、静かに響いていた。
しばらくして、竜司がぽつりと言った。
「……楽しかった」
「……え?」
俺は、竜司を見る。
「何が?」
「今日」
竜司は、前を向いたまま言った。
「お前がコーチやってるところ、ずっと見てたから」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、
なんだか急に恥ずかしくなった。
「……だからか」
「ん?」
「今日、なんか落ち着かなかったんだよ」
俺は苦笑する。
「ずっと見られてる気がしてさ」
「はは」
竜司が、小さく笑った。
「すまん、すまん」
そして、少しだけ間を置いてから、
「……なんか、昔のこと思い出してな」
その言葉に、俺も前を向いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
街灯の明かりが、フロントガラスを流れていく。
やがて竜司が、小さな声で言った。
「あの頃……楽しかったな」
俺は、何て返せばいいのか考えた。
いろんなことがあった。
楽しかったことも。
苦しかったことも。
あの時、言えなかったことも。
少し考えてから、俺は言った。
「……俺もだよ」
竜司が、ちらっとこっちを見る。
「いろんなことあったけどさ」
俺は、少しだけ笑った。
「俺、竜司とやる野球、好きだったよ」
竜司は、何も言わなかった。
ただ、前を向いたまま、
ほんの少しだけ笑ったように見えた。
また、静かな時間が流れる。
しばらくして、竜司が口を開いた。
「俺さ」
「ん?」
「これから、何しようかなって考えてて」
俺は、黙って聞いた。
「引退してから、まだ何も決めてないだろ」
「うん」
「でもな」
竜司は、少しだけ息を吐いた。
「やっぱり俺、野球が好きなんだよ」
その言葉に俺は思わず、竜司の横顔を見る。
「今日さ」
「お前が野球部の指導してるところ見てて」
「……」
「なんか、また野球やりたくなった」
竜司は、少し照れたように笑った。
「お前が今でも野球に関わってて、
コーチやってる姿見たらさ」
「俺も、野球に関わることやりたいなって思った」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、自然に笑った。
「……そっか」
竜司が、こっちを見る。
「よかったよ」
「何が?」
「竜司が、これから何するのかなって思ってたから」
俺は、少しだけ笑いながら続けた。
「竜司が野球以外のことやってるところ、
なんかイメージできないし」
「……ひでえな」
竜司が笑う。
「だって、ずっと野球だったじゃん」
「まあ……そうだけどな」
二人で、小さく笑った。
昔みたいに。
でも、昔とは少し違う。
それでも、こうして野球の話をしていると、
不思議なくらい、自然だった。
* * *
車は、大宮の一角で静かに止まった。
外に出て、海斗は思わず立ち止まる。
ガラス張りの外観。
落ち着いた照明。
どう見ても——高級そうだ。
「……お、おい、竜司」
「ん?」
「ここ……俺、こんな普段着で来た?」
一瞬、自分の服を見下ろす。
「大丈夫か、これ」
竜司は軽く笑った。
「大丈夫だよ。気にすんな」
「いや、だからってさ……
こんな高級そうなところ……」
「大丈夫、大丈夫」
さらっと言って、先にドアへ向かう。
「今日は俺が奢るから」
「……は?」
「今日のお礼な」
一拍置いて。
「お前、イタリアン好きだろ」
「……まあ、好きだけど」
席に案内され、海斗はメニューを手に取る。
——そして、金額の欄を、チラリ。
(……高っ)
思わず、そっとメニューを戻す。
「……じゃあ、今日はご馳走になるよ」
「はは」
「お前の、そういう素直なとこ、好きだよ」
「なっ……何言ってんだよ」
慌てて、メニューで顔を隠すように俯く。
「……わりィ。何注文したらいいか、わかんねえ」
「大丈夫だよ」
あっさり。
「コース料理、もう予約してるから」
「……は?」
一瞬、固まる。
「予約って……」
その瞬間、すべてを悟った。
(……はめられた)
俺は、心の中でそう思う。
竜司は、楽しそうに肩をすくめた。
「文句ある?」
「……ねえよ」
小さく息を吐いてから、観念したように言う。
「……わかったよ」
「よし」
