蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第18章 揺れる未来 後編

 

 

翌朝。

 

俺はいつものように、朝五時半に目を覚ました。

 

目覚ましが鳴る前に、自然と目が覚めた。

 

「……」

 

しばらく天井を見つめる。

 

昨日のことが、まだ頭の中に残っていた。

 

――俺が監督。

 

あれから何度考えても、現実感がない。

 

それでも、いつもの時間はやってくる。

 

俺はベッドから起き上がり、顔を洗って身支度を整えた。

 

朝六時。

 

いつものように野球部の朝練へ向かう。

 

「おはようございます!」

 

「おはよう」

 

グラウンドに出ると、すでに何人かの球児が集まっていた。

 

「まだ寒いな」

 

「はい!」

 

「じゃあ、アップ始めるぞ」

 

「はい!」

 

いつもと同じ。

 

何も変わらない朝。

 

選手たちに声をかけ、練習を見守る。

 

走り込み。

 

キャッチボール。

 

守備練習。

 

打撃練習。

 

俺はいつも通り指示を出していた。

 

けれど――

 

頭の片隅から、昨日の言葉が消えない。

 

――次の監督を、佐々木コーチにお願いしたい。

 

「……」

 

気がつけば、選手の動きをぼんやり眺めていた。

 

「コーチ?」

 

「……ん?」

 

「どうしました?」

 

「いや、何でもない」

 

「はい」

 

俺は慌てて視線を戻した。

 

「ほら、もう一回やろう」

 

「はい!」

 

朝練が終わる。

 

俺は職員室へ戻り、授業の準備を始めた。

 

プリントを確認する。

 

黒板に書く内容を整理する。

 

教科書を開く。

 

いつもなら、何も考えずにできることだった。

 

けれど今日は。

 

どうしても集中できない。

 

「……監督、か」

 

小さく呟く。

 

自分でも笑ってしまう。

 

「俺が監督って……」

 

そんなことを考えているうちに、時間は過ぎていった。

 

 

 

午前八時四十分。

 

担任をしているクラスのホームルーム。

 

「はい、席について」

 

いつものように教壇に立つ。

 

「今日の連絡は――」

 

そこまで言って、言葉が止まった。

 

「あれ……」

 

生徒たちがこちらを見る。

 

「先生?」

 

「……いや、何でもない」

 

俺は手元のプリントを見直す。

 

「えっと……今日の連絡は三つあるぞ」

 

なんとかホームルームを終える。

 

午前九時。

 

一限の保健の授業が始まった。

 

黒板に文字を書く。

 

説明する。

 

生徒から質問される。

 

いつもなら自然にできること。

 

なのに。

 

今日は頭の中がどこか遠かった。

 

「……」

 

ふと、生徒の視線を感じる。

 

教室の後ろのほうで、何人かが小声で話している。

 

「佐々木先生、なんかおかしくない?」

 

「分かる」

 

「どうしたんだろ?」

 

「今日、ずっとぼーっとしてない?」

 

聞こえている。

 

俺は聞こえていないふりをした。

 

「はい、そこ。私語しない」

 

「すみません」

 

生徒たちが黙る。

 

俺は黒板に向き直った。

 

けれど。

 

自分でも分かっていた。

 

今日は明らかにおかしい。

 

昨日までと同じようにしているつもりなのに、気持ちがついてこない。

 

――俺が監督。

 

その言葉が、何度も頭の中を横切っていた。

 

昼休み。

 

俺は体育準備室で弁当を広げていた。

 

今日は蒼司は来ていない。

 

授業がないらしく、学校にも出勤していない。

 

向かい側には青が座っている。

 

「……」

 

「……」

 

二人とも、しばらく黙って食べていた。

 

青がちらっと俺を見る。

 

「佐々木先生……」

 

「ん?」

 

「昨日のこと……」

 

「……」

 

「やっぱり、まだ考えてます?」

 

俺は箸を止めた。

 

「……まぁな」

 

「そうですよね」

 

青は心配そうな顔をする。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ああ。大丈夫」

 

俺は笑ってみせた。

 

「そんな深刻な話じゃないよ」

 

「でも……」

 

「本当に大丈夫だから」

 

