蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第10章 海斗と竜司 後編

 

 

俺は、竜司の運転する車に乗っていた。

 

 

 

エンジンがかかり、車が夜道へと滑り出す。

 

フロントガラスの向こう、

 

街灯の光が一定の間隔で流れていく。

 

 

 

無言の車内。

 

エンジンの音だけが、静かに響いていた。

 

しばらくして、竜司がぽつりと言った。

 

「……楽しかった」

 

「……え?」

 

俺は、竜司を見る。

 

「何が?」

 

「今日」

 

竜司は、前を向いたまま言った。

 

「お前がコーチやってるところ、ずっと見てたから」

 

「……」

 

その言葉を聞いた瞬間、

 

なんだか急に恥ずかしくなった。

 

「……だからか」

 

「ん?」

 

「今日、なんか落ち着かなかったんだよ」

 

俺は苦笑する。

 

「ずっと見られてる気がしてさ」

 

「はは」

 

竜司が、小さく笑った。

 

「すまん、すまん」

 

そして、少しだけ間を置いてから、

 

「……なんか、昔のこと思い出してな」

 

その言葉に、俺も前を向いた。

 

 

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

街灯の明かりが、フロントガラスを流れていく。

 

 

 

やがて竜司が、小さな声で言った。

 

「あの頃……楽しかったな」

 

俺は、何て返せばいいのか考えた。

 

いろんなことがあった。

 

楽しかったことも。

 

苦しかったことも。

 

あの時、言えなかったことも。

 

少し考えてから、俺は言った。

 

「……俺もだよ」

 

竜司が、ちらっとこっちを見る。

 

「いろんなことあったけどさ」

 

俺は、少しだけ笑った。

 

「俺、竜司とやる野球、好きだったよ」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

ただ、前を向いたまま、

 

ほんの少しだけ笑ったように見えた。

 

 

 

また、静かな時間が流れる。

 

しばらくして、竜司が口を開いた。

 

「俺さ」

 

「ん?」

 

「これから、何しようかなって考えてて」

 

俺は、黙って聞いた。

 

「引退してから、まだ何も決めてないだろ」

 

「うん」

 

「でもな」

 

竜司は、少しだけ息を吐いた。

 

「やっぱり俺、野球が好きなんだよ」

 

その言葉に俺は思わず、竜司の横顔を見る。

 

「今日さ」

 

「お前が野球部の指導してるところ見てて」

 

「……」

 

「なんか、また野球やりたくなった」

 

竜司は、少し照れたように笑った。

 

「お前が今でも野球に関わってて、

 

コーチやってる姿見たらさ」

 

「俺も、野球に関わることやりたいなって思った」

 

 

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

そして、自然に笑った。

 

「……そっか」

 

竜司が、こっちを見る。

 

「よかったよ」

 

「何が?」

 

「竜司が、これから何するのかなって思ってたから」

 

俺は、少しだけ笑いながら続けた。

 

「竜司が野球以外のことやってるところ、

 

なんかイメージできないし」

 

「……ひでえな」

 

竜司が笑う。

 

「だって、ずっと野球だったじゃん」

 

「まあ……そうだけどな」

 

二人で、小さく笑った。

 

昔みたいに。

 

でも、昔とは少し違う。

 

 

 

それでも、こうして野球の話をしていると、

 

不思議なくらい、自然だった。

 

 

 

* * *

 

 

 

車は、大宮の一角で静かに止まった。

 

 

 

外に出て、海斗は思わず立ち止まる。

 

ガラス張りの外観。

 

落ち着いた照明。

 

どう見ても——高級そうだ。

 

 

 

「……お、おい、竜司」

 

「ん?」

 

「ここ……俺、こんな普段着で来た?」

 

 

 

一瞬、自分の服を見下ろす。

 

 

 

「大丈夫か、これ」

 

竜司は軽く笑った。

 

「大丈夫だよ。気にすんな」

 

「いや、だからってさ……

 

こんな高級そうなところ……」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

さらっと言って、先にドアへ向かう。

 

「今日は俺が奢るから」

 

「……は?」

 

「今日のお礼な」

 

 

 

一拍置いて。

 

 

 

「お前、イタリアン好きだろ」

 

「……まあ、好きだけど」

 

 

 

席に案内され、海斗はメニューを手に取る。

 

 

 

——そして、金額の欄を、チラリ。

 

 

 

(……高っ)

 

 

 

思わず、そっとメニューを戻す。

 

「……じゃあ、今日はご馳走になるよ」

 

「はは」

 

「お前の、そういう素直なとこ、好きだよ」

 

「なっ……何言ってんだよ」

 

 

 

慌てて、メニューで顔を隠すように俯く。

 

 

 

「……わりィ。何注文したらいいか、わかんねえ」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 

あっさり。

 

「コース料理、もう予約してるから」

 

「……は?」

 

一瞬、固まる。

 

「予約って……」

 

その瞬間、すべてを悟った。

 

 

 

(……はめられた)

 

 

 

俺は、心の中でそう思う。

 