俺は、竜司に勧められるまま、
グラスに注がれたワインを口にした。
……思ったより、飲みやすい。
料理が運ばれてくる。
前菜、パスタ、肉料理。
皿が変わるたび、香りが立ち上る。
どれも、文句のつけようがなくて。
気がつけば、俺は夢中でフォークを動かしていた。
口に運んだ瞬間、思わず声が漏れる。
「……うまっ!」
はっとして、口を押さえる。
向かいで、竜司が満足そうに笑った。
「だろ」
ワインをもう一口。
頬が、少し熱い。
胸の奥まで、じんわりと温かくなる。
——まずい。
(だめだ。酔うと、大事な話ができなくなる)
俺は、ワインが進んでいた。
グラスの水を飲みながら、竜司が呆れたように言う。
「お前、本当、酒強いよな」
「そうか?」
「それ、けっこうキツイはずだぞ」
「そうなんだ?」
俺はグラスを眺めながら、もう一口飲む。
「……美味しいよ」
「はは」
竜司が笑った。
「お前の好物って、
ピザと、パスタと……あとハンバーグか」
その言葉を聞いて、
俺はふと、昔のことを思い出した。
竜司が、俺のために作ってくれたハンバーグ。
思い出したら、なんだか可笑しくなって、
俺は小さく笑ってしまった。
「なんだよ。急に笑って」
「いや……」
俺は、少し照れながら言った。
「ちょっと昔を思い出して」
「……そっか」
竜司は、どこかほっとしたような顔をした。
それからしばらくは、
昔の話や、今日の練習の話をしながら、
お互い、穏やかに会話を楽しんだ。
料理も、ワインも、ゆっくりと進んでいった。
そして――
ふと、竜司の表情が変わった。
さっきまでの穏やかな顔ではない。
少しだけ、深刻な顔だった。
「俺さ」
「ん?」
「しばらく、岩槻の実家に帰ろうと思って」
「……そっか」
俺は竜司を見る。
「なんで?」
「代官山の家さ。広いんだ」
竜司は、グラスに手を添えたまま、ぽつりぽつりと話す。
「息子は寮生活だし、嫁は仕事でほとんどいなくて」
「……」
「それでさ」
一度、言葉を止める。
「広い家に一人でいると……」
竜司は、視線を落とした。
「それだけで、おかしくなりそうで」
その顔が、少し辛そうに見えた。
俺は、今の竜司の置かれている状況を想像した。
広い家。
誰もいない部屋。
一人で過ごす時間。
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
俺は、テーブルの上のワイングラスを見る。
そして、
そっと置いた。
……これ以上、飲まないほうがいい。
今は、ちゃんと竜司の話を聞きたい。
「この年で実家に帰るのは、どうかと思ったけどな」
竜司が、少しだけ苦笑する。
「両親は喜んでるし」
「高校のときの友達にも会いたい」
「高校のときにお世話になった監督にも、
ちゃんと挨拶したい」
一つずつ、言葉を重ねる。
「だから……」
俺は、少し考えてから答えた。
「いいんじゃねぇの」
竜司が、顔を上げる。
「お前、高校卒業してプロの世界に入って、
ずっと全力で走ってきただろ」
「……」
「少しくらい、立ち止まってもいいんじゃねぇの」
俺は、竜司を見る。
「それで次に何するか、ゆっくり考えたらいいんじゃね」
竜司は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……カイト」
「ん?」
「ありがとう」
少しだけ笑って、
「なんか、カイトにそう言ってもらえて嬉しい」
「そうか?」
俺も、少し笑った。
「……そうだな」
竜司は、ぽつりと言った。
そして、少しだけ遠くを見るような目をして、
「旅行とか、してみたいな」
「旅行?」
「そうだ」
竜司が、俺を見る。
「カイト、旅行いかね?」
「……え?」
俺は、思わず固まった。
「いや、深い意味じゃねぇよ」
竜司は、少し慌てたように付け加える。
「俺さ、プライベートで旅行とか、
ほとんどしたことなくて」
「……」
「俺たち付き合ってた頃も、できなかっただろ」
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。
俺は、すぐには返事ができなかった。
そして――
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
