六月。
夏の大会を目前に控え、野球部の士気は、いまだかつてないほど高まっていた。
今年の夏は、特別だった。
監督にとって、最後の夏。
長年、この学校の野球部を率いてきた監督が、夏の大会を最後に退任する。
だからこそ、誰もが思っていた。
――甲子園に行く。
絶対に、監督を甲子園へ連れていく。
練習中の選手たちの声にも、いつも以上の気迫がこもっていた。
「もう一球!」
「はい!」
「今の球、最後まで腕振れ!」
「はい!」
俺自身も、自然と指導に熱が入っていた。
お世話になった監督の最後の夏。
俺にできることは、少しでもチームを強くすることだった。
「佐々木コーチ、ちょっといいか?」
練習が終わり、片付けをしていると監督から声をかけられた。
「はい」
「悪いんだが、これ、秋からの引き継ぎ用の資料の追加な、目を通しておいてくれ」
「わかりました」
「それと、高野連の資料なんだが――」
「はい」
気がつけば、練習が終わってからも監督室にいる時間が増えていた。
選手のことだけじゃない。
大会の手続き。
他校との調整。
保護者への連絡。
遠征の予定。
予算。
来年度の部員募集。
監督という仕事が、こんなにも多くのことを背負っているとは思わなかった。
「……監督って、大変ですね」
思わずそう漏らすと、監督は笑った。
「今さら気づいたか?」
「はい。正直、もっと野球だけやってればいいのかと思ってました」
「ははっ。監督は野球以外の仕事のほうが多いくらいだ」
「ですよね……」
そんな毎日を過ごしているうちに、宿舎はほとんど寝るだけの場所になっていた。
朝起きて学校へ行く。
練習をして、練習が終われば監督室。
気がつけば夜。
宿舎に戻る頃には、もう何も考えたくない。
シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。
そんな日々が続いていた。
久しぶりの休日。
俺は久しぶりに実家へ帰った。
「ただいま」
「おかえり、海斗」
玄関を開けると、母さんが嬉しそうに顔を出した。
「正月以来じゃない」
「うん。なかなか帰ってこられなくて」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
リビングに入ると、父さんが新聞を畳んだ。
「おう。久しぶりだな」
「父さんも元気そうだね」
「海斗に言われたくないな」
「なんで?」
「お前、顔が疲れてるぞ」
「……やっぱり?」
母さんが笑った。
「最近、野球ばっかりなんでしょ?」
「まあね」
俺は少し間を置いてから、二人に向き直った。
「それでさ、二人に報告があるんだ」
「何?」
「秋から、正式に監督をやることになった」
一瞬、二人とも黙った。
そして――
「……本当に?」
母さんの顔がぱっと明るくなった。
「すごいじゃない!」
父さんも嬉しそうに頷いた。
「そうか……。お前が高校野球の監督か」
母さんが笑いながら言った。
「海斗は本当に野球一筋ね」
「……まあ、そうかも」
母さんは少しだけ俺の顔を見つめた。
「……でも、海斗がそれで幸せならいいわ」
その言葉に、俺は少しだけ戸惑った。
昔なら、きっとそのあとに続く言葉があった。
――結婚は?
――いい人はいないの?
