蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第14章 変わりゆくもの

三月の初め。

 

季節を先取りしたような、暖かな一日だった。

 

夕方になっても、冬の名残を感じさせる冷たい風はなく、グラウンドを吹き抜ける風にも、どこか春の匂いが混じっている。

 

17時を少し過ぎたころ。

 

いつものように練習を終え、俺は職員宿舎へ戻った。

 

玄関で靴を脱ぎ、バッグを置く。

 

そして何気なくスマホを取り出した。

 

LINEを開く。

 

すると、竜司からメッセージが届いていた。

 

『今日、よかったら飯いかね?』

 

「……なんだろう」

 

思わず呟く。

 

突然誘われると、何かあったのかと考えてしまう。

 

また何か相談でもあるのか?

 

俺は少し考えた。

 

今日は蒼司もいない。

 

次の個展に向けて、会場との打ち合わせがあるらしく昼から出かけるって言っていた。

 

俺はスマホを握ったまま、蒼司に電話をかけた。

 

数回の呼び出し音のあと、すぐに声が聞こえた。

 

「もしもし、蒼司か。お疲れ。いま忙しい?」

 

「いや、大丈夫だよ」

 

いつもと変わらない穏やかな声だった。

 

「まだ打ち合わせ中?」

 

「うん。そうだね。まだかかりそう」

 

「そっか」

 

少し間を置いてから、俺は本題を切り出した。

 

「今日、竜司から飯誘われてさ。それで……」

 

その続きを言おうとしたところで、

 

「行ってきなよ」

 

蒼司が先に言った。

 

「……いいのか?」

 

「うん」

 

即答だった。

 

「なんか悩みがあるのかもしれないし。話、聞いてやってよ」

 

「わかった。悪いな」

 

「いいよ。気にしないで」

 

電話を切る。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

蒼司に悪いと思う気持ちはあった。

 

けれど、あいつがそう言ってくれるなら、断る理由もない。

 

俺は竜司に返信した。

 

『いいよ。でも、あんまり遅くなるのはちょっと』

 

既読がつく。

 

そして、ほとんど間を置かずに返信が来た。

 

『おぅ、大丈夫。じゃあ車で迎えに行くわ』

 

「早っ……」

 

思わず笑ってしまう。

 

俺は簡単に身支度を整え、竜司を待った。

 

それから一時間ほど経ったころ。

 

職員宿舎の前に、一台の車が停まった。

 

窓から外を見る。

 

見慣れない車だった。

 

玄関を出ると、そこにいたのは竜司。

 

そして、その隣には以前とは違う車。

 

セダンの高級車ではなく、スポーティーなSUVだった。

 

「お待たせ」

 

竜司がいつもの調子で言う。

 

「竜司、どうしたんだ? 車」

 

「あっ、買い替えた」

 

「買い替えた?」

 

「ああ。こっちのほうがいろいろ物、詰め込めるだろ」

 

「ああ……そうだな」

 

俺は車を眺める。

 

たしかに、以前の高級車よりこっちの車ならアウトドアに向いているだろう。

 

少し笑いながら言う。

 

「なんか、こっちの車のほうが竜司に合ってるかもな」

 

「うっ……そうきたか」

 

竜司が苦笑する。

 

昔だったら、こんな軽口を叩けば、もっと尖った返しが返ってきたかもしれない。

 

でも今の竜司は、少し照れたように頭を掻くだけだった。

 

プロ野球を引退してから、竜司はずいぶん変わった。

 

角が取れたというか。

 

肩の力が抜けたというか。

 

昔の竜司を知っている俺からすると、その変化は少し不思議なくらいだった。

 

俺は助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

 

車が静かに走り出した。

 

しばらくしてから、俺は尋ねた。

 

「で、どうした? 急に飯なんか」

 

「ん?」

 

「またなんか相談か?」

 

竜司は一瞬、俺のほうを見る。

 

「えっ?」

 

そして、少し笑った。

 

「そんなんじゃねぇよ」

 

「じゃあ、なんで?」

 

「たまにはいいじゃん」

 

ハンドルを握ったまま、竜司が言う。

 

「なんか普通に話したくなったっていうか」

 

「……ああ、そうか」

 

なんだか少し意外だった。

 

