蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第23章 帰る場所

 

 

六月。

 

夏の大会を目前に控え、野球部の士気は、いまだかつてないほど高まっていた。

 

今年の夏は、特別だった。

 

監督にとって、最後の夏。

 

長年、この学校の野球部を率いてきた監督が、夏の大会を最後に退任する。

 

だからこそ、誰もが思っていた。

 

――甲子園に行く。

 

絶対に、監督を甲子園へ連れていく。

 

練習中の選手たちの声にも、いつも以上の気迫がこもっていた。

 

「もう一球!」

 

「はい!」

 

「今の球、最後まで腕振れ!」

 

「はい!」

 

俺自身も、自然と指導に熱が入っていた。

 

お世話になった監督の最後の夏。

 

俺にできることは、少しでもチームを強くすることだった。

 

「佐々木コーチ、ちょっといいか?」

 

練習が終わり、片付けをしていると監督から声をかけられた。

 

「はい」

 

「悪いんだが、これ、秋からの引き継ぎ用の資料の追加な、目を通しておいてくれ」

 

「わかりました」

 

「それと、高野連の資料なんだが――」

 

「はい」

 

気がつけば、練習が終わってからも監督室にいる時間が増えていた。

 

選手のことだけじゃない。

 

大会の手続き。

 

他校との調整。

 

保護者への連絡。

 

遠征の予定。

 

予算。

 

来年度の部員募集。

 

監督という仕事が、こんなにも多くのことを背負っているとは思わなかった。

 

「……監督って、大変ですね」

 

思わずそう漏らすと、監督は笑った。

 

「今さら気づいたか?」

 

「はい。正直、もっと野球だけやってればいいのかと思ってました」

 

「ははっ。監督は野球以外の仕事のほうが多いくらいだ」

 

「ですよね……」

 

そんな毎日を過ごしているうちに、宿舎はほとんど寝るだけの場所になっていた。

 

朝起きて学校へ行く。

 

練習をして、練習が終われば監督室。

 

気がつけば夜。

 

宿舎に戻る頃には、もう何も考えたくない。

 

シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。

 

そんな日々が続いていた。

 

 

 

久しぶりの休日。

 

俺は久しぶりに実家へ帰った。

 

「ただいま」

 

「おかえり、海斗」

 

玄関を開けると、母さんが嬉しそうに顔を出した。

 

「正月以来じゃない」

 

「うん。なかなか帰ってこられなくて」

 

「ちゃんと食べてる?」

 

「食べてるよ」

 

リビングに入ると、父さんが新聞を畳んだ。

 

「おう。久しぶりだな」

 

「父さんも元気そうだね」

 

「海斗に言われたくないな」

 

「なんで?」

 

「お前、顔が疲れてるぞ」

 

「……やっぱり?」

 

母さんが笑った。

 

「最近、野球ばっかりなんでしょ?」

 

「まあね」

 

俺は少し間を置いてから、二人に向き直った。

 

「それでさ、二人に報告があるんだ」

 

「何?」

 

「秋から、正式に監督をやることになった」

 

一瞬、二人とも黙った。

 

そして――

 

「……本当に?」

 

母さんの顔がぱっと明るくなった。

 

「すごいじゃない!」

 

父さんも嬉しそうに頷いた。

 

「そうか……。お前が高校野球の監督か」

 

母さんが笑いながら言った。

 

「海斗は本当に野球一筋ね」

 

「……まあ、そうかも」

 

母さんは少しだけ俺の顔を見つめた。

 

「……でも、海斗がそれで幸せならいいわ」

 

その言葉に、俺は少しだけ戸惑った。

 

昔なら、きっとそのあとに続く言葉があった。

 

――結婚は?

 

――いい人はいないの?

 

でも、今日は何も言われなかった。

 

両親も、もう分かっているのだろう。

 

俺が、誰かと結婚するつもりがないことを。

 

半ば諦めたような、そんな空気すらあった。

 

「……ありがと」

 

「何よ、急に」

 

「いや」

 

俺は笑った。

 

本当は、いつか話さなければならないと思っていた。

 

蒼司とのこと。

 

俺が誰を好きなのか。

 

そして、これからどう生きていくつもりなのか。

 

両親には、ちゃんと自分の口から伝えたい。

 

でも――

 

今日は、その日じゃない。

 

そう心の中で思った。

 

昼食を食べ少し実家でゆっくりしたあと、俺は帰ることにした。

 

 

 

蒼司と竜司の実家の近くのほうへ。

 

「……」

 

なんとなく足がそちらへ向いた。

 

すると――

 

「ん?」

 

家の前に、足場が組まれている。

 

