新幹線に乗り込む。
車内は、外のざわめきが嘘みたいに静かだった。
通路に並ぶ照明が、夜行列車みたいに柔らかく光っている。
「……どこの席に座ろうか」
俺がそう言うと、蒼太がすぐに反応した。
「えっとね、五人だから、三人席と二人席
これで分かれませんか?」
「そうだな」
自然な判断だ。
理屈としては、何も間違っていない。
俺は、当然のように――蒼司をそっと見た。
(……一緒だよな)
そう思って、声をかけようとした、そのとき。
「青柳さん!」
蒼太が、先に声を上げる。
「こっち、三人席行きましょう!」
一瞬、間が空いた。
「え?」
蒼司が、少しだけ驚いた顔をする。
「松本さんも、こっち来てください!」
蒼太は張り切って、半ば仕切るように続けた。
「松本さんと青柳さんと話せるの、
すごい楽しみにしてたんです!」
悪気はない。
むしろ、純粋だ。
「……ああ、いいですよ」
蒼司は一瞬だけ俺の方を見てから、そう答えた。
「じゃあ、奥失礼しますね」
そうして、蒼司は蒼太と一緒に、
三人席の方へ行ってしまった。
残されたのは、俺と、青。
通路に立ったまま、一拍、空気が止まる。
青は、何も言わなかった。
でも――
少しだけ、寂しそうな顔をしているのが、わかった。
(……しまったな)
俺は、ほんの一瞬迷ってから、声をかけた。
「……佐伯さ、俺と、一緒に座るか?」
青は、少し驚いたように目を瞬かせてから、
小さく笑った。
「はい、そうですね」
その返事は、控えめだけど、どこか安心したようにも聞こえた。
二人で、二人席に腰を下ろす。
背もたれに体を預けると、シートの感触が、思ったよりも柔らかかった。
通路の向こうでは、蒼太が楽しそうに話し、松本が相槌を打ち、蒼司が、静かにそれを聞いている。
同じ車内。
同じ旅。
それなのに――
席が違うだけで、こんなにも距離ができる。
新幹線は、やがて静かに動き出した。
俺は、青と二人で並んで座る。
学校でも、席は隣同士。
それ自体は、いつもの光景だ。
ただ――
今日は、今は、仕事中じゃない。
指導でも、相談でもない。
完全に、プライベートな時間。
その事実が、思った以上に新鮮で、俺は少しだけ言葉を選んでから、さりげなく話しかけた。
「岡谷のやつ、随分、張り切ってるな」
通路の向こうを見ると、蒼太が身振り手振りを交えて、何かを話している。
「めっちゃ楽しそうだし」
青は、その様子を見て、くすっと笑った。
「そうですね、蒼太、三日前から楽しみにしてて…」
「昨日なんて興奮して、
ほとんど眠れなかったって言ってました」
「……子供かよ」
思わず、そう突っ込む。
「ですね」
青は否定せず、むしろ少し誇らしげに頷いた。
「こんな大人数で旅行するのって、多分、大人になってからは、初めてだと思うんです」
「……そっか」
そう言われて、ようやく気づく。
俺たちにとっては、合宿や遠征が当たり前だった。
でも――
“遊び”として、“ただ一緒に過ごすため”の旅行は、案外、久しぶりなのかもしれない。
「だから、余計に嬉しいんでしょうね」
青は、前を向いたまま、そう続けた。
「誰かと一緒に行くってだけで、特別になる時間って、あるじゃないですか」
「……あるな」
短く答えながら、俺は窓の外に目を向けた。
それから、青は少し間を置いて、
恥ずかしそうに口を開いた。
「……実は」
声が、ほんのわずかに低くなる。
「俺もすごく、楽しみにしてて」
その言葉に、俺は一瞬、視線を青へ向けた。
「佐々木先生とは、合宿や遠征で、一緒に行くこともありますけど」
青は、窓の外を見たまま続ける。
「でも、今日は……違うじゃないですか」
確かに、違う。
勝敗もない。
スケジュールも、評価もない。
ただ、同じ場所へ行くだけの時間。
「‥‥だから」
青は、少し照れたように肩をすくめた。
そう言ってから、ようやく、こちらを見る。
その表情は、普段よりも少し柔らかくて、
どこか安心しているようにも見えた。
「なんだよ」
俺は、わざと軽く笑って言った。
「そうだな……確か、昔言ってたよな」
青が、きょとんとこちらを見る。
「『いつか二人で、デートしようぜ』って」
一瞬、空気が止まる。
「それの、延長みたいなもんか」
そう言った途端、青の顔が、みるみる赤くなった。