でも、今日は何も言われなかった。
両親も、もう分かっているのだろう。
俺が、誰かと結婚するつもりがないことを。
半ば諦めたような、そんな空気すらあった。
「……ありがと」
「何よ、急に」
「いや」
俺は笑った。
本当は、いつか話さなければならないと思っていた。
蒼司とのこと。
俺が誰を好きなのか。
そして、これからどう生きていくつもりなのか。
両親には、ちゃんと自分の口から伝えたい。
でも――
今日は、その日じゃない。
そう心の中で思った。
昼食を食べ少し実家でゆっくりしたあと、俺は帰ることにした。
蒼司と竜司の実家の近くのほうへ。
「……」
なんとなく足がそちらへ向いた。
すると――
「ん?」
家の前に、足場が組まれている。
ブルーシートが張られ、資材も置かれていた。
「……すごいな」
本格的な工事が始まるらしい。
そのときだった。
足場の向こうに、人影が見えた。
「あれ……」
見覚えのある姿。
「……竜司?」
俺は思わず声をかけた。
「おい、竜司!」
男が振り返る。
「……あ?」
そして、俺を見るなり目を丸くした。
「カイト?」
「やっぱり竜司だ」
「どうしたんだよ、こんなところで」
「実家に帰っててさ。その帰り」
俺は家を見上げた。
「それより……すごいな、この家」
竜司が苦笑する。
「ああ。もうすぐリフォーム工事が始まるからな」
「リフォームっていうレベルか、これ?」
「だろ?」
竜司は足場を見上げた。
「増築もするし、中もかなり変える。ほとんど建て替えみたいなもんだよ」
「へえ……」
「本格的に工事が始まったら、しばらくは両親とウィークリーマンション暮らしだな」
「大変だな」
「まあ、そのくらいは仕方ないだろ」
竜司らしい。
決めたら、行動が早い。
「竜司って、やっぱり行動早いよな」
「そうか?」
「俺だったら、まず半年くらい悩む」
「カイトが慎重すぎるんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
二人で笑った。
「でも、完成したらさ」
竜司が家を見ながら言った。
「蒼司と一緒に家に来いよ」
俺は少しだけ驚いた。
「……わかった」
「絶対来いよ」
「あぁ」
少しだけ沈黙が流れる。
俺は気になっていたことを口にした。
「蒼司は……なんか言ってた?」
「ああ」
竜司は頷いた。
「何回か連絡したんだけどな」
「うん」
「結局、『兄貴の好きにしていいから』だって」
「……そっか」
蒼司らしい。
あいつは昔から、そういうところがある。
自分の意見を押しつけることはしない。
「蒼司らしいな」
「だろ?」
竜司が笑う。
「じゃあ、せっかくだし、なんか食べに行かね?」
「え?」
「近くに新しい店できたんだよ」
「あ……」
俺は少し困った顔をした。
「ごめん。さっき実家で食べてきた」
「そっか……」
「でも、付き合うよ」
「ほんとか?」
「うん」
「よし。じゃあ近くのところ行こうぜ」
俺たちは歩いて、近くのカフェへ入った。
席に座り、俺は飲み物だけを注文する。
「……なんか、こうやって二人で昼からいるのは久しぶりだな」
竜司が言った。
「そうだな」
「最近どうだ?……新監督の引き継ぎ」
「ああ……」
俺は苦笑した。
「思ってた以上に雑用が多くてさ」
「だろ?」
「監督って、大変なんだな」
「そうだろ。なんでこんなことまで監督がやるんだ、って仕事が山ほどあるからな」
「本当に」
俺はため息をついた。
「最近、監督を尊敬する気持ちがさらに強くなったよ」
「だな」
竜司が笑う。
「でも、カイトは甲子園常連校だろ?」
「うん」
「俺の比じゃないと思うぞ。忙しさ」
「……だよな」
「選手も多いし、学校との調整もある。保護者会との付き合いもあるし大変だろ」
「そうなんだよ」
俺は苦笑した。
「最近、監督室にいる時間が長すぎてさ。宿舎なんて、本当に寝るだけ」
「無理してないか?」
「……まあ、多少は」
竜司は俺の顔をじっと見た。
「でもさ」
「ん?」
「なんか思ってたより、大丈夫そうだな」
「え?」
「監督になるの」
俺は少し考えた。
「……まあな」
「前はもっと迷ってただろ」
「そうだったな」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
そして、静かに言った。
「やるって決めた以上、逃げないって決めたから」
竜司は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「そっか」
「うん」
「なら、大丈夫だな」
竜司は笑った。
「監督になったカイト、早く見てみたいと思ってな」
「そんなに期待するなよ」
「期待するだろ」
「プレッシャーかけるなって」
「ははは」
俺も笑った。
竜司は、しばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。
さっきまでとは、明らかに様子が違う。
視線を何度か店内に向ける。
周囲を気にするように、ちらり、ちらりと辺りを見回している。
「……?」
俺は何となく気になった。
「どうした?」
「……あのさぁ」
「なに?」
竜司は一度、言葉を飲み込んだ。
そして、少しだけ声を落とした。
「俺さ」
「うん」
「離婚した」
「……へ?」
思わず声が裏返った。
「……離婚?」
「ああ」
「え、なんで?」
俺は思わず身を乗り出した。
「確か……もっと先の予定って言ってなかったか?」
「そうだったんだけど」
竜司は、少しだけ視線を落とした。
「前倒しになった」
「……」
「一応、ちゃんと話し合ったよ」
「……」
「お互い納得した……」
淡々とした言い方だった。
まるで、もう何度も自分の中で整理したことを話しているようだった。
「そう……なんだ」
俺は、それ以上何も言えなかった。
何で?
