翌日、火曜日。
野球部の練習は休養日のため、休みだった。
放課後の体育準備室には、いつもより穏やかな空気が流れている。
グラウンドでは、数人の球児が自主練習に励んでいた。
ボールを打つ音が、静かな校舎まで響いてくる。
体育準備室では、青が一人、黙々と事務作業をしていた。
俺はしばらくその様子を眺めてから、声をかけた。
「佐伯、お疲れ。せっかくの休養日なのに、まだ帰らないのか?」
青が顔を上げる。
「はい。ちょっと授業計画が遅れてて」
「そうか」
俺は少し考えてから、続けた。
「なあ、今日ちょっと話せるか?」
その瞬間、
青の表情が変わった。
「えっ……」
一瞬、何かを察したような顔をする。
「わかりました。じゃあ、今から行きましょう」
「えっ?」
俺は思わず笑った。
「残業終わってからでも大丈夫だよ」
「大丈夫です」
青は机の上を片付けながら言う。
「今日、無理にやらなくても大丈夫ですから」
「ああ、そうか」
俺は頷いた。
「じゃあ、どっか飯でも行くか?」
「はい。じゃあ、着替えてきますね」
「おう」
青が立ち上がる。
そして、職員宿舎へ向かっていく。
俺はその背中を見送りながら、ふと思った。
「……ん?」
なんか、妙に嬉しそうじゃないか?
俺も簡単に着替えを済ませ、先に車へ向かう。
車の中で待っていると、
青が宿舎から出てきた。
「お待たせしました」
「おう」
俺は青を見る。
「……なんだ、普段着でいいのに」
青は少し照れたように、
「いや……」
そう言って、自分のジャケットを見る。
「なんか、佐々木先生とプライベートで出かけるの久しぶりなので、つい」
「そっか」
俺は思わず笑った。
「確かに、久しぶりだな」
そして、
「ドライブデート」
俺はニヤリとする。
青が慌てるように言った。
「何言ってるんですか」
「悪い、悪い」
俺は笑った。
「お前の反応、昔から面白くて、つい」
青も、仕方なさそうに笑う。
「やっぱり、敵わないです」
その顔を見ていると、
なんだか懐かしい気持ちになった。
昔の先生と生徒。
いや――
今は同じ学校で働く同僚であり、野球部の仲間だ。
それでも、
こうして二人きりで話していると、
昔の頃のような空気が少しだけ戻ってくる。
俺は、そんな時間を不思議と心地よく感じていた。
「そういえば、岡谷は大丈夫か?」
「ああ、蒼太ですか?」
青が笑う。
「今日は職場の飲み会があるんで。
たぶん、今頃楽しんでますよ」
「そっか」
俺も笑った。
「じゃあ、どこ行く?」
「どこでもいいです」
「じゃあ、近くのファミレスでいいか」
「はい」
俺の車は、そのまま走り出した。
* * *
しばらくして、
学校近くのファミレスに到着した。
駐車場に車を停め、二人で店内に入る。
「いらっしゃいませー」
店員の声が聞こえる。
そして――
俺は足を止めた。
「あっ……」
昨日いた店員だった。
店員も俺の顔を見る。
「あっ、どうぞー」
昨日と同じような笑顔。
俺は、なんとなく気まずくなった。
……昨日、竜司と来たばかりだからな。
まさか二日連続で来ることになるとは。
隣を見る。
青は特に気にしていない様子だった。
「ここ、俺も蒼太とたまに来ますよ」
「そっか」
俺は少しホッとした。
「まあ、あんまり混まないからいいよな」
「はい。落ち着きますし」
案内された席に座る。
メニューを手に取る。
俺は青を見る。
「今日、俺が奢るから好きなの頼めよ」
「えっ、そんな……」
「俺が急に誘ったんだから、気にすんな」
「……はい」
青は少し恐縮しながら、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と笑った。
注文を終える。
ドリンクバーから飲み物を持ってきて、
俺はグラスをテーブルに置いた。
昨日と同じファミレス。
昨日と同じドリンクバー。
けれど――
隣にいる相手は違う。
昨日は竜司だった。
今日は青。
俺は、そのことを少しだけ意識していた。
「佐々木先生」
「ん?」