ブルーシートが張られ、資材も置かれていた。

 

「……すごいな」

 

本格的な工事が始まるらしい。

 

そのときだった。

 

足場の向こうに、人影が見えた。

 

「あれ……」

 

見覚えのある姿。

 

「……竜司?」

 

俺は思わず声をかけた。

 

「おい、竜司!」

 

男が振り返る。

 

「……あ?」

 

そして、俺を見るなり目を丸くした。

 

「カイト?」

 

「やっぱり竜司だ」

 

「どうしたんだよ、こんなところで」

 

「実家に帰っててさ。その帰り」

 

俺は家を見上げた。

 

「それより……すごいな、この家」

 

竜司が苦笑する。

 

「ああ。もうすぐリフォーム工事が始まるからな」

 

「リフォームっていうレベルか、これ?」

 

「だろ?」

 

竜司は足場を見上げた。

 

「増築もするし、中もかなり変える。ほとんど建て替えみたいなもんだよ」

 

「へえ……」

 

「本格的に工事が始まったら、しばらくは両親とウィークリーマンション暮らしだな」

 

「大変だな」

 

「まあ、そのくらいは仕方ないだろ」

 

竜司らしい。

 

決めたら、行動が早い。

 

「竜司って、やっぱり行動早いよな」

 

「そうか?」

 

「俺だったら、まず半年くらい悩む」

 

「カイトが慎重すぎるんだよ」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

二人で笑った。

 

「でも、完成したらさ」

 

竜司が家を見ながら言った。

 

「蒼司と一緒に家に来いよ」

 

俺は少しだけ驚いた。

 

「……わかった」

 

「絶対来いよ」

 

「あぁ」

 

少しだけ沈黙が流れる。

 

俺は気になっていたことを口にした。

 

「蒼司は……なんか言ってた?」

 

「ああ」

 

竜司は頷いた。

 

「何回か連絡したんだけどな」

 

「うん」

 

「結局、『兄貴の好きにしていいから』だって」

 

「……そっか」

 

蒼司らしい。

 

あいつは昔から、そういうところがある。

 

自分の意見を押しつけることはしない。

 

「蒼司らしいな」

 

「だろ?」

 

竜司が笑う。

 

「じゃあ、せっかくだし、なんか食べに行かね?」

 

「え?」

 

「近くに新しい店できたんだよ」

 

「あ……」

 

俺は少し困った顔をした。

 

「ごめん。さっき実家で食べてきた」

 

「そっか……」

 

「でも、付き合うよ」

 

「ほんとか?」

 

「うん」

 

「よし。じゃあ近くのところ行こうぜ」

 

俺たちは歩いて、近くのカフェへ入った。

 

席に座り、俺は飲み物だけを注文する。

 

「……なんか、こうやって二人で昼からいるのは久しぶりだな」

 

竜司が言った。

 

「そうだな」

 

「最近どうだ?……新監督の引き継ぎ」

 

「ああ……」

 

俺は苦笑した。

 

「思ってた以上に雑用が多くてさ」

 

「だろ?」

 

「監督って、大変なんだな」

 

「そうだろ。なんでこんなことまで監督がやるんだ、って仕事が山ほどあるからな」

 

「本当に」

 

俺はため息をついた。

 

「最近、監督を尊敬する気持ちがさらに強くなったよ」

 

「だな」

 

竜司が笑う。

 

「でも、カイトは甲子園常連校だろ?」

 

「うん」

 

「俺の比じゃないと思うぞ。忙しさ」

 

「……だよな」

 

「選手も多いし、学校との調整もある。保護者会との付き合いもあるし大変だろ」

 

「そうなんだよ」

 

俺は苦笑した。

 

「最近、監督室にいる時間が長すぎてさ。宿舎なんて、本当に寝るだけ」

 

「無理してないか?」

 

「……まあ、多少は」

 

竜司は俺の顔をじっと見た。

 

「でもさ」

 

「ん?」

 

「なんか思ってたより、大丈夫そうだな」

 

「え?」

 

「監督になるの」

 

俺は少し考えた。

 

「……まあな」

 

「前はもっと迷ってただろ」

 

「そうだったな」

 

俺はコーヒーを一口飲んだ。

 

そして、静かに言った。

 

「やるって決めた以上、逃げないって決めたから」

 

竜司は何も言わなかった。

 

ただ、少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

「うん」

 

「なら、大丈夫だな」

 

竜司は笑った。

 

「監督になったカイト、早く見てみたいと思ってな」

 

「そんなに期待するなよ」

 

「期待するだろ」

 

「プレッシャーかけるなって」

 

「ははは」

 

俺も笑った。

 

竜司は、しばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。

 

