八月。
蒼陵高校は、夏の県大会決勝で惜しくも敗れた。
二年連続の甲子園出場は、叶わなかった。
でも、主力の選手の多くは残っている。
試合内容にも、確かな手応えがあった。
――来年春の選抜は、十分に射程圏内だ。
そう、誰もが感じていた。
大会が終わり、野球部には束の間のオフが与えられた。
張り詰めていた時間が、ようやく緩む。
グラウンドから少し距離を置くことを、
俺たちは許された。
その休みを利用して、俺たちは、
以前から約束していた計画を実行することにした。
目的地は――
香川県・直島。
そして、小豆島。
あの夏の終わりに、俺たちは、グラウンドではない場所へ向かう。
それぞれが、それぞれの想いを抱えたまま。
*
出発の日。
俺は午前中、職員室にこもり、
たまっていた事務作業に取りかかった。
書類を一つ片づけるたびに、肩の奥に溜まっていたものが、少しずつ抜けていく。
――ようやく、めどが立ってきたか。
去年の夏は、甲子園遠征で、結局ほとんど休みらしい休みがなかった。
帰ってからも、グラウンドと宿舎を往復するだけの毎日だった。
だからこそ、今年は違う。
(……今年は、思いっきり休みを満喫するぜ)
誰に聞かせるでもなく、
小さくそう呟いて、俺はペンを置いた。
このあと待っているのは、
久しぶりの、何も考えなくていい時間だ。
俺は部屋に戻り、
前夜から用意してあった荷物を手に取った。
着替えは最低限。
あと、スマホの充電器。
大げさな旅じゃない。
でも、だからこそ、必要なものだけを詰めた。
玄関で靴を履きながら、スマホが震える。
蒼司からのLINEだった。
「ごめん、ちょっと遅れる。先に東京駅に行ってて」
画面を見て、思わず小さく笑う。
(あいつらしいな)
「わかった。じゃあ先に行っておく」
そう打って送信すると、スマホをポケットにしまった。
ドアを閉め、階段を下りる。
外に出ると、朝の空気はまだ少しだけ涼しくて、
夏の終わりを感じさせた。
駅までの道を歩きながら、
これから始まる数日間のことを、ぼんやり考える。
野球のことから、少し距離を置く時間。
蒼司と、他愛のない話をする時間。
それだけで、十分だった。
改札を抜け、ホームに立つ。
ほどなくして、東京方面の電車が滑り込んできた。
ドアが開き、俺は車内へ乗り込む。
平日の昼前。
通勤ラッシュを過ぎた車内は、
ほどよく空いていて、座席もいくつか空いている。
窓際に腰を下ろし、発車を待つ。
――この電車は、上野東京ライン 熱海行きです。
アナウンスが流れ、電車はゆっくりと動き出した。
流れていく街並みを眺めながら、俺は深く背もたれに身を預ける。
これから先、何が起きるかなんて、まだわからない。
でも――悪い予感は、ひとつもなかった。
ただ、少しだけ胸の奥が軽くなっていくのを感じながら、電車は、東京へ向かって走り続けていた。
*
東京駅に到着する。
ドアが開いた瞬間、空気が変わった。
大きなスーツケースを転がす音。
行き先を急ぐ人の足音。
構内アナウンスが、少し反響して聞こえる。
ホームには、旅行者と出張帰りが入り混じっていて、その雑多さが、否応なく「東京駅だ」と思わせる。
(ああ、やっぱりここは特別だな)
そんなことを考えながら、
俺は人の流れに身を任せて歩き出した。
そのとき。
「海斗!」
背後から、聞き覚えのある声が飛んでくる。
振り返ると、そこにいたのは松本だった。
肩から大きめのリュックを提げ、
少し汗をかいた顔で立っている。
「海斗、同じ電車だったんだな」
「ああ、松ちゃん」
自然と、そう呼んでいた。
今回の旅行は、松本も同行することになっている。
ただ、こうして偶然同じ電車だったのは、
少し意外だった。
松本とこうして旅行をするのは、
キャンプを除けば――修学旅行以来だ。
そう思うと、どこか懐かしい。
「松ちゃん、前田さん、残念だったな。
一緒に行けなくて」
俺がそう言うと、松本は苦笑いを浮かべた。
「まあな、急だったからな、おやじさん、最近体調悪いって言ってたから」
松本が、少し声を落として言った。
「そっか」
それ以上、深くは聞かない。
聞かなくても、なんとなく察せる。
「で、前田さんは?」
俺がそう尋ねると、松本は一瞬だけ視線を逸らした。
「ああ、実家に帰ってる、葬式があるからな」
短く、それだけ。
「……そっか」
しばらく、言葉が途切れる。
人の流れに乗って歩きながら、
俺たちは自然と、少しゆっくりになっていた。
「まあ、俺だけ旅行行くのも、
正直ちょっと気が引けるけどな」
松本は苦笑いを浮かべて、そう言った。
「でも、あいつの両親には、会ったこともないし‥‥」
「一緒に住んでるってことも、付き合ってることも、多分話してないだろうしな」