「な……っ」
言葉に詰まって、視線が泳ぐ。
「佐々木先生、何、言ってるんですか……!」
声は抗議しているのに、否定の強さは、どこか足りない。
「でも」
小さく続けた声は、ほとんど独り言みたいだった。
「……まんざらでも、ないですけど」
そう言って、青は慌てて窓の方を向いた。
俺は、思わず笑ってしまった。
「はは、何赤くなってるんだよ。
お前、そういうところ
昔から、ほんと変わんねーよな」
青が、ちらっとこちらを見る。
「そういうところ、ほんと、かわいいんだよ」
言った瞬間、あっ、つい言いすぎたか、と思う前に――
青の顔が、また一気に赤くなった。
「……佐々木先生」
小さく、でもはっきりと抗議の声。
「ほんと佐々木先生には、敵わないですよ」
「え?」
「どこまで本気で、どこまでが冗談なのか」
青は、少し困ったように眉を下げる。
「よく……、わかんないんですもん」
「はは、悪い悪い」
俺は、少し照れ隠しみたいに笑った。
「なんかさ、お前の反応が、面白くて」
青は、むっとしたような、
でもどこか困った顔でこちらを見る。
「あ……そうだ」
俺は、思い出したように続けた。
「その“先生”呼びさ、やめね?」
「え?」
青が、ぱっと振り向いて、俺の顔を見る。
「だってさ、先生呼びだと、なんか仕事の延長みたいじゃん」
この時間は、指導でも、上下関係でもない。
ただの、旅だ。
「……そ、そうですね」
青は、小さく頷いた。
「じゃあ……なんて呼びましょうか」
「コーチも違うし、佐々木さんも、なんか違うし」
少し考えてから、俺は即答した。
「名前で呼べよ」
「え?」
青の目が、また少し大きくなる。
「……いいんですか?」
「ああ、せっかくの旅行だしさ」
少し間があって、
青は恥ずかしそうに、声を落とす。
「……じゃあ、カイトさん?」
その呼び方が、思った以上に胸に来た。
「……あ」
青も一瞬固まる。
「じゃあ」
青は軽く笑って言った。
「カイトさん、で」
俺はほんの少しだけ、声のトーンを変える。
「旅行中はさ、先輩も後輩も、関係なしだ」
「アオ! よろしくな、アオ」
名前を呼ばれた瞬間、
青の顔が、また一気に赤くなった。
「……はい」
小さく返事をして、すぐに視線を逸らす。
でも、その口元は、わずかに、緩んでいた。
新幹線は岡山へ向けて走っていた。
車内はほぼ満席で、人の気配と静かなざわめきが、
一定のリズムで続いている。
俺は青と、昔の話をした。
高校の頃のこと、恋愛のこと、
そして――これから先の話。
深く考えなくても、言葉が自然に出てくる。
気がつけば、笑っていた。
楽しかった。
その様子を、少し離れた三人席から蒼太たちが見ている。
蒼司は、相変わらず淡々とした口調で言った。
「カイトと佐伯先生、仲いいんですね」
それを聞いて、蒼太は少し目を細める。
「あーそうですねー。
時々、僕も間に入れないとき、あります」
軽い冗談みたいな言い方。
でも、どこか本音も混じっている気がした。
松本は、それを聞いて小さく鼻を鳴らす。
「ふーん……なるほどね」
それ以上は何も言わなかった。
やがて、アナウンスが流れる。
車内の空気が、わずかに切り替わる。
――岡山。
時計は、17時前を指していた。
新幹線は、ゆっくりと岡山駅のホームに滑り込む。
岡山駅に到着すると、
乗客の半数以上が一気に立ち上がった。
扉が開いた瞬間、人、人、人。
ホームに、どっと人が溢れ出す。
「青さーん! どこー?」
人波の向こうから、蒼太の声が飛んでくる。
「こんなに混むなんて知らなかったよー!」
降り立った人たちは、それぞれ
改札へ、乗り換え改札へと流れていく。
俺は、人混みの中で蒼司を見つけて、手招きした。
「蒼司、いた。こっちこっち」
「あっ……よかった」
近くまで来て、蒼司が小さく息をつく。
「ふぅ。疲れたね」
少し遅れて、松本も合流した。
「危ない。改札、間違えるところでした」
蒼太は、きょろきょろと周囲を見回しながら、不思議そうに言う。
「ねえ、なんでこんなに人多いの?」
蒼司は落ち着いた様子で、視線を前に向けたまま答える。
「あれを見てください」
在来線の案内板を指差す。
四国方面。
山陰方面。
倉敷方面。
「岡山駅は、いわゆるハブ駅ですから」