竜司は、楽しそうに肩をすくめた。

 

「文句ある?」

 

「……ねえよ」

 

小さく息を吐いてから、観念したように言う。

 

「……わかったよ」

 

「よし」

 

 

 

俺は、竜司に勧められるまま、

 

グラスに注がれたワインを口にした。

 

 

 

……思ったより、飲みやすい。

 

 

 

料理が運ばれてくる。

 

前菜、パスタ、肉料理。

 

皿が変わるたび、香りが立ち上る。

 

 

 

どれも、文句のつけようがなくて。

 

気がつけば、俺は夢中でフォークを動かしていた。

 

口に運んだ瞬間、思わず声が漏れる。

 

 

 

「……うまっ!」

 

 

 

はっとして、口を押さえる。

 

向かいで、竜司が満足そうに笑った。

 

「だろ」

 

ワインをもう一口。

 

頬が、少し熱い。

 

胸の奥まで、じんわりと温かくなる。

 

 

 

——まずい。

 

(だめだ。酔うと、大事な話ができなくなる)

 

 

俺は、ワインが進んでいた。

 

グラスの水を飲みながら、竜司が呆れたように言う。

 

「お前、本当、酒強いよな」

 

「そうか?」

 

「それ、けっこうキツイはずだぞ」

 

「そうなんだ?」

 

俺はグラスを眺めながら、もう一口飲む。

 

「……美味しいよ」

 

「はは」

 

竜司が笑った。

 

「お前の好物って、

 

ピザと、パスタと……あとハンバーグか」

 

その言葉を聞いて、

 

俺はふと、昔のことを思い出した。

 

竜司が、俺のために作ってくれたハンバーグ。

 

思い出したら、なんだか可笑しくなって、

 

俺は小さく笑ってしまった。

 

「なんだよ。急に笑って」

 

「いや……」

 

俺は、少し照れながら言った。

 

「ちょっと昔を思い出して」

 

「……そっか」

 

竜司は、どこかほっとしたような顔をした。

 

それからしばらくは、

 

昔の話や、今日の練習の話をしながら、

 

お互い、穏やかに会話を楽しんだ。

 

料理も、ワインも、ゆっくりと進んでいった。

 

 

 

そして――

 

ふと、竜司の表情が変わった。

 

さっきまでの穏やかな顔ではない。

 

少しだけ、深刻な顔だった。

 

「俺さ」

 

「ん?」

 

「しばらく、岩槻の実家に帰ろうと思って」

 

「……そっか」

 

俺は竜司を見る。

 

「なんで?」

 

「代官山の家さ。広いんだ」

 

竜司は、グラスに手を添えたまま、ぽつりぽつりと話す。

 

「息子は寮生活だし、嫁は仕事でほとんどいなくて」

 

「……」

 

「それでさ」

 

 

 

一度、言葉を止める。

 

 

 

「広い家に一人でいると……」

 

 

 

竜司は、視線を落とした。

 

 

 

「それだけで、おかしくなりそうで」

 

 

 

その顔が、少し辛そうに見えた。

 

俺は、今の竜司の置かれている状況を想像した。

 

広い家。

 

誰もいない部屋。

 

一人で過ごす時間。

 

胸の奥が、少しだけ痛くなった。

 

俺は、テーブルの上のワイングラスを見る。

 

そして、

 

そっと置いた。

 

……これ以上、飲まないほうがいい。

 

今は、ちゃんと竜司の話を聞きたい。

 

「この年で実家に帰るのは、どうかと思ったけどな」

 

竜司が、少しだけ苦笑する。

 

「両親は喜んでるし」

 

「高校のときの友達にも会いたい」

 

「高校のときにお世話になった監督にも、

ちゃんと挨拶したい」

 

一つずつ、言葉を重ねる。

 

「だから……」

 

俺は、少し考えてから答えた。

 

「いいんじゃねぇの」

 

竜司が、顔を上げる。

 

「お前、高校卒業してプロの世界に入って、

ずっと全力で走ってきただろ」

 

「……」

 

「少しくらい、立ち止まってもいいんじゃねぇの」

 

俺は、竜司を見る。

 

「それで次に何するか、ゆっくり考えたらいいんじゃね」

 

 

 

竜司は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、小さく息を吐く。

 

「……カイト」

 

「ん?」

 

「ありがとう」

 

少しだけ笑って、

 

「なんか、カイトにそう言ってもらえて嬉しい」

 

「そうか?」

 

俺も、少し笑った。

 

「……そうだな」

 

竜司は、ぽつりと言った。

 

そして、少しだけ遠くを見るような目をして、

 

「旅行とか、してみたいな」

 

「旅行?」

 

「そうだ」

 

竜司が、俺を見る。

 

「カイト、旅行いかね?」

 

「……え?」

 

俺は、思わず固まった。

 

「いや、深い意味じゃねぇよ」

 

竜司は、少し慌てたように付け加える。

 

「俺さ、プライベートで旅行とか、

 

ほとんどしたことなくて」

 

「……」

 