竜司から、そんなことを言われるとは思っていなかった。

 

俺が黙っていると、竜司が横目でこちらを見る。

 

「そんなに身構えんなよ」

 

「身構えてないって」

 

「いや、してる」

 

「してない」

 

「してるって」

 

竜司が笑う。

 

その笑い方も、以前とは少し違っていた。

 

プロ野球選手だった頃の、どこか近寄りがたい雰囲気はもうない。

 

竜司はふと口にする。

 

「蒼司にもラインしてるから」

 

「えっ、なんて?」

 

「今日カイト借りてもいいかって」

 

「……俺はモノかよ」

 

「ははっ」

 

竜司が声を上げて笑う。

 

「そしたら、いいよって返事あったし」

 

「まったく……」

 

俺も苦笑する。

 

たぶん、竜司なりに気を遣っているのだろう。

 

蒼司に一言伝えておけば、俺が余計なことを気にしなくて済む。

 

そういうところは、昔よりずっと自然になった気がした。

 

車は街中を進んでいく。

 

「で、どこ行く?」

 

俺が聞く。

 

「この前みたいな高級なところじゃないよな?」

 

「いや、今日は気軽に行こうぜ」

 

竜司が前を向いたまま言った。

 

「焼肉でも行くか」

 

「いいぜ」

 

それからは、特別な話をするでもなく、お互いの近況を話した。

 

俺の野球部でのこと。

 

竜司が最近考えていること。

 

そんな、とりとめのない話。

 

不思議だった。

 

こうして二人で車に乗っているのに、以前のような緊張感がない。

 

竜司も、昔ほど自分を大きく見せようとはしなくなった。

 

俺はそんな竜司を横目で見ながら、少しだけ安心していた。

 

やがて車は、焼肉店の駐車場へ入った。

 

店を見上げる。

 

高級店というほどではない。

 

けれど、いわゆる安いチェーン店よりは少し値段が高そうな店だった。

 

「ここ?」

 

「ああ」

 

「ここ美味しいよな」

 

「そっか、俺は初めて、前から気になってたんだよな」

 

二人で店に入る。

 

店内は個室のように区切られていて、周囲をあまり気にせず食事ができる落ち着いた造りになっていた。

 

案内された席に向かい合わせで座る。

 

竜司はメニューを開きながら言った。

 

「今日も俺が奢るし、好きなだけ食べようぜ」

 

「えっ、いいよ。俺も出すし」

 

「誘ったのは俺だし」

 

「毎回奢られるなら、俺も次から遠慮するぜ」

 

少し意地悪な口調で言う。

 

竜司は一瞬、俺を見る。

 

それから頭を掻いた。

 

「……わかった、わかった」

 

そして観念したように笑う。

 

「じゃあ、今日は割り勘な」

 

「最初からそう言えばいいんだよ」

 

「はいはい」

 

昔の竜司なら、ここで絶対に譲らなかっただろう。

 

俺はそんなことを思いながら、少し笑った。

 

そして店員を呼び、二人で適当に料理を注文する。

 

「カイト、今日は飲まないのか?」

 

「ああ。明日、朝練あるし。やめとく」

 

「そっか」

 

竜司はそれ以上何も言わなかった。

 

ただ、メニューを見ながら自然な口調で、

 

「じゃあ、ウーロン茶二つ」

 

そう注文した。

 

俺はその横顔を見ながら、ふと思った。

 

――竜司も、変わったな。

 

店員への接し方も以前より柔らかくなった。

 

そんな小さな変化が、なぜか嬉しかった。

 

 

「竜司、お前……雰囲気変わったな」

 

焼けた肉を皿に取りながら、俺は何気なく言った。

 

「そうか?」

 

竜司が顔を上げる。

 

「うん。なんか……角が取れたっていうか」

 

「……そうだな」

 

竜司は少し考えるように、ウーロン茶のグラスを指先で回した。

 

「引退して、こっち帰ったら気が抜けたっていうか」

 

「気が抜けた?」

 

「ああ」

 

竜司は小さく笑う。

 

「最後のあたりさ。俺、成績落ちただろ」

 

「ああ……」

 

「けっこう叩かれたしな」

 

竜司は笑っていた。

 

けれど、その目は笑っていなかった。

 

「その頃は、ちょっと人間不信になってたんだよ」

 