「……そんなこと、もっと早く言って欲しかった」
「……え?」
竜司が、驚いた顔で俺を見る。
その瞬間、
俺は、自分が何を言ったのかに気づいた。
「……」
酔いのせいなのか。
それとも、
ずっと胸の奥にしまっていた言葉だったからなのか。
もう、引っ込めることはできなかった。
「カイト……ごめん」
「いや、竜司のせいじゃない」
俺は、ゆっくり首を振った。
「俺はさ」
少しだけ、言葉に詰まる。
「竜司が、プロとして活躍してほしかったから」
「……」
「だから、俺からは何も言えなかった」
竜司は、黙って俺を見ている。
「でも、本当は……」
喉の奥が、少し熱くなる。
「もっと会いたかった」
「遊びにも行きたかった」
「福岡に行こうって、何回も思ってた」
俺は、視線を落とした。
「でも……」
一度、息を吸う。
「……あのときは、言えなかった」
竜司は、何も言わない。
俺も、顔を上げられなかった。
「……言えなかったんだよ」
下を向いたまま、
「……ごめん」
小さく呟く。
「俺、ちょっと飲み過ぎたよな」
「変なこと言って、ごめん」
「……今の言葉、忘れてくれ」
竜司は、何も言わなかった。
しばらくして、
静かな声が聞こえた。
「カイト」
「……」
「顔、上げろよ」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、息が止まった。
竜司の目は、少しだけ涙ぐんでいた。
「……カイト」
竜司は、俺をまっすぐ見た。
「すまなかった」
「……」
「俺さ」
一度、言葉を止める。
「カイトが寂しがってたことも、
強がってたことも……」
「本当は、あの頃からわかってた」
俺は、何も言えなかった。
「俺、福岡に行って、プロに入って……」
竜司は、ゆっくりと言葉を続ける。
「想像してた以上に、キツかったんだ」
「練習も、人間関係も」
「上下関係だって、
高校のときとは全然違ってた」
「高校を卒業したばっかりで、
社会のことなんて何も知らない俺には……」
一度、苦しそうに息を吐く。
「毎日が地獄みたいだった……」
俺は、黙って聞いていた。
「何度も、カイトに会いに帰りたかった」
「顔を見て、話したかった」
「でも……」
竜司は、少しだけ視線を落とした。
「そんな気軽に帰れるような空気じゃなかった」
「だから俺、必死だったんだ」
「練習についていって、一軍になって……」
「もっと上に行って、一流になれば」
竜司は、涙をこらえるように、一度だけ目を閉じた。
「そうすれば、
周りの目なんか気にしなくていい」
「好きなときに帰れる」
「好きなところに行ける」
「カイトにも、自由に会える」
「……そう思ってた」
俺は、胸が締めつけられるようだった。
竜司は、少しだけ自嘲気味に笑った。
「だから、必死にやった」
「野球だけは、絶対に負けたくなかった」
「一流になれば、全部手に入ると思ってた」
そして、竜司は俺を見る。
「……でも」
声が、少し震えた。
「結果的に、カイトを苦しめた」
「俺が頑張れば頑張るほど、カイトを一人にしてた」
「……ごめんな」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、長い間しまっていたものが、
静かにほどけていく気がした。
店内のざわめきが、遠くに聞こえていた。
周りの声も、食器の触れ合う音も。
何もかもが、少し遠い。
時間が、止まったかのような。
そんな、不思議な感覚だった。
俺は、一度大きく息を吸った。
そして、ゆっくり吐く。
今、ちゃんと言わないと。
俺は、竜司の目を見た。
「……竜司」
「ん?」
「ごめん」
一度、言葉を切る。
「……一緒に旅行には行けない」
竜司は、何も言わなかった。
ただ、黙ったまま俺の顔を見ている。
俺は、逃げずに続けた。
「俺さ」
喉が、少しだけ震えた。
「今、蒼司と付き合ってるんだ」
「……え?」
竜司の表情が、明らかに変わった。
「恋人として」
俺は、ゆっくりと言った。
「ちゃんと、付き合ってる」
竜司は、しばらく何も言わなかった。
驚きを隠せないような顔で、俺を見ている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そっか」
