元旦、朝七時。
俺は、実家の自室で静かに目を覚ました。
しばらく布団の中でぼんやり天井を見つめる。
昨日の疲れは、まだ少し残っていた。
けれど――
今日は、野球部の練習もない。
久しぶりに、何も予定のない朝だった。
俺はゆっくり布団から出ると、リビングへ降りていった。
「……」
誰もいない。
昨日まで両親がいたはずの家が、妙に広く感じる。
いつもならテーブルの上には、正月らしく簡単な料理が置かれているはずだった。
けれど、今日はそれを囲む人はいなかった。
俺は椅子に腰を下ろす。
「……なんか、寂しいな」
思わず、口からこぼれた。
正月を実家で一人で過ごすなんて、初めてだった。
今までは、当たり前のように家族がいて。
朝になれば、誰かの声がして。
正月らしいテレビがついていて。
そんな光景が、ずっと続くものだと思っていた。
でも――
いつか遠い未来。
これが、普通になるのかもしれない。
両親も年を取って。この家に帰ってきても、誰もいない。
そして、自分自身も――
一人で正月を迎えることが、当たり前になる。
そんな未来が、ほんの一瞬、頭をよぎった。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
「ダメだ、ダメだ」
俺は小さく首を振った。
「朝から何考えてんだよ……」
気を紛らわせるように、ポケットからスマホを取り出す。
画面を見ると――
「あけましておめでとう!」
「今年もよろしく!」
松本をはじめ、友人たちから新年のメッセージがいくつも届いていた。
その文字を見ていると、
さっきまでの寂しさが、少しだけ和らいでいく。
「……みんな、ちゃんと起きてんだな」
思わず笑う。
俺は一件ずつメッセージを開き、
「あけおめ。今年もよろしく」
と返信していく。
一通。
また一通。
そうして、ひととおり返信を終える。
スマホをテーブルに置いて、
ふと、思った。
「……そうだ」
頭に浮かんだのは――
蒼司だった。
昨日、
「明日、一緒に初詣、行こうか」
そう約束した。
「……蒼司の家、行こう」
そう決めると、
俺はすぐに立ち上がった。
誰もいない実家を後にする。
玄関の鍵を閉め、冷たい元旦の朝の空気を吸い込む。
昨日とは少し違う。今日は、なぜか足取りが軽かった。
午前九時。
俺は、蒼司の実家に着いた。
玄関の前に立ち、インターホンを押そうとした、そのとき――
ガチャ。
先にドアが開いた。
「おう、カイト」
出迎えたのは、竜司だった。
「入れよ」
「ああ」
俺は、そのまま玄関をくぐる。
「お邪魔します」
「そんな堅苦しいこと言うなよ」
竜司は笑った。
その自然なやり取りに、
俺はふと、子ども時代を思い出した。
こうして竜司の家に来て、
何も考えずに玄関を上がって。
竜司に「入れよ」と言われて。
そんなことが、当たり前だった頃。
あの頃と同じような流れなのに――
もう、あの頃とは違う。
それでも。
なぜか少しだけ、
懐かしかった。
そんなことを考えながら、リビングへ入る。
そこには、まだ誰もいなかった。
竜司と、二人きり。
「……」
少しだけ気まずい。
俺は、とりあえず挨拶をする。
「竜司、あけましておめでとう」
「ああ」
竜司も、いつものように笑って答えた。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「……今年もよろしく」
それから、しばらく無言になった。
テレビから流れる正月番組の音だけが、
静かなリビングに響いている。
何とか話題を作ろうと、俺は口を開いた。
「竜司、早いな」
「ああ」
竜司は、当たり前のように答える。
「早起きはもう習慣になってるし」
少し笑って、
「さっきまで走り込みしてたしな」
「そっか」
「カイトは?」
「俺は……さっき起きた」
「はは。だと思った」
「正月は特別に休みなんだよ」
少しだけ空気が和らぐ。
「蒼司は?」
俺が聞くと、
「まだ寝てるんじゃね?」
「そっか」
また、沈黙。
竜司がテレビを見ながら、少し口元を緩めた。
「……なんか、二人っきりだな」
「……そうだな」
俺は苦笑する。
竜司が立ち上がる。
