月曜日。
いつもの一日が始まる。
けれど――
俺の中では、昨日から何も決まっていなかった。
監督になるのか。
それとも、今のままでいるのか。
考えれば考えるほど、答えが遠くなっていく。
昼休み。
俺は蒼司と昼飯を食べていた。
「午後、俺は帰るから」
「ああ、わかった」
「カイトは?」
「俺はいつものように練習あるから」
「そっか」
いつもと変わらない会話。
いつもの昼休み。
いつもの蒼司。
蒼司は、昨日のことを引きずっているようには見えなかった。
俺も、なるべく普段通りにしていた。
笑って。
話して。
飯を食って。
それなのに――
どこか、昨日までとは違う。
そんな気がしていた。
午後。
蒼司が帰る時間になった。
「じゃあ、また明日」
「ああ。気をつけてな」
蒼司は軽く手を上げて、校舎を出ていく。
俺はその背中を、しばらく見送った。
そして、体育準備室に戻る。
一人になったところで、
俺はスマホを取り出した。
画面を見る。
竜司……。
昨日のことが、頭をよぎる。
――野球の相談だから。
そうだ。
野球の相談だ。
「蒼司、ごめん」
小さく呟く。
気がついたら、
俺はLINEを開いていた。
「近いうち、会えるか?」
送信。
……やばい。
直球すぎたか?
しばらく画面を見つめる。
ピロリン。
返信が来た。
『いいぜ。なんなら今日でも?』
俺は少し迷ってから、
「じゃあ、今日練習終わってからでもいいか?」
と返した。
すぐに返信が来る。
『ああ。じゃあ飯行こうぜ。
19時過ぎに迎えにいくわ』
「わかった。ありがとう」
送ってしまった。
スマホを伏せる。
胸の奥に、小さな罪悪感が残った。
そして――
野球部の練習が終わる。
俺は着替えを済ませ、校門へ向かった。
すると、見慣れた車が停まっていた。
運転席から、竜司が手を振っている。
俺も軽く手を上げて、助手席に乗り込んだ。
「竜司、悪いな。急に」
「全然」
竜司は笑う。
「むしろ、カイトから誘ってくれて嬉しかった」
「……」
俺は少し戸惑いながらシートベルトを締めた。
「今日、忙しくなかったか?」
「いや、平日はそんな忙しくないし。気にすんな」
「そっか」
「じゃあ、近くの店行くか」
「ああ。じゃあ、ファミレスで」
「いいぜ」
車が走り出す。
俺は窓の外を見ながら、
胸の中に残る蒼司への罪悪感を、そのまま抱えていた。
* * *
学校近くのファミレス。
席に座ってしばらくすると、
竜司がドリンクバーから戻ってきた。
「ほら、カイト」
そう言って、俺の前にグラスを置く。
「これ、昔から好きだろ」
「……よく覚えてるな」
思わず笑ってしまう。
「そりゃ覚えてるよ」
竜司も笑う。
グラスの中身を見ながら、俺はふと、昔のことを思い出した。
「なんか……懐かしいな」
「ああ」
竜司が頷く。
「高校のとき、練習終わりにファミレス寄ったよな」
「そうそう」
俺も笑う。
「部活帰りのファミレス禁止だから、
わざわざ制服に着替えてたりな」
「あったな、そんなこと」
二人で笑う。
その瞬間、胸の奥に、少し不思議な感覚が生まれた。
竜司は――
高校生だった俺を知っている。
野球だけに夢中だった俺を。
練習が終われば腹を空かせて、
くだらないことで笑っていた俺を。
制服に着替えてまで、
こっそりファミレスに入っていた俺を。
そして――
俺自身も、
そんな昔の自分を知っている竜司の前では、
少しだけ昔の自分に戻ってしまう。
食事の間は、昔話に花を咲かせた。
高校時代のこと。
野球部のこと。
練習帰りに、こっそりファミレスに寄ったこと。
くだらない話なのに、
話していると、次から次へと思い出が蘇ってくる。
気がつけば、食事はすっかり終わっていた。
竜司が席を立つ。
しばらくして戻ってくると、俺の前にグラスを置いた。
「ほら」
「……?」
「カフェラテなら飲めるだろ」
「ああ」
俺はグラスを受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
竜司は席に戻ると、俺の顔をじっと見た。
「で、カイト」
「ん?」
「どうした?」
少し間を置いて、竜司が言った。
「何か話あるんだろ?」
「……ああ」
俺はカフェラテに口をつけた。
少し甘い味が、妙に懐かしく感じた。
「実は……」
俺は、監督就任の話をした。
どうして自分に声がかかったのか。
強豪校の監督なんて、自分に務まるのか。
こんな大きな話が、
こんな簡単に決まってしまっていいのか。
そして何より――
自分が選手たちの人生を背負えるのか。
俺は、思っていたことを、一つずつ竜司に話した。
竜司は、意外なほど静かだった。
いつものように冗談を言うこともなく、
途中で口を挟むこともない。
ただ、俺の話を黙って聞いていた。
俺が話し終えると、しばらく沈黙が続いた。
やがて、竜司がゆっくり口を開いた。
「……そっか」
それだけだった。
俺は少し拍子抜けした。
でも、竜司は続けた。
「強豪校の監督じゃあ、
プレッシャーも普通じゃないよな」
「ああ……」
俺はグラスを握った。
「俺が背負えるのかな……」
小さく呟く。
「みんな、野球のために入学してくるんだ……」
「俺の指導で、その選手たちの未来が変わるかもしれな
い。そんなことまで考えたら……怖くなるんだよ」
竜司は、しばらく俺を見ていた。
そして、
ぽつりと言った。
「カイト」
「ん?」
「不安なんだな……」
その言葉が、不思議なくらい、すっと胸の奥に落ちた。