「そうなんだ」
少し間を置いて、
「……驚いたよ」
そう言って、竜司は苦笑した。
けれど、その表情にはまだ動揺が残っていた。
「俺さ……」
竜司が、ゆっくり口を開く。
「蒼司が四国で美術教師辞めて、埼玉に帰ってきて……
カイトと同じ高校に採用されたって聞いてから」
一度、言葉を止める。
「なんでだろって、ずっと思ってた」
「……」
「でも……」
竜司は、少しだけ笑った。
「そっか……そういうことだったんだな」
その声には、まだ驚きが残っている。
それでも、
竜司の表情は、少しずつ穏やかになっていった。
そして、俺をまっすぐ見て言った。
「カイト」
「ん?」
「蒼司のこと、よろしくな」
「……」
「お前ら、子供の頃から仲良かったもんな」
竜司は、少しだけ笑う。
「蒼司ってさ」
「兄の俺から見ても、何考えてるのかよくわかんねぇとき、あるけどさ」
「……」
「でも、めっちゃいい奴だよ」
その言葉に、胸の奥が、少し熱くなった。
竜司は、穏やかな顔で続けた。
「カイトと一緒なら、俺も安心だよ」
俺は、何も返せなかった。
ただ、小さくうなずくことしかできなかった。
竜司も、それ以上は何も言わなかった。
少しの沈黙。
そして、竜司はふっと、いつもの顔に戻った。
「……そろそろ、デザートだな」
俺は、思わず竜司を見る。
「……うん」
竜司は、小さく笑った。
「食べようぜ」
「……うん」
甘い香りが、静かに近づいてくる。
さっきまでの会話が、
なかったことになったわけじゃない。
二人とも、きっとまだ胸の中に残っている。
それでも――
今はただ、
目の前に運ばれてきたデザートを、黙々と食べた。
それから、俺たちは食事を終えた。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
竜司は、
そのまま車で俺を学校の職員宿舎まで送ってくれた。
車内では、ほとんど会話をしなかった。
けれど、不思議と重苦しさはなかった。
お互いに、ずっと心の中に秘めていたことを口にした。
長い間、積み重なっていた行き違いも、
あの頃には言えなかった思いも、
少しだけ、お互いに分かり合えた。
そのことへの安堵なのか。
それとも、まだ言葉にできない何かなのか。
自分でもよくわからない。
いろんな感情が、胸の中で静かに渦巻いていた。
やがて、車が職員宿舎の前で止まった。
「竜司、悪いな。また送ってもらって」
「いいよ」
竜司は、いつものように笑った。
「お前、酔ったまま帰らせるの心配だったし」
それから、少し間を置いて、
「それに俺、このまま岩槻に帰るから。
そんなに遠くないしな」
「そっか」
俺は、シートベルトを外した。
「じゃあ竜司、今日はありがとう」
「……こちらこそ」
竜司は、少しだけ笑った。
そして、何かを決めたような顔で、俺を見る。
「なあ、カイト」
「ん?」
「俺、しばらくは岩槻にいるからさ」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。
「たまには、またこうやって飯行こうぜ」
俺は、竜司の顔を見た。
そして、小さく笑った。
「……わかった。行こう」
その瞬間、
竜司の表情が、ほんの少しだけほっとしたように緩んだ。
「じゃあな、また」
「ああ」
俺も、笑って返す。
「気をつけて帰れよ」
「おう」
俺は車を降りた。
ドアを閉める。
竜司の車は、ゆっくりと走り出した。
赤いテールランプが、夜の向こうへ消えていく。
俺はしばらく、その場に立っていた。
そして、ゆっくりと自分の部屋へ戻った。
ドアを閉める。
静かな部屋。
「……長い一日だったな」
ぽつりと呟く。
今日一日で、いろんなことがあった。
竜司と会って。
昔のことを思い出して。
言えなかったことを、ようやく言えた。
俺は、ベッドに腰を下ろした。
そして、小さく笑う。
「……でも」
ちゃんと言えた。
俺は、そのままベッドに横になる。
天井を見つめながら、静かに呟いた。
「蒼司……」
少しだけ、胸が温かくなる。
「ちゃんと言えたよ」
それだけ言って、
俺は、ゆっくり目を閉じた。
俺は、竜司の運転する車に乗っていた。
エンジンがかかり、車が夜道へと滑り出す。
