四月上旬。
放課後の体育準備室には、まだ昼間の暖かさが残っていた。
窓の外からは、野球部の声が聞こえている。
「お願いします!」
「はい、もう一球!」
グラウンドから響く掛け声。
ボールを打つ音。
その音をぼんやりと聞きながら、俺は机の前に座っていた。
手元には、今日の練習メニューを書いたホワイトボードの控え。
けれど、さっきから何度見ても頭に入ってこない。
俺はペンを置いた。
そして、椅子の背もたれに身体を預ける。
――岩槻の実家をリフォームする。
この前、竜司が言っていた言葉が、頭の隅にこびりついていた。
両親の近くで暮らす。
親孝行をする。
流星の部屋を作る。
蒼司の部屋も用意する。
そして――
『海斗も住めばいいじゃん』
あの言葉まで思い出してしまう。
「……」
俺は小さく息を吐いた。
別に、竜司に言われたことが気になっているわけじゃない。
いや。
正確には、少し気になっている。
でも、それ以上に。
竜司がこれからのことを当たり前のように考えていたことが、妙に頭に残っていた。
プロ野球を引退して。
監督になって。
実家に戻って。
両親のことを考えて。
流星のことを考えて。
これから先の生活まで考えている。
それに比べて――
俺は。
「……俺、このままでいいのかな」
思わず、口から言葉が漏れた。
教師になって。
野球部のコーチをして。
蒼司と付き合って。
毎日を過ごしている。
もちろん、不満があるわけじゃない。
むしろ、今の生活は穏やかだった。
幸せだと思う。
それでも。
ふとした瞬間に、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
このまま、何年も過ごしていくのだろうか。
十年後。
二十年後。
俺は、何をしているんだろう。
「……」
考えれば考えるほど、答えは出なかった。
そのときだった。
ガチャッ。
体育準備室のドアが開いた。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声。
俺は顔を上げる。
「……ああ。お疲れ」
入ってきたのは青だった。
青は手に何冊かのファイルを抱えている。
いつものように軽く頭を下げて、棚のほうへ向かう。
そしてファイルを戻しながら、ふと俺を見る。
「……」
「ん?」
「どうしたんですか?」
「え?」
「なんか、考えごとしてません?」
俺は一瞬、答えに詰まった。
「……まぁ、ちょっとな」
「そうですか……」
青はそれ以上、何も聞かなかった。
けれど。
なぜか、その表情が少し曇った。
俯きがちになり、ファイルを戻す手もどこかゆっくりになる。
「……」
俺はそんな青を見ていた。
そして、ふと思い出す。
――この前。
青が俺に言ってくれた言葉。
『もし、俺にできることがあれば、何でも言ってください』
あのときは、そんなことを言われても何を頼ればいいのか分からなかった。
でも。
今なら。
少しくらいなら、話してみてもいいのかもしれない。
俺は青に声をかけた。
「なぁ、佐伯」
「はい?」
青が振り返る。
「ちょっとだけ……聞いてもらってもいいか?」
「もちろんです」
返事が早かった。
「どうしたんですか?」
「いや……」
俺は一度、窓の外を見る。
グラウンドでは、選手たちが練習を続けている。
「ちょっと将来のこと考えててさ」
「……え?」
青の顔が、ぱっと上がった。
明らかに驚いている。
「将来……ですか?」
「ああ」
「何かあったんですか?」
「いや、何かあったっていうほどじゃない」
「……」
「ただ……」
俺は少し笑った。
「……俺、このままでいいのかなって」
「……」
青の表情が変わった。
「どうしたんですか?」
「ん?」
「ひょっとして……」
青が言葉を選ぶように、少し間を置く。
「教師、辞めるとか……?」
「え?」
俺は思わず目を丸くした。
「いやいや。なんでそうなるんだよ」
「す、すみません」
青が慌てる。
「でも、将来のことって言われたので……」
「そんな大げさな話じゃないよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
青はほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
「そんなに心配したのか?」
「……しますよ」
「なんで?」
「だって……」
青は少し困ったように笑った。
「……佐々木先生がいなくなったら、困りますから」
「……」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「俺が?」
「はい」
青は照れたように目を逸らす。
「野球部もそうですけど……俺も、いろいろ相談させてもらってますし」
「そうか」
「だから、急に辞めるとか言われたら困ります」
「……悪かったな」
「いえ」
青は小さく笑った。
俺も少し笑う。
でも。
さっきまで胸の中にあった重さは、まだ消えていなかった。
「この前さ……」
俺が言う。
「竜司と飯食いに行ったんだ」
「竜司……さんと?」
「ああ」
青は少し意外そうな顔をする。
「何かあったんですか?」
「いや、普通に飯食っただけ」
「そうなんですね」
「……そこで、いろいろ話したんだよ」
俺はゆっくりと言葉を続ける。
「竜司、実家に戻るらしいんだ」
「たしか、岩槻ですよね?」
「ああ。実家をリフォームして、そこで暮らすんだって」
「へぇ……」
「両親も歳だから、近くにいたほうが安心だって」
青は黙って聞いている。
「それでさ……」
俺は少し苦笑する。
「竜司、親孝行したいって言ってた」
「……」
「なんか、それ聞いたらさ……」
俺は机の上に置いたペンを指先で転がす。
「俺、何やってんだろうって思って」
青が俺を見る。
「佐々木先生が……ですか?」
「ああ」
「でも……」
青が口を開きかける。
けれど、俺はそのまま続けた。
「俺なんか、親孝行とか全然してないし」
「……」
「親に何かしてやったかって聞かれたら、何も思いつかない」
「そんなこと……」
「それにさ」
俺は苦笑した。
「この先、俺はずっと教師を続けていくのかなって」
青は何も言わない。
ただ、黙って俺の話を聞いている。
「もちろん、教師が嫌なわけじゃない……」
「はい」
「野球部も楽しいし」
「はい」
「生徒たちを見るのも好きだ」
「はい」
「だから、辞めたいわけじゃないんだよ」
「……」
俺は少し考えてから言った。
「ただ……なんていうのかな」
言葉を探す。
「このまま何となく毎日を過ごして、それでいいのかなって」
青はじっと俺を見ている。
「十年後も、二十年後も、同じように学校に来て」
俺は窓の外を見る。
「朝起きて、学校行って、部活やって、帰って……」
「……」
「それを繰り返して」
俺は小さく笑った。
「気がついたら、歳だけ取ってましたってなるんじゃないかなって」
青はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……佐々木先生」
「ん?」
「それって」
青は少し考える。
「今の生活が嫌なんじゃなくて」
「……」
「これから先のことを、まだちゃんと決めてないことが不安なんじゃないですか?」
俺は黙った。
「……そうかもしれない」
「……だったら」
青は少しだけ笑った。
「今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないですか?」
「え?」
「はい」
青は窓の外を見る。
「これから新年度が始まって、新しい生徒も入ってきて、また一年が始まります」
「……」
「その一年を過ごしながら考えてもいいと思います」
俺は青を見る。
「一年?」
「はい」
「そんなに待っていいのかな」
「いいと思います」
青は即答した。
「だって、佐々木先生が今まで何も考えてなかったわけじゃないでしょう?」
「……」
「教師としても、野球部のことも……」
青は少し言葉を選ぶ。
「ちゃんと考えて生きてきたじゃないですか」
「……そうかな」
「はい」
青は頷く。
「ただ、自分のことを考える時間が少なかっただけじゃないですか?」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
「自分のこと……」
「はい」
青は笑った。
「生徒のことを考えたり、野球のことを考えたり、人のことばかり考えてません?」
「……」