「……そっか」

 

俺はそれ以上、何も言わなかった。

 

プロの世界で、何年も結果を出し続けてきた男。

 

その男が、最後に味わったもの。

 

俺には想像することしかできない。

 

しばらくして、竜司はジャケットの内ポケットから何かを取り出した。

 

「そうだ」

 

差し出されたのは、一枚の名刺だった。

 

俺は受け取って、そこに書かれた文字を見る。

 

川口○○シニア

監督

青柳竜司

 

「……へぇ」

 

思わず声が漏れた。

 

「もう監督なんだな」

 

「一応、名刺だけな」

 

竜司は少し照れくさそうに笑った。

 

「いまはまだ、前の監督から引き継ぎ受けてるところだけど」

 

俺は名刺をもう一度眺めた。

 

ついこの間まで、プロ野球選手だった男。

 

その名前の下に、今は「監督」と書かれている。

 

なんだか不思議な感じがした。

 

「この名刺渡すの、カイトが一号な」

 

「……ありがとう」

 

俺は名刺を大切に財布へしまった。

 

すると竜司は、待っていたかのように話し始めた。

 

「でもさ、監督って思ってたより大変なんだよ」

 

「そうなのか?」

 

「ああ。覚えることが多いんだよ。選手のことだけじゃなくて、試合の手配とか、大会関係とか、保護者とのやり取りとか」

 

竜司の口が止まらない。

 

「グラウンドのこととか、道具の管理とか、遠征の手配とか。雑用みたいな仕事も結構あるしさ」

 

「へぇ……」

 

「しかも給料も、ほとんどないようなもんだし」

 

竜司は苦笑した。

 

「ボランティアみたいな感じだよ」

 

「竜司、大丈夫なのか?」

 

俺が心配して聞くと、竜司はあっさり答えた。

 

「大丈夫、大丈夫」

 

そして、肉を一枚網に乗せる。

 

「プロのときの蓄えもあるし」

 

「……」

 

「それにさ」

 

竜司は肉が焼けるのを眺めながら、穏やかに笑った。

 

「いまの生活のほうが楽しいんだよ」

 

その言葉が、妙に心に残った。

 

「あと、代官山の家も、もう手放すし」

 

「えっ?」

 

「ああ。岩槻の実家をリフォームしようと思って」

 

「実家?」

 

「うん。俺が住むって話したら、両親もいいって納得してくれて」

 

竜司は当たり前のように話していた。

 

「親も歳だしな。近くにいたほうが何かと安心だろ」

 

俺はその言葉を聞いて、ふと箸を止めた。

 

――親孝行。

 

その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 

俺は、自分のことばかり考えて生きてきた気がする。

 

親のこと。

 

これから先のこと。

 

そんなことを、竜司ほど真剣に考えたことがあっただろうか。

 

「流星の部屋も必要だろ」

 

竜司が続けた。

 

「それに、蒼司の部屋も大きめのを用意するし」

 

「……えっ?」

 

思わず顔を上げる。

 

「だから、海斗も住めばいいじゃん」

 

「……」

 

言葉が出なかった。

 

竜司は俺の反応を見て、少し目を泳がせた。

 

「あっ……」

 

そして、頭を掻く。

 

「引いたか?」

 

「いや……」

 

「ちょっと先走りすぎたかもな」

 

照れくさそうに笑う。

 

「なんか、いろいろ考えてたら楽しくなってきてさ」

 

「……いや、引いてないよ」

 

俺はゆっくり首を振った。

 

「竜司、すごいなって」

 

「何が?」

 

「俺なんか、親孝行もしてないし……」

 

少しだけ俯く。

 

「先のことなんて、曖昧なことしか考えてないよ」

 

俺は竜司を見る。

 

「竜司はやっぱり、すごいな」

 

「そんなことないって」

 

竜司は照れたように笑った。

 

「俺だって、最近やっと考えるようになっただけだよ」

 

そして、少し間を置いてから言った。

 

「それよりさ」

 

「ん?」

 

「流星のこと、ありがとな」

 

「えっ?」

 

突然名前を出され、俺は顔を上げた。

 

「正月、流星と仲良くしてくれて……」

 

竜司は少し照れくさそうに視線を落とした。

 

