翌朝。
俺はいつものように、朝五時半に目を覚ました。
目覚ましが鳴る前に、自然と目が覚めた。
「……」
しばらく天井を見つめる。
昨日のことが、まだ頭の中に残っていた。
――俺が監督。
あれから何度考えても、現実感がない。
それでも、いつもの時間はやってくる。
俺はベッドから起き上がり、顔を洗って身支度を整えた。
朝六時。
いつものように野球部の朝練へ向かう。
「おはようございます!」
「おはよう」
グラウンドに出ると、すでに何人かの球児が集まっていた。
「まだ寒いな」
「はい!」
「じゃあ、アップ始めるぞ」
「はい!」
いつもと同じ。
何も変わらない朝。
選手たちに声をかけ、練習を見守る。
走り込み。
キャッチボール。
守備練習。
打撃練習。
俺はいつも通り指示を出していた。
けれど――
頭の片隅から、昨日の言葉が消えない。
――次の監督を、佐々木コーチにお願いしたい。
「……」
気がつけば、選手の動きをぼんやり眺めていた。
「コーチ?」
「……ん?」
「どうしました?」
「いや、何でもない」
「はい」
俺は慌てて視線を戻した。
「ほら、もう一回やろう」
「はい!」
朝練が終わる。
俺は職員室へ戻り、授業の準備を始めた。
プリントを確認する。
黒板に書く内容を整理する。
教科書を開く。
いつもなら、何も考えずにできることだった。
けれど今日は。
どうしても集中できない。
「……監督、か」
小さく呟く。
自分でも笑ってしまう。
「俺が監督って……」
そんなことを考えているうちに、時間は過ぎていった。
午前八時四十分。
担任をしているクラスのホームルーム。
「はい、席について」
いつものように教壇に立つ。
「今日の連絡は――」
そこまで言って、言葉が止まった。
「あれ……」
生徒たちがこちらを見る。
「先生?」
「……いや、何でもない」
俺は手元のプリントを見直す。
「えっと……今日の連絡は三つあるぞ」
なんとかホームルームを終える。
午前九時。
一限の保健の授業が始まった。
黒板に文字を書く。
説明する。
生徒から質問される。
いつもなら自然にできること。
なのに。
今日は頭の中がどこか遠かった。
「……」
ふと、生徒の視線を感じる。
教室の後ろのほうで、何人かが小声で話している。
「佐々木先生、なんかおかしくない?」
「分かる」
「どうしたんだろ?」
「今日、ずっとぼーっとしてない?」
聞こえている。
俺は聞こえていないふりをした。
「はい、そこ。私語しない」
「すみません」
生徒たちが黙る。
俺は黒板に向き直った。
けれど。
自分でも分かっていた。
今日は明らかにおかしい。
昨日までと同じようにしているつもりなのに、気持ちがついてこない。
――俺が監督。
その言葉が、何度も頭の中を横切っていた。
昼休み。
俺は体育準備室で弁当を広げていた。
今日は蒼司は来ていない。
授業がないらしく、学校にも出勤していない。
向かい側には青が座っている。
「……」
「……」
二人とも、しばらく黙って食べていた。
青がちらっと俺を見る。
「佐々木先生……」
「ん?」
「昨日のこと……」
「……」
「やっぱり、まだ考えてます?」
俺は箸を止めた。
「……まぁな」
「そうですよね」
青は心配そうな顔をする。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫」
俺は笑ってみせた。
「そんな深刻な話じゃないよ」
「でも……」
「本当に大丈夫だから」
そう言って、俺は弁当のおかずを口に運んだ。
平静を装う。
少なくとも、青には余計な心配をさせたくなかった。
すると――
コンコン。
体育準備室のドアがノックされた。
「はい?」
ドアが開く。
「佐々木先生、すみません」
入ってきたのは教頭だった。
「はい?」
俺は立ち上がる。
教頭は手に何か書類を持っていた。
「五限、授業ないですよね?」
「はい」
「もしお忙しくなければ……」
教頭が少し間を置く。
「校長室まで来ていただけませんか?」
「校長室……ですか?」
「はい」
俺は少し驚いた。
「分かりました。大丈夫です」
「ありがとうございます」
教頭は軽く頭を下げる。
「では、後ほどお願いします」
「はい」
教頭が出ていく。
ドアが閉まった。
「……」
俺はその場に立ったまま、動けなかった。
校長室。
なぜ?
何の話だ?
まさか――
昨日のことか?