図星だった。
俺は苦笑する。
「お前、たまに鋭いな」
「そうですか?」
「ああ」
青も少し笑った。
「じゃあ、俺から一つだけ言わせてもらっていいですか?」
「何?」
青は少しだけ姿勢を正した。
「佐々木先生は、今の生活を捨てる必要なんてないと思います」
「……」
「教師を続けながらでも、できることはたくさんあると思うんです」
「例えば?」
「それは……」
青は少し困った顔をする。
「俺が決めることじゃないです」
「なんだよ」
「だって、佐々木先生の人生ですから」
そう言って、青は笑った。
「でも」
少し間を置いて。
「佐々木先生がこれから何をしたいのか、一緒に考えることくらいならできます」
「……」
その言葉が、胸に残った。
俺は青を見る。
まだ若い。
俺よりずっと人生経験も少ない。
それでも。
今の俺には、その言葉が妙にありがたかった。
「ありがとう、佐伯……」
「いえ」
「なんか……話したら少し楽になった」
「本当ですか?」
「ああ」
俺は椅子から立ち上がった。
「そろそろ戻るか」
「はい」
青もファイルを抱える。
ドアへ向かいながら、青がふと振り返った。
「佐々木先生」
「ん?」
「親孝行って」
「うん?」
「別に、大きなことじゃなくてもいいんじゃないですか?」
「……」
「電話するとか」
「……」
「一緒に飯食うとか」
青は少し笑う。
「そういう小さいことからでも」
俺は黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「……そうだな」
「はい」
「なんか、今度実家に電話してみるかな」
「それがいいと思います」
「普段電話なんかしないから、何話せばいいか分からないけどな」
「じゃあ、『元気?』だけでもいいじゃないですか」
「それだけ?」
「はい」
青は笑った。
「そこから話が始まるかもしれませんよ」
「……なるほどな」
俺も笑う。
体育準備室のドアを開ける。
廊下には、夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
俺は一歩外へ出る。
すると、グラウンドからまた声が聞こえてきた。
「ナイスボール!」
「もう一本!」
いつもの風景。
いつもの声。
いつもの毎日。
それなのに。
ほんの少しだけ。
見え方が変わった気がした。
俺は歩きながら、ポケットのスマホに手を入れる。
実家の連絡先を思い浮かべる。
――今度、電話してみよう。
そして。
その先のことも。
急がずに考えてみようと思った。
俺にはまだ、時間がある。
何をしたいのか。
どんな人生を歩みたいのか。
その答えは、まだ分からない。
でも――
分からないままでもいいのかもしれない。
そう思えた。
その答えは、まだ分からない。
でも――
分からないままでもいいのかもしれない。
そう思えた。
そのときだった。
ガチャッ――。
体育準備室のドアが開いた。
「……ああ、佐々木コーチ。ここにいたのか」
振り返ると、野球部の監督が立っていた。
「あっ、はい。すみません」
俺は慌てて立ち上がる。
「すぐ戻りますので……」
「いや」
監督は少し笑った。
「ちょっと話ししないか?」
「えっ?」
俺は一瞬、青と顔を見合わせた。
「……はい。分かりました」
「じゃあ、監督室に来てくれるか」
「はい」
俺は青に軽く会釈をして、監督の後についていった。
廊下を歩きながら、何の話だろうと考える。
新入生のことか。
推薦で入ってきた部員のことか。
それとも、春の大会に向けた打ち合わせか。
いろいろと思い浮かべる。
けれど、監督から直接呼ばれるほどの話となると、少し気になった。
やがて、野球部の監督室の前に着く。
ドアを開ける。
「どうぞ」
「失礼します」
中に入る。
監督室は、相変わらず少し緊張する。
ここでは、レギュラーメンバーの選定や試合の日程、対戦相手との調整、遠征のことなど、野球部にとって重要な話し合いが行われる。
コーチとして何度も出入りしてきた場所なのに、
ここへ入ると今でも自然と背筋が伸びる。
「そこ、座って」
「はい」
俺はソファに腰を下ろした。
監督も向かい側の椅子に座る。
「……」
なんだろう。
やっぱり新入生の話か?