そう言って、俺は弁当のおかずを口に運んだ。

 

平静を装う。

 

少なくとも、青には余計な心配をさせたくなかった。

 

すると――

 

コンコン。

 

体育準備室のドアがノックされた。

 

「はい?」

 

ドアが開く。

 

「佐々木先生、すみません」

 

入ってきたのは教頭だった。

 

「はい?」

 

俺は立ち上がる。

 

教頭は手に何か書類を持っていた。

 

「五限、授業ないですよね?」

 

「はい」

 

「もしお忙しくなければ……」

 

教頭が少し間を置く。

 

「校長室まで来ていただけませんか?」

 

「校長室……ですか?」

 

「はい」

 

俺は少し驚いた。

 

「分かりました。大丈夫です」

 

「ありがとうございます」

 

教頭は軽く頭を下げる。

 

「では、後ほどお願いします」

 

「はい」

 

教頭が出ていく。

 

ドアが閉まった。

 

「……」

 

俺はその場に立ったまま、動けなかった。

 

校長室。

 

なぜ?

 

何の話だ?

 

まさか――

 

昨日のことか?

 

俺がそんなことを考えていると、青が心配そうに俺を見ていた。

 

「佐々木先生……」

 

「大丈夫だよ」

 

俺は笑う。

 

「行ってくる」

 

「はい……」

 

青の表情は晴れなかった。

 

五限前。

 

俺は校長室の前に立っていた。

 

一度、深呼吸する。

 

コンコン。

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

ドアを開ける。

 

中に入った瞬間――

 

俺は思わず背筋を伸ばした。

 

そこには。

 

監督。

 

そして校長。

 

さらに――

 

理事長までいた。

 

「……」

 

俺は一瞬、足を止めた。

 

「佐々木先生、どうぞ」

 

校長が声をかける。

 

「はい」

 

俺はゆっくりと頭を下げる。

 

「失礼します」

 

校長室には、大きな机と高級そうなソファが置かれている。

 

普段、俺が仕事をしている職員室とはまるで空気が違う。

 

自然と緊張する。

 

俺は案内されたソファに腰を下ろした。

 

向かい側に、理事長が座る。

 

その隣に校長。

 

そして監督。

 

三人が揃っている。

 

俺は膝の上で手を組んだ。

 

「……」

 

何を言われるんだ。

 

昨日、監督から言われた話。

 

まさか――

 

俺がそんなことを考えていると、理事長が柔らかな笑顔を見せた。

 

「……佐々木先生」

 

「はい」

 

「お久しぶりですね」

 

「はい。お久しぶりです」

 

「お忙しいところ、急に呼び出してしまって申し訳ありませんね」

 

「いえ、大丈夫です」

 

理事長はゆっくり頷いた。

 

「実はですね」

 

一瞬、間があった。

 

「監督から、話は聞いています」

 

「……はい」

 

やっぱり。

 

俺は小さく息を飲んだ。

 

理事長は穏やかな口調のまま続ける。

 

「昨日、監督から次期監督について相談を受けました」

 

「……」

 

俺は黙って聞いていた。

 

そして――

 

理事長が、はっきりと言った。

 

「結論から申し上げます」

 

「はい……」

 

「私どもは……」

 

理事長は俺をまっすぐ見た。

 

「佐々木先生の、我が野球部の新監督就任について、異論はありません」

 

「……」

 

一瞬。

 

何を言われたのか、理解できなかった。

 

「ぜひ、お願いしたいと思っています」

 

「……え?」

 

俺は思わず声を漏らした。

 

監督を見る。

 

監督は静かに頷いている。

 

校長も、穏やかな表情で俺を見ていた。

 

「……」

 

俺は言葉を失った。

 

昨日、監督から突然告げられた。

 

――次の監督をお願いしたい。

 

それだけでも十分驚いた。

 

それなのに。

 

一晩しか経っていない。

 

それなのに――

 

もう理事長まで、この話を知っている。

 

俺の知らないところで。

 

俺のこれからの人生について。

 

話が進んでいる。

 

「……」

 

戸惑いを隠せなかった。

 

俺はただ、三人の顔を順番に見つめることしかできなかった。

 

「それと、佐々木先生」

 

