翌朝。
いつもの月曜日。
俺は、午前五時半に目を覚ました。
昨日、あれだけ飲んだわりには、目覚めはすこぶるよかった。
「……よし」
俺は身支度を整え、朝練へ向かう。
外に出ると、空はまだ薄暗い。
冬が、もうそこまで来ている。
それでも――
なぜか、気持ちは清々しかった。
昨日、竜司とちゃんと話した。
ずっと心の中に引っかかっていたものを、ようやく言葉にできた。
それだけで、胸の奥が少し軽くなっていた。
グラウンドでは、朝練が始まっていた。
球児たちは、いつものように軽めのジョギングをしている。
朝の冷たい空気の中、白い息がふわりと浮かんでは消えていく。
そんな中、青が俺の横に並んできた。
「佐々木先生、今朝は調子良さそうですね」
「そうか?」
「はい。なんか、いつもよりスッキリしてます」
青は、俺の顔を覗き込むようにして笑った。
「昨日、何かいいことありました?」
「……まあな」
俺は少しだけ笑った。
「心配かけたな」
「いえ」
「昨日、アイツとさ」
俺は、グラウンドの先を見ながら続ける。
「ちゃんと向き合えたっていうか……」
少しだけ言葉を探す。
「今まで言えなかった想いを、やっと言えたっていうか」
青は、何も言わずに聞いている。
「俺さ」
少し息を吐く。
「今まで、アイツとのことは吹っ切れてるって、口では言ってたけど」
俺は、朝焼けが少しずつ明るくなっていく空を見る。
「これで、やっと……本当に吹っ切れたんだと思う」
青は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷く。
「……そうですか」
少しだけ笑って、
「よかったです」
そのときだった。
「こほん」
背後から、監督の咳払いが聞こえた。
「お前たち、仲がいいのはいいけど、指導もちゃんとな」
「あっ……すみません!」
「はい! すみません!」
俺と青は、慌てて頭を下げる。
青は、そのまま朝焼けのグラウンドへ駆け出していった。
そして、少し離れたところで振り返る。
「佐々木先生!」
「ん?」
青は、笑いながら声を張った。
「たまには、俺も飲みに連れてってください!」
「……え?」
思わぬ一言に、俺は少し驚いた。
青は、何でもないことのように笑っている。
「……ああ」
俺も笑った。
「近いうちに行こうぜ」
「はい!」
青は嬉しそうに返事をすると、朝焼けのグラウンドへ駆けていった。
俺も、その背中を追うように走り出す。
薄暗かった空が、少しずつ明るくなっていく。
冷たい冬の朝。
それでも――
俺の心は、驚くほど軽かった。
* * *
昼休み。
俺は、蒼司のいる美術準備室へ向かった。
「蒼司、お疲れ」
「お疲れ、カイト」
いつものように、蒼司が顔を上げる。
その顔を見た瞬間、なんだか久しぶりに蒼司に会えたような気がした。
「カイト、何かいいことあった?」
「え?」
思わず、蒼司を見る。
「……やっぱり、わかるか?」
「うん」
蒼司は、少し笑った。
「カイト、昔からわかりやすいよ」
「ああ……」
俺も、思わず笑う。
「昨日、竜司と会ってさ」
俺は、昨日のことを話し始めた。
昨日の練習に竜司が見学に来ていたこと。
そのあと、二人で食事に行ったこと。
そして――
「竜司に、蒼司と付き合ってること、話してきた」
「……そっか」
蒼司が、静かに俺を見る。
「ちゃんと言えたよ」
そう言うと、蒼司は小さく笑った。
「うん。ありがとう、カイト」
「竜司に言いたいことも、ちゃんと言えたしな」
俺がそう続けると、
「そっか」
蒼司は、少しだけ目を伏せた。
「兄貴と、ちゃんと話せたんだね」
「ああ」
「よかったね」
蒼司は、いつものように穏やかに笑っていた。
けれど――
ほんの一瞬だけ。
その表情が、曇ったような気がした。
「……あれ?」
俺は、蒼司を見る。
もっと喜んでくれると思っていた。
俺たちが付き合っていることを、竜司にちゃんと伝えられた。
そのことを話したんだから。
てっきり、もっと嬉しそうにしてくれると思っていた。
「……なんだろう」
ほんの小さな違和感。
でも、それが何なのかは分からなかった。
俺は、そのまま胸の奥にしまった。
「蒼司、今日午後の予定は?」
「うん。今日はもう授業ないから、片付けて帰るよ」
蒼司は、机の上に置いていた荷物を整理しながら答える。
「帰って、絵を描きたいからね」
「絵?」
「来週、個展あるから」
「え、すごいじゃん」
思わず声が弾む。
「どこで?」
「北参道のカフェの一角を借りてね」
蒼司は、少し照れたように笑った。
「前回の個展よりは、かなり規模は小さいよ」
「それでも、すごいじゃん」