松本の声は、淡々としている。
でも、その裏にある距離感は、痛いほどわかった。
「そっか」
改札の表示板を見上げながら、俺は呟く。
「結構、付き合い長いんだろ?」
「ああ、長い、10年以上だな、でもさ……」
松本は一度言葉を切ってから、肩をすくめた。
「しょうがないじゃん、俺たちってさ、なかなか親に話したりとか、しないだろ」
「……まあな」
それは、言い訳でもあり、
同時に、どうしようもない現実でもあった。
言わないわけじゃない。
言えないわけでもない。
ただ――
タイミングが、いつも後回しになるだけだ。
改札へ向かう途中、
東京駅の天井が高く広がっているのが目に入った。
人は多いのに、それぞれが、どこか一人で。
(……俺たちも、同じか)
そう思いながら、俺は歩き続けた。
「海斗、ごめんな、旅行前にさ」
松本が、少し申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。
「なんか、こんな……しんみりとさせちゃって」
「ううん」
俺は小さく首を振り。
「そんなことないよ」
そう答えると、松本はほっとしたように息を吐いた。
「まあ、あいつもさ……気にせず旅行を楽しんでこい、って言ってくれてるからさ」
その言い方が、いかにも松本らしくて、
俺は思わず口元を緩めた。
「俺が家でおとなしくしてるのも、なんか違うだろ」
「まあな」
「だからさ、ま、楽しもうぜ」
そう言って、松本は軽く拳を握って見せた。
その仕草は、
無理に明るく振る舞っているわけでもなく、
ただ前を向こうとしている感じがして、
妙に胸に残った。
「だな」
俺も、同じように短く返す。
*
集合場所に到着する。
確か、このあたりで待ち合わせのはずなんだけどな。
そう思いながら辺りを見回していると――
「佐々木コーチ!」
やけに明るい声が飛んできた。
振り返る。
そこにいたのは蒼太だった。
少し大きめのバッグを肩にかけ、
相変わらず屈託のない笑顔を浮かべている。
その隣には、青が、寄り添うように立っていた。
距離は近い。
けれど、触れてはいない。
その立ち位置だけで、二人の関係性が伝わってくる。
「お疲れさまです。お待たせしました」
青が、柔らかく微笑んでそう言った。
「いや、今来たところだ」
俺がそう返すと、蒼太が安心したように肩を落とす。
「よかったー、間に合って」
相変わらずだな、と思う。
「それにしても、人多いですね」
青が周囲を見渡しながら言った。
「……あ、松本さん。お疲れ様です」
急に背筋を伸ばした蒼太が、きちんと頭を下げる。
「はい、お疲れ様です、岡谷君」
松本の声色が、ぴたりと変わった。
さっきまでのくだけた口調が消え、
完全に“仕事モード”だ。
(切り替え早っ……)
俺は思わず、ぎょっとする。
「松本さんと一緒に旅行できるなんて、
本当、信じられないです」
蒼太は目を輝かせたまま、続ける。
「とても嬉しいです、佐々木コーチと友達って、本当だったんですね」
「おい、岡谷。それ、どういう意味だよ」
俺が、眉をひそめて突っ込む。
「え、だって」
蒼太は悪びれもせず言った。
「松本さんと佐々木コーチって、性格、全然違うじゃないですか。どこに接点があったのかなって」
その瞬間、隣にいた青が、慌てて一歩前に出る。
「おい、失礼だろ、蒼太」
低く、でもはっきりした声だった。
蒼太は一瞬きょとんとしてから、
ようやく自分の発言を振り返ったらしく、口をつぐむ。
「……あ」
「まあまあ」
松本は、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「岡谷くん」
松本が、少し柔らかい声で言った。
「岡谷くんの言うことは、当たってますよ
性格、全然違いますしね」
「まあな」
俺が短く返すと、松本は小さく笑った。
「私たちね、高校時代からの付き合いでして」
蒼太が、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「仲良くなったきっかけは……」
松本は一瞬考えてから、俺の方を見る。
「何でしたかね、海斗?」
「わかんねえ」
即答だった。
「なんか、気が付いたら一緒にいた、そんな感じだな」
理由らしい理由は、思い浮かばない。
でも、それで十分だった。
「へえ……」
蒼太は、少し意外そうに目を丸くする。
「でも、なんかいいですね、そういうの」
その言葉に、松本は照れたように視線を逸らし、
俺は何も言わずに天井を見上げた。
「あとは‥‥」
松本が、少しだけ間を置いて言った。
「海斗の恋愛相談に、よく乗ってた、って感じですかね」
「へえ」
蒼太が、素直に感心した声を出す。
「さすが松本さんですね!