「最近さ、前より流星から連絡くれること増えたんだ」

 

「そうなのか?」

 

「ああ」

 

竜司は嬉しそうに笑った。

 

「照れながらだけどさ。カイトの話、よくするよ」

 

「俺の?」

 

「うん」

 

その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。

 

「それと……」

 

竜司が続けた。

 

「野球部にも復帰してさ」

 

「えっ!?」

 

思わず声が大きくなった。

 

「流星くん、野球部に戻ったのか?」

 

「ああ」

 

竜司は頷いた。

 

「自分で母親を説得したんだよ」

 

「……そっか」

 

「最初は言い合いになってたみたいだけどな」

 

竜司は苦笑する。

 

「でも最後は、ちゃんと自分の気持ちを話したらしい」

 

俺はしばらく何も言えなかった。

 

ただ、あの流星が。

 

自分の言葉で母親に向き合って、もう一度野球部に戻った。

 

それが嬉しかった。

 

「そっか……よかったな」

 

俺がそう言うと、竜司は静かに頷いた。

 

「うん」

 

そして、少しだけ俺を見る。

 

「お前が背中を押したからだよ」

 

「……俺が?」

 

「ああ」

 

竜司の声は、いつになく穏やかだった。

 

「カイトが流星の話を聞いてくれたから」

 

「……」

 

「流星がもう一回、野球やってみようって思えたんだと思う」

 

俺は何も言えなかった。

 

ただ、目の前で焼けていく肉を見つめた。

 

胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。

 

その向かい側で、竜司もまた、穏やかな顔で肉をひっくり返していた。

 

プロ野球選手だった頃とは違う。

 

肩書きも、暮らしも、これから歩いていく道も。

 

全部、変わり始めている。

 

それでも――

 

こうして俺の前で笑っている竜司は、

 

昔よりずっと、人間らしく見えた。

 

 

焼肉を食べ終えるころには、店の外はすっかり暗くなっていた。

 

「腹いっぱいだな」

 

竜司が満足そうに腹をさする。

 

「食いすぎだろ」

 

「カイトも結構食ってたじゃねぇか」

 

「俺は明日、朝練あるからな。ちゃんと食っとかないと」

 

「そういうところ、相変わらず真面目だよな」

 

「うるさい」

 

二人で笑う。

 

会計を済ませ、店の外へ出る。

 

三月の夜は、昼間とは違ってまだ少し冷えていた。

 

「寒っ」

 

俺が思わず肩をすくめると、竜司が笑った。

 

「だから言っただろ。まだ春じゃねぇって」

 

「昼間は暖かかったんだけどな」

 

「夜はまだ冷えるよ」

 

駐車場へ向かいながら、俺はふと空を見上げた。

 

雲の切れ間から、星がいくつか見えている。

 

なんとなく、さっきまでの会話を思い出す。

 

実家。

 

両親。

 

流星。

 

そして――

 

海斗も住めばいいじゃん。

 

「……なあ、竜司」

 

「ん?」

 

「さっきの話だけど」

 

「どれ?」

 

「岩槻の実家」

 

「ああ」

 

竜司が足を止める。

 

「本当に、あそこに住むつもりなのか?」

 

「ああ」

 

迷いのない返事だった。

 

「これからは、埼玉拠点に動くと思うし」

 

「そっか」

 

「それに……」

 

竜司が一瞬、言葉を止めた。

 

俺は横を見る。

 

竜司は前を向いたままだった。

 

「なんだ?」

 

「いや」

 

少し笑って、

 

「なんでもねぇ」

 

そう言った。

 

その表情が、なぜか気になった。

 

車に乗り込む。

 

エンジンがかかり、静かに車内が暖まっていく。

 

俺は助手席でシートベルトを締めた。

 

車が駐車場を出る。

 

しばらくは、二人とも何も話さなかった。

 

街の明かりが、窓の外を流れていく。

 

俺はさっきの竜司の言葉を、また思い出していた。

 

――海斗も住めばいいじゃん。

 

あれは、どういう意味だったんだろう。

 

ただの冗談。

 

家族みたいな感覚。

 

それとも――。

 

「……カイト」

 

突然、竜司が口を開いた。

 

「ん?」

 

「さっきのこと、気にすんなよ」

 

