四月下旬。
日曜日。
野球部の練習が終わったのは、十六時を少し過ぎた頃だった。
宿舎の自室に戻り、急いで着替える。
今日は、蒼司に会いたかった。
スマホを取り出し、LINEを開く。
少し考えてから、短く送った。
「お疲れ」
少し間を置いて、
「今日、飯行かね?」
送信してから、スマホをポケットに入れようとした、そのときだった。
すぐに既読がつく。
そして、
『いいよ』
思わず、口元が緩む。
続けて、
『迎えに行こうか?』
と、続けて返信がくる。
「いいよ。俺がそっちにいくから」
『わかった。気をつけてね』
それだけのやり取りなのに、なぜか少し嬉しかった。
車を走らせ、蒼司の住む大宮のマンションへ向かう。
そういえば――
俺はまだ、監督就任の返事をしていなかった。
頭の片隅には、そのことがずっと引っかかっていた。
* * *
マンションに着くと、エントランスの前に蒼司が立っていた。
車を停めると、蒼司がこちらに気づく。
俺は車を降りながら声をかけた。
「お待たせ。外で待ってたのか?」
「うん、そうだね」
蒼司は、少しだけ笑った。
「なんか待ちきれなくて、つい」
「……」
その言葉に、胸が高鳴った。
待ちきれない。
俺に会うのを?
そんなことを考えてしまう。
「どこ行く?」
照れを隠すように、俺は聞いた。
「たまには、ちょっといい焼肉店でも行くか?」
蒼司は少し考えてから、
「うーん……」
そして、
「いつものファミレスでいいよ」
「そうか」
俺は笑った。
「蒼司、あそこお気に入りだな」
「うーん。なんか落ち着くし」
少し間を置いて、
「ドリンクバーあるし」
「ああ……そこか」
思わず笑ってしまう。
「そっか。俺も落ち着くから、そこ行こ」
「うん」
蒼司が小さく頷く。
二人で車に乗り込み、
いつものファミレスへ向かった。
* * *
店に入る。
もう何度来たか分からない。
休日の夕方。
店内には、家族連れや学生たちの姿がある。
俺たちが入口に立つと、店員がこちらを見る。
「いらっしゃいませー。何名様ですか?」
いつもなら、そう聞かれるところだ。
ところが――
俺たちの顔を見るなり、
「いらっしゃいませー。あっ、どうぞー」
と、笑顔で案内された。
「……」
俺と蒼司は、一瞬顔を見合わせる。
なんとなく、気恥ずかしい。
「……もう覚えられてるな」
俺が小声で言う。
「うん……」
蒼司も、少しだけ気まずそうに笑った。
案内された席に向かいながら、俺は思う。
ここはもう、
俺たちにとって「いつもの場所」になっていた。
いつものメニュー。
いつものドリンクバー。
もう、何を頼むかすらほとんど決まっている。
それが俺たちの、
穏やかな日常だった。
俺はドリンクを一口飲んでから、蒼司に話した。
「……実はさ」
「うん?」
「俺、監督就任の打診があるんだ」
蒼司が、少し目を見開く。
「えっ?」
そして、すぐに表情が明るくなった。
「おめでとう」
「すごいよ。監督だなんて」
「ありがとう」
そう言ってから、俺は少し視線を落とした。
「でもさ……俺、なんかまだ、どうしたらいいか悩んでて」
蒼司はグラスの中の氷を眺めながら、ストローをゆっくり回していた。
「俺は野球のこと、よく分からないけど……」
一度、言葉を選ぶように間を置く。
「カイトなら、監督としてやっていけると思うよ」
「……」
「カイトって、面倒見いいし」
蒼司は、俺を見る。
「みんなから慕われる監督になれるよ」
その言葉は、嬉しかった。
蒼司が俺を認めてくれている。
応援してくれている。
それは、ちゃんと分かる。
なのに――
なぜだろう。
あまり、心に響かなかった。
「……」
俺はグラスに手を添えたまま、黙っていた。
なんでだ?