「まあ、こっち座れよ」
「ん」
俺たちはソファに腰を下ろす。
竜司がお茶を淹れて、俺の前に置いた。
「ほら」
「ああ、ありがと」
湯気の立つ湯呑みを手に取る。
少しだけ、お茶を飲んだ。
すると――
「なあ、カイト」
竜司が、テレビから目を離さずに言った。
「この前さ、高校んときの監督に会ってな」
「これからのこと、相談に乗ってもらったんだ」
「へえ」
「そしたらさ……」
竜司は少し間を置いてから続けた。
「そしたら、川口のシニアチームの監督やらないかって勧められてさ」
「……え?」
思わず竜司を見る。
「川口のシニアって、結構強いところだろ?」
「ああ。全国大会にも出てるしな」
竜司は少し照れたように笑う。
「でもさ、監督っていきなりなれるもんじゃないだろ」
「……」
「俺、プロで野球やってきたけど、
指導者としてはまだまだ素人だからさ、悩んだけど」
そう言って、少し考えるように続ける。
「でも、これから必死で勉強して、やってみようかなって思ってる」
俺は竜司の横顔を見る。
少し前まで、進むべき道に迷い、
思い悩んでいた竜司。
けれど今は――
進むべき道を見つけ、
希望に満ちた顔をしていた。
そんな竜司を見ていると、俺も自然と嬉しくなった。
そして――
これからも、竜司を応援したい。
そう思った。
「大丈夫だよ」
「……え?」
竜司が驚いたように俺を見る。
「竜司さ」
俺は少し笑って続けた。
「天才って言われてたけど……」
「実際は、すごい努力して、勉強して、ここまでやってきたんだろ」
「……」
竜司は黙って俺を見る。
「だからさ」
俺は、まっすぐ竜司を見る。
「これからも、きっと大丈夫だよ」
「俺、これからも応援してるから」
「……カイト」
竜司は、少し照れたように笑った。
「……ありがとな」
竜司は少し間を置いてから、
「あとな」
「ん?」
「野球の解説も、声かかってて」
「えっ、マジで?」
「ああ」
俺は思わず笑う。
「それも良かったじゃん」
「はは……嬉しい」
その言葉を聞いて、
竜司がふと俺を見る。
「……え?」
「カイトさ」
少しだけ真剣な声になる。
「自分のことみたいに、喜んでくれるよな」
「あ……」
言葉に詰まる。
「だって……」
少し照れながら続ける。
「これでも、心配してたから」
「……ありがとな」
竜司は静かに笑った。
「まあ、そういうことだからさ……、これからも、
野球のことでお前と関わることも、増えると思う」
一瞬、間を置いて、
「よろしくな、カイト」
「ああ」
そう答えた声は、
思っていたより、ずっと穏やかだった。
しばらくすると――
階段から足音が聞こえてきた。
流星が、リビングへ降りてくる。
その姿を見た瞬間、
流星は俺の顔を見て、少し嬉しそうに言った。
「佐々木さん、あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます流星くん」
俺も笑って返す。
そして、ふと思い出した。
「あ、そうだ。ちょっと待って」
「?」
俺は持ってきたものを取り出す。
「はい、流星くん。これ」
差し出したのは、お年玉袋だった。
「お年玉」
「……え?」
流星が驚いたように目を見開く。
横にいた竜司も、驚いた表情を浮かべた。
「おい、カイト」
「ん?」
「そんな気、使わなくてもいいって」
俺は笑って首を振る。
「いいんだよ」
「たいしたもんじゃねぇし」
流星は、少し戸惑いながらお年玉袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「あと、それとこれも良かったら……」
俺は鞄の中から、一つの硬球を取り出した。
「これ、昨日実家の部屋を片付けてたら出てきたんだけど」
流星が、ボールを見る。
「これさ、俺が高校のとき、自主練で使ってたボールなんだ」
俺は流星に差し出した。
「良かったら、あげるよ」
「……え?」
流星は驚いたように俺を見る。
そして、恐る恐るボールを受け取った。
「……ありがとうございます、海斗さん」
嬉しそうに、ボールを見つめている。
すると竜司が口を挟んだ。
「カイト、そのボール……大事なやつじゃね?