校長が、俺のほうへ身体を向けた。

 

「もし監督をお引き受けいただいた場合ですが……」

 

「はい」

 

「監督業務を第一優先していただきたいと考えています」

 

「……」

 

「ですので、佐々木先生の授業の受け持ち数を減らすことや、担任業務から外れていただくことも含めて、学校側で配慮するつもりです」

 

俺は少し驚いた。

 

「そこまで……」

 

「もちろんです」

 

校長は続けた。

 

「監督業務は、今までのコーチ業務とは責任も仕事量も違いますから」

 

「……」

 

「必要であれば、新しいコーチを採用することも考えています」

 

校長の言葉には迷いがなかった。

 

「佐々木先生が十分に監督業務に専念できるよう、学校としてできる限りサポートします」

 

俺は黙って聞いていた。

 

そこまでしてくれるのか。

 

正直、ありがたかった。

 

けれど――

 

それは同時に、俺に対する期待の大きさでもある。

 

俺が監督になることを、学校は本気で考えている。

 

そんな現実が、少しずつ実感として押し寄せてきた。

 

すると、今度は理事長が口を開いた。

 

「もちろん」

 

「はい」

 

「監督を引き受けていただくのであれば、それなりの待遇も用意するつもりです」

 

「……」

 

「佐々木先生には、それだけの責任をお願いすることになりますから」

 

俺は思わず息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

自然と、そんな言葉が出た。

 

「正直、そこまで言っていただけることは、本当にありがたいと思っています」

 

俺は一度、視線を落とした。

 

「でも……」

 

「はい」

 

「本当に、俺に務まるんでしょうか」

 

その言葉を口にすると、自分の中にあった不安が一気に現実になった気がした。

 

監督。

 

蒼陵高校野球部の監督。

 

甲子園を目指す選手たちを預かる。

 

これまで以上の責任を背負う。

 

「俺は今まで、コーチとしてやってきただけです」

 

「……」

 

「選手を指導することはできます。でも、監督となると……」

 

言葉が続かなかった。

 

理事長は、そんな俺をじっと見ていた。

 

そして、柔らかく微笑む。

 

「もちろん」

 

「……」

 

「最終的には、佐々木先生のご意向を一番に考えます」

 

「はい」

 

「学校としてお願いしたい気持ちはあります」

 

理事長ははっきりと言った。

 

「ですが、無理にお願いするつもりはありません」

 

「……」

 

「これは佐々木先生ご自身の人生にも関わることですから」

 

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 

「ありがとうございます」

 

理事長は頷いた。

 

そして、ふと懐かしそうな表情を浮かべた。

 

「……懐かしいですね」

 

「え?」

 

「私が佐々木先生を、この学園にスカウトしたときのこと」

 

俺は少し驚いた。

 

「……覚えていらっしゃるんですか?」

 

「もちろんですよ」

 

理事長が笑う。

 

「忘れるわけがありません」

 

俺も、当時のことを思い出していた。

 

「新宿で初めてお会いしたときのことですね」

 

「あのときの佐々木先生は、今よりずっと若かった」

 

「そうですね」

 

俺は苦笑した。

 

理事長は笑った。

 

「あのとき声をかけて本当によかったと思っています」

 

「……」

 

俺は少し照れながら言った。

 

「あのとき、俺に声をかけてくれたこと」

 

一度、言葉を切る。

 

「今でも感謝しています」

 

理事長は静かに頷いた。

 

そして――

 

「実はですね」

 

「はい?」

 

「あのときと同じなんですよ」

 

「……え?」

 

俺は顔を上げた。

 

理事長は俺をまっすぐ見ていた。

 

「あのときも、私は佐々木先生ならコーチとして活躍できると確信していました」

 

「……」

 

「そして今も同じです」

 

「……」

 

「私は、佐々木先生なら監督として十分に活躍できると確信していますよ」

 

胸の奥に、じわっと何かが広がった。

 

「……ありがとうございます」

 

それ以上、言葉が出てこなかった。

 

しばらく、誰も話さなかった。

 

静かな時間が流れる。

 

俺は膝の上に置いた手を見つめた。

 

そして、ゆっくり顔を上げた。

 

「……少し、考える時間をください」

 

