蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第22章 返ってきた言葉

 

竜司は、久しぶりに代官山の家へ戻っていた。

 

ここへ来るのは、いつ以来だろう。

 

竜司はシーズン中はほとんど帰ることはなかったが、現役時代から、流星が生まれてから暮らしてきた家だった。

 

けれど今となっては、残っているのは数少ない私物だけだ。必要なものは、すでに岩槻の家へ運び込んである。

 

今日は、置き去りにしていた荷物を整理するためだった。

 

玄関を開ける。

 

懐かしい匂いがした。

 

それでも、胸に浮かんだのは懐かしさより、妙な空白だった。

 

リビングへ入ると、妻がいた。

 

久しぶりに顔を合わせる。

 

その隣には、弁護士が座っていた。

 

「……久しぶりね」

 

「ああ」

 

それ以上、続かなかった。

 

かつては、この家で何度も笑い合った。食卓を囲み、仕事の話をして、流星の成長を喜んだ。

 

それなのに今、二人の間にあるのは、言葉にできない沈黙だけだった。

 

テーブルの上には、書類が並べられている。

 

その中に、離婚届があった。

 

本来なら、流星が大学を卒業してから――。

 

二人の間では、そういう話になっていた。

 

少なくとも、竜司はそう思っていた。

 

だから、妻から離婚を切り出されたときも、驚きはしたが、取り乱すことはなかった。

 

「……どうして、今なんだ?」

 

問いかけてから、竜司は自分の声が思ったより低いことに気づいた。

 

妻はすぐには答えなかった。

 

責めるつもりはなかった。

 

けれど、言葉は思ったより硬く出た。

 

妻は一度、目を伏せた。

 

それから、逃げるようにではなく、覚悟を決めるように顔を上げる。

 

「……一緒になりたい人がいるの」

 

その言葉を聞いた瞬間、竜司の胸の奥で何かが引っかかった。

 

聞いたことのある言葉だった。

 

いや――。

 

正確には、似た言葉を自分が言ったことがある。

 

ずっと昔。

 

海斗に対して。

 

まだ自分が若く、プロの世界での成功が見え始めていた頃。海斗と別れることを決めた、あの日。

 

俺は言った。

 

――俺、結婚するから。

 

あのときの海斗の顔が、突然、頭に浮かんだ。

 

「……そうなんだ」

 

ようやく出てきたのは、それだけだった。

 

妻の唇が、わずかに動く。

 

何か言おうとしたのかもしれない。

 

けれど、言葉にはならなかった。

 

竜司も、それ以上は聞かなかった。

 

まるで、自分が昔吐いた言葉が、何年もの時間を越えて返ってきたような気がした。

 

予兆がなかったわけではない。

 

妻は以前から仕事が忙しかった。

 

帰宅する時間も遅くなり、家にいる時間も少なくなっていた。

 

それでも竜司は、深く考えないようにしていた。

 

仕事が大変なんだろう。

 

そう思っていた。

 

そう思いたかった。

 

 

 

聞きかけて、竜司は一度、口を閉じた。

 

妻がこちらを見る。

 

「それ以上聞かないの?」

 

「聞いて、どうなる。

 

 どうにもならないと思う。……なら、いい」

 

短い会話のあと、また沈黙が落ちた。

 

本当に、それだけだったのか。

 

今となっては分からない。

 

だが、そこを追及する気にもなれなかった。

 

弁護士を交え、離婚に伴う財産の整理が進められていった。

 

代官山の家は、夫婦の共有財産になっている。

 

竜司は売却して、その代金を分けることを提案した。

 

もう、この家に戻ってくるつもりはなかった。

 

「俺は、手放していいと思ってる」

 

妻はすぐには答えなかった。

 

窓の外へ目を向けたまま、しばらく黙っている。

 

「……私は、この家を手放したくない」

 

「そうか」

 

「ここで、流星を育てたから……」

 

その言葉に、竜司は返事をしなかった。

 

 

 

長い時間をかけて話し合った結果、

 