「俺たち付き合ってた頃も、できなかっただろ」

 

 

 

その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。

 

 

 

俺は、すぐには返事ができなかった。

 

そして――

 

気づけば、口から言葉がこぼれていた。

 

 

 

「……そんなこと、もっと早く言って欲しかった」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

竜司が、驚いた顔で俺を見る。

 

その瞬間、

 

俺は、自分が何を言ったのかに気づいた。

 

「……」

 

酔いのせいなのか。

 

それとも、

 

ずっと胸の奥にしまっていた言葉だったからなのか。

 

もう、引っ込めることはできなかった。

 

「カイト……ごめん」

 

「いや、竜司のせいじゃない」

 

俺は、ゆっくり首を振った。

 

「俺はさ」

 

少しだけ、言葉に詰まる。

 

「竜司が、プロとして活躍してほしかったから」

 

「……」

 

「だから、俺からは何も言えなかった」

 

竜司は、黙って俺を見ている。

 

「でも、本当は……」

 

喉の奥が、少し熱くなる。

 

「もっと会いたかった」

 

「遊びにも行きたかった」

 

「福岡に行こうって、何回も思ってた」

 

 

 

俺は、視線を落とした。

 

「でも……」

 

一度、息を吸う。

 

「……あのときは、言えなかった」

 

 

 

竜司は、何も言わない。

 

 

 

俺も、顔を上げられなかった。

 

「……言えなかったんだよ」

 

 

 

下を向いたまま、

 

「……ごめん」

 

小さく呟く。

 

「俺、ちょっと飲み過ぎたよな」

 

「変なこと言って、ごめん」

 

「……今の言葉、忘れてくれ」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

しばらくして、

 

静かな声が聞こえた。

 

「カイト」

 

「……」

 

「顔、上げろよ」

 

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

その瞬間、息が止まった。

 

 

 

竜司の目は、少しだけ涙ぐんでいた。

 

「……カイト」

 

竜司は、俺をまっすぐ見た。

 

「すまなかった」

 

「……」

 

「俺さ」

 

一度、言葉を止める。

 

「カイトが寂しがってたことも、

 

強がってたことも……」

 

「本当は、あの頃からわかってた」

 

俺は、何も言えなかった。

 

「俺、福岡に行って、プロに入って……」

 

竜司は、ゆっくりと言葉を続ける。

 

「想像してた以上に、キツかったんだ」

 

「練習も、人間関係も」

 

「上下関係だって、

 

高校のときとは全然違ってた」

 

「高校を卒業したばっかりで、

 

社会のことなんて何も知らない俺には……」

 

一度、苦しそうに息を吐く。

 

「毎日が地獄みたいだった……」

 

俺は、黙って聞いていた。

 

「何度も、カイトに会いに帰りたかった」

 

「顔を見て、話したかった」

 

「でも……」

 

竜司は、少しだけ視線を落とした。

 

「そんな気軽に帰れるような空気じゃなかった」

 

「だから俺、必死だったんだ」

 

「練習についていって、一軍になって……」

 

「もっと上に行って、一流になれば」

 

竜司は、涙をこらえるように、一度だけ目を閉じた。

 

「そうすれば、

 

周りの目なんか気にしなくていい」

 

「好きなときに帰れる」

 

「好きなところに行ける」

 

「カイトにも、自由に会える」

 

「……そう思ってた」

 

俺は、胸が締めつけられるようだった。

 

 

 

竜司は、少しだけ自嘲気味に笑った。

 

「だから、必死にやった」

 

「野球だけは、絶対に負けたくなかった」

 

「一流になれば、全部手に入ると思ってた」

 

そして、竜司は俺を見る。

 

「……でも」

 

声が、少し震えた。

 

「結果的に、カイトを苦しめた」

 

「俺が頑張れば頑張るほど、カイトを一人にしてた」

 

「……ごめんな」

 

その言葉を聞いた瞬間、

 

胸の奥に、長い間しまっていたものが、

 

静かにほどけていく気がした。

 

 

店内のざわめきが、遠くに聞こえていた。

 

周りの声も、食器の触れ合う音も。

 

何もかもが、少し遠い。

 

時間が、止まったかのような。

 

そんな、不思議な感覚だった。

 

 

 

俺は、一度大きく息を吸った。

 

そして、ゆっくり吐く。

 

今、ちゃんと言わないと。

 

俺は、竜司の目を見た。

 

 

 

「……竜司」

 

「ん?」

 

「ごめん」

 

一度、言葉を切る。

 

 

 

「……一緒に旅行には行けない」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

ただ、黙ったまま俺の顔を見ている。

 

俺は、逃げずに続けた。

 

「俺さ」

 

喉が、少しだけ震えた。

 

「今、蒼司と付き合ってるんだ」

 

「……え?」

 

竜司の表情が、明らかに変わった。

 

「恋人として」

 

俺は、ゆっくりと言った。

 

「ちゃんと、付き合ってる」

 

 

 

竜司は、しばらく何も言わなかった。

 

驚きを隠せないような顔で、俺を見ている。

 