俺は嬉しくなって言った。
「じゃあ、俺、行くよ」
「えっ?」
蒼司が顔を上げる。
「大丈夫なの?」
「ああ」
俺は笑った。
「期末試験だから、野球部の練習ないんだ」
「だから、行くよ」
「……ありがとう」
蒼司が、嬉しそうに笑った。
「嬉しいよ」
その笑顔を見て、さっき感じた違和感が、少しだけ薄れた気がした。
「あっ」
ふと思い出して、俺は言う。
「松ちゃん、連れてってもいい?」
「うん。いいよ」
蒼司は、いつもの穏やかな表情で頷いた。
少し間があってから、
「個展終わったらさ……」
蒼司が、ぽつりと言った。
「カイトのところ、泊まりに行っていい?」
「……え?」
思わず、蒼司を見る。
「もちろん」
俺は、すぐに答えた。
蒼司から「泊まりに行きたい」と言ってきたのは、初めてだった。
そのことが、なんだか嬉しかった。
「そっか……」
俺は、少し笑う。
「じゃあ、今度いつ泊まりに来る?」
「そうだね」
蒼司は少し考えてから、
「じゃあ、火曜日。泊まっていい?」
「もちろん」
俺は笑って答えた。
その瞬間、
さっきの蒼司の表情が曇ったことが、また頭をよぎった。
――気のせいかな。
俺は、そう思った。
蒼司は、一人の時間も必要なタイプだ。
恋人同士になっても、それは変わらない。
だからこそ――
こんなふうに、自分から泊まりに来たいと言ってくれたことが、少し嬉しかった。
「……俺、考えすぎか」
そう思って、俺は小さく笑った。
けれど。
胸の奥に残った、ほんのわずかな違和感だけは、なぜか消えなかった。
* * *
十二月。貴重な休日。
俺は松本を連れて、蒼司の個展に出かけていた。
今回の会場は、北参道にある小さなカフェ。
通りから一歩入った、落ち着いた雰囲気の店だ。
店内に入ると、
コーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐる。
その一角に、
ささやかなギャラリースペースが設けられていた。
白い壁。
控えめな照明。
そこに、蒼司の絵が静かに並んでいる。
派手さはない。
けれど、目を離せなくなる青。
海の色。
空の色。
言葉にできない感情を、
そのまま閉じ込めたような色彩。
俺は、無意識のうちに足を止めていた。
「……やっぱ、すげぇな」
小さく漏らした俺の声に、
隣で松本が頷く。
「へぇ、俺絵のことはよくわからないけど、なんか引き込まれるな……」
そう言われて、胸の奥が少しだけ、くすぐったくなる。
――俺の知らない時間。
――それでも、確かに繋がっている時間。
この絵たちは、
そんなことを静かに語っているように見えた。
松本が、ぽつりと言った。
「すげえな……蒼司君の絵。結構、人も集まってるし」
俺は、返事の代わりに、そっとスマホの画面を見せる。
「これ。蒼司のインスタ。
フォロワー、もう五万人超えてる」
「五万?」
松本が目を丸くする。
「すげえな……。
いつの間に、そんな人気になってたんだ?」
「さあな。気づいたら、って感じだ」
そう答えながら、
胸の奥で、少しだけ誇らしさが膨らむ。
松本は、スマホの画面を見たまま、驚いたような顔をしていた。
「インスタのフォロワー、五万人って……」
改めて画面を見直す。
「もう趣味の範疇じゃなくね?」
「……だよな」
「もうほとんど、プロの画家じゃん」
「ああ」
俺も、少し笑いながら答えた。
「俺もビックリしてる」
蒼司の周りには、いつの間にか人が集まっていた。
絵について質問する人。
蒼司の話を聞く人。
そして――
前回の個展のときにも来ていた、見覚えのある女性が何人かいる。
きっと、蒼司の絵を気に入ってくれている常連のファンなんだろう。
松本が、声をひそめる。
「なんかさ……若い女性のファン、多いよな」
「……そうだな」
「蒼司くん、背も高いし、顔もいいし」
松本は、蒼司の方をちらりと見る。
「それに、なんかミステリアスな感じするもんな」
「……」
俺は、何も答えなかった。
女性たちに囲まれている蒼司を、ただ見つめていた。
その瞬間――
ふと、竜司のことを思い出した。
高校を卒業して、プロの世界へ入った竜司。
遠くへ行ってしまったように感じた、あの頃。
テレビの中で活躍する竜司。
周りには、俺の知らない人たちがたくさんいて。
少しずつ、少しずつ――
俺の手の届かない存在になっていった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……」
蒼司も、これからそうなるんだろうか。
今はまだ、俺の隣にいる。
一緒に飯を食って。
同じ時間を過ごして。
泊まりに来てくれる。
でも――