俺がそんなことを考えていると、青が心配そうに俺を見ていた。
「佐々木先生……」
「大丈夫だよ」
俺は笑う。
「行ってくる」
「はい……」
青の表情は晴れなかった。
五限前。
俺は校長室の前に立っていた。
一度、深呼吸する。
コンコン。
「どうぞ」
「失礼します」
ドアを開ける。
中に入った瞬間――
俺は思わず背筋を伸ばした。
そこには。
監督。
そして校長。
さらに――
理事長までいた。
「……」
俺は一瞬、足を止めた。
「佐々木先生、どうぞ」
校長が声をかける。
「はい」
俺はゆっくりと頭を下げる。
「失礼します」
校長室には、大きな机と高級そうなソファが置かれている。
普段、俺が仕事をしている職員室とはまるで空気が違う。
自然と緊張する。
俺は案内されたソファに腰を下ろした。
向かい側に、理事長が座る。
その隣に校長。
そして監督。
三人が揃っている。
俺は膝の上で手を組んだ。
「……」
何を言われるんだ。
昨日、監督から言われた話。
まさか――
俺がそんなことを考えていると、理事長が柔らかな笑顔を見せた。
「……佐々木先生」
「はい」
「お久しぶりですね」
「はい。お久しぶりです」
「お忙しいところ、急に呼び出してしまって申し訳ありませんね」
「いえ、大丈夫です」
理事長はゆっくり頷いた。
「実はですね」
一瞬、間があった。
「監督から、話は聞いています」
「……はい」
やっぱり。
俺は小さく息を飲んだ。
理事長は穏やかな口調のまま続ける。
「昨日、監督から次期監督について相談を受けました」
「……」
俺は黙って聞いていた。
そして――
理事長が、はっきりと言った。
「結論から申し上げます」
「はい……」
「私どもは……」
理事長は俺をまっすぐ見た。
「佐々木先生の、我が野球部の新監督就任について、異論はありません」
「……」
一瞬。
何を言われたのか、理解できなかった。
「ぜひ、お願いしたいと思っています」
「……え?」
俺は思わず声を漏らした。
監督を見る。
監督は静かに頷いている。
校長も、穏やかな表情で俺を見ていた。
「……」
俺は言葉を失った。
昨日、監督から突然告げられた。
――次の監督をお願いしたい。
それだけでも十分驚いた。
それなのに。
一晩しか経っていない。
それなのに――
もう理事長まで、この話を知っている。
俺の知らないところで。
俺のこれからの人生について。
話が進んでいる。
「……」
戸惑いを隠せなかった。
俺はただ、三人の顔を順番に見つめることしかできなかった。
「それと、佐々木先生」
校長が、俺のほうへ身体を向けた。
「もし監督をお引き受けいただいた場合ですが……」
「はい」
「監督業務を第一優先していただきたいと考えています」
「……」
「ですので、佐々木先生の授業の受け持ち数を減らすことや、担任業務から外れていただくことも含めて、学校側で配慮するつもりです」
俺は少し驚いた。
「そこまで……」
「もちろんです」
校長は続けた。
「監督業務は、今までのコーチ業務とは責任も仕事量も違いますから」
「……」
「必要であれば、新しいコーチを採用することも考えています」
校長の言葉には迷いがなかった。
「佐々木先生が十分に監督業務に専念できるよう、学校としてできる限りサポートします」
俺は黙って聞いていた。
そこまでしてくれるのか。
正直、ありがたかった。
けれど――
それは同時に、俺に対する期待の大きさでもある。
俺が監督になることを、学校は本気で考えている。
そんな現実が、少しずつ実感として押し寄せてきた。
すると、今度は理事長が口を開いた。
「もちろん」
「はい」
「監督を引き受けていただくのであれば、それなりの待遇も用意するつもりです」
「……」
「佐々木先生には、それだけの責任をお願いすることになりますから」
俺は思わず息を吐いた。
「ありがとうございます」
自然と、そんな言葉が出た。
「正直、そこまで言っていただけることは、本当にありがたいと思っています」
俺は一度、視線を落とした。
「でも……」
「はい」
「本当に、俺に務まるんでしょうか」
その言葉を口にすると、自分の中にあった不安が一気に現実になった気がした。
監督。
蒼陵高校野球部の監督。
甲子園を目指す選手たちを預かる。
これまで以上の責任を背負う。
「俺は今まで、コーチとしてやってきただけです」
「……」
「選手を指導することはできます。でも、監督となると……」
言葉が続かなかった。
理事長は、そんな俺をじっと見ていた。
そして、柔らかく微笑む。
「もちろん」
「……」
「最終的には、佐々木先生のご意向を一番に考えます」
「はい」
「学校としてお願いしたい気持ちはあります」
理事長ははっきりと言った。
「ですが、無理にお願いするつもりはありません」
「……」
「これは佐々木先生ご自身の人生にも関わることですから」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
理事長は頷いた。
そして、ふと懐かしそうな表情を浮かべた。
「……懐かしいですね」
「え?」
「私が佐々木先生を、この学園にスカウトしたときのこと」