 

 

やがて、小さく息を吐いた。

 

 

 

「……そっか」

 

「そうなんだ」

 

 

 

少し間を置いて、

 

「……驚いたよ」

 

 

 

そう言って、竜司は苦笑した。

 

けれど、その表情にはまだ動揺が残っていた。

 

「俺さ……」

 

竜司が、ゆっくり口を開く。

 

「蒼司が四国で美術教師辞めて、埼玉に帰ってきて……

 

カイトと同じ高校に採用されたって聞いてから」

 

 

 

一度、言葉を止める。

 

「なんでだろって、ずっと思ってた」

 

「……」

 

「でも……」

 

竜司は、少しだけ笑った。

 

「そっか……そういうことだったんだな」

 

その声には、まだ驚きが残っている。

 

 

 

それでも、

 

竜司の表情は、少しずつ穏やかになっていった。

 

そして、俺をまっすぐ見て言った。

 

「カイト」

 

「ん?」

 

「蒼司のこと、よろしくな」

 

「……」

 

「お前ら、子供の頃から仲良かったもんな」

 

 

 

竜司は、少しだけ笑う。

 

 

 

「蒼司ってさ」

 

「兄の俺から見ても、何考えてるのかよくわかんねぇとき、あるけどさ」

 

「……」

 

「でも、めっちゃいい奴だよ」

 

その言葉に、胸の奥が、少し熱くなった。

 

竜司は、穏やかな顔で続けた。

 

「カイトと一緒なら、俺も安心だよ」

 

 

 

俺は、何も返せなかった。

 

ただ、小さくうなずくことしかできなかった。

 

 

 

竜司も、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 

少しの沈黙。

 

 

 

そして、竜司はふっと、いつもの顔に戻った。

 

「……そろそろ、デザートだな」

 

俺は、思わず竜司を見る。

 

「……うん」

 

竜司は、小さく笑った。

 

「食べようぜ」

 

「……うん」

 

甘い香りが、静かに近づいてくる。

 

さっきまでの会話が、

 

なかったことになったわけじゃない。

 

二人とも、きっとまだ胸の中に残っている。

 

それでも――

 

今はただ、

 

目の前に運ばれてきたデザートを、黙々と食べた。

 

 

 

それから、俺たちは食事を終えた。

 

店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

竜司は、

 

そのまま車で俺を学校の職員宿舎まで送ってくれた。

 

車内では、ほとんど会話をしなかった。

 

けれど、不思議と重苦しさはなかった。

 

お互いに、ずっと心の中に秘めていたことを口にした。

 

長い間、積み重なっていた行き違いも、

 

あの頃には言えなかった思いも、

 

少しだけ、お互いに分かり合えた。

 

そのことへの安堵なのか。

 

それとも、まだ言葉にできない何かなのか。

 

自分でもよくわからない。

 

いろんな感情が、胸の中で静かに渦巻いていた。

 

やがて、車が職員宿舎の前で止まった。

 

「竜司、悪いな。また送ってもらって」

 

「いいよ」

 

竜司は、いつものように笑った。

 

「お前、酔ったまま帰らせるの心配だったし」

 

それから、少し間を置いて、

 

「それに俺、このまま岩槻に帰るから。

 

そんなに遠くないしな」

 

「そっか」

 

俺は、シートベルトを外した。

 

「じゃあ竜司、今日はありがとう」

 

「……こちらこそ」

 

竜司は、少しだけ笑った。

 

そして、何かを決めたような顔で、俺を見る。

 

「なあ、カイト」

 

「ん?」

 

「俺、しばらくは岩槻にいるからさ」

 

少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。

 

「たまには、またこうやって飯行こうぜ」

 

俺は、竜司の顔を見た。

 

そして、小さく笑った。

 

「……わかった。行こう」

 

その瞬間、

 

竜司の表情が、ほんの少しだけほっとしたように緩んだ。

 

「じゃあな、また」

 

「ああ」

 

俺も、笑って返す。

 

「気をつけて帰れよ」

 

「おう」

 

俺は車を降りた。

 

ドアを閉める。

 

竜司の車は、ゆっくりと走り出した。

 

赤いテールランプが、夜の向こうへ消えていく。

 

 

 

俺はしばらく、その場に立っていた。

 

 

 

そして、ゆっくりと自分の部屋へ戻った。

 

ドアを閉める。

 

静かな部屋。

 

「……長い一日だったな」

 

ぽつりと呟く。

 

今日一日で、いろんなことがあった。

 

竜司と会って。

 

昔のことを思い出して。

 

言えなかったことを、ようやく言えた。

 

俺は、ベッドに腰を下ろした。

 

そして、小さく笑う。

 

「……でも」

 

ちゃんと言えた。

 

俺は、そのままベッドに横になる。

 

天井を見つめながら、静かに呟いた。

 

「蒼司……」

 

少しだけ、胸が温かくなる。

 

「ちゃんと言えたよ」

 

それだけ言って、

 

俺は、ゆっくり目を閉じた。

 

 