妻が竜司の持ち分を買い取ることで話がまとまった。

 

決して安い金額ではない。

 

けれど、妻にはそれを支払えるだけの資産があった。

 

その他の共有財産については、必要なものをそれぞれが引き取り、売却できるものは処分したうえで、残った財産を二人で分けることになった。

 

慰謝料についても話し合われた。

 

離婚の原因が妻の交際にあることは、二人とも認識していた。

 

弁護士が確認するように竜司を見る。

 

「慰謝料については、請求されますか」

 

竜司は、すぐには答えなかった。

 

妻の横顔が視界の端にある。

 

怒りがないわけではない。

 

傷ついていないわけでもない。

 

それでも、ここで金額を決めたところで、失った時間が戻るわけではなかった。

 

「……請求しません」

 

妻が顔を上げる。

 

「あなた……」

 

「その話は、もういい」

 

「でも」

 

「流星の親として、これからも関わるんだろ」

 

妻は言葉を飲み込んだ。

 

竜司も、それ以上は続けなかった。

 

妻を責め、金銭を受け取ったところで、何かが元に戻るわけではない。

 

これから先も流星の親として関わっていく相手を、憎しみだけで縛りたくはなかった。

 

その代わり、流星の親権は竜司が持つことで決着した。

 

流星の養育に必要な費用については、これまでと同じように二人で負担していく。

 

進学や将来の進路など、流星に関わる大切なことについては、これからも二人で話し合う。

 

そして、離婚したあとも、流星のために家族として一緒に過ごす時間は残す。

 

形は変わっても、親であることまで終わるわけではない。

 

そこだけは、二人の間ですぐに意見が一致した。

 

 

 

すべての手続きが終わった。

 

弁護士が書類を確認し、静かに席を立つ。

 

「それでは、

 

あとはお二人でご確認ください」

 

竜司は短く頭を下げた。

 

妻も同じように頭を下げる。

 

弁護士が部屋を出ていく。

 

ドアが閉まる音がして、部屋には竜司と妻だけが残った。

 

妻が小さく息を吐いた。

 

「……ありがとう」

 

竜司は黙っていた。

 

何に対する礼なのか、聞かなくても分かる気がした。

 

慰謝料のことか。

 

この家のことか。

 

それとも、最後まで声を荒らげなかったことか。

 

どれも違うようで、どれも同じようだった。

 

妻はしばらく黙っていた。

 

やがて、ためらうように口を開く。

 

「最後まで……私のこと、好きでいてくれた?」

 

竜司は答えられなかった。

 

すぐには、言葉が出てこなかった。

 

出会った頃は、確かに好きだった。

 

一緒にいることが嬉しかった。

 

自分が苦しいときには支えてくれた。

 

野球しか知らなかった自分に、家庭というものを教えてくれた。

 

流星が生まれたときは、二人で泣いた。

 

あの頃の気持ちが嘘だったとは思わない。

 

けれど――。

 

それを「愛していた」と、今の自分は胸を張って言えるのだろうか。

 

妻は答えを待っていた。

 

竜司は、何度か口を開きかけた。

 

『好きだった』

 

そう言えばいいのかもしれない。

 

けれど、その言葉だけでは足りない気がした。

 

『愛していた』と言うには、胸の奥に残るものが少なすぎた。

 

妻を失った悲しみなのか。

 

家族を失った寂しさなのか。

 

それとも、長い時間を共にした相手との関係が終わることへの喪失感なのか。

 

もう、竜司には分からなかった。

 

「……答えられない」

 

ようやくそう言うと、妻は目を伏せた。

 

「そう……」

 

責める声ではなかった。

 

だからこそ、竜司の胸に残った。

 

ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

自分もまた、誰かを傷つけてここまで来た。

 

海斗に、

 

――俺、結婚するから。

 

そう告げたあの日。

 

あの言葉を口にしたとき、自分は海斗がどれほど傷つくのかを、本当には考えていなかったのかもしれない。

 

そして今。

 

