俺は、ぐっすり眠りこけて、朝七時前には目を覚ました。
カーテンの隙間から、やわらかい朝の光が差し込んでいる。
(……あ)
そうだ。朝飯、あるんだったな。
行こうかな、と思いながら、俺はベッドを抜け出し、軽く顔を洗う。水で目が覚めると昨日の新幹線の揺れや、夜の会話が、少しずつ現実に戻ってくる。
部屋に戻ると、もう一つのベッドで、蒼司が横になっていた。
「蒼司、おはよう」
「ああ……おはよう」
少し眠そうな声。
「体調、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
蒼司は、天井を見たまま答える。
「だいぶ、良くなったよ」
「そっか」
少し、安心する。
「朝飯、行くか?」
俺がそう聞くと、
蒼司は小さく首を振った。
「俺はいいよ、昨日、食べ過ぎたし」
それから、少し間を置いて続ける。
「それにさ、普段から、朝って食べない日の方が多いから」
「……そっか」
「俺はいいよ、カイトだけ、行ってきなよ」
そう言って、蒼司は目を閉じた。
「……わかった」
俺は頷く。
「じゃあ、もう少し、休んでな……」
「うん」
短い返事。
それだけのやり取りなのに、不思議と、胸の奥が静かだった。
俺は、ホテルの朝食会場のレストランにやってきた。
中はすでにほどよく賑わっていて、皿が触れ合う音と、低い話し声が混じっている。
ビュッフェ式だ。
焼き立てのパン。
スクランブルエッグ。
ベーコンに、サラダに、湯気の立つ味噌汁。
(……うまそうだな)
何を食べようかと一瞬迷ってから、
とりあえず気になるものを少しずつ皿に取る。
それから、ふと席の方を見渡した。
――あ。
窓際のテーブルに、青が一人で座っている。
「……ん?」
一人、か。
俺は皿を手にしたまま、青の座っているテーブルへ向かった。
「おはよう、アオ」
「あ……」
青は顔を上げて、少し驚いたように目を瞬かせる。
「おはようございます」
「一人か?」
「はい」
青は小さく頷いた。
「蒼太、昨日食べ過ぎたから、朝ごはん、いらないって言ってて」
「ああ……」
思わず苦笑いが漏れる。
「蒼司と一緒だな」
「ですよね」
青も、くすっと笑った。
「やっぱ、あれは食べ過ぎでしたよね」
「だな、若いって言っても、限度あるだろ」
そう言いながら、
俺は青の向かいの席に腰を下ろす。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
夜とは違う、穏やかな時間。
二人で向かい合って座るのは、
学校でも、遠征でも、よくある光景のはずなのに――
今は、少しだけ、違って感じた。
「……よく眠れましたか?」
青が、コーヒーにミルクを入れながら聞いてくる。
「ああ、ぐっすりな」
「それは、よかったです」
そう言って微笑む青の表情は、
昨日の夜よりも、どこか落ち着いていた。
自然といつものように会話する。
でも、昨日よりも距離が近い感じがした。
すると、しばらくして、青がふと顔を上げて言った。
「……カイトさん、コーヒー、飲みます?」
「ん?」
「俺、これから汲みに行くので‥‥」
「ああ……、悪いな」
「いえ」
青は、にっこりと笑って首を振る。
「全然」
そう言って、トレイを持ち上げる。
青は席を立ち、コーヒーサーバーの前に並ぶ。
カップに注がれる黒い液体から、
ほのかに立ち上る香り。
青は手慣れた様子で、砂糖とミルクを整えてくれた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
受け取ったカップは、思ったよりも温かくて、指先にじんわりと熱が伝わる。
席に戻り、一口、口をつける。
(……うまいな)
いつものコーヒーなのに、なぜか今日だけは落ち着く味だった。
「……なんだか」
俺は、ぽつりと呟く。
「落ち着くな‥‥」
青は、少し照れたように笑った。
「そうですね、今日は‥‥朝練もないですしね」
「それもあるけどさ」
言いかけて、俺はそれ以上、続けなかった。
食事を終えて、俺は部屋に戻った。
ドアを開けると、蒼司はもう、出発の準備をほとんど終えていた。
スーツケースは閉じられ、上着も手に取れる位置に置いてある。
「あ、お帰り、カイト」
「あ、早いな。準備」
「そんなことないよ」
蒼司は軽く笑う。
