蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

25 / 25
25球 最後の夏

 

七月の初め。

 

現監督にとって、最後の夏大会が、いよいよ目前に迫っていた。

 

この大会が終われば、監督は引退する。

 

そして秋からは――俺が監督になる。

 

その時は、もうすぐそこまで来ていた。

 

時間は、刻一刻と迫っている。

 

二十一時。

 

野球部寮のミーティング室。

 

夏大会の対戦相手の分析から、現在のチームの課題、選手一人ひとりの状態まで、一通りの確認を終えた。

 

部員たちはすでに解散している。

 

それでも俺と青は残って、資料の整理や大会関連の残務処理を続けていた。

 

時計を見る。

 

もうすぐ二十二時だった。

 

「……あっ」

 

隣でパソコンを操作していた青が、ふと時計を見た。

 

「もう消灯時間ですね」

 

「そうだな」

 

俺は書類から顔を上げる。

 

「佐伯、もう先に上がってくれ」

 

「でも……」

「俺もあと十分くらいで終わるからさ」

 

青は少し迷ったあと、苦笑した。

 

「……分かりました」

 

そして椅子から立ち上がる。

 

「じゃあ、お先に失礼します」

 

「ああ。お疲れ」

 

「佐々木先生も、あまり遅くならないでくださいね」

 

「分かってるよ」

 

そう言ったものの、自分でも守れる気がしなかった。

 

結局、俺が宿舎の自室に戻ったのは、二十二時半を過ぎてからだった。

 

「……今日も遅くなったな」

 

部屋に入るなり、俺は大きく息を吐いた。

 

上着を脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。

 

そのまま、ふう、とため息をついて横になる。

 

「疲れた……」

 

天井をぼんやり眺めていると――

 

突然、枕元に置いたスマホが鳴った。

 

「……ん?」

 

画面を見る。

 

蒼司か?

 

そう思って手に取ったが、表示されていた名前は違った。

 

「松本……?」

 

少し意外だった。

 

こんな時間に何だろう。

 

俺は通話ボタンを押した。

 

「もしもし」

 

『あっ、海斗。お疲れ』

 

開口一番、妙に元気な声が飛び込んできた。

 

「……お疲れ」

 

『遅くに悪いな』

 

「いや、大丈夫。久しぶりだな」

 

『だよな。最近全然会えてないもんな』

 

「そうだな」

 

『海斗、忙しそうだし』

 

「まあ……今はちょっとな。それで? どうしたんだ?」

 

『どうしたじゃないよ』

 

「え?」

 

『海斗、岡谷くんから聞いたんだけど一一』

 

そこで松本が一拍置いた。

 

『夏の休暇、四国行くんだろ?』

 

「……あっ」

 

一瞬、眠気が吹き飛んだ。

 

「いや、行けたらの話だけどな」

 

『やっぱりそうなんだ!』

 

「え?」

 

『俺も一緒に行かないかって誘われたんだよ』

 

「……え?」

 

思わず身体を起こした。

 

「松ちゃんも?」

 

『そう!』

 

電話越しでも分かるくらい、松本の声は弾んでいる。

 

『いやー、最初聞いたときはびっくりしたけどさ』

 

「……」

 

『なんか、最初は海斗から持ち上がった話なんだって?』

 

「まあ……計画自体は、そうだけど」

 

『で、海斗が「みんなで行ったら楽しいんじゃないか」って言ってたって聞いて』

 

「……いや」

 

俺は眉をひそめた。

 

「俺、そんなこと言ってないぞ」

 

『え?』

 

「確かに四国旅行の計画はしたけど……岡谷を誘ったのは蒼司だよ」

 

『えっ!?』

 

今度は松本が驚いた。

 

『蒼司くんが!?』

 

「ああ」

 

『なんで!?』

 

「……なんでって言われても」

 

俺にも分からない。

 

『いやいや、だって俺、てっきり海斗が「みんなで行こうぜ!」って盛り上がってるのかと思ってた』

 

「いやいや、そんなこと言ってないから」

 

『そっか……なんか話、噛み合ってないよな?』

 

「……だな」

 

俺は天井を見上げた。

 

旅行の話をしているだけなのに、どうにも妙なことになっている。

 

すると、松本が突然、

 

『あと、海斗』

 

「ん?」

 

『もう一個聞きたいことあるんだけど』

 