俺は、竜司の運転する車に乗っていた。

 

 

 

エンジンがかかり、車が夜道へと滑り出す。

 

フロントガラスの向こう、

 

街灯の光が一定の間隔で流れていく。

 

 

 

無言の車内。

 

エンジンの音だけが、静かに響いていた。

 

しばらくして、竜司がぽつりと言った。

 

「……楽しかった」

 

「……え?」

 

俺は、竜司を見る。

 

「何が?」

 

「今日」

 

竜司は、前を向いたまま言った。

 

「お前がコーチやってるところ、ずっと見てたから」

 

「……」

 

その言葉を聞いた瞬間、

 

なんだか急に恥ずかしくなった。

 

「……だからか」

 

「ん?」

 

「今日、なんか落ち着かなかったんだよ」

 

俺は苦笑する。

 

「ずっと見られてる気がしてさ」

 

「はは」

 

竜司が、小さく笑った。

 

「すまん、すまん」

 

そして、少しだけ間を置いてから、

 

「……なんか、昔のこと思い出してな」

 

その言葉に、俺も前を向いた。

 

 

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

街灯の明かりが、フロントガラスを流れていく。

 

 

 

やがて竜司が、小さな声で言った。

 

「あの頃……楽しかったな」

 

俺は、何て返せばいいのか考えた。

 

いろんなことがあった。

 

楽しかったことも。

 

苦しかったことも。

 

あの時、言えなかったことも。

 

少し考えてから、俺は言った。

 

「……俺もだよ」

 

竜司が、ちらっとこっちを見る。

 

「いろんなことあったけどさ」

 

俺は、少しだけ笑った。

 

「俺、竜司とやる野球、好きだったよ」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

ただ、前を向いたまま、

 

ほんの少しだけ笑ったように見えた。

 

 

 

また、静かな時間が流れる。

 

しばらくして、竜司が口を開いた。

 

「俺さ」

 

「ん?」

 

「これから、何しようかなって考えてて」

 

俺は、黙って聞いた。

 

「引退してから、まだ何も決めてないだろ」

 

「うん」

 

「でもな」

 

竜司は、少しだけ息を吐いた。

 

「やっぱり俺、野球が好きなんだよ」

 

その言葉に俺は思わず、竜司の横顔を見る。

 

「今日さ」

 

「お前が野球部の指導してるところ見てて」

 

「……」

 

「なんか、また野球やりたくなった」

 

竜司は、少し照れたように笑った。

 

「お前が今でも野球に関わってて、

 

コーチやってる姿見たらさ」

 

「俺も、野球に関わることやりたいなって思った」

 

 

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

そして、自然に笑った。

 

「……そっか」

 

竜司が、こっちを見る。

 

「よかったよ」

 

「何が?」

 

「竜司が、これから何するのかなって思ってたから」

 

俺は、少しだけ笑いながら続けた。

 

「竜司が野球以外のことやってるところ、

 

なんかイメージできないし」

 

「……ひでえな」

 

竜司が笑う。

 

「だって、ずっと野球だったじゃん」

 

「まあ……そうだけどな」

 

二人で、小さく笑った。

 

昔みたいに。

 

でも、昔とは少し違う。

 

 

 

それでも、こうして野球の話をしていると、

 

不思議なくらい、自然だった。

 

 

 

* * *

 

 

 

車は、大宮の一角で静かに止まった。

 

 

 

外に出て、海斗は思わず立ち止まる。

 

ガラス張りの外観。

 

落ち着いた照明。

 

どう見ても——高級そうだ。

 

 

 

「……お、おい、竜司」

 

「ん?」

 

「ここ……俺、こんな普段着で来た?」

 

 

 

一瞬、自分の服を見下ろす。

 

 

 

「大丈夫か、これ」

 

竜司は軽く笑った。

 

「大丈夫だよ。気にすんな」

 

「いや、だからってさ……

 

こんな高級そうなところ……」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

さらっと言って、先にドアへ向かう。

 

「今日は俺が奢るから」

 

「……は?」

 

「今日のお礼な」

 

 

 

一拍置いて。

 

 

 

「お前、イタリアン好きだろ」

 

「……まあ、好きだけど」

 

 

 

席に案内され、海斗はメニューを手に取る。

 

 

 

——そして、金額の欄を、チラリ。

 

 

 

(……高っ)

 

 

 

思わず、そっとメニューを戻す。

 

「……じゃあ、今日はご馳走になるよ」

 

「はは」

 

「お前の、そういう素直なとこ、好きだよ」

 

「なっ……何言ってんだよ」

 

 

 

慌てて、メニューで顔を隠すように俯く。

 

 

 

「……わりィ。何注文したらいいか、わかんねえ」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 

あっさり。

 

「コース料理、もう予約してるから」

 

「……は?」

 

一瞬、固まる。

 

「予約って……」

 

その瞬間、すべてを悟った。

 

 

 

(……はめられた)

 

 

 

俺は、心の中でそう思う。

 

竜司は、楽しそうに肩をすくめた。

 