「もう、八時だよ」
「……あ、やばい」
思わず声が出た。
「ちょっと待ってな、今、急いで準備する」
そう言って、俺は慌てて荷物に手を伸ばす。
服を畳み直して、忘れ物がないか確認して、
充電器をバッグに突っ込む。
自分でも驚くくらい、手際は良かった。
「よし、準備できた。じゃあ、行くか」
「うん」
蒼司は短く頷いた。
「そうだね」
それだけの会話。
部屋に二人きりでいるのに、ゆっくり話す時間は、結局なかった。
何かを話そうとすればできたはずなのに。
一言、踏み込めばよかったのに。
(……本当は)
もっと、蒼司と話したかった。
昨日のこと、駅で蒼司を怒らせたことも。
今の、微妙な距離のことも。
言葉にしないまま、時間だけが先に進んでいく。
*
八時。
ホテルのロビーには、五人全員がそろっていた。
「おはようございます」
それぞれが軽く挨拶を交わし、大きな荷物を転がしながら外へ出る。
向かう先は、岡山駅。
朝の空気はすでに動き出していて、街全体が、平日のリズムで回っているのがわかる。
「えっと……」
改札を前にして、俺は立ち止まった。
「どの電車に乗るんだったっけ?」
表示板を見上げると、行き先がずらりと並んでいる。
「結構、いっぱいあるな……」
すると、蒼司がさりげなく口を挟んだ。
「今日は直島だからね」
「ああ」
「宇野港っていうところから、フェリーに乗るんだよ」
「そっか」
ようやく思い出す。
「じゃあ、これかな、この……瀬戸大橋線ってやつに乗るんだよな」
「うん」
蒼司は頷く。
その一言で、自然と足が動き出した。
岡山駅構内は、通勤・通学の客でごった返している。
スーツ姿に、学生服。
足早に行き交う人の流れに、俺たちも一瞬、のみ込まれそうになる。
瀬戸大橋線のホームへ降り立ち、宇野行きの表示を確認する。
ほどなくして、電車が入ってきた。
ドアが開き、俺たちは流れに押されるように車内へ乗り込む。
ラッシュの反対側とはいえ、すでに座席は一通り埋まっている感じだった。
「わあ」
蒼太が、小声で言う。
「結構、混んでるね」
「ああ」
俺は周囲を見回す。
「でも、どっかで座れるだろ」
車内には、二人掛けの青いシートが整然と並んでいる。
その中で、ぽつんと一つだけ空いている席が目に入った。
「あ、あそこ、一つ空いてるな」
俺はすぐに蒼司を見る。
「蒼司、座れよ」
「え?」
蒼司は、一瞬ためらったような顔をした。
「お前まだ、調子あんまり良くないんだろ?」
「……な?」
少しだけ、念を押す。
「うん」
蒼司は、素直に頷いた。
「わかった、ありがとう」
そう言って、空いている席に腰を下ろす。
電車は、静かに走り出した。
岡山の市街地を抜けるにつれて、乗客は少しずつ減っていく。
次の駅、また次の駅。
席はところどころ空き、それぞれ、自然に空いている席へと散っていった。
俺たち一行は宇野駅に到着し、その足で宇野港へ向かった。
直島行きのフェリーに乗り込むと、蒼太は子どもみたいにはしゃいでいる。
「青さん、すごい。海だよ」
甲板に出て、目を輝かせながら海を指差す。
「ほんとだ。島がいっぱいあるな」
「こんな景色、初めて見たよ」
潮風を受けながら、俺も甲板の縁に立って景色を眺める。
青く澄んだ海、点々と浮かぶ島影。
空は高く、雲も少ない。
「ああ……きれいだな。天気もいいし」
ふと振り返ると、蒼司の姿が見えない。
「そういや、蒼司は?」
船内を覗くと、蒼司は船室の椅子に座り、
目を閉じていた。
「蒼司、大丈夫か?」
「うん……島に着くまで、ちょっと寝とく」
「そっか。無理すんなよ」
蒼司は小さくうなずいて、再び目を閉じた。
フェリーは直島の宮浦港に到着した。
タラップを降りた瞬間、視界に飛び込んできたのは、赤と黒の水玉模様のカボチャだった。
「……なんだ、あのカボチャ」
港にぽつんと佇むそれを見上げて、思わず声が漏れる。
「着いたね」
隣で蒼太が嬉しそうに言う。
俺はもう一度カボチャに目をやってから、
蒼司を振り返った。
「なあ、蒼司。俺、前に見たカボチャって、
もっと黄色かった気がするんだけど」
蒼司はふっと笑う。
「ああ、あれね。あれは別の場所にある」
そう言って、赤い水玉のカボチャを指差した。
「ここにあるのは、赤と黒の“赤カボチャ”」
「まじか……」