俺は少し驚いた。
「……覚えていらっしゃるんですか?」
「もちろんですよ」
理事長が笑う。
「忘れるわけがありません」
俺も、当時のことを思い出していた。
「新宿で初めてお会いしたときのことですね」
「あのときの佐々木先生は、今よりずっと若かった」
「そうですね」
俺は苦笑した。
理事長は笑った。
「あのとき声をかけて本当によかったと思っています」
「……」
俺は少し照れながら言った。
「あのとき、俺に声をかけてくれたこと」
一度、言葉を切る。
「今でも感謝しています」
理事長は静かに頷いた。
そして――
「実はですね」
「はい?」
「あのときと同じなんですよ」
「……え?」
俺は顔を上げた。
理事長は俺をまっすぐ見ていた。
「あのときも、私は佐々木先生ならコーチとして活躍できると確信していました」
「……」
「そして今も同じです」
「……」
「私は、佐々木先生なら監督として十分に活躍できると確信していますよ」
胸の奥に、じわっと何かが広がった。
「……ありがとうございます」
それ以上、言葉が出てこなかった。
しばらく、誰も話さなかった。
静かな時間が流れる。
俺は膝の上に置いた手を見つめた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……少し、考える時間をください」
理事長はすぐに頷いた。
「もちろんです」
「……」
「時間はあります」
穏やかな声だった。
「ゆっくり、ご自身の未来を考えてください」
「はい」
その言葉を聞いて、俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
監督も、校長も、教頭も何も言わなかった。
ただ、静かに俺を見送ってくれた。
俺は席を立つ。
「失礼します」
ドアを開ける。
そして、校長室をあとにした。
廊下に出る。
ドアが閉まる。
「……」
俺は手元にある書類を見つめた。
次期監督就任についての資料。
それから――
契約に関する書類。
さっき渡されたものを、無意識に強く握りしめていた。
「……本当に、俺なのか」
小さく呟く。
そのまま廊下を歩いた。
体育準備室に戻る。
ドアを開けると、中には青のほか、何人かの先生がいた。
俺が入ってきた瞬間。
全員の視線が俺に集まった。
「……」
どうやら、みんな心配していたらしい。
青が立ち上がった。
「佐々木先生」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
その顔は、本当に心配そうだった。
俺は少し笑ってみせる。
「ああ、大丈夫だよ」
「……」
「悪い話じゃないから」
「そうですか……」
青の表情が、少しだけ緩んだ。
明らかにほっとしている。
「よかった……」
「心配かけたな」
「いえ」
俺は机の上に書類を置いた。
「悪い」
「はい?」
「俺、今日早退するわ」
「えっ?」
青が目を丸くする。
「早退……ですか?」
「ああ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
俺は笑った。
「ちょっと考えたいことがあってな」
「……分かりました」
青はまだ心配そうだった。
「野球部の練習には顔出すから」
「はい」
「だから、それまでは休ませてくれ」
「分かりました」
青が頷く。
「じゃあ、ホームルームは俺が代わりに出ます」
「ありがとな」
俺は自然と青の頭に手を伸ばした。
ぽん。
「……」
青が少し驚いた顔をする。
「あ……」
俺自身も、少し驚いた。
いつの間にか、弟にするような感覚で頭を撫でていた。
「じゃあ、頼むな」
「……はい」
青は少し照れたように笑った。
「気をつけて帰ってください」
「ああ」
俺は荷物をまとめた。
そして、体育準備室を出た。
こんな時間に帰るなんて、何年ぶりだろう。
職員宿舎の鍵を開ける。
「ただいま……」
当然、返事はない。
部屋の中は静かだった。
時計を見る。
まだ午後二時を少し過ぎたところ。
「……静かだな」
俺はバッグを置く。
上着を脱いで、ソファに腰を下ろす。
窓から差し込む昼間の光。
いつもなら学校にいる時間。
生徒たちが授業を受けている時間。
野球部が練習している時間。
それなのに今日は、自分だけがそこから抜け出してしまったような、不思議な感覚だった。
俺はテーブルの上に置いた書類を見る。
ゆっくり手に取る。
――次期監督。
その文字を見つめる。
「……」
俺が監督になったら。
授業はどうする。
担任は。
野球部は。
生徒たちは。
選手たちは。
そして――
俺自身の人生は。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
昨日までは、
「俺はこのままでいいのか」
そんなことを考えていた。
なのに。
たった一日で。
「これから、どう生きるのか」
その答えを求められることになった。
俺はソファに深く身体を沈めた。
そして、静かな部屋の中で、もう一度書類に目を落とした。
「……監督か」
その言葉は、まだ自分のものにはならなかった。
けれど。
確実に。
俺の未来の選択肢の一つになっていた。