竜司は、久しぶりに代官山の家へ戻っていた。
ここへ来るのは、いつ以来だろう。
竜司はシーズン中はほとんど帰ることはなかったが、現役時代から、流星が生まれてから暮らしてきた家だった。
けれど今となっては、残っているのは数少ない私物だけだ。必要なものは、すでに岩槻の家へ運び込んである。
今日は、置き去りにしていた荷物を整理するためだった。
玄関を開ける。
懐かしい匂いがした。
それでも、胸に浮かんだのは懐かしさより、妙な空白だった。
リビングへ入ると、妻がいた。
久しぶりに顔を合わせる。
その隣には、弁護士が座っていた。
「……久しぶりね」
「ああ」
それ以上、続かなかった。
かつては、この家で何度も笑い合った。食卓を囲み、仕事の話をして、流星の成長を喜んだ。
それなのに今、二人の間にあるのは、言葉にできない沈黙だけだった。
テーブルの上には、書類が並べられている。
その中に、離婚届があった。
本来なら、流星が大学を卒業してから――。
二人の間では、そういう話になっていた。
少なくとも、竜司はそう思っていた。
だから、妻から離婚を切り出されたときも、驚きはしたが、取り乱すことはなかった。
「……どうして、今なんだ?」
問いかけてから、竜司は自分の声が思ったより低いことに気づいた。
妻はすぐには答えなかった。
責めるつもりはなかった。
けれど、言葉は思ったより硬く出た。
妻は一度、目を伏せた。
それから、逃げるようにではなく、覚悟を決めるように顔を上げる。
「……一緒になりたい人がいるの」
その言葉を聞いた瞬間、竜司の胸の奥で何かが引っかかった。
聞いたことのある言葉だった。
いや――。
正確には、似た言葉を自分が言ったことがある。
ずっと昔。
海斗に対して。
まだ自分が若く、プロの世界での成功が見え始めていた頃。海斗と別れることを決めた、あの日。
俺は言った。
――俺、結婚するから。
あのときの海斗の顔が、突然、頭に浮かんだ。
「……そうなんだ」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
妻の唇が、わずかに動く。
何か言おうとしたのかもしれない。
けれど、言葉にはならなかった。
竜司も、それ以上は聞かなかった。
まるで、自分が昔吐いた言葉が、何年もの時間を越えて返ってきたような気がした。
予兆がなかったわけではない。
妻は以前から仕事が忙しかった。
帰宅する時間も遅くなり、家にいる時間も少なくなっていた。
それでも竜司は、深く考えないようにしていた。
仕事が大変なんだろう。
そう思っていた。
そう思いたかった。
聞きかけて、竜司は一度、口を閉じた。
妻がこちらを見る。
「それ以上聞かないの?」
「聞いて、どうなる。
どうにもならないと思う。……なら、いい」
短い会話のあと、また沈黙が落ちた。
本当に、それだけだったのか。
今となっては分からない。
だが、そこを追及する気にもなれなかった。
弁護士を交え、離婚に伴う財産の整理が進められていった。
代官山の家は、夫婦の共有財産になっている。
竜司は売却して、その代金を分けることを提案した。
もう、この家に戻ってくるつもりはなかった。
「俺は、手放していいと思ってる」
妻はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向けたまま、しばらく黙っている。
「……私は、この家を手放したくない」
「そうか」
「ここで、流星を育てたから……」
その言葉に、竜司は返事をしなかった。
長い時間をかけて話し合った結果、
妻が竜司の持ち分を買い取ることで話がまとまった。
決して安い金額ではない。
けれど、妻にはそれを支払えるだけの資産があった。
その他の共有財産については、必要なものをそれぞれが引き取り、売却できるものは処分したうえで、残った財産を二人で分けることになった。
慰謝料についても話し合われた。
離婚の原因が妻の交際にあることは、二人とも認識していた。
弁護士が確認するように竜司を見る。
「慰謝料については、請求されますか」
竜司は、すぐには答えなかった。
妻の横顔が視界の端にある。
怒りがないわけではない。
傷ついていないわけでもない。
それでも、ここで金額を決めたところで、失った時間が戻るわけではなかった。
「……請求しません」
妻が顔を上げる。
「あなた……」
「その話は、もういい」
「でも」
「流星の親として、これからも関わるんだろ」
妻は言葉を飲み込んだ。
竜司も、それ以上は続けなかった。
妻を責め、金銭を受け取ったところで、何かが元に戻るわけではない。
これから先も流星の親として関わっていく相手を、憎しみだけで縛りたくはなかった。
その代わり、流星の親権は竜司が持つことで決着した。
流星の養育に必要な費用については、これまでと同じように二人で負担していく。
進学や将来の進路など、流星に関わる大切なことについては、これからも二人で話し合う。
そして、離婚したあとも、流星のために家族として一緒に過ごす時間は残す。
形は変わっても、親であることまで終わるわけではない。
そこだけは、二人の間ですぐに意見が一致した。
すべての手続きが終わった。
弁護士が書類を確認し、静かに席を立つ。
「それでは、
あとはお二人でご確認ください」
竜司は短く頭を下げた。
妻も同じように頭を下げる。
弁護士が部屋を出ていく。
ドアが閉まる音がして、部屋には竜司と妻だけが残った。