理事長はすぐに頷いた。

 

「もちろんです」

 

「……」

 

「時間はあります」

 

穏やかな声だった。

 

「ゆっくり、ご自身の未来を考えてください」

 

「はい」

 

その言葉を聞いて、俺は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

監督も、校長も、教頭も何も言わなかった。

 

ただ、静かに俺を見送ってくれた。

 

俺は席を立つ。

 

「失礼します」

 

ドアを開ける。

 

そして、校長室をあとにした。

 

廊下に出る。

 

ドアが閉まる。

 

「……」

 

俺は手元にある書類を見つめた。

 

次期監督就任についての資料。

 

それから――

 

契約に関する書類。

 

さっき渡されたものを、無意識に強く握りしめていた。

 

「……本当に、俺なのか」

 

小さく呟く。

 

そのまま廊下を歩いた。

 

体育準備室に戻る。

 

ドアを開けると、中には青のほか、何人かの先生がいた。

 

俺が入ってきた瞬間。

 

全員の視線が俺に集まった。

 

「……」

 

どうやら、みんな心配していたらしい。

 

青が立ち上がった。

 

「佐々木先生」

 

「ん?」

 

「大丈夫ですか?」

 

その顔は、本当に心配そうだった。

 

俺は少し笑ってみせる。

 

「ああ、大丈夫だよ」

 

「……」

 

「悪い話じゃないから」

 

「そうですか……」

 

青の表情が、少しだけ緩んだ。

 

明らかにほっとしている。

 

「よかった……」

 

「心配かけたな」

 

「いえ」

 

俺は机の上に書類を置いた。

 

「悪い」

 

「はい?」

 

「俺、今日早退するわ」

 

「えっ?」

 

青が目を丸くする。

 

「早退……ですか?」

 

「ああ」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

俺は笑った。

 

「ちょっと考えたいことがあってな」

 

「……分かりました」

 

青はまだ心配そうだった。

 

「野球部の練習には顔出すから」

 

「はい」

 

「だから、それまでは休ませてくれ」

 

「分かりました」

 

青が頷く。

 

「じゃあ、ホームルームは俺が代わりに出ます」

 

「ありがとな」

 

俺は自然と青の頭に手を伸ばした。

 

ぽん。

 

「……」

 

青が少し驚いた顔をする。

 

「あ……」

 

俺自身も、少し驚いた。

 

いつの間にか、弟にするような感覚で頭を撫でていた。

 

「じゃあ、頼むな」

 

「……はい」

 

青は少し照れたように笑った。

 

「気をつけて帰ってください」

 

「ああ」

 

俺は荷物をまとめた。

 

そして、体育準備室を出た。

 

 

 

こんな時間に帰るなんて、何年ぶりだろう。

 

職員宿舎の鍵を開ける。

 

「ただいま……」

 

当然、返事はない。

 

部屋の中は静かだった。

 

時計を見る。

 

まだ午後二時を少し過ぎたところ。

 

「……静かだな」

 

俺はバッグを置く。

 

上着を脱いで、ソファに腰を下ろす。

 

窓から差し込む昼間の光。

 

いつもなら学校にいる時間。

 

生徒たちが授業を受けている時間。

 

野球部が練習している時間。

 

それなのに今日は、自分だけがそこから抜け出してしまったような、不思議な感覚だった。

 

俺はテーブルの上に置いた書類を見る。

 

ゆっくり手に取る。

 

――次期監督。

 

その文字を見つめる。

 

「……」

 

俺が監督になったら。

 

授業はどうする。

 

担任は。

 

野球部は。

 

生徒たちは。

 

選手たちは。

 

そして――

 

俺自身の人生は。

 

考えれば考えるほど、分からなくなる。

 

昨日までは、

 

「俺はこのままでいいのか」

 

そんなことを考えていた。

 

なのに。

 

たった一日で。

 

「これから、どう生きるのか」

 

その答えを求められることになった。

 

俺はソファに深く身体を沈めた。

 

そして、静かな部屋の中で、もう一度書類に目を落とした。

 

「……監督か」

 

その言葉は、まだ自分のものにはならなかった。

 

けれど。

 

確実に。

 

俺の未来の選択肢の一つになっていた。

 

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