「なに?」

 

少し間が空いた。

 

『海斗、監督になるんだって?』

 

「……ああ」

 

一瞬、返事に詰まった。

 

「秋からだけどな」

 

『やっぱり!』

 

「……」

 

『なんで俺に言ってないんだよ!』

 

「いや、言おうとは思ってたんだけど……」

 

『だって監督になるんだろ!? すげえ話じゃん!』

 

「いや、まあ……」

 

『しかも秋からって、もうすぐじゃん!』

 

「分かってるよ」

 

『……海斗、また一人で抱え込んでるだろ』

 

「……」

 

図星だった。

 

「否定はしない」

 

『だろ?』

 

松本の声が、少しだけ真面目になる。

 

『お前さ、昔からそうなんだよ』

 

「……」

 

『自分で何でもやろうとするだろ』

 

「……まあな」

 

『だから、とにかく近いうちに会って話そうぜ』

 

「え?」

 

『監督のことも、旅行のことも』

 

「いや、でも……」

 

『ん?』

 

「今ちょっと忙しくて。すぐは無理かもしれない」

 

『じゃあ俺、そっち行くわ』

 

「……え?」

 

思わず聞き返した。

 

『週末なら少しくらい時間取れるだろ?』

 

「……たぶん」

 

『またLINEするわ。じゃ、おやすみ!』

 

「……ああ」

 

『海斗もちゃんと寝ろよ』

 

「分かってるって」

 

『じゃあな』

 

通話が切れた。

 

「……」

 

俺はスマホを見つめたまま、しばらく固まっていた。

 

「……なんか賑やかだったな、あいつ」

 

思わず笑ってしまう。

 

久しぶりに話したと思ったら、こっちの都合などお構いなしに話をどんどん進めていく。

 

でも――

 

不思議と嫌ではなかった。

 

むしろ、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。

 

「……週末か」

 

俺はもう一度ベッドに身体を沈めた。

 

監督になること。

 

四国旅行のこと。

 

そして――

 

蒼司が岡谷を誘った理由。

 

頭の中に、いくつものことが浮かんでは消えていく。

 

「……忙しいな、ほんと」

 

苦笑しながら、俺は目を閉じた。

 

*

 

次の日曜日、夕方。

 

俺は近くのファミレスで、松本と待ち合わせをしていた。

 

「いらっしゃいませ」

 

店員が俺の顔を見るなり、すぐに笑顔になった。

 

「あっ、どうぞー」

 

「……しっかり覚えられてるな」

 

思わず苦笑する。

 

そのまま店内を見渡すと、窓際の席に松本が座っていた。

 

「松ちゃん、お待たせ」

 

「おう。休日も忙しそうだな」

 

俺は向かいの席に腰を下ろした。

 

注文を済ませると、俺たちはそれぞれの近況を話し始めた。

 

仕事のこと。

野球部のこと。

そして、これからのこと。

 

しばらく話していた松本が、ふっと息を吐いた。

 

「……海斗、最近いろいろありすぎだな」

 

松本は苦笑した。

 

「ともかく、監督内定おめでとう」

 

「ありがとう」

 

「慣れるまで大変だろうけど、お前なら大丈夫だろ」

 

「そう言ってもらえると助かるよ」

 

「俺、そんなに心配してないけどな」

 

「なんだよ、それ」

 

俺が笑うと、松本も笑った。

 

少しして、松本がストローを弄びながら言った。

 

「それから……旅行の件だけど」

 

「ああ」

 

「松ちゃんまで声かかってるなんて、驚いたよ」

 

「職場で岡谷くんに誘われてな」

 

「そうだったのか」

 

「海斗に事情、聞いた方がいいと思ってさ」

 

「俺も詳しいことはよく分かってないんだけど……」

 

「なんか岡谷と蒼司でやり取りしてるみたいだな」

 

「そう。いろいろ調べたりしてるみたい」

 

「そうか」

 

松本は頷いた。

 

「俺も最近忙しくて、蒼司とゆっくりできなくてさ」

 

「蒼司くんも忙しいんだろ?」

 

「そうだな」

 

俺は少し考えてから、続けた。

 

「最近、ちょっとすれ違い気味っていうか。だから、旅行くらいはゆっくりできればいいなって思ってる」

 

「……蒼司くん、不安なんじゃね?」

 

「え?」

 

俺は顔を上げた。

 