どうして急に?
何があった?
聞きたいことはいくらでも浮かんだ。
でも――
どこまで踏み込んでいいのか分からない。
夫婦のことだ。
俺が聞いていい話なのか。
それに、竜司自身が詳しく話そうとしていない。
だから、俺は黙った。
竜司も、しばらく何も言わなかった。
店内に流れる音楽だけが、妙に耳に入ってくる。
やがて竜司が口を開いた。
「それもあってさ」
「……うん」
「リフォームも前倒しにした」
「そうだったのか」
「ああ」
竜司は窓の外へ目を向けた。
「流星のために、ちゃんと帰れる家を用意してあげたいし」
「……」
「流星に、不自由な思いはさせたくなくてさ」
その言葉だけは、迷いがなかった。
「そっか」
俺は小さく頷いた。
竜司は、父親なんだ。
何があっても、流星のことだけは最優先にする。
それは、以前から変わらない。
むしろ今は、その気持ちがさらに強くなっているように見えた。
「……まあ、いろいろあるけどな」
竜司が苦笑した。
「俺が決めたことだから」
「うん」
「流星にも、ちゃんと説明した」
「……流星くんは?」
「最初は驚いてたよ」
「そうだよな」
「でも、最後は何も言わずに頷いてた」
竜司は少しだけ笑った。
「子供って、思ってる以上にいろんなこと分かってるんだな」
「……そうかもな」
俺はカップに残ったコーヒーを見つめた。
流星の顔が浮かんだ。
あの子にとって、これからこの家が新しい生活の場所になる。
そう思うと、なんとも言えない気持ちになった。
「……あっ」
竜司が腕時計を見る。
「もうこんな時間だな」
俺も時計を見る。
「ほんとだ」
「帰ろうか?」
「ああ」
俺たちは席を立った。
会計を済ませ、店を出る。
外へ出ると、昼間の陽射しが少しだけ傾いていた。
「じゃあな」
俺は車に乗り込む。
ドアを閉めようとした、そのとき。
「カイト」
竜司に呼び止められた。
「なに?」
振り返る。
竜司は、いつものような笑顔ではなかった。
何か言いたそうにも見える。
けれど――
「……」
一瞬、俺は身構えた。
何を言われるんだろう。
そう思った。
だが、竜司が口にしたのは、たった一言だった。
「……気をつけてな」
「……ああ、またな」
俺はそれだけ答えた。
車のエンジンをかける。
ゆっくりと車を発進させる。
バックミラーを見ると、竜司がまだそこに立っていた。
「……」
俺は何となくアクセルを踏む足を緩めた。
竜司は動かない。
ただ、俺の車を見送っている。
俺が角を曲がるまで。
姿が見えなくなるまで。
ずっと。
「……竜司」
小さく呟く。
離婚した。
家をリフォームする。
流星のために帰れる場所を作る。
そして――
俺に「気をつけてな」と言った。
でも、きっと何か違うことを、言おうとしてた。
何かが変わってゆく。
そんな気がした。
ただ、それが何なのか。
このときの俺には、まだ分からなかった。