青が、俺を見る。
「どうしたんですか?」
「ああ……」
俺は一度、言葉を止めた。
昨日のことを思い出す。
竜司に話したこと。
監督就任の話。
そして――
自分が監督になりたいと気づいたこと。
俺は一呼吸置いてから、
口を開いた。
「実はな」
「はい」
「監督が、近々引退するんだ」
青の目が少し見開かれる。
「えっ……」
「それでな」
俺はグラスを握った。
「俺に、監督をやらないかって話が来てる」
「ええっ……!」
青が驚いた声を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「すごいじゃないですか!」
俺は少し笑った。
「それで……」
昨日、竜司と話したことが頭をよぎる。
「いろいろ考えたんだけど」
一度、息を吐く。
「俺、監督やろうと思う」
青は、しばらく黙っていた。
驚いているのか。
何かを考えているのか。
その表情からは、すぐには読み取れなかった。
やがて――
青は、静かに笑った。
「……はい」
そして、
「佐々木先生なら、大丈夫です」
「……」
その言葉に、
俺は少し驚いた。
「本当にそう思うか?」
「思います」
青は迷いなく答えた。
「佐々木先生、選手のことをちゃんと見てるじゃないですか」
「練習中も、選手一人一人のことをよく見てます」
「それに――」
青は少し照れたように笑った。
「俺がコーチとして一緒にやってきて、一番分かってますから」
「……」
胸の奥が、少し熱くなった。
「だから」
青はまっすぐ俺を見る。
「俺、コーチとして精一杯、佐々木先生を支えます」
「……佐伯」
「はい」
「ありがとう」
それしか言えなかった。
青は笑う。
「こちらこそです」
「俺も、佐々木先生と一緒に野球やれるの、楽しみですから」
その言葉を聞いて、
俺はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
昨日、竜司に背中を押してもらった。
そして今日、
青にも背中を支えてもらった。
不思議だった。
一人で悩んでいたときは、あんなに大きく見えた決断が、誰かに気持ちを話すたびに、少しずつ現実になっていく。
俺はグラスを手に取った。
そして、
青に向かって笑った。
「じゃあ――」
「これから、よろしく頼むな」
青も笑った。
「はい!」
その笑顔を見ていると、
監督になるということが、
少しずつ現実味を帯びてきた気がした。
青は、少し遠くを見るような目をしていた。
「……なんか、不思議です」
「えっ?」
「俺、蒼陵高校に入学して……」
青は、少し笑った。
「佐々木コーチから指導を受けて」
「甲子園には、あと一歩届かなかったですけど」
「でも、今はこうして……」
青は俺を見る。
「今度は、佐々木コーチが監督で」
「俺がコーチとして、一緒にいる」
「……そうだな」
俺も、思わず笑った。
「なんだかんだで、長い付き合いだな」
「はい」
青は少し照れたように笑った。
「俺……佐々木先生のこと、もう他人だなんて思ってないですから」
「……」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「今、俺がこうしていられるのも、佐々木先生のおかげだと思ってます」
俺は思わず苦笑した。
「買い被りすぎだよ」
「そんなことないです」
青は、まっすぐ俺を見る。
「俺が野球部のコーチになったのは……」
「ん?」
「佐々木コーチの姿を見ていたからなんですよ」
「……そうなのか?」
「はい」
青は少し照れたように笑った。
「俺も、佐々木コーチみたいになりたくて……」
「……」
俺は、思わず箸を止めた。
「なんだよ。そうなら、もっと早く言ってくれよ」
少し照れくさくなって、俺は笑った。
「なんか……照れるな」
青も笑う。
「佐伯、まだ食べるか?」
「え?」
「デザートも追加するか?」
「はは」
青が声を上げて笑った。
しばらく笑ったあと――
青は、ふっと表情を落ち着かせた。
「……佐々木先生」
