蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第19章 思いやる二人

 

 

四月下旬。

 

日曜日。

 

野球部の練習が終わったのは、十六時を少し過ぎた頃だった。

 

宿舎の自室に戻り、急いで着替える。

 

今日は、蒼司に会いたかった。

 

スマホを取り出し、LINEを開く。

 

少し考えてから、短く送った。

 

「お疲れ」

 

少し間を置いて、

 

「今日、飯行かね?」

 

送信してから、スマホをポケットに入れようとした、そのときだった。

 

すぐに既読がつく。

 

そして、

 

『いいよ』

 

思わず、口元が緩む。

 

続けて、

 

『迎えに行こうか?』

 

と、続けて返信がくる。

 

「いいよ。俺がそっちにいくから」

 

『わかった。気をつけてね』

 

それだけのやり取りなのに、なぜか少し嬉しかった。

 

 

 

車を走らせ、蒼司の住む大宮のマンションへ向かう。

 

そういえば――

 

俺はまだ、監督就任の返事をしていなかった。

 

頭の片隅には、そのことがずっと引っかかっていた。

 

* * *

 

マンションに着くと、エントランスの前に蒼司が立っていた。

 

車を停めると、蒼司がこちらに気づく。

 

俺は車を降りながら声をかけた。

 

「お待たせ。外で待ってたのか?」

 

「うん、そうだね」

 

蒼司は、少しだけ笑った。

 

「なんか待ちきれなくて、つい」

 

「……」

 

その言葉に、胸が高鳴った。

 

待ちきれない。

 

俺に会うのを?

 

そんなことを考えてしまう。

 

「どこ行く?」

 

照れを隠すように、俺は聞いた。

 

「たまには、ちょっといい焼肉店でも行くか?」

 

蒼司は少し考えてから、

 

「うーん……」

 

そして、

 

「いつものファミレスでいいよ」

 

「そうか」

 

俺は笑った。

 

「蒼司、あそこお気に入りだな」

 

「うーん。なんか落ち着くし」

 

少し間を置いて、

 

「ドリンクバーあるし」

 

「ああ……そこか」

 

思わず笑ってしまう。

 

「そっか。俺も落ち着くから、そこ行こ」

 

「うん」

 

蒼司が小さく頷く。

 

二人で車に乗り込み、

 

いつものファミレスへ向かった。

 

* * *

 

店に入る。

 

もう何度来たか分からない。

 

休日の夕方。

 

店内には、家族連れや学生たちの姿がある。

 

俺たちが入口に立つと、店員がこちらを見る。

 

「いらっしゃいませー。何名様ですか?」

 

いつもなら、そう聞かれるところだ。

 

ところが――

 

俺たちの顔を見るなり、

 

「いらっしゃいませー。あっ、どうぞー」

 

と、笑顔で案内された。

 

「……」

 

俺と蒼司は、一瞬顔を見合わせる。

 

なんとなく、気恥ずかしい。

 

「……もう覚えられてるな」

 

俺が小声で言う。

 

「うん……」

 

蒼司も、少しだけ気まずそうに笑った。

 

案内された席に向かいながら、俺は思う。

 

ここはもう、

 

俺たちにとって「いつもの場所」になっていた。

 

いつものメニュー。

 

いつものドリンクバー。

 

もう、何を頼むかすらほとんど決まっている。

 

それが俺たちの、

 

穏やかな日常だった。

 

俺はドリンクを一口飲んでから、蒼司に話した。

 

「……実はさ」

 

「うん?」

 

「俺、監督就任の打診があるんだ」

 

蒼司が、少し目を見開く。

 

「えっ?」

 

そして、すぐに表情が明るくなった。

 

「おめでとう」

 

「すごいよ。監督だなんて」

 

「ありがとう」

 

そう言ってから、俺は少し視線を落とした。

 

「でもさ……俺、なんかまだ、どうしたらいいか悩んでて」

 

蒼司はグラスの中の氷を眺めながら、ストローをゆっくり回していた。

 

「俺は野球のこと、よく分からないけど……」

 

一度、言葉を選ぶように間を置く。

 

「カイトなら、監督としてやっていけると思うよ」

 

「……」

 

「カイトって、面倒見いいし」

 

蒼司は、俺を見る。

 

「みんなから慕われる監督になれるよ」

 

その言葉は、嬉しかった。

 

蒼司が俺を認めてくれている。

 

応援してくれている。

 

それは、ちゃんと分かる。

 

なのに――

 

なぜだろう。

 

あまり、心に響かなかった。

 

「……」

 

俺はグラスに手を添えたまま、黙っていた。

 

なんでだ?