妻が小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
竜司は黙っていた。
何に対する礼なのか、聞かなくても分かる気がした。
慰謝料のことか。
この家のことか。
それとも、最後まで声を荒らげなかったことか。
どれも違うようで、どれも同じようだった。
妻はしばらく黙っていた。
やがて、ためらうように口を開く。
「最後まで……私のこと、好きでいてくれた?」
竜司は答えられなかった。
すぐには、言葉が出てこなかった。
出会った頃は、確かに好きだった。
一緒にいることが嬉しかった。
自分が苦しいときには支えてくれた。
野球しか知らなかった自分に、家庭というものを教えてくれた。
流星が生まれたときは、二人で泣いた。
あの頃の気持ちが嘘だったとは思わない。
けれど――。
それを「愛していた」と、今の自分は胸を張って言えるのだろうか。
妻は答えを待っていた。
竜司は、何度か口を開きかけた。
『好きだった』
そう言えばいいのかもしれない。
けれど、その言葉だけでは足りない気がした。
『愛していた』と言うには、胸の奥に残るものが少なすぎた。
妻を失った悲しみなのか。
家族を失った寂しさなのか。
それとも、長い時間を共にした相手との関係が終わることへの喪失感なのか。
もう、竜司には分からなかった。
「……答えられない」
ようやくそう言うと、妻は目を伏せた。
「そう……」
責める声ではなかった。
だからこそ、竜司の胸に残った。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分もまた、誰かを傷つけてここまで来た。
海斗に、
――俺、結婚するから。
そう告げたあの日。
あの言葉を口にしたとき、自分は海斗がどれほど傷つくのかを、本当には考えていなかったのかもしれない。
そして今。
同じような言葉を、自分が受け取った。
「……ごめんな」
妻が顔を上げる。
「何であなたが謝るの?」
竜司は答えなかった。
妻に対してなのか。
海斗に対してなのか。
それとも、あの頃の自分自身に対してなのか。
竜司にも分からなかった。
妻はそれ以上、聞かなかった。
長い結婚生活の中で、聞かないほうがいいことを、二人はいつの間にか知っていた。
竜司も、もう何も言わなかった。
しばらくして、妻が書類へ目を落とす。
「これで、本当に終わりね」
「……ああ」
竜司は妻を見た。
胸の奥には、責める言葉も、問いただしたいことも残っていた。
けれど、それを口にすれば、二人が積み重ねてきた時間まで、すべて憎しみに変わってしまう気がした。
「……今まで、ありがとう」
妻の目が揺れた。
竜司は、言葉を探すように一度息を吐いた。
「流星のことは、これからも一緒に考えよう」
「……うん」
「それから」
竜司はそこで言葉を止めた。
幸せになれ。
そう言おうとして、喉の奥で飲み込む。
そんな資格が自分にあるのか、分からなかった。
それでも、最後には口にした。
「幸せになってくれ」
妻はしばらく黙っていた。
やがて、目を伏せる。
「……あなたも」
その声は、かすかに震えていた。
竜司は返事をしなかった。
返せば、何かが崩れそうだった。
竜司は家をあとにする。
代官山の街は、何も変わらない。
人が歩き、車が走り、いつもと同じように時間が流れている。
けれど、自分の中では何かが確実に終わっていた。
そして同時に――。
ずっと閉じたままだった何かが、少しだけ動き始めているような気がした。
竜司は、少し離れたところから家を見た。
大きな家だった。
プロ野球選手として成功した自分の、ひとつの象徴でもあった。
それが今、自分の手から離れていく。
竜司は、しばらくその家を見つめていた。
そして、小さく呟いた。
「……あっけないもんだな」
長い年月をかけて築いてきたものが、終わるときは、こんなにも静かだった。
竜司は歩き出した。
もう、その家を振り返ることはなかった。
その数日後。
弁護士から連絡が入った。
離婚届が受理され、正式に離婚が成立したという。
そして、妻からの振り込みも確認された。
思っていたより、早かった。
妻に資金的な余裕があったのか。
それとも――。
俺との関係を、一日でも早く精算したかったのか。
それは、もう分からない。
竜司はスマホを取り出し、自分の口座を確認した。
表示された金額を見れば、決して小さな額ではない。
これから収入が少なくなる自分にとっては、正直、かなりありがたい金額だった。
けれど。
何も感じなかった。
数字がそこに表示されている。
ただ、それだけだった。
竜司はスマホの画面を閉じた。
ふと、最後に交わした会話を思い出す。
――幸せになってくれ。
そう言った自分に、妻は、
――あなたも。
と答えた。
あのとき、妻は気づいていたのだろうか。
俺が、本当は何を思っていたのか。
妻は、俺の高校時代のことをほとんど聞かなかった。
埼玉で過ごした頃のことも。
俺の実家にも、あまり来たがらなかった。
今までは、単純に興味がないだけだと思っていた。
けれど――。
もしかしたら。
何かを感じ取っていたのだろうか。
俺が話さなかった、あの頃のことを。
海斗のことを。
竜司はしばらく黙っていた。
けれど、もう確かめることはできない。
「……分からないな」
小さく呟く。
それ以上、考えるのをやめた。
もう、終わったことだ。
竜司はスマホをポケットにしまった。