「なんで?」

 

松本は少し黙ってから、俺を見る。

 

「竜司のことだよ」

 

「……」

 

その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。

 

「まさか離婚したとはな」

 

松本は驚いたように首を振る。

 

「これもビッグニュースだな」

 

「松ちゃん……」

 

「ん?」

 

「ここだけにしといてくれよ」

 

「わかってるよ」

 

松本は軽く手を上げた。

 

「誰にも言わない」

 

「頼むよ」

 

「でもさ」

 

松本は少しだけ声を落とした。

 

「蒼司くん、もしかしたら……海斗が竜司に取られるんじゃねえかって、心配してるんじゃないか?」

 

「……そうかな?」

 

「もし俺なら、気になるけどな」

 

「でも、俺は蒼司と付き合ってるし」

 

俺ははっきりと言った。

 

「今さら、竜司とは……」

 

そこまで言って、言葉が止まった。

 

松本がじっと俺を見ている。

 

「……そうか?」

 

「え?」

 

「なあ、海斗」

 

松本の声が少し低くなった。

 

「……」

 

俺は松本の言葉を遮るように、小さく息を吐いた。

 

「わかってる」

 

「……何が?」

 

「松ちゃんが言いたいこと」

 

俺は窓の外へ視線を向けた。

 

夕暮れの街を、人が行き交っている。

 

「俺だって……何も感じてないわけじゃない」

 

松本は何も言わなかった。

 

「でも、俺には蒼司がいる」

 

自分に言い聞かせるように、もう一度口にする。

 

「だから、大丈夫だよ」

 

そう言った俺に、松本はそれ以上何も聞かなかった。

 

ただ、少しだけ複雑そうな顔をしていた。

 

「なぁ、海斗」

 

「ん?」

 

松本が、真っすぐ俺を見る。

 

「竜司のこと……本当はどう思ってる?」

 

「え?」

 

一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。

 

「表面上はさ」

 

松本はゆっくりと言葉を続ける。

 

「もう問題ないじゃん」

 

「……何が?」

 

「竜司は埼玉に帰ってきた」

 

「……」

 

「こっちで仕事も見つけた」

 

俺は黙ったまま、松本の話を聞いていた。

 

「そして、離婚もした」

 

「……」

 

言葉が出なかった。

 

松本はそんな俺を見ながら、静かに言った。

 

「また竜司と付き合っても、問題ないじゃん」

 

「……松ちゃん、エグいな」

 

思わず苦笑した。

 

でも、胸の奥は笑っていなかった。

 

「竜司には子どもいるし」

 

「でも、その息子の流星くんか?」

 

「……ああ」

 

「海斗に、懐いてるみたいじゃん」

 

「まあ……そうだな」

 

「話聞くかぎり、竜司は海斗を相当意識してる気がするな」

 

「そんな……気のせいだよ」

 

自分でも驚くほど、早く否定していた。

 

松本は少し黙った。

 

そして、

 

「……竜司はもう、先の未来を見据えてるんじゃねえかな」

 

「え?」

 

「その先に、お前がいるんじゃね?」

 

俺の手が、わずかに震えた。

 

テーブルの上に置いていた指先が、震えている。

 

「……そんな」

 

声がうまく出なかった。

 

「でも、俺は……」

 

そこまで言ったところで、松本が口を閉じた。

 

「……悪い」

 

「え?」

 

「海斗を困らせたいわけじゃないんだ……」

 

松本は視線を落とした。

 

俺も何も言えなかった。

 

しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

 

やがて俺は、ぽつりと言った。

 

「……今は野球に集中したいんだ」

 

「そうだな」

 

松本もそれ以上は追及しなかった。

 

少し空気が軽くなったところで、俺は話題を変えた。

 

「旅行だけど……もし行くなら、俺も行くわ」

 

「へっ、そうか?」

 

「いやか?」

 

「そんなことない」

 

松本が笑った。

 

「相方と一緒に行っていいって、岡谷くん言ってたし」

 

「岡谷……」

 

俺は呆れたように息を吐いた。

 

「勝手に話進めすぎだろ」

 

「まあ、いいじゃん」

 

「じゃあ、前田さんもいいって?」

 

「ああ。最初はびっくりしてたけど」

 

松本は少し笑った。

 

「『こんな機会、一生に一度かもしれないし、いいかな』って」

 