本当にいいのか?」
「いいんだよ」
俺は流星を見る。
「頑張れ、未来のエース」
流星は一瞬、驚いたような顔をした。
そして――
「……はい!ありがとうございます」
大事そうにボールを握りしめていた。
すると――
階段から足音が聞こえてきた。
「あっ、蒼司。おはよう」
俺が声をかけると、
蒼司は少し眠そうな顔でリビングに入ってきた。
「おはよう……」
「ごめん、寝坊した」
「そっか。疲れてる?」
「大丈夫だよ」
蒼司はそう言って、小さく笑った。
「初詣、行こうか」
「ああ」
すると、
流星が少し遠慮がちに口を開いた。
「あの……」
「俺も、一緒に行っていいですか?」
俺は流星を見る。
「もちろん」
せっかくだ。
「いいぜ。一緒に行こうか」
すると竜司が笑った。
「それなら、四人で行こうぜ」
「四人?」
蒼司が少し驚いたように言う。
「いいじゃん」
竜司が笑う。
「正月くらい、みんなで行こうぜ」
「……そうだな」
蒼司も頷いた。
そして――
俺たちは四人で初詣へ向かった。
神社に着くと、
境内は人でごった返していた。
「あー、やっぱ混んでんな」
竜司が苦笑する。
「元旦だしね」
蒼司が答える。
人の波に押されながら、俺たちはゆっくりと境内を進んでいく。
その途中、
流星が俺の隣に並んだ。
「海斗さん」
「ん?」
「さっきのボールなんですけど……」
「ああ」
「高校のときって、どんな練習してたんですか?」
「んー?」
俺は少し考えてから答える。
「俺はな、結構朝早くから自主練してたんだよ」
「どんな練習ですか?」
「壁当てとか、素振りとか……」
流星は興味津々に聞いてくる。
「それって、毎日ですか?」
「まあな。できるだけ毎日やってた」
「すごい……」
流星は目を輝かせている。
気がつけば、
流星はすっかり俺の横にくっついて歩いていた。
野球の話をするたびに、
嬉しそうに質問してくる。
「海斗さん、今度俺にも教えてください」
「もちろん。時間があったらな」
「本当ですか?」
「ああ」
嬉しそうに笑う流星を見て、
俺も自然と笑っていた。
すっかり懐いてくれたんだな。
そう思うと、なんだか嬉しかった。
ふと前を見る。
少し先を歩く蒼司と竜司。
二人の背中が見える。
その二人を眺めながら、
俺は不思議と穏やかな気持ちになっていた。
一人だった朝とは違う。
今日は――
ちゃんと、誰かと一緒にいる。
そんなことが、少しだけ嬉しかった。
境内に入り、俺たちは列に並んだ。
順番が来ると、俺は静かに手を合わせる。
まずは――
自分のこと。
それから、家族のこと。
そして――
蒼司のこと。
竜司のこと。
「……」
目を閉じたまま、ふと思う。
「……なんか、多いな」
自分でも少し可笑しくなった。
結局、自分のことだけじゃなくて、
大切な人たちのことまで願っていた。
お参りを終え、俺たちは境内を後にしようとした。
すると竜司が声をかけてくる。
「じゃあ、俺と流星はもう行くわ」
「そうなんだ」
「ああ。今日は嫁の実家に行くから」
竜司が笑う。
「カイト、またな」
「ああ。またな」
すると流星が俺のほうを向いた。
「海斗さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「じゃあ、失礼します!」
元気よく頭を下げる。
「おう。気をつけてな」
流星は嬉しそうに笑った。
竜司は、今度は蒼司を見る。
「邪魔したな」
「……」
そして、少し笑って、
「あとは二人でゆっくりな」
「じゃあな」
「……ああ。兄貴も元気で」
蒼司は、どこかそっけなく答えた。
「おう」
竜司はそれ以上何も言わず、
流星と一緒に人混みの中へ消えていった。
俺は二人の背中を見送る。
「……」
なんとなく、さっきの蒼司の言い方が気になった。
けれど――
蒼司がこちらを見る。
「やっと二人きりになれたか」
「そうだね」
俺は少し笑った。
「正月って、なんか疲れるよ」
「それな」
蒼司も笑う。
人混みの中で、
ようやく二人きりになった。
すると、
「なんか安心したら、お腹すいたわ」
蒼司が言った。
「なんか食べようぜ」
「そうだね」
俺は頷く。
「カイト」
「ん?」
蒼司が俺を呼ぶ。
「……」
一瞬、蒼司が何か言おうとする。
けれど――
「ううん。何でもない」
「……そっか」
俺は首を傾げながら、
蒼司と並んで歩き出した。
元旦の冷たい空気の中、
人の波を抜けながら、
俺たちはゆっくりと歩いていった。