「文句ある?」

 

「……ねえよ」

 

小さく息を吐いてから、観念したように言う。

 

「……わかったよ」

 

「よし」

 

 

 

俺は、竜司に勧められるまま、

 

グラスに注がれたワインを口にした。

 

 

 

……思ったより、飲みやすい。

 

 

 

料理が運ばれてくる。

 

前菜、パスタ、肉料理。

 

皿が変わるたび、香りが立ち上る。

 

 

 

どれも、文句のつけようがなくて。

 

気がつけば、俺は夢中でフォークを動かしていた。

 

口に運んだ瞬間、思わず声が漏れる。

 

 

 

「……うまっ!」

 

 

 

はっとして、口を押さえる。

 

向かいで、竜司が満足そうに笑った。

 

「だろ」

 

ワインをもう一口。

 

頬が、少し熱い。

 

胸の奥まで、じんわりと温かくなる。

 

 

 

——まずい。

 

(だめだ。酔うと、大事な話ができなくなる)

 

 

俺は、ワインが進んでいた。

 

グラスの水を飲みながら、竜司が呆れたように言う。

 

「お前、本当、酒強いよな」

 

「そうか?」

 

「それ、けっこうキツイはずだぞ」

 

「そうなんだ?」

 

俺はグラスを眺めながら、もう一口飲む。

 

「……美味しいよ」

 

「はは」

 

竜司が笑った。

 

「お前の好物って、

 

ピザと、パスタと……あとハンバーグか」

 

その言葉を聞いて、

 

俺はふと、昔のことを思い出した。

 

竜司が、俺のために作ってくれたハンバーグ。

 

思い出したら、なんだか可笑しくなって、

 

俺は小さく笑ってしまった。

 

「なんだよ。急に笑って」

 

「いや……」

 

俺は、少し照れながら言った。

 

「ちょっと昔を思い出して」

 

「……そっか」

 

竜司は、どこかほっとしたような顔をした。

 

それからしばらくは、

 

昔の話や、今日の練習の話をしながら、

 

お互い、穏やかに会話を楽しんだ。

 

料理も、ワインも、ゆっくりと進んでいった。

 

 

 

そして――

 

ふと、竜司の表情が変わった。

 

さっきまでの穏やかな顔ではない。

 

少しだけ、深刻な顔だった。

 

「俺さ」

 

「ん?」

 

「しばらく、岩槻の実家に帰ろうと思って」

 

「……そっか」

 

俺は竜司を見る。

 

「なんで?」

 

「代官山の家さ。広いんだ」

 

竜司は、グラスに手を添えたまま、ぽつりぽつりと話す。

 

「息子は寮生活だし、嫁は仕事でほとんどいなくて」

 

「……」

 

「それでさ」

 

 

 

一度、言葉を止める。

 

 

 

「広い家に一人でいると……」

 

 

 

竜司は、視線を落とした。

 

 

 

「それだけで、おかしくなりそうで」

 

 

 

その顔が、少し辛そうに見えた。

 

俺は、今の竜司の置かれている状況を想像した。

 

広い家。

 

誰もいない部屋。

 

一人で過ごす時間。

 

胸の奥が、少しだけ痛くなった。

 

俺は、テーブルの上のワイングラスを見る。

 

そして、

 

そっと置いた。

 

……これ以上、飲まないほうがいい。

 

今は、ちゃんと竜司の話を聞きたい。

 

「この年で実家に帰るのは、どうかと思ったけどな」

 

竜司が、少しだけ苦笑する。

 

「両親は喜んでるし」

 

「高校のときの友達にも会いたい」

 

「高校のときにお世話になった監督にも、

ちゃんと挨拶したい」

 

一つずつ、言葉を重ねる。

 

「だから……」

 

俺は、少し考えてから答えた。

 

「いいんじゃねぇの」

 

竜司が、顔を上げる。

 

「お前、高校卒業してプロの世界に入って、

ずっと全力で走ってきただろ」

 

「……」

 

「少しくらい、立ち止まってもいいんじゃねぇの」

 

俺は、竜司を見る。

 

「それで次に何するか、ゆっくり考えたらいいんじゃね」

 

 

 

竜司は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、小さく息を吐く。

 

「……カイト」

 

「ん?」

 

「ありがとう」

 

少しだけ笑って、

 

「なんか、カイトにそう言ってもらえて嬉しい」

 

「そうか?」

 

俺も、少し笑った。

 

「……そうだな」

 

竜司は、ぽつりと言った。

 

そして、少しだけ遠くを見るような目をして、

 

「旅行とか、してみたいな」

 

「旅行?」

 

「そうだ」

 

竜司が、俺を見る。

 

「カイト、旅行いかね?」

 

「……え?」

 

俺は、思わず固まった。

 

「いや、深い意味じゃねぇよ」

 

竜司は、少し慌てたように付け加える。

 

「俺さ、プライベートで旅行とか、

 

ほとんどしたことなくて」

 

「……」

 

「俺たち付き合ってた頃も、できなかっただろ」

 

 

