大晦日。
――冬合宿が終わり、
俺は久しぶりに実家へ帰ってきていた。
実家に着いてからというもの、
俺は文字どおり、ひたすらゴロゴロしていた。
「……今年も、冬合宿きつかったな……」
体が、まったく動かない。
布団に潜り込んだまま、天井を見つめていると――
「寝てるの?」
コンコン、とノックの音。
続けて、母親の声がした。
「海斗、いつまで寝てんの?」
俺は、渋々体を起こす。
「……んだよ……」
「私たち、これから温泉旅行行くからね」
「は?」
思わず、ドアを開ける。
「え?」
「だから」
母は当たり前のように言った。
「あんた、一人だから」
「え、そうなの?」
「そうよ」
靴を履きながら、さらっと続ける。
「だから、留守番よろしくね」
「はぁ?」
玄関に向かいながら、振り返って一言。
「先帰るんなら、ちゃんと戸締まりよろしくね」
それだけ言って、母と父はさっさと行ってしまった。
残された俺は、呆然と、開けっぱなしのドアの前に立ち尽くす。
「……マジかよ」
年の瀬。
静まり返った実家。
合宿明けの体と、
ぽっかり空いた時間だけが、そこにあった。
俺は部屋に戻り、さっきまで寝ていたベッドに、もう一度体を投げ出した。
「……しまった」
腹が、静かに鳴る。
「どうしよう……飯」
天井を見つめたまま、動く気になれない。
そのとき――
ピンポーン。
「……誰だよ」
重たい体を引きずるようにして、玄関へ向かう。
ドアを開けると――
そこに、蒼司が立っていた。
「蒼司。どうした?」
「どうしたって……」
蒼司は少し困ったように笑う。
「LINE、既読にならないから」
「ああ……わりぃ。寝てた」
「そっか」
それから、少し間を置いて。
「よかったら、うち来ない?」
「……え?」
「一人なんでしょ」
当たり前みたいに言う。
「親も、おいでよって言ってるし」
「……いいのか?」
「うん。どうせ、食べるもんないでしょ」
「……助かる」
その一言で、全部だった。
俺は蒼司と並んで、
——蒼司と竜司の実家へ向かう。
「お邪魔します」
「海斗くん、久しぶりね」
玄関まで出迎えてくれたのは、蒼司の母だった。
少し老けたようにも見える。
けれど、昔と変わらない優しい雰囲気は、そのままだった。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
靴を脱ぎ、家の中へ入る。
久しぶりのリビング。
子どもの頃は、よくここで遊んでいた。
少し古くなってはいるけれど、家具の配置も、部屋の雰囲気も、ほとんど変わっていない。
懐かしさに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
そして――
そこには、ひときわ大柄な男がいた。
「よぉ」
「……ああ、竜司もいたんだな」
「なんだよ」
竜司は、少し笑いながら言う。
「俺の実家だろ。いて悪いかよ」
「いや……」
思わず苦笑する。
「そういう意味じゃねぇよ」
そのとき、ふと竜司の横に目をやる。
そこには、十四歳くらいの少年が立っていた。
背が高い。
そして、どこか竜司に似ている。
竜司が、その少年の肩に軽く手を置く。
「これ、俺の息子」
そう言って、少し誇らしそうに笑った。
「流星っていうんだ」
「ほら、挨拶して」
少年は俺のほうを見る。
「……はじめまして。流星です」
少し緊張したように、頭を下げる。
「中ニです」
「えっ……ああ」
俺も慌てて頭を下げる。
「佐々木海斗です。よろしく」
流星は、俺の顔をまじまじと見ている気がした。
……なんだ?
俺の顔に何かついてるのか?