「ん?」
「俺、佐々木先生のそういうところ、昔から好きですよ」
「……」
一瞬。
俺は言葉を失った。
青の顔が、少し赤くなったような気がした。
そして、少しだけ笑った。
「佐々木先生……いや」
一呼吸置いて、
「佐々木監督と一緒に、甲子園行きたいです」
「……そうだな」
俺も笑った。
「行きたいな」
その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が熱くなった。
昔、あと一歩届かなかった場所。
今度は、指導者として――
もう一度、目指すことになる。
「でも、俺、すぐに監督になるわけじゃないからな」
「あっ……そうですね」
青が少し目を丸くする。
「ちょっと先走りすぎましたね」
「ははっ」
思わず笑ってしまう。
青も笑った。
「でも……」
青は少しだけ真剣な表情に戻る。
「いつか、本当に一緒に行きましょう」
「ああ」
俺は頷いた。
「そのときは、頼むぞ。佐伯コーチ」
「はい!」
青の返事が、ファミレスに響いた。
その声を聞きながら、
俺は思った。
――監督になる。
昨日までは、まだ迷っていた。
でも今は、
少しずつ、その未来が現実のものとして見えてきていた。
それから、数日後。
俺は、監督に正式に返事をした。
「監督……俺、やります」
そう伝えると、監督は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
そして、少しだけ目を細める。
「佐々木コーチなら、きっとそう言ってくれると信じていたよ」
その言葉を聞いて、俺は改めて実感した。
もう、後戻りはできない。
俺は――
監督になる。
その後、理事長からも正式な承認を受けた。
こうして、俺の監督への道が動き始めた。
空いた時間には、監督から少しずつ引き継ぎを受けた。
チームのこと。
選手たちのこと。
練習方針。
高野連のこと。
これまで知らなかった仕事も多く、思っていた以上に忙しい。
気がつけば、一日が終わっている。
そんな日々を、慌ただしく過ごしていた。
そして――
ゴールデンウィークが明けた。
野球部ミーティング室。
部員全員が集まっている。
いつもとは少し違う空気だった。
前に立った監督が、ゆっくりと部員たちを見渡す。
「今日は、みんなに報告がある」
部員たちの視線が、一斉に監督へ集まる。
監督は、一度息を吸ってから口を開いた。
「俺は、この夏の大会を最後に監督を引退する」
「……」
一瞬。
ミーティング室から音が消えた。
誰も言葉を発しない。
驚きのあまり、部員たちは顔を見合わせている。
「……え?」
「監督が……?」
あちこちから、小さな声が漏れる。
監督は静かに続けた。
「そして、次期監督には――」
そこで一度、俺を見る。
「佐々木コーチが就任することになった」
「……!」
一斉に視線が俺へ向いた。
俺は、少し緊張しながら立っていた。
監督はさらに続ける。
「それに伴い、筆頭コーチは佐伯コーチにお願いする」
青が、少し驚いたように顔を上げた。
「……俺?」
監督が笑う。
「頼むぞ、佐伯」
青は一瞬戸惑ったあと、
「……はい!」
と、大きく頷いた。
その瞬間――
ミーティング室に大きな歓声が上がった。
「うおおお!」
「佐々木コーチが監督!」
「マジか!」
拍手が一斉に響く。
俺は、あまりの反応に少し驚いていた。
「佐々木コーチ、よろしくお願いします!」
「絶対ついていきます!」
「監督の最後の大会、絶対甲子園に行きましょう!」
「行きましょう!」
次々と声が飛んでくる。
俺は、胸が熱くなるのを感じていた。
昨日まで――
俺はずっと考えていた。
自分なんかに監督が務まるのか。
選手たちの人生を背負えるのか。
強豪校の監督として、結果を出せるのか。
怖かった。
不安だった。
でも――
目の前には、俺を待ってくれている選手たちがいる。
そして、
一緒に戦ってくれる青もいる。
俺は、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