さっきまでとは、明らかに様子が違う。

 

視線を何度か店内に向ける。

 

周囲を気にするように、ちらり、ちらりと辺りを見回している。

 

「……?」

 

俺は何となく気になった。

 

「どうした?」

 

「……あのさぁ」

 

「なに?」

 

竜司は一度、言葉を飲み込んだ。

 

そして、少しだけ声を落とした。

 

「俺さ」

 

「うん」

 

「離婚した」

 

「……へ?」

 

思わず声が裏返った。

 

「……離婚?」

 

「ああ」

 

「え、なんで?」

 

俺は思わず身を乗り出した。

 

「確か……もっと先の予定って言ってなかったか?」

 

「そうだったんだけど」

 

竜司は、少しだけ視線を落とした。

 

「前倒しになった」

 

「……」

 

「一応、ちゃんと話し合ったよ」

 

「……」

 

「お互い納得した……」

 

淡々とした言い方だった。

 

まるで、もう何度も自分の中で整理したことを話しているようだった。

 

「そう……なんだ」

 

俺は、それ以上何も言えなかった。

 

何で?

 

どうして急に?

 

何があった?

 

聞きたいことはいくらでも浮かんだ。

 

でも――

 

どこまで踏み込んでいいのか分からない。

 

夫婦のことだ。

 

俺が聞いていい話なのか。

 

それに、竜司自身が詳しく話そうとしていない。

 

だから、俺は黙った。

 

竜司も、しばらく何も言わなかった。

 

店内に流れる音楽だけが、妙に耳に入ってくる。

 

やがて竜司が口を開いた。

 

「それもあってさ」

 

「……うん」

 

「リフォームも前倒しにした」

 

「そうだったのか」

 

「ああ」

 

竜司は窓の外へ目を向けた。

 

「流星のために、ちゃんと帰れる家を用意してあげたいし」

 

「……」

 

「流星に、不自由な思いはさせたくなくてさ」

 

その言葉だけは、迷いがなかった。

 

「そっか」

 

俺は小さく頷いた。

 

竜司は、父親なんだ。

 

何があっても、流星のことだけは最優先にする。

 

それは、以前から変わらない。

 

むしろ今は、その気持ちがさらに強くなっているように見えた。

 

「……まあ、いろいろあるけどな」

 

竜司が苦笑した。

 

「俺が決めたことだから」

 

「うん」

 

「流星にも、ちゃんと説明した」

 

「……流星くんは?」

 

「最初は驚いてたよ」

 

「そうだよな」

 

「でも、最後は何も言わずに頷いてた」

 

竜司は少しだけ笑った。

 

「子供って、思ってる以上にいろんなこと分かってるんだな」

 

「……そうかもな」

 

俺はカップに残ったコーヒーを見つめた。

 

流星の顔が浮かんだ。

 

あの子にとって、これからこの家が新しい生活の場所になる。

 

そう思うと、なんとも言えない気持ちになった。

 

「……あっ」

 

竜司が腕時計を見る。

 

「もうこんな時間だな」

 

俺も時計を見る。

 

「ほんとだ」

 

「帰ろうか?」

 

「ああ」

 

俺たちは席を立った。

 

会計を済ませ、店を出る。

 

外へ出ると、昼間の陽射しが少しだけ傾いていた。

 

「じゃあな」

 

俺は車に乗り込む。

 

ドアを閉めようとした、そのとき。

 

「カイト」

 

竜司に呼び止められた。

 

「なに?」

 

振り返る。

 

竜司は、いつものような笑顔ではなかった。

 

何か言いたそうにも見える。

 

けれど――

 

「……」

 

一瞬、俺は身構えた。

 

何を言われるんだろう。

 

そう思った。

 

だが、竜司が口にしたのは、たった一言だった。

 

「……気をつけてな」

 

「……ああ、またな」

 

俺はそれだけ答えた。

 

車のエンジンをかける。

 

ゆっくりと車を発進させる。

 

バックミラーを見ると、竜司がまだそこに立っていた。

 

「……」

 

俺は何となくアクセルを踏む足を緩めた。

 

竜司は動かない。

 

ただ、俺の車を見送っている。

 

俺が角を曲がるまで。

 

姿が見えなくなるまで。

 

ずっと。

 

「……竜司」

 

小さく呟く。

 

離婚した。

 

家をリフォームする。

 

流星のために帰れる場所を作る。

 

そして――

 

俺に「気をつけてな」と言った。

 

でも、きっと何か違うことを、言おうとしてた。

 

何かが変わってゆく。

 

そんな気がした。

 

ただ、それが何なのか。

 

このときの俺には、まだ分からなかった。

 

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