それを聞いて、青が「なるほど」と頷く。
「そうなんですね。初めて来たから、びっくりしました」
人の流れに押されるように、自然と歩き出す。
「じゃあ――」
俺が言う。
「先にホテルにチェックインしよう」
俺たちは、岡山駅直結のホテルに向かい、
そのままチェックインを済ませた。
「晩飯、どうする?」
そう聞くと、蒼太が勢いよく手を挙げる。
「はい! お店、もうチェック済みです!」
「おお、仕事早いな」
松本が頷く。
「じゃあ、よかったらそこに行きますか?」
「そうだな」
俺は腕時計を見る。
「じゃあ、一時間くらい休憩してから、ロビー集合な」
それぞれ頷いて、各々エレベーターに向かった。
俺の部屋は、蒼司と同室だった。
ドアを開ける。
ガチャ。
「おお……結構、景色いいな」
窓の向こうに、駅と線路が広がっている。
「そうだね。駅直結だから、電車もよく見える」
蒼司はそう言いながら、淡々と荷物を片付けている。
しばらく、音だけが部屋に落ちる。
スーツケースのファスナーの音。
ハンガーが触れる小さな金属音。
俺は、ゆっくり口を開いた。
「なぁ……今日、俺たち、やっと落ち着いて話せるな」
蒼司は一瞬、手を止めて、目を伏せる。
「……そうだね」
少し間があって、ぽつりと続けた。
「カイト、楽しそうだったね」
「そうか?」
俺は肩をすくめる。
「いつも通りだよ」
また、沈黙。
でも、いつもの沈黙とは違った。
落ち着くはずなのに、妙に胸の奥がざわつく。
蒼司が、静かに言う。
「……先に、シャワー浴びてくるね」
「あ、あぁ」
そう返した声が、少し遅れた気がした。
蒼司は何も言わず、バスルームに向かう。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
蒼司がシャワーを終えて、部屋に戻ってきた。
髪がまだ濡れていて、タオルで無造作に拭っている。
湯気の名残みたいなものが、ふっと漂う。
……なんか、色っぽい。
思わず、胸が小さく跳ねた。
蒼司は気づいた様子もなく、自然に口を開く。
「カイトも、シャワー浴びたら?」
「あ、あぁ……そうだな」
それだけの会話なのに、声が少し上ずった気がした。
しばらくして、俺もシャワーを浴びる。
頭を冷やすつもりだった。
でも、余計なことばかり考えてしまう。
水を止めて、タオルで髪を拭きながら部屋に戻る。
「あれ……?」
蒼司がいない。
ベッドにも、窓際にも、姿がない。
「……あれ?」
時計を見る。
まだ集合時間までは、余裕がある。
トイレでもない。
バスルームでもない。
部屋の中に、急に空白ができたみたいだった。
(なんでだろ……)
せっかくの旅行なのに。
ほんの少し前まで、すぐそこにいたはずなのに。
蒼司との距離が、いつもより遠く感じられていた。
理由は、わからないまま。
俺は部屋を出て、エレベーターでロビーに向かった。
ロビーには、青が一人で立っていた。
「あっ、アオ!」
声をかけると、青が顔を上げる。
「あ、カイトさん」
お互い、名前で呼ぶ。
それだけのことで、なんだか少し照れくさい。
一瞬、間が空く。
「なあ、蒼司知らないか?部屋にいなくてさ」
青は、きょとんと目を瞬かせてから、
思い出したように言う。
「ああ……青柳さんなら、あそこですよ。
蒼太と一緒にいます」
指差した先を見る。
ホテルのカフェ。
そこでは、蒼太と蒼司が並んで座り、
テーブルの上には――
「……パフェ?」
思わず声が出た。
二人は普通に、パフェを食べている。
蒼太は楽しそうで、
蒼司も珍しくリラックスした表情をしていた。
「なんだ……あそこか」
胸の奥が、ふっと緩む。
青に目を向ける。
「アオは、行かないのか?」
「あ、はい」
青は少し苦笑して、
「夕飯前ですし、いま甘いものは、ちょっと‥‥」
そう言って肩をすくめた。
俺はもう一度、カフェの方を見る。
笑っている二人と、
それを少し離れた場所から見ている自分。
俺は青と並んで、ロビーのソファに腰を下ろした。
取り留めのない雑談。
今日の移動のこととか、岡山の印象とか。
落ち着く時間だった。
そこへ、カフェから二人が戻ってくる。
蒼太は、いかにも満足そうな顔で言った。
「あー……美味しかった」
青は呆れたように眉を上げる。
「蒼太、夕飯前によく食べられたな」