「俺も、みんなと一緒に甲子園を目指したい」
「よろしくお願いします!」
また、大きな拍手が起こった。
ミーティング室は、いつまでも熱気に包まれていた。
俺はその光景を見ながら思った。
――昨日までの俺とは、もう違う。
俺は、このチームを背負う。
次期佐々木監督として。
その日の夜。
まだ興奮冷めやらぬまま、俺は宿舎へ戻った。
今日は、蒼司が泊まることになっている。
部屋のドアを開けると、蒼司が笑顔で迎えてくれた。
「カイト、お疲れ」
「疲れたー」
俺はソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「すごかったね」
「ん?」
「外まで野球部の歓声、聞こえてたよ」
「ああ……」
俺は苦笑した。
「ちょっと不安だったけど、みんなが受け入れてくれて安心した」
そして、少しだけ遠くを見る。
「もう……戻れないけどな」
「……」
「俺、覚悟決めたよ」
蒼司は、優しく笑った。
「うん。カイト、頑張ってね」
「ああ」
テーブルの上には、蒼司が買ってきてくれたご馳走が並んでいる。
俺の監督就任を祝ってくれているのだろう。
その光景を見ていると、胸の奥が温かくなった。
「蒼司」
「ん?」
「ごめんな」
「何が?」
「しばらくは忙しくなるから……あまり会う時間、取れなくなると思う」
蒼司は少しだけ笑った。
「大丈夫だよ、カイト」
そして、穏やかな声で続ける。
「今が一番大事なときだから」
「……ありがとう」
俺は、蒼司の言葉に救われた気がした。
食事をしながら、俺はふと思い出した。
「あ、そうだ」
「ん?」
「夏大会が終わったらさ」
「うん」
「俺、正式に監督になるんだ」
「うん」
「だから……その前に夏休み、休暇が取れたら旅行行こうぜ」
蒼司が、少し驚いたように顔を上げる。
「え?」
俺は部屋の壁に飾られた絵を見る。
蒼司が描いた、かぼちゃの絵。
「あの絵」
「……うん」
「前に約束しただろ」
蒼司は、絵を見つめてから小さく笑った。
「うん。行こう」
そして、
「楽しみにしてる」
そう言ってくれた。
俺も笑った。
夏が終わったら、二人で旅行に行く。
それだけで、なんだか未来が楽しみに思えた。
食事を終えたあと、
俺はもう一つ、蒼司に話した。
「あとさ」
「ん?」
「俺、職員宿舎の部屋、移ることになったんだ」
「へえ」
「野球部寮の近くにある、もう少し広い部屋」
「広いの?」
「ああ、ファミリー用の部屋だから、今よりかなり広い」
蒼司が少し驚いた顔をする。
俺は、何気なく続けた。
「だからさ、蒼司も今より気軽に泊まりに来れるし……」
少し笑って、
「なんなら、この際、一緒に住めるかも……」
「……」
蒼司は一瞬、黙った。
けれど、すぐに柔らかく笑った。
「うん。ありがとう」
そして、少しだけ考えるように、
「考えておくよ」
「そっか」
俺は、それ以上深く考えなかった。
蒼司が笑ってくれている。
旅行にも行く。
新しい部屋にも、これまでより気軽に泊まりに来られる。
なんだかんだで――
俺たちは、うまくいっている。
俺は、そう思っていた。
その夜。
蒼司が隣で眠っている。
静かな寝息を聞きながら、俺は天井を見つめていた。
監督になる。
夏には、人生の新しい一歩を踏み出す。
そして、その先には蒼司との旅行もある。
忙しくなるけれど、
俺たちはきっと大丈夫だ。
そう思っていた。
ただ――
一つだけ。
俺は忘れていた。
少し前のファミレスで、蒼司が話してくれたこと。
常勤になるか。
非常勤のままでいるか。
教師としてどう生きるのか。
絵をどう続けていくのか。
蒼司自身が、まだ答えを出せずに悩んでいたこと。
あのとき、俺は確かに聞いていた。
けれど今の俺は――
自分が監督になる喜びと、
これから始まる新しい生活のことで頭がいっぱいになっていた。
蒼司がまだ、自分自身の人生について悩み続けていることを、すっかり忘れてしまっていた。