俺は改めてカボチャを見上げる。
「カボチャって、他にもあるのか」
「そうだよ」
「すげえな、直島」
俺たちは港近くの小さな旅館に荷物を預け、
再び外へ出た。
宮浦港のバス停から町営バスに乗り込む。
最初の行き先は、地中美術館。
直島に来たら、まずはそこだと決めていた。
地中美術館は予約制だ。
今回は蒼司が、事前に手配をしてくれていた。
受付を済ませ、係員に案内されて中へ入る。
思っていたような展示室は見えず、コンクリートの壁と通路が続いているだけだった。
「……静かだな」
誰かが言ったわけでもないのに、自然と声が小さくなる。
足音だけが、ひんやりした空間に響いていた。
白い壁、切り取られた空、差し込む光。
何を見ているのか、正直よくわからない。
けれど、不思議と目を離せなかった。
蒼太も、さっきまでのはしゃいだ様子はなく、黙って前を歩いている。
蒼司は何も説明しない。ただ、淡々と進む。
誰も感想を言わない。
言葉にすると、壊れてしまいそうな気がした。
しばらくして、ふと気づく。
頭の中が、静かになっている。
「……なんか、落ち着くな」
小さくそう呟くと、隣で誰かがうなずいた気配がした。
それだけで、十分だった。
美術館を出て、しばらく外を歩く。
海が近づき、風の匂いが変わった。
その先に、あの黄色いカボチャが、海辺にたたずんでいた。
不思議と、まったく違和感がない。
俺は横にいる蒼司に声をかける。
「これ……あのカボチャだよな」
「ああ、そうだね」
それだけ言って、蒼司はまた海のほうを見た。
俺は浜辺に立つカボチャを眺めながら、
静かに蒼司に語りかけた。
「……すごいな」
写真や絵で見るのとは、全然違う。
「これ、好きだな」
少し間を置いて、続ける。
「蒼司、ここに来てよかったよ」
「よかった」
蒼司は、ほっとしたように言った。
「約束、だもんね」
「え?」
「一緒に行こうって、約束してた」
「ああ……そうだな」
太陽が、海とカボチャをやさしく照らしている。
波は穏やかで、風も静かだった。
「……なあ、蒼司」
「ん?」
「ごめん」
「え? 何が?」
少し言葉に詰まってから、俺は続けた。
「ひょっとしたらさ、俺、蒼司を怒らせちゃったのかなって」
蒼司は黙ったまま、海を見ている。
「せっかくの旅行なのに。約束の旅行だったのにさ。一緒にいるのに、そばにいるのに、なんか……近いのに遠くて」
言葉を探しながら、正直に吐き出す。
「話す機会も、あんまりなかっただろ。
それが、俺は結構つらかった」
「……」
「でも、そうなったのは、俺の態度が原因だったのかなって思ってさ。だから……本当に、ごめん」
しばらくして、蒼司がゆっくりと口を開いた。
「カイト、謝る必要なんてないよ。俺、怒ってない」
「……え?」
「あの新幹線の時のことだろ?」
「うん……」
「あの時は、正直ちょっと、え?って思ったけどさ」
そう言って、少しだけ笑う。
「でも、それ自体は、すぐ忘れた」
「……そうなんだ」
「うん」
蒼司は、少し考えてから続けた。
「カイトはさ、明るいだろ。
人を引っ張っていくし、気づくと周りに人が集まってる」
俺は黙って聞いていた。
「俺は、こんな性格だからさ。
そういうカイトを、ちょっと離れたところから見る癖がついちゃって」
一瞬、言葉を切る。
「でもね」
蒼司は、海から目を離さずに言った。
「そうやって、少し離れたところからカイトを見る自分も、嫌いじゃないんだ」
風が、二人の間を静かに通り抜けた。
蒼司は少し言いにくそうに視線を落とし、
それからゆっくりと口を開いた。
「‥‥あと」
「……カイトのことだからさ。たぶん、佐伯先生のこと、気にしてるんだろ?」
「えっ?」
一瞬、言葉が詰まる。
「やっぱり」
蒼司は、困ったように笑った。
「大丈夫だよ。俺、前から気づいてた」
「え?」
「学校に赴任してからさ。しばらく、俺、カイトのこと見てたから」
夕暮れの海に視線を向けたまま、続ける。
「ああ……カイトはきっと、佐伯くんのこと、好きだったんだなって」
「……マジかよ」
思わず息を吐く。
「おい、蒼司。お前、超能力者か?」
「違うよ」
即座に返される。
「カイトが、わかりやすすぎるんだよ」
「うっ……」
「それ、松ちゃんにも言われた」
蒼司は、少し懐かしそうに目を細めた。