蒼司の世界は、少しずつ広がっている。
絵を見に来てくれる人が増えて。
フォロワーも増えて。
蒼司を知る人が、どんどん増えていく。
俺の知らない世界へ――
蒼司も、少しずつ進んでいくのかもしれない。
「……おい、海斗」
松本の声が聞こえた。
「海斗、聞いてるか?」
「……え?」
俺は、我に返った。
松本が、心配そうに俺を見ている。
「海斗、大丈夫か?」
「……」
「顔色、悪いぞ」
「そうか?」
自分の頬に手を当てる。
少し、冷たかった。
「……ちょっと休もう」
松本が頷く。
「……そうする」
俺はもう一度、蒼司を見る。
蒼司は、女性たちに囲まれながら、穏やかに話をしていた。
その横顔は、いつもと変わらない。
なのに――
なぜか、少しだけ遠くに見えた。
俺と松本は、カフェの一角にある席に腰を下ろした。
運ばれてきたコーヒーを一口飲む。
温かさが、冷えていた体にゆっくり染み込んでいく。
「海斗、大丈夫か?」
松本が、心配そうに声をかけてくる。
「落ち着いたか?」
「ああ。大丈夫だよ」
俺は笑って答えた。
「ちょっと疲れただけだよ」
「そうか?」
松本は、まだ心配そうな顔をしている。
「お前、またなんか無理してないか?」
「……」
「昔から溜め込みやすいんだからな」
その言葉に、俺は少し笑った。
松本は、本当に俺のことをよく分かっている。
こうやって何も聞かずに、気づいてくれる。
そんな親友がいてくれることが、素直に嬉しかった。
そのとき――
「カイト」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、蒼司が立っていた。
「ここにいたんだ」
「ああ」
蒼司は、少し笑った。
「来てくれてありがとう」
「蒼司、今回もすごい人気だな。おめでとう」
俺も笑って答える。
「こんな小さい個展なのに、本当にありがたいよ」
蒼司は、少し照れたように笑った。
「あっ」
そして、松本に気づく。
「松本さん、お久しぶりです」
「蒼司くん、久しぶり。元気そうだな」
「はい」
蒼司は、嬉しそうに頷いた。
「松本さんも、今日は来てくれてありがとうございます」
「ああ。蒼司くんの絵、すごいいいよ」
松本が笑う。
「海斗が好きになるの、分かるよ」
「……松ちゃん」
俺が少し照れながら言うと、松本は笑った。
「じゃあ、俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
そう言いながら立ち上がる。
その瞬間、松本が俺にだけ分かるように、ほんの一瞬目配せをした。
――気を遣ってくれたんだろう。
松ちゃんらしい。
松本がその場を離れる。
蒼司と二人きりになった。
「蒼司、お客さんの相手、大丈夫か?」
「うん。大丈夫だよ」
蒼司は、俺を見る。
「せっかくカイトが来てくれたんだし」
「そうか」
「カイト、疲れてる?」
「大丈夫だよ」
そう答えながら、俺は周囲を見た。
蒼司の後ろの方には、まだ何人もの女性がいる。
そして――
ふと、こちらに向けられる視線が気になった。
どんな関係なんだろう。
あの人、前にも見た気がする。
友だち?それともファンなのかな。
そんな声が聞こえてくるような気がした。
別に、何か言われたわけじゃない。
それなのに、妙に落ち着かなかった。
俺は、咄嗟に口を開いた。
「蒼司さ」
「ん?」
「俺、少し休んだら先に帰るわ」
「……え?」
蒼司の顔が、少し曇った。
「そうなの?」
「ああ」
俺は、蒼司の顔をまともに見られなかった。
「ごめんな」
「試験終わったら冬合宿あるからさ、その準備もしないといけないし……」
「そうなんだ」
蒼司は、静かに答えた。
その声には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
俺は、その顔を直視できなかった。
「あと、ごめんな」
もう一度、言う。
「冬合宿、一週間あるから……クリスマスも無理なんだ」
「大丈夫だよ」
蒼司は、そう答えた。
少しだけ間を置いてから、
「その代わり、正月はゆっくりできるよね」
「ああ」
俺は頷いた。
「そうだな」
その瞬間――
「青柳さん、すみません。ちょっといいですか?」
カフェのスタッフが、蒼司に声をかけた。
「あっ、ごめん、カイト」
蒼司が振り返る。
「呼ばれた」
「ああ」
俺は笑ってみせた。
「うん。頑張れよ」
「ありがとう」
蒼司は小さく頷き、スタッフのもとへ向かっていった。
俺は、その背中を見送った。
さっきまでなら、蒼司の姿を見ているだけで嬉しかったはずなのに。
今は、なぜか少しだけ遠く感じる。
――なんでだ?