……そうだ。
俺は、不安だったんだ。
監督になれるかどうか。
選手を育てられるかどうか。
強豪校という場所で、結果を出せるのかどうか。
全部が怖かった。
「……」
俺は何も言えなくなった。
すると、竜司が静かに言った。
「じゃあ、やめとくか?」
「……え?」
思わず顔を上げる。
竜司は真っ直ぐ俺を見ていた。
「そんなに迷うなら、
監督になるの、やめるか?」
「……」
俺は言葉を失った。
まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。
「……」
何も答えられない。
すると竜司は、少しだけ笑った。
「お前の答え、もう決まってるんだろ」
「えっ?」
「だって――」
竜司は、俺の目を見た。
「お前、すごいヤツだよ」
「……」
「お前なら、やれる」
俺は黙って竜司を見た。
「高校のときだって、エースの座、譲らなかっただろ」
「あ……」
あの頃のことが、一気に蘇ってきた。
「プレッシャーだって、半端じゃなかったはずだ」
「エースを降りることだってできたんだ。
あの重圧から逃げることだってできた」
竜司の声は、静かだった。
でも、一つ一つの言葉が、まっすぐ胸に入ってくる。
「でも――」
竜司は少しだけ間を置いた。
「あの甲子園……決勝まで、お前は逃げなかった」
「最後まで、投げ切っただろ……」
「……」
俺は、何も言えなかった。
あの日のマウンド。
あの重圧。
あの歓声。
腕が重くなっても、苦しくなっても、
それでも投げ続けた。
竜司は続ける。
「お前は、そういうヤツだよ」
「怖くても、逃げない。不安でも、最後までやる」
そして――
「お前は監督になりたいんだろ?」
その瞬間。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れた。
「ああ……」
声が少し震えた。
「やりたいよ」
「……」
「俺……」
一度、言葉を詰まらせる。
「監督、やりたい」
竜司は、小さく頷いた。
「じゃあ――」
一拍置いて。
「もう迷うな」
「…………」
俺は、何も言えなかった。
ただ、目の前のカフェラテを見つめた。
甘い香りが、静かに鼻を抜けていく。
さっきまで、あれほど重かった胸が、
少しだけ軽くなっていた。
俺はようやく、自分の本当の気持ちを、
自分自身の口から認めることができた。
――俺は、監督になりたい。
「じゃあ、俺たち、監督同士だな」
竜司が笑った。
「そうなるな」
俺も、少しだけ笑う。
不思議だった。
さっきまで胸の中を埋め尽くしていた不安が、少しずつ小さくなっている。
監督になったら――
これまでとは、きっと違う毎日になる。
背負うものも増える。
それでも。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「俺さ……やっぱり野球が好きだ」
「ああ」
竜司が、優しく笑う。
「馬鹿みたいに好きなんだよ」
そう言った瞬間、
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけこみ上げてきた。
視界が滲む。
「……わかってる」
竜司は、それだけ言った。
それ以上、何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
しばらくの間、
俺たちは黙ったまま、席に座っていた。
竜司は静かにコーヒーを飲んでいる。
俺も、残っていたカフェラテに口をつける。
会話がないのに、
なぜか居心地がよかった。
昔からそうだった。無理に言葉を探さなくても、
何となく分かり合える。
そんな時間だった。
やがて、俺たちはファミレスを出た。
外は、少し肌寒かった。
竜司の車に乗り込み、学校近くの宿舎へ向かう。
車内でも、俺たちは多くを話さなかった。
でも、不思議と気まずくはなかった。
やがて、宿舎の前に車が止まる。
「竜司、今日はありがとう」
「ああ、いいって、いいって」
竜司は笑いながら手を振った。
「カイトからのお誘いなら、いつでも歓迎だし」
「……そうか」
「まあ、これからは監督同士だろ」
少し照れくさそうに笑って、
竜司が続ける。
「いろいろ話そうぜ」
「まだ、いきなり監督になるわけじゃないけどな」
「それでもだよ」
竜司は笑った。
俺は車から降りた。
「じゃあな、竜司」
「ああ」
ドアを閉めようとした、そのときだった。
「……カイト」
「ん?」
竜司が、窓を少し開けたまま俺を見る。
「俺たち、今日会ったこと……蒼司に言ったのか?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……いや」
少し言いにくそうに答える。
「今日は、言ってない」
「そっか」
竜司は、なぜか少しだけ安心したように笑った。
そして――
ニヤリと口元を上げる。
「じゃあ、今日のことは……二人だけの秘密な」
「……え?」
俺が返事をするより先に、竜司は窓を閉めた。
エンジンの音が響く。
そのまま、竜司の車はゆっくりと走り出していった。
俺は、その後ろ姿を見送りながら、
しばらくその場に立っていた。
――二人だけの秘密。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
そして俺は、宿舎へ向かって歩き出す。
俺は、監督になる。
静かに、そう心に決めながら。