フロントガラスの向こう、
街灯の光が一定の間隔で流れていく。
無言の車内。
エンジンの音だけが、静かに響いていた。
しばらくして、竜司がぽつりと言った。
「……楽しかった」
「……え?」
俺は、竜司を見る。
「何が?」
「今日」
竜司は、前を向いたまま言った。
「お前がコーチやってるところ、ずっと見てたから」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、
なんだか急に恥ずかしくなった。
「……だからか」
「ん?」
「今日、なんか落ち着かなかったんだよ」
俺は苦笑する。
「ずっと見られてる気がしてさ」
「はは」
竜司が、小さく笑った。
「すまん、すまん」
そして、少しだけ間を置いてから、
「……なんか、昔のこと思い出してな」
その言葉に、俺も前を向いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
街灯の明かりが、フロントガラスを流れていく。
やがて竜司が、小さな声で言った。
「あの頃……楽しかったな」
俺は、何て返せばいいのか考えた。
いろんなことがあった。
楽しかったことも。
苦しかったことも。
あの時、言えなかったことも。
少し考えてから、俺は言った。
「……俺もだよ」
竜司が、ちらっとこっちを見る。
「いろんなことあったけどさ」
俺は、少しだけ笑った。
「俺、竜司とやる野球、好きだったよ」
竜司は、何も言わなかった。
ただ、前を向いたまま、
ほんの少しだけ笑ったように見えた。
また、静かな時間が流れる。
しばらくして、竜司が口を開いた。
「俺さ」
「ん?」
「これから、何しようかなって考えてて」
俺は、黙って聞いた。
「引退してから、まだ何も決めてないだろ」
「うん」
「でもな」
竜司は、少しだけ息を吐いた。
「やっぱり俺、野球が好きなんだよ」
その言葉に俺は思わず、竜司の横顔を見る。
「今日さ」
「お前が野球部の指導してるところ見てて」
「……」
「なんか、また野球やりたくなった」
竜司は、少し照れたように笑った。
「お前が今でも野球に関わってて、
コーチやってる姿見たらさ」
「俺も、野球に関わることやりたいなって思った」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、自然に笑った。
「……そっか」
竜司が、こっちを見る。
「よかったよ」
「何が?」
「竜司が、これから何するのかなって思ってたから」
俺は、少しだけ笑いながら続けた。
「竜司が野球以外のことやってるところ、
なんかイメージできないし」
「……ひでえな」
竜司が笑う。
「だって、ずっと野球だったじゃん」
「まあ……そうだけどな」
二人で、小さく笑った。
昔みたいに。
でも、昔とは少し違う。
それでも、こうして野球の話をしていると、
不思議なくらい、自然だった。
* * *
車は、大宮の一角で静かに止まった。
外に出て、海斗は思わず立ち止まる。
ガラス張りの外観。
落ち着いた照明。
どう見ても——高級そうだ。
「……お、おい、竜司」
「ん?」
「ここ……俺、こんな普段着で来た?」
一瞬、自分の服を見下ろす。
「大丈夫か、これ」
竜司は軽く笑った。
「大丈夫だよ。気にすんな」
「いや、だからってさ……
こんな高級そうなところ……」
「大丈夫、大丈夫」
さらっと言って、先にドアへ向かう。
「今日は俺が奢るから」
「……は?」
「今日のお礼な」
一拍置いて。
「お前、イタリアン好きだろ」
「……まあ、好きだけど」
席に案内され、海斗はメニューを手に取る。
——そして、金額の欄を、チラリ。
(……高っ)
思わず、そっとメニューを戻す。
「……じゃあ、今日はご馳走になるよ」
「はは」
「お前の、そういう素直なとこ、好きだよ」
「なっ……何言ってんだよ」
慌てて、メニューで顔を隠すように俯く。
「……わりィ。何注文したらいいか、わかんねえ」
「大丈夫だよ」
あっさり。
「コース料理、もう予約してるから」
「……は?」
一瞬、固まる。
「予約って……」
その瞬間、すべてを悟った。
(……はめられた)
俺は、心の中でそう思う。
竜司は、楽しそうに肩をすくめた。
「文句ある?」