 

その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。

 

 

 

俺は、すぐには返事ができなかった。

 

そして――

 

気づけば、口から言葉がこぼれていた。

 

 

 

「……そんなこと、もっと早く言って欲しかった」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

竜司が、驚いた顔で俺を見る。

 

その瞬間、

 

俺は、自分が何を言ったのかに気づいた。

 

「……」

 

酔いのせいなのか。

 

それとも、

 

ずっと胸の奥にしまっていた言葉だったからなのか。

 

もう、引っ込めることはできなかった。

 

「カイト……ごめん」

 

「いや、竜司のせいじゃない」

 

俺は、ゆっくり首を振った。

 

「俺はさ」

 

少しだけ、言葉に詰まる。

 

「竜司が、プロとして活躍してほしかったから」

 

「……」

 

「だから、俺からは何も言えなかった」

 

竜司は、黙って俺を見ている。

 

「でも、本当は……」

 

喉の奥が、少し熱くなる。

 

「もっと会いたかった」

 

「遊びにも行きたかった」

 

「福岡に行こうって、何回も思ってた」

 

 

 

俺は、視線を落とした。

 

「でも……」

 

一度、息を吸う。

 

「……あのときは、言えなかった」

 

 

 

竜司は、何も言わない。

 

 

 

俺も、顔を上げられなかった。

 

「……言えなかったんだよ」

 

 

 

下を向いたまま、

 

「……ごめん」

 

小さく呟く。

 

「俺、ちょっと飲み過ぎたよな」

 

「変なこと言って、ごめん」

 

「……今の言葉、忘れてくれ」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

しばらくして、

 

静かな声が聞こえた。

 

「カイト」

 

「……」

 

「顔、上げろよ」

 

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

その瞬間、息が止まった。

 

 

 

竜司の目は、少しだけ涙ぐんでいた。

 

「……カイト」

 

竜司は、俺をまっすぐ見た。

 

「すまなかった」

 

「……」

 

「俺さ」

 

一度、言葉を止める。

 

「カイトが寂しがってたことも、

 

強がってたことも……」

 

「本当は、あの頃からわかってた」

 

俺は、何も言えなかった。

 

「俺、福岡に行って、プロに入って……」

 

竜司は、ゆっくりと言葉を続ける。

 

「想像してた以上に、キツかったんだ」

 

「練習も、人間関係も」

 

「上下関係だって、

 

高校のときとは全然違ってた」

 

「高校を卒業したばっかりで、

 

社会のことなんて何も知らない俺には……」

 

一度、苦しそうに息を吐く。

 

「毎日が地獄みたいだった……」

 

俺は、黙って聞いていた。

 

「何度も、カイトに会いに帰りたかった」

 

「顔を見て、話したかった」

 

「でも……」

 

竜司は、少しだけ視線を落とした。

 

「そんな気軽に帰れるような空気じゃなかった」

 

「だから俺、必死だったんだ」

 

「練習についていって、一軍になって……」

 

「もっと上に行って、一流になれば」

 

竜司は、涙をこらえるように、一度だけ目を閉じた。

 

「そうすれば、

 

周りの目なんか気にしなくていい」

 

「好きなときに帰れる」

 

「好きなところに行ける」

 

「カイトにも、自由に会える」

 

「……そう思ってた」

 

俺は、胸が締めつけられるようだった。

 

 

 

竜司は、少しだけ自嘲気味に笑った。

 

「だから、必死にやった」

 

「野球だけは、絶対に負けたくなかった」

 

「一流になれば、全部手に入ると思ってた」

 

そして、竜司は俺を見る。

 

「……でも」

 

声が、少し震えた。

 

「結果的に、カイトを苦しめた」

 

「俺が頑張れば頑張るほど、カイトを一人にしてた」

 

「……ごめんな」

 

その言葉を聞いた瞬間、

 

胸の奥に、長い間しまっていたものが、

 

静かにほどけていく気がした。

 

 

店内のざわめきが、遠くに聞こえていた。

 

周りの声も、食器の触れ合う音も。

 

何もかもが、少し遠い。

 

時間が、止まったかのような。

 

そんな、不思議な感覚だった。

 

 

 

俺は、一度大きく息を吸った。

 

そして、ゆっくり吐く。

 

今、ちゃんと言わないと。

 

俺は、竜司の目を見た。

 

 

 

「……竜司」

 

「ん?」

 

「ごめん」

 

一度、言葉を切る。

 

 

 

「……一緒に旅行には行けない」

 

 

 

竜司は、何も言わなかった。

 

ただ、黙ったまま俺の顔を見ている。

 

俺は、逃げずに続けた。

 

「俺さ」

 

喉が、少しだけ震えた。

 

「今、蒼司と付き合ってるんだ」

 

「……え?」

 

竜司の表情が、明らかに変わった。

 

「恋人として」

 

俺は、ゆっくりと言った。

 

「ちゃんと、付き合ってる」

 

 

 

竜司は、しばらく何も言わなかった。

 

驚きを隠せないような顔で、俺を見ている。

 