 

蒼司なら、

 

もっと俺の背中を押してくれると思っていた。

 

「カイト?」

 

「ん?」

 

「どうしたの?」

 

蒼司が不思議そうに俺を見る。

 

「カイトは、もっと自分に自信持って大丈夫だよ」

 

「……」

 

俺は答えず、ストローを指先でゆっくり回した。

 

氷が、カランと小さな音を立てる。

 

監督になれば、今より忙しくなる。

 

雑務も増える。

 

試合もある。

 

チームのことを考える時間も増える。

 

そうなれば――

 

蒼司と過ごす時間も、

 

今までみたいには取れなくなるかもしれない。

 

「……監督になったらさ」

 

俺は、ぽつりと言った。

 

「今より忙しくなるだろ」

 

「うん」

 

「蒼司との時間も……今までみたいには、取れなくなるかもしれない」

 

蒼司は、少しだけ下を向いた。

 

「……それは、寂しいけど」

 

小さく息を吐いて、それから顔を上げる。

 

「でも、俺は応援するよ」

 

「……そっか」

 

「うん」

 

俺は頷いた。

 

「わかった。ありがとな」

 

それ以上、何も言えなかった。

 

蒼司は応援してくれる。

 

分かっている。

 

なのに――

 

心の中では、まだ決断できない。

 

おかしい。

 

蒼司と話せば、背中を押してもらえると思っていた。

 

「やってみなよ」

 

そう言ってもらえれば、

 

きっと決められると思っていた。

 

でも、違った。

 

俺はまだ、

 

自分の中で答えを出せていなかった。

 

 

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

ドリンクバーのグラスを置く音。

 

遠くの席から聞こえる笑い声。

 

店内に流れる小さなBGM。

 

いつものファミレス。

 

いつもの風景。

 

なのに、

 

今日は少しだけ違って見えた。

 

そんな静けさの中で、

 

蒼司がぽつりと口を開いた。

 

「……実はさ」

 

「ん?」

 

「俺も、悩んでることがあって……」

 

「何だ?」

 

蒼司は少し迷ってから、

 

グラスに視線を落とした。

 

「今、俺って非常勤講師だろ?」

 

「うん」

 

「常勤採用の話が出てて……」

 

俺は思わず顔を上げた。

 

「えっ?」

 

そして、反射的に言葉が出た。

 

「良かったじゃん」

 

自分でも驚くくらい、大きな声だった。

 

蒼司が少し笑う。

 

「うん。まあ……そうなんだけど」

 

「でもさ……」

 

ストローを指先でいじりながら、

 

蒼司は続ける。

 

「常勤になると、担任も持たないといけないだろ……」

 

「うん」

 

「俺、担任持つの苦手でさ……」

 

「……」

 

俺は蒼司を見る。

 

「四国じゃあ、担任持ってただろ?」

 

「うん。一応」

 

蒼司は苦笑した。

 

「でも、うまくいかないこともあって……」

 

「……そっか」

 

「それに、非常勤のほうが絵に専念できるからさ」

 

「うん……」

 

「個展も続けたいし」

 

「……うん」

 

また、言葉が止まった。

 

蒼司が俺を見る。

 

俺も蒼司を見る。

 

何か言わなきゃと思う。

 

恋人なんだから。

 

こういうときこそ、

 

何か言ってあげなきゃいけない。

 

「常勤になったほうがいいよ」

 

そう言えばいいのか。

 

「非常勤のままでいいんじゃないか」

 

そう言えばいいのか。

 

でも――

 

どちらも違う気がした。

 

俺は、蒼司の人生を決めることなんてできない。

 

俺自身だって、

 

監督になるかどうか決められていない。

 

なのに、

 

蒼司にだけ答えを求めるなんてできない。

 

「……」

 

言葉が出てこない。

 

蒼司も、黙っている。

 

恋人なのに。

 

一番近くにいるはずなのに。

 

こういうとき、

 

俺は蒼司に何を言えばいいんだ?

 

(……なんでだ?)