「そうか」

 

「じゃあ、マジでグループ旅行になりそうだな」

 

「だな」

 

松本が俺を見る。

 

「本当は蒼司くんと、二人が良かったんだろ?」

 

「まあ……そのつもりだったからな」

 

「だよな」

 

「でも、グループ旅行でもいいよ」

 

俺は笑った。

 

「楽しそうだし」

 

「海斗はもともと集団行動好きだもんな」

 

「そうだな」

 

俺も笑った。

 

けれど――

 

さっきまで震えていた指先の感覚だけは、なかなか消えなかった。

 

松本が、ぽつりと言った。

 

「まあ、俺はさ」

 

「ん?」

 

「海斗が幸せになれるのが、一番いいと思ってるよ」

 

「……」

 

俺は何も言わなかった。

 

松本は、それ以上何も言わなかった。

 

俺はふと考えた。

 

――俺の幸せって、何なんだろう。

 

蒼司と一緒にいること。

 

それは間違いなく幸せだ。

 

でも――。

 

竜司と過ごした時間も、俺にとって大切なものだった。

 

今でも竜司のことを考えると、胸の奥がざわつく。

 

それが何を意味しているのか、自分でも分からなかった。

 

「……まあ、難しいよな」

 

松本が言った。

 

「うん」

 

俺は小さく頷いた。

 

それから、しばらく沈黙が続いた。

 

でも、不思議とその沈黙は居心地が悪くなかった。

 

無理に言葉を探す必要もない。

 

ただ、同じテーブルを挟んで、二人で静かに時間を過ごしていた。

 

窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。

 

俺はぼんやりと外を眺めながら、もう一度考えた。

 

――俺にとって、本当の幸せって何なんだろう。

 

 

* 

 

 

そして――。

 

埼玉県、夏の県大会が始まった。

 

蒼陵高校は、順調に勝ち進んでいった。

 

一つ勝つ。

 

また一つ勝つ。

 

そして、ついに決勝まで勝ち上がった。

 

あと一つ。

 

勝てば、二年連続の甲子園出場だった。

 

スタンドは、異様な熱気に包まれていた。

 

俺もベンチから、選手たちの戦いを見つめていた。

 

そして、迎えた九回裏。

 

スコアは――3対2。

 

こちらが一点リードしている。

 

二死、走者は三塁

 

あとアウト一つを取れば、甲子園だ。

 

俺は息を詰めてグラウンドを見つめた。

 

最終打者が打席に入る。

 

監督がベンチからサインを送った。

 

投手が頷く。

 

そして――。

 

一球。

 

カキーンッ!

 

「……!」

 

打球は大きく右中間へ飛んでいった。

 

俺は立ち上がった。

 

外野手が懸命に追う。

 

だが――届かない。

 

「……入った」

 

サヨナラ。

 

3対4。

 

俺たちは、逆転サヨナラ負けを喫した。

 

二年連続の甲子園出場は、そこで途絶えた。

 

歓喜に沸く相手チーム。

 

一方、俺たちのベンチは静まり返っていた。

 

誰も言葉を発しなかった。

 

ただ、選手たちのすすり泣く声だけが聞こえていた。

 

そして――。

 

監督にとって、最後の夏が終わった。

 

俺は、グラウンドを見つめながら、最後の瞬間を目に焼き付けていた。

 

監督が送った、あのサイン。

 

もし、あのサインが違っていたら。

 

もし、別の球種を選択していたら。

 

もしかしたら、サヨナラ負けを防げていたのかもしれない。

 

もちろん、結果論だ。

 

監督だけの責任じゃない。

 

選手が打たれた。

 

相手が打った。

 

野球は、そういうスポーツだ。

 

それでも――。

 

俺は改めて感じていた。

 

監督という仕事の責任。

 

そして、その重圧を。

 

たった一つのサインで、試合の結果が変わる。

 

その判断をするのは、ベンチにいる監督だ。

 

選手たちの人生さえ、左右してしまうことがある。

 

俺は静かに拳を握った。

 

「……次は、俺がやるんだ」

 

もう、コーチとしてではない。

 

次の試合から――。

 

俺が監督として、このチームを率いる。

 

今までとは、見る景色が違う。

 

背負うものも、きっと違う。

 

俺はもう一度、グラウンドを見つめた。

 

 

 

俺たちの夏は、終わった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。