「……ねえよ」
小さく息を吐いてから、観念したように言う。
「……わかったよ」
「よし」
俺は、竜司に勧められるまま、
グラスに注がれたワインを口にした。
……思ったより、飲みやすい。
料理が運ばれてくる。
前菜、パスタ、肉料理。
皿が変わるたび、香りが立ち上る。
どれも、文句のつけようがなくて。
気がつけば、俺は夢中でフォークを動かしていた。
口に運んだ瞬間、思わず声が漏れる。
「……うまっ!」
はっとして、口を押さえる。
向かいで、竜司が満足そうに笑った。
「だろ」
ワインをもう一口。
頬が、少し熱い。
胸の奥まで、じんわりと温かくなる。
——まずい。
(だめだ。酔うと、大事な話ができなくなる)
俺は、ワインが進んでいた。
グラスの水を飲みながら、竜司が呆れたように言う。
「お前、本当、酒強いよな」
「そうか?」
「それ、けっこうキツイはずだぞ」
「そうなんだ?」
俺はグラスを眺めながら、もう一口飲む。
「……美味しいよ」
「はは」
竜司が笑った。
「お前の好物って、
ピザと、パスタと……あとハンバーグか」
その言葉を聞いて、
俺はふと、昔のことを思い出した。
竜司が、俺のために作ってくれたハンバーグ。
思い出したら、なんだか可笑しくなって、
俺は小さく笑ってしまった。
「なんだよ。急に笑って」
「いや……」
俺は、少し照れながら言った。
「ちょっと昔を思い出して」
「……そっか」
竜司は、どこかほっとしたような顔をした。
それからしばらくは、
昔の話や、今日の練習の話をしながら、
お互い、穏やかに会話を楽しんだ。
料理も、ワインも、ゆっくりと進んでいった。
そして――
ふと、竜司の表情が変わった。
さっきまでの穏やかな顔ではない。
少しだけ、深刻な顔だった。
「俺さ」
「ん?」
「しばらく、岩槻の実家に帰ろうと思って」
「……そっか」
俺は竜司を見る。
「なんで?」
「代官山の家さ。広いんだ」
竜司は、グラスに手を添えたまま、ぽつりぽつりと話す。
「息子は寮生活だし、嫁は仕事でほとんどいなくて」
「……」
「それでさ」
一度、言葉を止める。
「広い家に一人でいると……」
竜司は、視線を落とした。
「それだけで、おかしくなりそうで」
その顔が、少し辛そうに見えた。
俺は、今の竜司の置かれている状況を想像した。
広い家。
誰もいない部屋。
一人で過ごす時間。
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
俺は、テーブルの上のワイングラスを見る。
そして、
そっと置いた。
……これ以上、飲まないほうがいい。
今は、ちゃんと竜司の話を聞きたい。
「この年で実家に帰るのは、どうかと思ったけどな」
竜司が、少しだけ苦笑する。
「両親は喜んでるし」
「高校のときの友達にも会いたい」
「高校のときにお世話になった監督にも、
ちゃんと挨拶したい」
一つずつ、言葉を重ねる。
「だから……」
俺は、少し考えてから答えた。
「いいんじゃねぇの」
竜司が、顔を上げる。
「お前、高校卒業してプロの世界に入って、
ずっと全力で走ってきただろ」
「……」
「少しくらい、立ち止まってもいいんじゃねぇの」
俺は、竜司を見る。
「それで次に何するか、ゆっくり考えたらいいんじゃね」
竜司は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……カイト」
「ん?」
「ありがとう」
少しだけ笑って、
「なんか、カイトにそう言ってもらえて嬉しい」
「そうか?」
俺も、少し笑った。
「……そうだな」
竜司は、ぽつりと言った。
そして、少しだけ遠くを見るような目をして、
「旅行とか、してみたいな」
「旅行?」
「そうだ」
竜司が、俺を見る。
「カイト、旅行いかね?」
「……え?」
俺は、思わず固まった。
「いや、深い意味じゃねぇよ」
竜司は、少し慌てたように付け加える。
「俺さ、プライベートで旅行とか、
ほとんどしたことなくて」
「……」
「俺たち付き合ってた頃も、できなかっただろ」
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。
俺は、すぐには返事ができなかった。
そして――