人の話聞くの、すごい上手ですもんね」
そう言われて、松本は照れたように首の後ろを掻いた。
「いやいや、そんな大したもんじゃないですよ」
そのやり取りを、青が少し不思議そうに眺めている。
「へえ……佐々木先生が、恋愛相談ですか」
わざとらしくそう言ってから、首を傾げた。
「おい、変な言い方するな」
俺が軽く松本の肩を叩くと、青はくすっと笑う。
「ま、ま」
俺は、慌てて手を振った。
「いろいろ、いろいろあったんだよ!」
曖昧な返答が、逆にすべてを物語っていた。
誰にも話さなかったこと。
誰かに聞いてもらっただけの時間。
それが、今こうして、何でもない笑い話として並んでいる。
「でも」
蒼太が、ふっと真面目な顔になる。
「なんか、いいですね、
そうやって、話せる親友がいるって」
「まあな」
俺は、短くそう答えた。
相談ってのは、解決策が欲しいわけじゃない。
理由があって始まる関係もある。
でも、理由がないまま続く関係も、確かにある。
気づいたら隣にいて、気づいたら一緒に歩いている。
それだけのことなのに、
それが、案外いちばん強かったりする。
「新幹線の時間って、何時だったっけ?」
俺がそう言うと、青がすぐに答える。
「はい、確か、13時30分ですね」
「そっか……」
「もう、あんまり時間ねえな」
そう呟いて、俺は歩き出した。
「そろそろ行くか」
「そうですね」
そのとき、松本がふと思い出したように言う。
「おい、海斗」
「ん?」
「蒼司君は?」
――あ。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
――そうだ。
蒼司は、まだだった。
俺は慌ててスマホを取り出す。
LINEの通知は、ない。
(くそ……)
通話ボタンを押そうとした、そのとき――
「カイト!」
背後から、はっきりと俺の名前を呼ぶ声。
振り返る。
「ごめん、遅くなった」
そこに立っていたのは、
大きめなスーツケースを携えた蒼司だった。
「蒼司!」
思わず声が大きくなる。
「よかった……!」
胸の奥に溜まっていたものが、一気に抜けた。
「心配してたよ」
そう言うと、蒼司は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめん」
蒼太がすぐに一歩前に出る。
「青柳さん、お久しぶりです!」
続けて、青も丁寧に頭を下げた。
「青柳先生、お疲れさまです」
「すみません、遅くなりました」
蒼司は軽く頭を下げる。
俺は、改めて蒼司を見る。
「……どうしたんだよ、その荷物」
スーツケースは、明らかに他の誰よりも大きい。
「ああ」
蒼司は少し照れたように言った。
「少し、絵も描きたいからさ、画材とか用意してたら‥‥」
「そしたら、新しいスケッチブック、
買いに行ってたら、遅くなった」
「……そっか」
らしい理由で、妙に納得してしまう。
「でも、心配したぞ」
俺がそう言うと、松本が横から口を挟んだ。
「良かったよ、もう少しで、置いていきそうになってたよ」
俺は思わず声を荒げる。
「お、おい、松ちゃん」
「え?」
蒼司が、不思議そうに俺を見る。
「どういうこと?」
「い、いや」
俺は慌てて言葉を探す。
「違うんだ、つい、流れで……」
蒼司は、そのまま黙った。
笑うでもなく、責めるでもなく。
ただ、一瞬だけ、
何かを考えるような顔をして。
その沈黙が、なぜだか妙に長く感じられた。
「……。あっ、遅れるね。」
蒼司はそう言って、話を切り替える。
「そろそろ、行きましょう」
誰かがそう言って、
五人は新幹線のホームへ向かった。
陽の光に照らされた白い車体。
遠くから聞こえてくる、列車の走行音。
発車を待つ人たちの、少し高揚したざわめき。
「わあ」
蒼太が、目を輝かせる。
「新幹線、久しぶりだなー」
その様子を見て、青が笑いながら言った。
「蒼太はさ。いつも新幹線乗る前、こんな感じで興奮するよな」
「だってさ、テンション上がるじゃん!」
二人のやり取りを横目に見ながら、
俺は一歩遅れて、蒼司の隣に並んだ。
少し、間を置いてから――
恐る恐る、声をかける。
「……蒼司、ごめん」
「え?」
蒼司は、きょとんとした顔で俺を見る。
「何が?」
「いや……さっきの」
「大丈夫だよ」
そう言って、蒼司はにっこり笑った。
「遅れた俺が悪いしさ、それに俺って、影薄いから」
その笑顔は、いつもと同じはずなのに――
(……やばい)
胸の奥が、ひやりとする。
(蒼司、これ……)
(怒ってるときの顔だ……)
言葉は柔らかい。
声も穏やか。
でも、その奥に、何かが引っかかっている。
俺は、それ以上、何も言えなかった。
五人は、順に車内へ乗り込む。
これから、向かう長い移動。
非日常の時間。
何も考えずに笑えるはずの旅。
――の、はずだった。
前途多難な旅行が、静かに、動き出そうとしていた。