「さっき?」

 

「俺が言ったこと」

 

「……」

 

やっぱり、竜司も気にしていたらしい。

 

「別に、気にしてないよ」

 

「ほんとか?」

 

「ああ」

 

俺は少し笑った。

 

「ただ、ちょっとびっくりしただけ」

 

「だよな」

 

竜司も苦笑する。

 

「俺も言ってから、ちょっと早かったかなって思った」

 

「ふふっ」

 

「笑うなよ」

 

「だって竜司らしくないから」

 

「俺らしいってなんだよ」

 

「昔だったら、もっと強引に言ってただろ」

 

「……まあな」

 

竜司は苦笑した。

 

「昔の俺だったら、たぶん『いいから住め』って言ってたな」

 

「だろ?」

 

「でも今は、そういうのじゃねぇから」

 

「……」

 

その言葉に、俺は黙った。

 

竜司は前を向いたまま続ける。

 

「それぞれの生活があるしな」

 

「うん」

 

「蒼司との生活もある」

 

「……ああ」

 

「だから、俺が勝手に決めることじゃねぇ」

 

その声は穏やかだった。

 

俺は少しだけ胸が苦しくなった。

 

昔の竜司なら、こんなふうに相手の事情を考えることなんて、きっとできなかった。

 

自分の気持ちを優先して。

 

自分が正しいと思ったことを押し通して。

 

それが俺たちの関係を壊した。

 

でも今は違う。

 

「竜司」

 

「ん?」

 

「ありがとう」

 

「何が?」

 

「そういうふうに考えてくれて」

 

竜司は一瞬黙った。

 

それから、

 

「……そっか」

 

とだけ答えた。

 

車内に、また静かな時間が流れる。

 

やがて、見慣れた街並みが近づいてきた。

 

職員宿舎まで、もう少しだった。

 

「カイト」

 

「ん?」

 

「また飯、行こうな」

 

「……ああ」

 

「今度は蒼司も一緒に」

 

「それがいいな」

 

俺が笑うと、竜司も笑った。

 

車はゆっくりと、職員宿舎の前に停まった。

 

「送ってくれてありがとな」

 

「ああ」

 

シートベルトを外し、ドアを開けようとする。

 

そのときだった。

 

「カイト」

 

「ん?」

 

振り返る。

 

竜司はハンドルに手を置いたまま、こちらを見ていた。

 

何か言いたそうな顔をしている。

 

「……いや」

 

「なんだよ」

 

「なんでもねぇ」

 

竜司は小さく笑った。

 

「じゃあな」

 

「ああ。またな」

 

俺は車を降りた。

 

ドアを閉め、数歩歩いてから振り返る。

 

竜司の車はまだそこにあった。

 

俺が手を上げると、竜司も軽く手を上げる。

 

そして車はゆっくりと走り去っていった。

 

そのテールランプが見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。

 

胸の奥に、妙な感覚が残っている。

 

嬉しいような。

 

少し寂しいような。

 

そして――

 

ほんの少しだけ、怖いような。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「……竜司」

 

誰もいない夜の中で、名前を呟く。

 

その瞬間、スマホが震えた。

 

画面を見る。

 

蒼司からだった。

 

『もう帰ってきた?』

 

俺は少し笑って返信する。

 

『今着いたところ』

 

すぐに既読がついた。

 

『楽しかった?』

 

俺は画面を見つめた。

 

少し考えてから、

 

『うん。楽しかったよ』

 

と送る。

 

そして、もう一度画面を見る。

 

蒼司からの返信はまだない。

 

俺はスマホをポケットにしまった。

 

――楽しかった。

 

それは本当だった。

 

竜司と、こんなふうに普通に笑って話せたこと。

 

昔なら考えられなかった。

 

もう、あの頃とは違う。

 

竜司も。

 

俺も。

 

そして、俺たちを取り巻く人たちも。

 

少しずつ、変わっている。

 

俺は玄関のドアを開けた。

 

そのとき、ふと頭に浮かんだ。

 

――竜司は、これからどんな人生を歩くんだろう。

 

そして。

 

――俺は、どんな人生を歩きたいんだろう。

 

その答えは、まだ見つからなかった。

 

ただ、不思議と。

 

以前ほど、未来が怖くはなかった。

 

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