俺がそんなことを考えていると、監督が口を開いた。
「佐々木コーチは……」
「はい」
「ここの野球部でコーチをして、何年になるかな?」
「えっ?」
予想していなかった質問に、俺は少し戸惑った。
「えっと……」
頭の中で計算する。
「もう十年になります」
「そうか」
監督はゆっくり頷いた。
「もう十年か」
「はい」
「早いものだな」
「そうですね」
俺は苦笑した。
十年。
言われてみれば、あっという間だった。
この学校に来たばかりの頃のことを、ふと思い出す。
まだ右も左も分からなかった。
強豪校の指導の仕方も。
コーチとして何をすればいいのかさえ、手探りだった。
「佐々木コーチには……」
監督が静かに続ける。
「本当に、いろいろ助けてもらったよ」
「そんな……」
俺は少し照れながら首を振る。
「まだまだです」
「いやいや」
監督は笑った。
「謙遜しなくていい」
そして、少し姿勢を正す。
「佐々木コーチが入ってから、蒼陵高校は甲子園に出場の常連校になった」
「……」
「もちろん、選手たちの努力もある。ほかのコーチやスタッフの力もある」
監督は一度言葉を切った。
「でも、佐々木コーチの存在が大きかったことは間違いない」
「……ありがとうございます」
「それに最近じゃ、他県からも優秀な選手が推薦で入部を希望してくれるようになった」
「はい」
「佐々木コーチが指導しているところを見て、ここで野球をやりたいと言ってくる選手もいる」
「……」
「指導もうまい」
監督は穏やかな声で言った。
「選手との距離の取り方も上手い」
「……」
「部員からの信頼も厚い」
俺はなんだか恥ずかしくなって、視線を落とした。
「いや……俺一人の力じゃないです」
「分かっているよ」
監督は笑った。
「だからこそ、十年間続けてくれたことに感謝しているんだ」
「……」
俺は何も言えなくなった。
こんなふうに改めて言葉にされることなんて、ほとんどなかった。
俺はただ、自分にできることをやってきただけだ。
選手と一緒に練習して。
悩んでいる選手がいれば話を聞いて。
技術的なことを教えて。
時には叱って。
それを十年間繰り返してきただけ。
それが、こんなふうに評価されていたなんて。
俺は少しだけ胸が熱くなった。
すると――
監督が大きく息を吸った。
そして、ゆっくりと吐く。
その表情から、さっきまでとは違う空気が伝わってきた。
「……実はな」
「はい」
「今日は、佐々木コーチに話しておきたいことがある」
「……何でしょうか?」
監督は少し間を置いた。
「単刀直入に言う」
「はい」
「俺はもう年だ」
「……」
「そろそろ、監督を引退しようと考えている」
「えっ……」
思わず声が漏れた。
「そんな……!」
俺は驚いて監督を見る。
今まで、そんな話を聞いたことはなかった。
「まだ早いんじゃないですか?」
「そう言ってくれるのはありがたい」
監督は苦笑する。
「でもな、自分でも分かっているんだ」
「……」
「体力的にも、そろそろ厳しくなってきた」
監督は静かに続ける。
「それに、いつまでも俺が上にいるわけにもいかない」
「……」
俺は黙って聞いていた。
そして。
監督が俺の目をまっすぐ見た。
「それでな」
「はい」
「次の監督を……」
一瞬、間が空いた。
「佐々木コーチにお願いしたいと思っている」
「……」
何を言われたのか。
頭では理解できた。
けれど――
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「……俺、ですか?」
「そうだ」
「俺が……監督?」
「ああ」
声が出なかった。
俺はただ、監督の顔を見つめる。
監督は落ち着いた様子で話を続けた。
「佐々木コーチも、もうすぐ四十代になる」
「……」
「年齢的にも十分だ」
「……」
「それに、これまでの実績がある」
「……」
「選手からの信頼もある」
「……」
「佐々木コーチなら、監督として十分やっていけると思っている」
俺は何も言えなかった。
監督?
俺が?
この蒼陵高校野球部の監督に――?
頭の中が真っ白になる。
すると監督が、少し柔らかな表情になった。
「もちろん、いきなり全部任せるつもりはない」
「……はい」
「俺も責任を持って引き継ぎをする」
「……」
「監督を退いたあとも、佐々木コーチが慣れるまでは、非常勤のサポートとして残るつもりだ」
「監督……」
「だから、一人で抱え込む必要はない」
監督はそう言って、俺を見た。
「俺ができることは、できる限り協力する」
そして。
「どうだ?」
静かな声だった。
「一度、考えてみないか?」
俺は俯いた。
膝の上で、両手を握る。
監督。
この野球部のトップ。
選手たちの人生を預かる立場。
試合の采配。
選手の起用。
進路。
保護者との関係。
学校との調整。
すべての責任が、自分にかかってくる。
俺に……できるのか?