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
「……そんなこと、もっと早く言って欲しかった」
「……え?」
竜司が、驚いた顔で俺を見る。
その瞬間、
俺は、自分が何を言ったのかに気づいた。
「……」
酔いのせいなのか。
それとも、
ずっと胸の奥にしまっていた言葉だったからなのか。
もう、引っ込めることはできなかった。
「カイト……ごめん」
「いや、竜司のせいじゃない」
俺は、ゆっくり首を振った。
「俺はさ」
少しだけ、言葉に詰まる。
「竜司が、プロとして活躍してほしかったから」
「……」
「だから、俺からは何も言えなかった」
竜司は、黙って俺を見ている。
「でも、本当は……」
喉の奥が、少し熱くなる。
「もっと会いたかった」
「遊びにも行きたかった」
「福岡に行こうって、何回も思ってた」
俺は、視線を落とした。
「でも……」
一度、息を吸う。
「……あのときは、言えなかった」
竜司は、何も言わない。
俺も、顔を上げられなかった。
「……言えなかったんだよ」
下を向いたまま、
「……ごめん」
小さく呟く。
「俺、ちょっと飲み過ぎたよな」
「変なこと言って、ごめん」
「……今の言葉、忘れてくれ」
竜司は、何も言わなかった。
しばらくして、
静かな声が聞こえた。
「カイト」
「……」
「顔、上げろよ」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、息が止まった。
竜司の目は、少しだけ涙ぐんでいた。
「……カイト」
竜司は、俺をまっすぐ見た。
「すまなかった」
「……」
「俺さ」
一度、言葉を止める。
「カイトが寂しがってたことも、
強がってたことも……」
「本当は、あの頃からわかってた」
俺は、何も言えなかった。
「俺、福岡に行って、プロに入って……」
竜司は、ゆっくりと言葉を続ける。
「想像してた以上に、キツかったんだ」
「練習も、人間関係も」
「上下関係だって、
高校のときとは全然違ってた」
「高校を卒業したばっかりで、
社会のことなんて何も知らない俺には……」
一度、苦しそうに息を吐く。
「毎日が地獄みたいだった……」
俺は、黙って聞いていた。
「何度も、カイトに会いに帰りたかった」
「顔を見て、話したかった」
「でも……」
竜司は、少しだけ視線を落とした。
「そんな気軽に帰れるような空気じゃなかった」
「だから俺、必死だったんだ」
「練習についていって、一軍になって……」
「もっと上に行って、一流になれば」
竜司は、涙をこらえるように、一度だけ目を閉じた。
「そうすれば、
周りの目なんか気にしなくていい」
「好きなときに帰れる」
「好きなところに行ける」
「カイトにも、自由に会える」
「……そう思ってた」
俺は、胸が締めつけられるようだった。
竜司は、少しだけ自嘲気味に笑った。
「だから、必死にやった」
「野球だけは、絶対に負けたくなかった」
「一流になれば、全部手に入ると思ってた」
そして、竜司は俺を見る。
「……でも」
声が、少し震えた。
「結果的に、カイトを苦しめた」
「俺が頑張れば頑張るほど、カイトを一人にしてた」
「……ごめんな」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、長い間しまっていたものが、
静かにほどけていく気がした。
店内のざわめきが、遠くに聞こえていた。
周りの声も、食器の触れ合う音も。
何もかもが、少し遠い。
時間が、止まったかのような。
そんな、不思議な感覚だった。
俺は、一度大きく息を吸った。
そして、ゆっくり吐く。
今、ちゃんと言わないと。
俺は、竜司の目を見た。
「……竜司」
「ん?」
「ごめん」
一度、言葉を切る。
「……一緒に旅行には行けない」
竜司は、何も言わなかった。
ただ、黙ったまま俺の顔を見ている。
俺は、逃げずに続けた。
「俺さ」
喉が、少しだけ震えた。
「今、蒼司と付き合ってるんだ」
「……え?」
竜司の表情が、明らかに変わった。
「恋人として」
俺は、ゆっくりと言った。
「ちゃんと、付き合ってる」
竜司は、しばらく何も言わなかった。