「中ニか」
俺は改めて流星を見る。
「やっぱり竜司の子だな。背高いし……なんか、昔の竜司を見てるみたいだよ」
流星は、もう一度軽くお辞儀をすると、
「……じゃあ」
それだけ言って、リビングの奥へ入っていった。
その背中を見送りながら、
「やっぱり竜司によく似てるな」
「だろ?」
竜司が笑う。
「ああ。成長期でな」
少し照れたように頭をかく。
「久しぶりに会って、俺もビックリしたよ」
「……そうか」
俺は流星が消えていった方向を、もう一度見る。
竜司の息子。
当たり前のことなのに、なんだか不思議な感じがした。
俺が竜司と付き合っていた頃には、まだいなかった存在。
それが今、こうして目の前にいる。
俺は少し迷ってから、おそるおそる竜司に聞いた。
「なぁ……」
「ん?」
「もしかして、奥さんも今日……」
「ああ」
竜司は、あっさり答える。
「嫁は来てない」
「……そうなのか?」
「あいつ、俺の実家にはあまり来たがらないんだ」
少しだけ苦笑して続ける。
「両親と不仲ってわけじゃないんだけどな」
「……そっか」
俺は、できるだけ平静を装って答えた。
けれど――
胸の奥では、少しだけほっとしていた。
その瞬間。
「安心したか?」
竜司が、ニヤリと笑う。
「はっ……」
俺は思わず言葉に詰まる。
「別に、そんなことないし」
「ははっ」
竜司が笑う。
「冗談だよ」
そう言って、俺の肩を軽く叩く。
「まあ、今日はゆっくりしていけよ」
「ああ……」
俺は苦笑しながら、もう一度リビングを見渡した。
懐かしい家。
昔と変わらない場所。
けれど――
そこにいる人たちは、あの頃とは少しずつ変わっている。
そのことが、なんだか不思議だった。
キッチンに入ると、
そこには大量の大皿料理が並んでいた。
「……すごい量だな」
思わず声が出る。
「海斗くん、いらっしゃい」
声のほうを見ると、蒼司の父もキッチンに立っていた。
「あっ、お父さん。お久しぶりです」
俺は頭を下げる。
「今日は、すみません。お邪魔しちゃって」
「いいって、いいって」
蒼司の父は、笑いながら手を振った。
「海斗くんは子どもの頃から、竜司の兄弟みたいなもんだったし」
「それに、今年は甲子園出場おめでとう」
「コーチ、頑張ってるみたいだね」
「あ……ありがとうございます」
そう言われると、少し照れくさい。
そのとき、母親がさらに料理を運んできた。
「今日は男の子が四人もいるからね」
楽しそうに笑う。
「張り切って作っちゃった」
「いっぱい食べてね」
「はい。ありがとうございます」
やがて、6人で食卓を囲んだ。
料理は本当に大量だった。
話題は自然と、流星の学校のこと。
竜司のプロ野球時代の話。
そして、俺の野球部でのコーチとしての話。
そんな話をしながら、食卓には穏やかな時間が流れていた。
俺と竜司、そして流星は、次々と料理に箸を伸ばしていく。
一方で、蒼司はいつものように控えめで、静かに食べていた。
しばらくして――
流星が、何か思い切ったような表情で口を開いた。
「……俺、親父の高校のときの試合、見たい」
「高校の試合?」
母親が顔を上げる。
「そうね。いっぱいあるわよ」
すると竜司が、すぐに口を挟んだ。
「じゃあ、高三の県大会決勝のやつ見ようぜ」
そして、俺を見る。
「エースカイトが、完封したやつな」
「えっ……」
思わず箸が止まる。
「あの試合か……」
なんとなく恥ずかしくなって、視線を逸らす。
「……なんか、恥ずいな」
「いいじゃん」
竜司は楽しそうに笑った。
「俺のホームランもあるし」
「お前、そればっかりだな」
「だって打ったんだから、いいだろ」
食事を終えると、リビングに移動した。
そして、昔の試合のビデオを再生する。
少し古びた映像。
画面の中には、まだ高校生だった俺たちがいた。
ユニフォーム姿の竜司。
そして――
マウンドに立つ、昔の俺。
流星は、食い入るように画面を見つめていた。
やがて試合が進み、
俺が打者を打ち取る。
画面の中の俺は、今よりずっと若い。
けれど、マウンドでは必死に平静を装っていた。
「……佐々木さん、カッコいいな」
流星が、ぽつりと言った。
「え?」
思わず振り返る。
すると竜司が、すかさず口を挟む。
「え、俺だって活躍してるだろ」
「ソロホームラン打ってるし」
流星は画面から目を離さない。
「親父の打つところは何回も見たし」
「でも……」
少しだけ間を置いて、
「やっぱりエースの佐々木さん、落ち着いてるしカッコいい」
「……」
俺は何も言えず、視線を逸らした。
内心、恥ずかしくて仕方がない。
昔の自分を、こんなふうに褒められるなんて思ってもいなかった。
「流星くん、野球は?」
俺が聞くと、
流星は少しだけ表情を曇らせた。
「小学生のときは、野球クラブに入ってて」
「今は?」
「中学の野球部……途中まで入ってた」
「途中まで?」
俺が聞き返すと、
竜司が少し言いにくそうに口を開いた。
「流星の成績が落ちてな」
「嫁が、部活辞めろってなったんだ」
「……そうなんだ」
俺は流星を見る。
流星は、少し俯いていた。
しばらくして、ぽつりと口を開く。
「でも……今も時間見つけて自主練してる」
「そうなのか?」