自分でも、よく分からなかった。
俺は残ったコーヒーを一口飲んだ。
もう、すっかり冷めていた。
俺は松本と一緒に、カフェを後にした。
北参道の街には、冬の風が吹いていた。
さっきまで暖かな店内にいたせいか、外の空気が余計に冷たく感じる。
俺はコートの襟を少しだけ立てた。
しばらく歩いたところで、松本が口を開いた。
「海斗」
「ん?」
「……もう帰ってよかったのか?」
「え?」
「個展、まだ終わってないだろ」
「ああ」
俺は、少し考えてから答えた。
「蒼司の邪魔しちゃ悪いからな」
「……そうか」
松本は、それ以上何も言わなかった。
ただ、少し曇った表情で俺を見ている。
「なんだよ?」
「いや……」
松本は、少し迷うようにしてから言った。
「海斗さ」
「ん?」
「今のお前の表情……俺、見覚えあるぞ」
「……え?」
松本は、まっすぐ俺を見る。
「竜司と付き合ってた頃のお前に、ちょっと似てる」
その言葉に、俺は足を止めかけた。
「……そうかな?」
「うん」
「でも、あの時とは状況が違うよ」
俺は、苦笑する。
「蒼司とはうまくいってるし」
松本は何も言わなかった。
ただ、俺の横を歩き続けている。
その沈黙が少し気になった。
「……そういえばさ」
俺は話題を変えるように言った。
「この前竜司と会ったよ……」
「ちゃんと、蒼司と付き合ってるって言ったよ」
「そうか」
松本が頷く。
「それで、竜司は?」
「ちょっと驚いてたけど」
俺は、少し笑った。
「蒼司のこと、よろしくなって」
「……そうか」
「……まあ、驚いただろうな」
俺は歩きながら続けた。
「竜司、かなり不安定でさ」
「それに、俺も酔ってたのもあって……
つい、言っちゃったんだよ」
「何を?」
「……あの時、もっと会いたかったとか」
一瞬、言葉を探す。
「寂しかったとか……」
「……でも、言えなかったって」
松本は黙って聞いていた。
「……そっか」
少ししてから、松本が聞く。
「それで、スッキリしたか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「まあな」
そして、少しだけ笑う。
「後悔はしてないよ」
「……そうか」
また、少し沈黙が流れる。
「で、竜司とは連絡とってんのか?」
「ああ」
俺は何気なく答えた。
「LINEも電話もちょくちょくあるよ」
「……そっか」
松本は、それだけ言った。
「心に溜め込んでたのが、吐き出せたんだな……」
「ああ」
俺も頷く。
「うん。そうだな。もう、それ以上のことはないけどな」
そう言って、俺は前を向いた。
松本は、何も言わなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が続く。
やがて松本が、ぽつりと言った。
「……お前さ」
「ん?」
「蒼司くんを大事にしろよ」
「え?」
俺は、思わず松本を見る。
「当たり前じゃん」
「……そうだよな」
松本は、少しだけ笑った。
「俺は、蒼司のこと好きだからさ」
その言葉に、俺は自分でも少し照れながら笑った。
「だから、大丈夫だよ」
「……そうだな」
松本は、それ以上何も言わなかった。
俺も、深く考えなかった。
蒼司のことが好きだ。
それだけは、間違いない。
だから――
きっと、大丈夫だ。
そう思っていた。
北参道の街を、冷たい風が吹き抜けていく。
木々の葉が、かすかに揺れる。
冬が、静かに近づいていた。
俺はコートのポケットに手を入れ、松本と並んで歩き続けた。
その背中を、松本は黙って見つめていた。
何か言いたそうに。
けれど、結局、何も言わなかった。
――俺は、まだ気づいていなかった。
自分の中に生まれた、ほんの小さな違和感に。
そしてその違和感が、
これから二人の間に、静かに広がっていくことにも。
冬の風だけが、
二人の間を冷たく吹き抜けていった。