「だってさ」
蒼太は身振り手振りを交えて、
「フルーツパフェ、すごい美味しそうで。
シャインマスカットに白桃、いろいろ入ってて」
楽しそうに話す様子に、青はため息をついた。
「ほんとに……」
俺は、蒼司の方を見る。
「蒼司。急にいなくなるから、びっくりしたぞ」
「ごめん」
蒼司は少しだけ照れたように言う。
「蒼太くんに、パフェ誘われて」
――今、名前で呼んだ。
俺は、その変化を聞き逃さなかった。
でも、あえて何も言わなかった。
「飯前だぞ?」
「だって……」
蒼司は肩をすくめる。
「どうしても食べたかったし。
食後じゃ、あの量は無理だろ」
「……蒼司らしいな」
思わず、そう言っていた。
蒼太は目を輝かせて頷く。
「青柳さんと、食べ物の好み似てるんです。
それが嬉しくて、つい誘っちゃいました」
そこへ、松本も合流する。
「おや、みんな早いですね、お待たせしました。」
全員が自然に立ち上がる。
「じゃあ」
蒼太が一歩前に出て、
「僕が案内しますね」
そう言って、先頭に立った。
蒼太を先頭に、俺たちは岡山駅から地下街に入った。
目当ての店までは、地下を通って行くらしい。
……らしいんだけど。
「あれっ?」
蒼太が、立ち止まる。
「この地下街、広くない?
えーと……どっちが東だっけ?」
「そもそも通路が多すぎるな」
青がスマホを見ながら言う。
「これ、分かりにくい」
地下街は、人の流れが絶えなかった。
仕事帰りの人、観光客、買い物帰りの家族。
飲食店が並ぶエリアは、どこも行列ができている。
「岡山、こんなに人いるのか……」
蒼太が感心したように呟く。
その横で、蒼司が蒼太のスマホを覗き込む。
「あ……この表示なら」
画面を指差して、
「この方向。こっちですよ」
「え、ほんと?」
蒼太が顔を上げる。
「すごい、青柳さん」
「ここの地下街、初めてじゃないですし」
蒼司はさらっと言って、歩き出す。
「こっちです」
その背中を追って、俺たちもついていく。
曲がって、また曲がって。
ようやく地下街を抜け、地上に出た。
*
しばらく歩く。
そして、目的の店が見えてきた。
「……着いた」
暖簾に書かれた文字。
デミカツ丼。
松本は興味深そうにつぶやく
「なるほど、初めて聞きますね」
「ここが、名店らしいですよ」
蒼太が、少し誇らしげに言った。
店に入った瞬間、揚げ油と、少し甘いソースの匂いが鼻をくすぐった。
「……あ、いい匂いだな」
「あ、席空いてるな」
店内を見渡して、俺が言う。
「……でも、四人席と二人席か」
少し考えてから続ける。
「二人と三人で、分かれて座るか」
そう言いながら、
俺は自然と――蒼司の方を見た。
(じゃあ、一緒に……)
声をかけようとした、その瞬間。
「海斗」
松本が、さりげなく。
「こっち、座ろうか」
そう言って、二人席の方を指す。
「えっ……松ちゃん?」
「いいから、いいから」
有無を言わせない感じで、
そのまま二人席に連れていかれる。
気づけば――
四人席には、青と蒼太と蒼司。
三人が座っていた。
一瞬だけ、蒼司の方を見る。
でも、蒼司は特に気にした様子もなく、
メニューを手に取っている。
……そういうところが、蒼司らしい。
とりあえず、俺はデミカツ丼の大盛りを注文する。
岡山名物だと聞いてはいたけど、
見た目は想像していた“カツ丼”とは少し違う。
丼の上に乗っているのは、
衣がさくっと揚がった豚カツ。
その上から、
濃い茶色のデミグラスソースが
たっぷりとかけられている。
卵でとじてはいない。
代わりに、ソースのコクと香りが前に出る。
中の肉は驚くほど柔らかい。
デミグラスソースは、
洋食屋のそれより少し和寄りで、
甘みと旨味が強い。
揚げ物なのに、重すぎない。
ご飯と一緒に口に運ぶと、
ソースが白米に絡んで、止まらなくなるタイプだ。
「これ……うまい」
初めてなのに、どこか懐かしい味。
松本は、デミカツ丼を黙々と食べながら、
どこか満足そうな顔をしていた。
「……うまいな、これ」
一息ついたあと、
ふと思い出したように松本に話しかける
「なあ、松ちゃん」
「ん?」
「今日さ。蒼司と、全然ちゃんと話せてないんだよ」
松本の、箸が止まる。
「せっかくの旅行なのにさ」
言いかけたところで、松本は口を開く。