同じような言葉を、自分が受け取った。

 

「……ごめんな」

 

妻が顔を上げる。

 

「何であなたが謝るの?」

 

竜司は答えなかった。

 

妻に対してなのか。

 

海斗に対してなのか。

 

それとも、あの頃の自分自身に対してなのか。

 

竜司にも分からなかった。

 

妻はそれ以上、聞かなかった。

 

長い結婚生活の中で、聞かないほうがいいことを、二人はいつの間にか知っていた。

 

竜司も、もう何も言わなかった。

 

しばらくして、妻が書類へ目を落とす。

 

「これで、本当に終わりね」

 

「……ああ」

 

竜司は妻を見た。

 

胸の奥には、責める言葉も、問いただしたいことも残っていた。

 

けれど、それを口にすれば、二人が積み重ねてきた時間まで、すべて憎しみに変わってしまう気がした。

 

「……今まで、ありがとう」

 

妻の目が揺れた。

 

竜司は、言葉を探すように一度息を吐いた。

 

「流星のことは、これからも一緒に考えよう」

 

「……うん」

 

「それから」

 

竜司はそこで言葉を止めた。

 

幸せになれ。

 

そう言おうとして、喉の奥で飲み込む。

 

そんな資格が自分にあるのか、分からなかった。

 

それでも、最後には口にした。

 

「幸せになってくれ」

 

妻はしばらく黙っていた。

 

やがて、目を伏せる。

 

「……あなたも」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

竜司は返事をしなかった。

 

返せば、何かが崩れそうだった。

 

 

 

竜司は家をあとにする。

 

代官山の街は、何も変わらない。

 

人が歩き、車が走り、いつもと同じように時間が流れている。

 

けれど、自分の中では何かが確実に終わっていた。

 

そして同時に――。

 

ずっと閉じたままだった何かが、少しだけ動き始めているような気がした。

 

 

 

竜司は、少し離れたところから家を見た。

 

大きな家だった。

 

プロ野球選手として成功した自分の、ひとつの象徴でもあった。

 

それが今、自分の手から離れていく。

 

竜司は、しばらくその家を見つめていた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「……あっけないもんだな」

 

長い年月をかけて築いてきたものが、終わるときは、こんなにも静かだった。

 

竜司は歩き出した。

 

もう、その家を振り返ることはなかった。

 

 

その数日後。

 

弁護士から連絡が入った。

 

離婚届が受理され、正式に離婚が成立したという。

 

そして、妻からの振り込みも確認された。

 

思っていたより、早かった。

 

妻に資金的な余裕があったのか。

 

それとも――。

 

俺との関係を、一日でも早く精算したかったのか。

 

それは、もう分からない。

 

竜司はスマホを取り出し、自分の口座を確認した。

 

表示された金額を見れば、決して小さな額ではない。

 

これから収入が少なくなる自分にとっては、正直、かなりありがたい金額だった。

 

けれど。

 

何も感じなかった。

 

数字がそこに表示されている。

 

ただ、それだけだった。

 

竜司はスマホの画面を閉じた。

 

ふと、最後に交わした会話を思い出す。

 

――幸せになってくれ。

 

そう言った自分に、妻は、

 

――あなたも。

 

と答えた。

 

あのとき、妻は気づいていたのだろうか。

 

俺が、本当は何を思っていたのか。

 

妻は、俺の高校時代のことをほとんど聞かなかった。

 

埼玉で過ごした頃のことも。

 

俺の実家にも、あまり来たがらなかった。

 

今までは、単純に興味がないだけだと思っていた。

 

けれど――。

 

もしかしたら。

 

何かを感じ取っていたのだろうか。

 

俺が話さなかった、あの頃のことを。

 

海斗のことを。

 

竜司はしばらく黙っていた。

 

けれど、もう確かめることはできない。

 

「……分からないな」

 

小さく呟く。

 

それ以上、考えるのをやめた。

 

もう、終わったことだ。

 

竜司はスマホをポケットにしまった。

 

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