驚きを隠せないような顔で、俺を見ている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そっか」
「そうなんだ」
少し間を置いて、
「……驚いたよ」
そう言って、竜司は苦笑した。
けれど、その表情にはまだ動揺が残っていた。
「俺さ……」
竜司が、ゆっくり口を開く。
「蒼司が四国で美術教師辞めて、埼玉に帰ってきて……
カイトと同じ高校に採用されたって聞いてから」
一度、言葉を止める。
「なんでだろって、ずっと思ってた」
「……」
「でも……」
竜司は、少しだけ笑った。
「そっか……そういうことだったんだな」
その声には、まだ驚きが残っている。
それでも、
竜司の表情は、少しずつ穏やかになっていった。
そして、俺をまっすぐ見て言った。
「カイト」
「ん?」
「蒼司のこと、よろしくな」
「……」
「お前ら、子供の頃から仲良かったもんな」
竜司は、少しだけ笑う。
「蒼司ってさ」
「兄の俺から見ても、何考えてるのかよくわかんねぇとき、あるけどさ」
「……」
「でも、めっちゃいい奴だよ」
その言葉に、胸の奥が、少し熱くなった。
竜司は、穏やかな顔で続けた。
「カイトと一緒なら、俺も安心だよ」
俺は、何も返せなかった。
ただ、小さくうなずくことしかできなかった。
竜司も、それ以上は何も言わなかった。
少しの沈黙。
そして、竜司はふっと、いつもの顔に戻った。
「……そろそろ、デザートだな」
俺は、思わず竜司を見る。
「……うん」
竜司は、小さく笑った。
「食べようぜ」
「……うん」
甘い香りが、静かに近づいてくる。
さっきまでの会話が、
なかったことになったわけじゃない。
二人とも、きっとまだ胸の中に残っている。
それでも――
今はただ、
目の前に運ばれてきたデザートを、黙々と食べた。
それから、俺たちは食事を終えた。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
竜司は、
そのまま車で俺を学校の職員宿舎まで送ってくれた。
車内では、ほとんど会話をしなかった。
けれど、不思議と重苦しさはなかった。
お互いに、ずっと心の中に秘めていたことを口にした。
長い間、積み重なっていた行き違いも、
あの頃には言えなかった思いも、
少しだけ、お互いに分かり合えた。
そのことへの安堵なのか。
それとも、まだ言葉にできない何かなのか。
自分でもよくわからない。
いろんな感情が、胸の中で静かに渦巻いていた。
やがて、車が職員宿舎の前で止まった。
「竜司、悪いな。また送ってもらって」
「いいよ」
竜司は、いつものように笑った。
「お前、酔ったまま帰らせるの心配だったし」
それから、少し間を置いて、
「それに俺、このまま岩槻に帰るから。
そんなに遠くないしな」
「そっか」
俺は、シートベルトを外した。
「じゃあ竜司、今日はありがとう」
「……こちらこそ」
竜司は、少しだけ笑った。
そして、何かを決めたような顔で、俺を見る。
「なあ、カイト」
「ん?」
「俺、しばらくは岩槻にいるからさ」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。
「たまには、またこうやって飯行こうぜ」
俺は、竜司の顔を見た。
そして、小さく笑った。
「……わかった。行こう」
その瞬間、
竜司の表情が、ほんの少しだけほっとしたように緩んだ。
「じゃあな、また」
「ああ」
俺も、笑って返す。
「気をつけて帰れよ」
「おう」
俺は車を降りた。
ドアを閉める。
竜司の車は、ゆっくりと走り出した。
赤いテールランプが、夜の向こうへ消えていく。
俺はしばらく、その場に立っていた。
そして、ゆっくりと自分の部屋へ戻った。
ドアを閉める。
静かな部屋。
「……長い一日だったな」
ぽつりと呟く。
今日一日で、いろんなことがあった。
竜司と会って。
昔のことを思い出して。
言えなかったことを、ようやく言えた。
俺は、ベッドに腰を下ろした。
そして、小さく笑う。
「……でも」
ちゃんと言えた。
俺は、そのままベッドに横になる。
天井を見つめながら、静かに呟いた。
「蒼司……」
少しだけ、胸が温かくなる。
「ちゃんと言えたよ」
それだけ言って、
俺は、ゆっくり目を閉じた。