「なぁ、海斗」
「え?」
松本は、四人席の方をちらっと見てから、
低い声で言った。
「佐伯青」
「お前、佐伯君のこと、好き‥‥」
「いや。正確には、“昔好きだった”ってやつだな」
「ぶっ……!」
飲みかけていたお茶を、思わず吹き出しそうになる。
「な、なんで!?」
慌てて口元を押さえ、周りを確認する。
「なんで、そんなこと――」
「分かるだろ」
松本は、涼しい顔で続けた。
「……」
心臓が、変な音を立てる。
松本は箸を置いて、俺を見る。
「お前、分かりやすすぎるんだよ」
「まあ……」
俺は小さく息を吐く。
「確かに昔本気になる前に、身を引いたってやつだよ」
そう言って、苦笑する。
「……松ちゃん、分析力すごいな」
松本は肩をすくめながら、まだ箸を動かしている。
「今日さ……」
何でもないみたいな口調で言った。
「新幹線の中でも、いい感じだったじゃん」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「お前さぁ」
松本は、ちらっと俺を見る。
「年下との相性、いいよな」
「い、いや……」
慌てて言葉を選ぶ。
松本は、ほんの少しだけ身を乗り出してきた。
声は、ほとんど囁き。
「海斗さ」
「……」
「その時、本気出してたら――落とせてたんじゃないか?」
「ぷっ……!」
俺は、またしても吹き出しそうになる。
慌てて口を押さえ、咳き込む。
「な、な、松ちゃん……!」
声を潜める。
「冗談きつすぎるぞ、それ」
松本は、しれっとした顔で言う。
「冗談?」
「いや、絶対そうだろ」
さらっと言われて、言葉に詰まる。
「……飲んでないよな?」
「飲んでない」
即答だった。
その落ち着きが、逆に怖い。
「アオはさ、可愛い元生徒でいまは良い後輩だし」
自分で言っていて、少し苦しい。
「それに――」
松本は、声を落とす。
「蒼司くんも、何か感じてるんじゃないか?」
「えっ」
心臓が、嫌な音を立てる。
「それは……それは勘違いされたら困るよ」
思わず、否定が早くなる。
「そもそも、そんな関係じゃ――」
松本は、俺の言葉を遮らなかった。
ただ、静かに聞いていた。
*
店を出るころには、すっかり日が落ちていた。
夜の空気が、昼よりも少しだけ冷たい。
「あー……おいしかった」
蒼太が、心底満足そうに言う。
青は半ば呆れたように笑った。
「蒼太、あのパフェの後で、よく完食できたな」
「だって」
蒼太は胸を張る。
「甘いものは別腹だもん」
その横で、蒼司が少し苦しそうにしている。
「……おい、蒼司。大丈夫か?」
「うん」
小さく頷いて、
「ちょっと、無理したかも……」
そう言って、息を整える。
「早く、部屋に帰りたい」
その声は、さっきより少し弱かった。
俺たちはそのままホテルへ戻る。
ロビーに入ると、照明の明るさがやけに眩しく感じた。
「じゃあ」
俺が言う。
「明日は、八時集合な」
「はい」
「おやすみなさい」
それぞれが軽く手を振り、エレベーターへ向かう。
最後に、松本が俺の方をちらっと見て、目配せした。
そして、小さく一言。
「海斗、頑張れよ」
……何を、とは言わなかった。
でも、その言葉だけで十分だった。
俺は、曖昧に笑って頷く。
*
部屋に戻ると、蒼司はもうベッドに横たわっていた。
上着も脱がず、枕に顔を向けたまま、動かない。
「おい、蒼司……大丈夫か?」
「……うーん」
小さく声が返ってくる。
「ほんとに大丈夫か?胃薬、飲むか?」
「うん……大丈夫」
少し間を置いてから、続けた。
「もう、今日はこのまま寝るから。そっとしといて」
無理に笑ったり、強がったりしない。
それが逆に、蒼司らしかった。
「……そっか」
俺は声を落とす。
「じゃあ、何かあったらすぐ言えよ」
「うん……わかった」
布団の中で、ほんの少しだけ身じろぎして、
「おやすみ」
「おやすみ」
照明を落とす。
部屋に残るのは、空調の音と、蒼司の静かな寝息だけだった。
今日一日、いろんなことがあったはずなのに。
(今日……ほとんど、蒼司と話せなかったな)
ベッドに横になり、天井を見つめる。
言葉にできない、小さな引っかかりだけが胸に残っていた。
理由は、分からない。
俺はその感覚を抱えたまま、静かに、寝床に身を沈めた。