 

胸の中で、そんな疑問が浮かんだ。

 

もっと簡単に、

 

「大丈夫だよ」

 

と言ってあげられると思っていた。

 

背中を押してあげられると思っていた。

 

でも今の俺には、

 

その言葉を口にする資格がないような気がした。

 

自分自身が、まだ迷っているからだ。

 

目の前では、蒼司がストローを静かに回している。

 

俺もグラスに視線を落とす。

 

カラン、と氷が鳴った。

 

いつものファミレス。

 

いつもの席。

 

いつもの二人。

 

なのに今日は、

 

お互いがそれぞれの人生の分かれ道に立っているような気がした。

 

 

俺たちは、いつもより早く店を出た。

 

理由は、特になかった。

 

ただ――

 

いつものように話して、

いつものように笑って、

いつものように帰る。

 

そんな時間には、ならなかった。

 

俺は蒼司をマンションまで送っていった。

 

車を停める。

 

「じゃあ、明日学校で」

 

「うん」

 

蒼司がシートベルトを外す。

 

ドアを開けようとしたところで、

 

「カイト」

 

「なに?」

 

蒼司が、少しだけ振り返った。

 

「……お互い、進路、ゆっくり考えよ」

 

「ああ」

 

俺は短く答えた。

 

蒼司は少し間を置いてから、

 

「俺のことはいいから」

 

「自分のこと、優先していいから」

 

「……そうだな」

 

そう答えながら、

 

俺は、その言葉に引っかかった。

 

――俺のことはいいから。

 

なんだろう。

 

その言い方が、

 

妙に遠く感じた。

 

「じゃあ……」

 

蒼司が車を降りる。

 

「うん。じゃあね」

 

「ああ」

 

ドアが閉まる。

 

俺はそのまま車を発進させた。

 

バックミラーに、

 

マンションの前に立つ蒼司の姿が映る。

 

少しずつ、小さくなっていく。

 

俺は、ハンドルを握りながら思った。

 

今日は、こんなはずじゃなかった。

 

蒼司と飯を食べて、

 

監督になるかどうか相談して、

 

蒼司の悩みも聞いて。

 

最後には、

 

「大丈夫だ」って言ってやれると思っていた。

 

でも――

 

何もできなかった。

 

蒼司が悩んでいると知ったのに。

 

恋人なのに。

 

俺は、何ひとつ言葉をかけられなかった。

 

「……俺、蒼司のために何もできてないじゃん」

 

誰もいない車の中で、ぽつりと呟いた。

 

 

 

その頃。

 

蒼司は、マンションのエントランスを抜け、

 

エレベーターを待っていた。

 

さっきまで隣にいたカイトのことを考えていた。

 

――カイト、悩んでたのに。

 

監督になるかどうか。

 

きっと、俺に相談したかったんだ。

 

なのに。

 

俺は自分のことまで話してしまった。

 

「……何やってんだ、俺」

 

小さく呟く。

 

本当なら、

 

今日はカイトの話を聞いてやりたかった。

 

背中を押してやりたかった。

 

少しでも、楽にしてやりたかった。

 

なのに、自分の悩みまで持ち込んでしまった。

 

エレベーターの扉が開く。

 

蒼司は乗り込んだ。

 

閉まる扉を見つめながら、

 

胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 

――ごめん。

 

心の中で、そう呟く。

 

今日、

 

カイトが泊まりに来てほしいって言ってくれたら、

 

きっと俺は喜んでいた。

 

いや。

 

本当は、

 

自分から言いたかった。

 

「今日、泊まっていっていい?」

 

そう言えばよかった。

 

でも――

 

言えなかった。

 

エレベーターが止まり、

 

蒼司はゆっくりと自分の部屋へ向かう。

 

鍵を開ける。

 

静かな部屋に入る。

 

いつもなら、

 

カイトと過ごした時間の余韻が、

 

少し嬉しく残るはずなのに。

 

今日は、

 

胸の奥に小さな後悔だけが残っていた。

 

「……カイト、悩んでたのに」

 

もう一度、呟く。

 

「自分のこと……話さなきゃよかった」

 

そして、

 

誰もいない部屋の中で、

 

蒼司は小さく息を吐いた。

 

「……ごめん」

 

ほんの少しだけ、

 

唇を噛む。

 

本当は――

 

今日、泊まりに行きたかった。

 

でも、その気持ちを、

 

蒼司は口にすることができなかった。

 

 

 

静かな部屋に、鍵を置く音だけが響いた。

 

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