「子供の頃から、ずっと一緒にいるだろ。
カイトが兄貴のこと‥見てるのずっと見てたからさ」
「……」
「だから、カイトのことなら、なんとなくわかるんだよ」
それだけ言って、蒼司はまた海を見た。
蒼司は少し間を置いてから、静かに続けた。
「……だからさ。俺、カイトに告白したんだよ」
「え?」
思わず声が裏返る。
「あの時さ。佐伯先生に、蒼太くんっていう恋人がいるなんて、知らなかったから」
波は静かに音をたてている。
「だから……焦った」
蒼司は、正直にそう言った。
「本当はさ、もうちょっと時間をかけてから
言おうと思ってたんだよ。様子見て、ちゃんと気持ち整理してからって」
「……」
「でも、もしこのまま何も言わないでいたら、
カイト、誰かのところに行っちゃう気がしてさ」
小さく、息を吐く。
「それで、勢いで言った。
……正直、俺らしくなかったと思う」
しばらくして、俺はぽつりと返す。
「……そうだったのか」
蒼司は何も言わず、ただうなずいた。
「……あとさ、大丈夫だよ」
蒼司は、どこか覚悟を決めたように言った。
「俺から、カイトから離れるってことないと思う。俺、多分……カイト以外の人を好きになることなんて、ないから」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり続ける。
「だから、この先も、きっとずっと、
カイトのこと好きだと思う」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んで、視界が滲んだ。
気づいたら、涙がこぼれていた。
「でもさ」
蒼司は、少しだけ声を落とす。
「もしこの先、カイトが違う人を選ぶなら……
俺は、静かに‥‥カイトのところを去るよ」
俺は、はっきりと涙を流していた。
「蒼司……」
声が震える。
「そんな、そんな悲しいこと言うなよ」
俺は首を振りながら、必死に言葉をつなぐ。
「俺だって、ずっと蒼司のそばにいたい」
夕焼けの中で、正直に言う。
「やっと一緒になれたんだ。
これからも、ずっと一緒にいるし……
俺のそばにもいてほしい‥‥」
涙を拭うこともせず、まっすぐに見る。
「だから――」
そのときだった。
「あ、蒼司さん。佐々木コーチ。こんなところにいたんですか?」
声と一緒に振り返ると、蒼太と青、それから松本がこちらへ歩いてくる。
俺は慌てて目をこすり、手の甲で涙を拭った。
蒼太は何も気づいていない様子で、
目を輝かせながらカボチャを見上げる。
「わあ、すごい。この黄色いカボチャ。かわいいなあ」
「うん、確かにインパクトはあるな」
青が腕を組んで言う。
「でも……かわいい、って言うのか? これ」
「うーん」
松本が少し考えてから、頷いた。
「さすが草間先生の作品ですね。
見る人によって印象が違う」
「あ、そうだ」
蒼司がぱっと思い出したように言う。
「せっかくだから、写真撮りましょうよ。
蒼司さんと佐々木コーチ、並んでください。
僕、撮りますから」
「ああ……そうだな」
俺と蒼司は、言われるままに並ぶ。
そのとき、青がさりげなく俺のそばに寄ってきた。
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、そっと囁く。
「カイトさん、大丈夫ですか。
……何か、ありました?」
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう。心配かけたな」
「いえ。よかったです」
青はそれだけ言って、静かに距離を取った。
みんなで写真を撮り終え、賑やかな空気から少しだけ離れた場所で、俺は沈む夕日を見つめていた。
蒼司と久しぶりにちゃんと向き合い、言葉を交わした。
あんなに泣いて、お互いの気持ちを確かめ合って、ずっと欲しかった言葉ももらった。
「これで、よかったんだ」
俺は蒼司と久しぶりに本音で話せたことに安堵した。
でも、何だ?
すれ違いが解けて、胸のつかえがすっきりとなくなると思っていたのに、なぜか胸の中のモヤモヤが消えずに残っていた。
心のどこかで蓋をしていた別の感情が、微かに波を打っているような感覚。
その正体は、まだわからない。
ふと視線を感じて見ると、
松本が、すべてを察したような顔で、
何も言わずにこちらを見ていた。