さっきまで考えていた。
――俺はこのままでいいのか。
――これから、どんな人生を歩みたいのか。
その答えが見つからないまま、こんな話が突然目の前に現れた。
「……俺が」
ようやく声が出た。
「監督……?」
自分の口から出た言葉なのに、まるで他人事のように聞こえた。
監督は静かに頷いた。
「ああ」
「……」
俺はもう一度、監督の顔を見る。
その目には、冗談でも思いつきでもない。
十年間、俺を見てきた人間の確かな意思があった。
俺は何も言えなかった。
ただ――
胸の奥で、何かが大きく動き始めていた。
「今日、すぐに返事をしろとは言わない」
監督が静かに言った。
「少し時間をかけて考えてみてくれないか?」
俺はしばらく黙っていた。
頭の中では、まださっきの言葉が繰り返されている。
――次の監督を、佐々木コーチにお願いしたい。
何度考えても、現実感がなかった。
「……分かりました」
ようやく、それだけ答えた。
「ありがとう」
監督が頷く。
「焦らなくていい。家に帰って、ゆっくり考えてくれ」
「はい」
俺は立ち上がった。
「失礼します」
監督室のドアを開ける。
廊下へ出た。
パタン。
背後でドアが閉まる。
「……」
俺はその場に立ち尽くした。
何となく、監督室のドアを見つめる。
そして。
「……俺が、監督?」
小さく呟いた。
言われたことは分かっている。
次期監督として、自分にやってほしい。
それは理解できた。
けれど――
どうしても、頭の中でイメージできなかった。
俺が監督。
選手たちの前に立って。
練習を指示して。
試合ではベンチに入り。
選手起用を決めて。
勝敗の責任を背負う。
そして、蒼陵高校野球部の名前を背負っていく。
「……俺が?」
もう一度呟く。
思わず苦笑してしまった。
俺はこれまで、ずっとそう思っていた。
これからも教師を続けながら、野球部のコーチを務めていく。
それが俺の人生なんだと。
朝、学校へ来る。
授業をする。
放課後は野球部へ行く。
選手たちとグラウンドに立つ。
練習が終われば宿舎へ帰る。
そんな毎日が、これからも続いていく。
もちろん、それが嫌だったわけじゃない。
むしろ――
俺は、この生活が好きだった。
だからこそ。
その先にあるものなんて、考えたことがなかった。
「……監督か」
口にすると、余計に現実味がなくなる。
俺は廊下を歩き始めた。
けれど、足元を見ながら歩いているだけで、どこを歩いているのかさえ、よく分からなかった。
途中で何人かの先生とすれ違った。
「お疲れさまです」
「……ああ」
「佐々木先生、お疲れさまです」
「……はい」
返事はしている。
けれど、何を話したのか。
誰とすれ違ったのか。
ほとんど覚えていなかった。
頭の中にあるのは、たった一つ。
――俺が監督。
それだけだった。
職員室の前を通り過ぎる。
グラウンドから声が聞こえる。
「ナイスボール!」
「もう一本!」
いつもの野球部の声。
俺は足を止めた。
窓越しにグラウンドを見る。
選手たちが走っている。
ボールを追いかけている。
笑っている。
怒られている。
いつもと何も変わらない。
なのに。
俺には、いつもと違う景色に見えた。
「……」
もし俺が監督になったら。
このグラウンドから見える景色も、変わるのだろうか。
今までとは違う責任を背負って、ここに立つことになる。
そんなことを考えているうちに、時間だけが過ぎていった。
気がつけば、外はすっかり暗くなっていた。
俺は学校を出た。
どうやって校門を出たのかも、よく覚えていない。
歩いているはずなのに、身体だけが勝手に動いているようだった。
そして。
どうやって職員宿舎の部屋まで帰ったのか。
その日の俺には、ほとんど記憶がなかった。
気がつくと、部屋の玄関に立っていた。
「……」
靴を脱ぐ。
バッグを床に置く。
そのまま、しばらく動けなかった。
部屋は静かだった。
俺はゆっくりとソファに腰を下ろした。
天井を見上げる。
「……俺が、監督」
また、その言葉が口から漏れた。
今まで考えたこともなかった。
監督になるなんて。
そんな未来が、自分にあるなんて。
俺は教師として、この学校にいる。
そして野球部ではコーチ。
それで十分だと思っていた。
それが――
突然。
「これからの人生」を考えなければならなくなった。
俺はソファに深く身体を沈めた。
目を閉じる。
竜司の言葉が浮かぶ。
――親孝行する。
そして、今日の青の言葉。
――今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないですか?
さらに、監督の言葉。
――次の監督を、佐々木コーチにお願いしたい。
三つの言葉が、頭の中で重なった。
俺は目を開ける。
そして、ゆっくりと天井を見上げた。
「……俺、どうしたいんだ?」
答えは、出てこなかった。