蒼司なら、
もっと俺の背中を押してくれると思っていた。
「カイト?」
「ん?」
「どうしたの?」
蒼司が不思議そうに俺を見る。
「カイトは、もっと自分に自信持って大丈夫だよ」
「……」
俺は答えず、ストローを指先でゆっくり回した。
氷が、カランと小さな音を立てる。
監督になれば、今より忙しくなる。
雑務も増える。
試合もある。
チームのことを考える時間も増える。
そうなれば――
蒼司と過ごす時間も、
今までみたいには取れなくなるかもしれない。
「……監督になったらさ」
俺は、ぽつりと言った。
「今より忙しくなるだろ」
「うん」
「蒼司との時間も……今までみたいには、取れなくなるかもしれない」
蒼司は、少しだけ下を向いた。
「……それは、寂しいけど」
小さく息を吐いて、それから顔を上げる。
「でも、俺は応援するよ」
「……そっか」
「うん」
俺は頷いた。
「わかった。ありがとな」
それ以上、何も言えなかった。
蒼司は応援してくれる。
分かっている。
なのに――
心の中では、まだ決断できない。
おかしい。
蒼司と話せば、背中を押してもらえると思っていた。
「やってみなよ」
そう言ってもらえれば、
きっと決められると思っていた。
でも、違った。
俺はまだ、
自分の中で答えを出せていなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
ドリンクバーのグラスを置く音。
遠くの席から聞こえる笑い声。
店内に流れる小さなBGM。
いつものファミレス。
いつもの風景。
なのに、
今日は少しだけ違って見えた。
そんな静けさの中で、
蒼司がぽつりと口を開いた。
「……実はさ」
「ん?」
「俺も、悩んでることがあって……」
「何だ?」
蒼司は少し迷ってから、
グラスに視線を落とした。
「今、俺って非常勤講師だろ?」
「うん」
「常勤採用の話が出てて……」
俺は思わず顔を上げた。
「えっ?」
そして、反射的に言葉が出た。
「良かったじゃん」
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
蒼司が少し笑う。
「うん。まあ……そうなんだけど」
「でもさ……」
ストローを指先でいじりながら、
蒼司は続ける。
「常勤になると、担任も持たないといけないだろ……」
「うん」
「俺、担任持つの苦手でさ……」
「……」
俺は蒼司を見る。
「四国じゃあ、担任持ってただろ?」
「うん。一応」
蒼司は苦笑した。
「でも、うまくいかないこともあって……」
「……そっか」
「それに、非常勤のほうが絵に専念できるからさ」
「うん……」
「個展も続けたいし」
「……うん」
また、言葉が止まった。
蒼司が俺を見る。
俺も蒼司を見る。
何か言わなきゃと思う。
恋人なんだから。
こういうときこそ、
何か言ってあげなきゃいけない。
「常勤になったほうがいいよ」
そう言えばいいのか。
「非常勤のままでいいんじゃないか」
そう言えばいいのか。
でも――
どちらも違う気がした。
俺は、蒼司の人生を決めることなんてできない。
俺自身だって、
監督になるかどうか決められていない。
なのに、
蒼司にだけ答えを求めるなんてできない。
「……」
言葉が出てこない。
蒼司も、黙っている。
恋人なのに。
一番近くにいるはずなのに。
こういうとき、
俺は蒼司に何を言えばいいんだ?
(……なんでだ?)
胸の中で、そんな疑問が浮かんだ。
もっと簡単に、
「大丈夫だよ」
と言ってあげられると思っていた。
背中を押してあげられると思っていた。
でも今の俺には、
その言葉を口にする資格がないような気がした。
自分自身が、まだ迷っているからだ。
目の前では、蒼司がストローを静かに回している。
俺もグラスに視線を落とす。
カラン、と氷が鳴った。
いつものファミレス。
いつもの席。
いつもの二人。
なのに今日は、
お互いがそれぞれの人生の分かれ道に立っているような気がした。
俺たちは、いつもより早く店を出た。
理由は、特になかった。
ただ――
いつものように話して、
いつものように笑って、
いつものように帰る。
そんな時間には、ならなかった。
俺は蒼司をマンションまで送っていった。
車を停める。
「じゃあ、明日学校で」
「うん」
蒼司がシートベルトを外す。
ドアを開けようとしたところで、
「カイト」
「なに?」
蒼司が、少しだけ振り返った。
「……お互い、進路、ゆっくり考えよ」
「ああ」
俺は短く答えた。
蒼司は少し間を置いてから、
「俺のことはいいから」
「自分のこと、優先していいから」
「……そうだな」
そう答えながら、
俺は、その言葉に引っかかった。
――俺のことはいいから。
なんだろう。
その言い方が、
妙に遠く感じた。
「じゃあ……」
蒼司が車を降りる。
「うん。じゃあね」
「ああ」
ドアが閉まる。
俺はそのまま車を発進させた。
バックミラーに、
マンションの前に立つ蒼司の姿が映る。
少しずつ、小さくなっていく。
俺は、ハンドルを握りながら思った。
今日は、こんなはずじゃなかった。
蒼司と飯を食べて、
監督になるかどうか相談して、
蒼司の悩みも聞いて。
最後には、
「大丈夫だ」って言ってやれると思っていた。
でも――
何もできなかった。
蒼司が悩んでいると知ったのに。
恋人なのに。
俺は、何ひとつ言葉をかけられなかった。
「……俺、蒼司のために何もできてないじゃん」
誰もいない車の中で、ぽつりと呟いた。
その頃。
蒼司は、マンションのエントランスを抜け、
エレベーターを待っていた。
さっきまで隣にいたカイトのことを考えていた。
――カイト、悩んでたのに。
監督になるかどうか。
きっと、俺に相談したかったんだ。
なのに。
俺は自分のことまで話してしまった。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟く。
本当なら、
今日はカイトの話を聞いてやりたかった。
背中を押してやりたかった。
少しでも、楽にしてやりたかった。
なのに、自分の悩みまで持ち込んでしまった。
エレベーターの扉が開く。
蒼司は乗り込んだ。
閉まる扉を見つめながら、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――ごめん。
心の中で、そう呟く。
今日、
カイトが泊まりに来てほしいって言ってくれたら、
きっと俺は喜んでいた。
いや。
本当は、
自分から言いたかった。
「今日、泊まっていっていい?」
そう言えばよかった。
でも――
言えなかった。
エレベーターが止まり、
蒼司はゆっくりと自分の部屋へ向かう。
鍵を開ける。
静かな部屋に入る。
いつもなら、
カイトと過ごした時間の余韻が、
少し嬉しく残るはずなのに。
今日は、
胸の奥に小さな後悔だけが残っていた。
「……カイト、悩んでたのに」
もう一度、呟く。
「自分のこと……話さなきゃよかった」
そして、
誰もいない部屋の中で、
蒼司は小さく息を吐いた。
「……ごめん」
ほんの少しだけ、
唇を噛む。
本当は――
今日、泊まりに行きたかった。
でも、その気持ちを、
蒼司は口にすることができなかった。
静かな部屋に、鍵を置く音だけが響いた。