 

 

やがて、小さく息を吐いた。

 

 

 

「……そっか」

 

「そうなんだ」

 

 

 

少し間を置いて、

 

「……驚いたよ」

 

 

 

そう言って、竜司は苦笑した。

 

けれど、その表情にはまだ動揺が残っていた。

 

「俺さ……」

 

竜司が、ゆっくり口を開く。

 

「蒼司が四国で美術教師辞めて、埼玉に帰ってきて……

 

カイトと同じ高校に採用されたって聞いてから」

 

 

 

一度、言葉を止める。

 

「なんでだろって、ずっと思ってた」

 

「……」

 

「でも……」

 

竜司は、少しだけ笑った。

 

「そっか……そういうことだったんだな」

 

その声には、まだ驚きが残っている。

 

 

 

それでも、

 

竜司の表情は、少しずつ穏やかになっていった。

 

そして、俺をまっすぐ見て言った。

 

「カイト」

 

「ん?」

 

「蒼司のこと、よろしくな」

 

「……」

 

「お前ら、子供の頃から仲良かったもんな」

 

 

 

竜司は、少しだけ笑う。

 

 

 

「蒼司ってさ」

 

「兄の俺から見ても、何考えてるのかよくわかんねぇとき、あるけどさ」

 

「……」

 

「でも、めっちゃいい奴だよ」

 

その言葉に、胸の奥が、少し熱くなった。

 

竜司は、穏やかな顔で続けた。

 

「カイトと一緒なら、俺も安心だよ」

 

 

 

俺は、何も返せなかった。

 

ただ、小さくうなずくことしかできなかった。

 

 

 

竜司も、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 

少しの沈黙。

 

 

 

そして、竜司はふっと、いつもの顔に戻った。

 

「……そろそろ、デザートだな」

 

俺は、思わず竜司を見る。

 

「……うん」

 

竜司は、小さく笑った。

 

「食べようぜ」

 

「……うん」

 

甘い香りが、静かに近づいてくる。

 

さっきまでの会話が、

 

なかったことになったわけじゃない。

 

二人とも、きっとまだ胸の中に残っている。

 

それでも――

 

今はただ、

 

目の前に運ばれてきたデザートを、黙々と食べた。

 

 

 

それから、俺たちは食事を終えた。

 

店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

竜司は、

 

そのまま車で俺を学校の職員宿舎まで送ってくれた。

 

車内では、ほとんど会話をしなかった。

 

けれど、不思議と重苦しさはなかった。

 

お互いに、ずっと心の中に秘めていたことを口にした。

 

長い間、積み重なっていた行き違いも、

 

あの頃には言えなかった思いも、

 

少しだけ、お互いに分かり合えた。

 

そのことへの安堵なのか。

 

それとも、まだ言葉にできない何かなのか。

 

自分でもよくわからない。

 

いろんな感情が、胸の中で静かに渦巻いていた。

 

やがて、車が職員宿舎の前で止まった。

 

「竜司、悪いな。また送ってもらって」

 

「いいよ」

 

竜司は、いつものように笑った。

 

「お前、酔ったまま帰らせるの心配だったし」

 

それから、少し間を置いて、

 

「それに俺、このまま岩槻に帰るから。

 

そんなに遠くないしな」

 

「そっか」

 

俺は、シートベルトを外した。

 

「じゃあ竜司、今日はありがとう」

 

「……こちらこそ」

 

竜司は、少しだけ笑った。

 

そして、何かを決めたような顔で、俺を見る。

 

「なあ、カイト」

 

「ん?」

 

「俺、しばらくは岩槻にいるからさ」

 

少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。

 

「たまには、またこうやって飯行こうぜ」

 

俺は、竜司の顔を見た。

 

そして、小さく笑った。

 

「……わかった。行こう」

 

その瞬間、

 

竜司の表情が、ほんの少しだけほっとしたように緩んだ。

 

「じゃあな、また」

 

「ああ」

 

俺も、笑って返す。

 

「気をつけて帰れよ」

 

「おう」

 

俺は車を降りた。

 

ドアを閉める。

 

竜司の車は、ゆっくりと走り出した。

 

赤いテールランプが、夜の向こうへ消えていく。

 

 

 

俺はしばらく、その場に立っていた。

 

 

 

そして、ゆっくりと自分の部屋へ戻った。

 

ドアを閉める。

 

静かな部屋。

 

「……長い一日だったな」

 

ぽつりと呟く。

 

今日一日で、いろんなことがあった。

 

竜司と会って。

 

昔のことを思い出して。

 

言えなかったことを、ようやく言えた。

 

俺は、ベッドに腰を下ろした。

 

そして、小さく笑う。

 

「……でも」

 

ちゃんと言えた。

 

俺は、そのままベッドに横になる。

 

天井を見つめながら、静かに呟いた。

 

「蒼司……」

 

少しだけ、胸が温かくなる。

 

「ちゃんと言えたよ」

 

それだけ言って、

 

俺は、ゆっくり目を閉じた。

 

 

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