流星は、画面に映る昔の俺を見つめたまま答えた。
「うん」
そして、少し寂しそうに続ける。
「親父の実家に来ないと……こういう野球のビデオ、見られないし」
「……」
俺は流星を見る。
流星は、画面から目を離さなかった。
「家には、こういうの見ないのか?」
「うん」
小さく首を振る。
「だから、ここに来たときしか見られない」
「……そっか」
その言葉が、妙に胸に残った。
画面の中では、昔の俺がマウンドに立っている。
流星は、その姿をじっと見つめている。
やがて、流星が小さく息を吐いた。
「俺、本当は……」
一瞬、言葉を止める。
そして、
「ピッチャーやりたいんだ」
と呟いた。
やがて試合は、九回裏。
最後のバッターが打席に入る。
画面の中の俺は、ゆっくりとセットポジションについた。
一球目。
ストライク。
二球目。
ファウル。
そして――
三球目。
俺は腕を振り抜いた。
ボールは、鋭くキャッチャーミットに収まる。
「ストライク、バッターアウト!」
最後のバッターを、三振で打ち取った。
次の瞬間――
「試合終了――!」
アナウンサーの声が、興奮気味に響く。
「春日部実業、二年連続甲子園出場です!」
歓声が、一気に球場を包み込む。
画面の中では、マウンドにいた俺のもとへ、仲間たちが一斉に駆け寄ってくる。
「やったー!」
「甲子園だ!」
みんなが笑顔で、次々と指を一本立てる。
――ナンバーワン。
俺も、その輪の中で笑っていた。
そして――
その人混みの中から、竜司が俺に飛びついてくる。
「カイト!」
「竜司!」
俺たちは、思いっきり抱き合っていた。
画面の中の二人は、
周りの歓声も気にせず、
ただ、甲子園出場の喜びを分かち合っている。
「……」
俺は、思わず目を逸らした。
今見ると、ちょっと気まずい。
隣にいる蒼司も、黙って画面を見ている。
俺は何となく居心地が悪くなって、頭をかいた。
「……若かったな、俺たち」
すると――
「……いいなぁ」
流星が、ぽつりと呟いた。
「え?」
俺は、思わず流星を見る。
流星は、画面に映る俺たちを見つめたままだった。
その目には、羨ましさとも憧れともつかない、
少し寂しそうな色が浮かんでいた。
「……何が?」
俺が聞くと、
流星は少しだけ考えてから答えた。
「こういうの」
画面では、まだチームメイトたちが喜び合っている。
「みんなで、一つのことに向かって……」
小さく息を吐く。
「最後に、みんなで喜ぶのって……いいなぁって」
「……」
俺は、何も言えなかった。
流星の横顔を見ながら、
さっきの、
『俺、本当はピッチャーやりたいんだ』
という言葉が、胸の中にもう一度浮かんだ。
夜も遅くなり、俺は自分の実家に帰ることにした。
「じゃあ、ご馳走さまでした」
玄関で靴を履いていると、蒼司が見送りに出てくる。
「泊まっていけばいいのに」
「いや、さすがにそれは遠慮しとくよ」
そう言うと、
蒼司は少し残念そうな顔をした。
「……そっか」
その表情を見て、俺は少しだけ笑う。
「明日さ」
「ん?」
「一緒に初詣、行こうか」
蒼司の表情が、少しだけ明るくなる。
「いいよ。行こう」
「じゃあ、明日朝また来るわ」
「うん」
玄関を出ようとすると、
「じゃあね」
「また明日」
俺は手を軽く上げて、
蒼司の家を後にした。
「じゃあ、また明日」
そう言って歩き出した、そのとき――
「……カイト」
後ろから声がした。
振り返ると、蒼司が玄関の前に立っていた。
「どうした?」
「家まで送るよ」
「え?」
俺は思わず笑う。
「すぐそこじゃん」
「……いいから」
なんだか蒼司らしくない。
そのことが、妙に可笑しくて、俺はまた笑ってしまう。
二人で歩き出す。
実家までは、本当にすぐそこだった。
しばらく無言で歩いてから、
俺はぽつりと言った。
「今日、あまり話せなかったな」
「うん……そうだね」
蒼司も少し考えてから答える。
「野球の話だと、俺わからないしね」
「でも、カイトすごいよ」
「何が?」
「流星くん」
蒼司は、少し笑った。
「もうカイトに懐いてた」
「そうか?」
「うん」
少し間を置いて、
「俺とは全然だから」
「はは」
思わず笑ってしまう。
「野球の話で共通点があるからだろ」
「それだけじゃないよ」
蒼司は、静かに首を振った。
「試合のビデオ見てたとき……」
「流星くん、カイトのこと、目を輝かせて見てたよ」
「……」
俺は少し考える。
「うーん……」
なんだか照れくさい。
「そう言われると、なんか恥ずかしいな」
「ふふ」
蒼司が小さく笑う。
そうこうしているうちに、
「あっ」
俺は足を止めた。
「もう着いた」
「ほんとだ」
蒼司が少し笑う。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
蒼司は家のほうへ向かおうとした。
そのとき――
「蒼司、ちょっと」
「ん?」
振り返った蒼司に、俺は一歩近づく。
そして――
そっと、唇を重ねた。
ほんの一瞬。
離れると、
蒼司が少し驚いた顔をする。
「……外だよ。誰か見てたら……」
「大丈夫だって」
俺は笑う。
「じゃあな」
そう言って、今度こそ自分の家の玄関に向かう。
後ろから、
「……うん」
蒼司の小さな声が聞こえた。