旅行3日目。
直島で一泊した俺たちは、
朝の宮浦港からフェリーに乗り、
香川県高松の街を目指す。
フェリーでおよそ60分。
島を離れるには、長すぎず短すぎず、
ちょうどいい時間だ。
甲板に出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
港がゆっくりと遠ざかり、
直島の岸が少しずつ小さくなっていく。
「直島、いいところでしたね」
青が、手すりに寄りかかりながら言った。
声の調子は穏やかで、名残惜しさが少し混じっている。
「そうだな、今日は高松に寄って、それから小豆島だな」
船内に戻ると、
エンジンの低い振動が床から伝わってくる。
客室では、観光客らしいグループが地図を広げ、次の予定を話していた。
直島で過ごした時間は、静かで、余白が多かった。
それに比べて、この船の進行方向には、
生活の匂いがある。
やがて、前方に高松の街並みが見えてくる。
ビルの輪郭がはっきりしてきて、港のクレーンやターミナルの屋根が目に入った。
「……あ、見えてきた、すごい、大きな街だよ!」
蒼太が目を輝かせる。
島から街へ。
その切り替わりを、
俺たちは同じ船の上で受け取っていた。
高松港のターミナルを出ると、
潮の匂いに混じって、街の空気が一気に広がった。
海がすぐそこにあるのに、ビルも多くて、
人の流れもはっきりしている。
「へえ……ここが高松か。結構都会だな」
俺はきょろきょろと辺りを見回す。
「ここ、ここで蒼司が働いてたんだな」
「うん、そうだね。
市内の私立高校。なんだか懐かしいよ」
港から少し目線を上げると、
高松駅とその周辺がすぐそこに見えた。
直島の、時間がゆっくり流れる感じとは、
また違うリズムだ。
「じゃあ、次は小豆島行きのフェリーだよな」
「そうですね、まだ時間に余裕ありますね」
青が腕時計を見る。
次の便までは、まだ一時間以上ある。
俺はみんなの顔を見回して言った。
「じゃあさ、次のフェリーまで、
ちょっと自由行動にしないか?」
青がすぐに頷く。
「そうですね。じゃあ、少しブラブラしますか」
そう言って、松本が俺の隣に来る。
声を落として、ちょっと照れたように続けた。
「海斗、俺さ……実は、讃岐うどんってやつ、
本場の、食べてみたいんだよな」
「へえ、讃岐うどんか」
「それ、結構楽しみにしててさ」
素直な言い方が、なんだか松本らしい。
それを聞いて、蒼司が小さくクスッと笑った。
「いいですね、高松駅の近くにも、美味しいうどんの名店、ありますよ」
「駅の近くで?」
松本が少し身を乗り出す。
「はい。歩いて行けます。
セルフの店もあるし、時間もそんなにかかりませんよ」
「セルフか……?初めてだな」
「大丈夫ですよ。見よう見まねで」
そう言って、蒼司は軽く肩をすくめた。
そして、高松駅から歩いてほんの数分で、
蒼司のおすすめの店に到着する。
「ここが、セルフうどんのお店ですね」
蒼司は列の先頭に立ち、後ろを振り返って静かに言った。
「店員さんがすべて用意してくれるわけではなくて、自分で順番に選んでいく方式なんです」
一歩進みながら、前方のカウンターを指す。
「まず、こちらでうどんを注文します。
かけうどんや、ぶっかけ、ざるなどを選んで、サイズも小・中・大から決めてください」
蒼太が頷きながら尋ねる。
「先に天ぷらを取るんじゃないんですね」
「ええ。うどんが先です。
先に決めてしまった方が、流れが分かりやすいですよ」
蒼司は受け取った丼をそっと持ち上げて見せた。
「次に、こちらの天ぷらやおにぎりを取ります。
食べたいものを、お皿に乗せてください。
つい取りすぎてしまうので、その点だけご注意を」
少し微笑んで、先を促す。
「かけうどんを頼んだ人は、あちらで出汁を自分で注ぎます。
ネギや天かす、生姜などの薬味も、好みで加えて大丈夫です」
「最後に、レジでまとめて会計になります」
そう説明し終えると、蒼司は軽く視線を巡らせた。
「分からなければ、俺の後ろについて来てください。
一度やれば、すぐ慣れますから」
その穏やかな声に、皆の表情が少し和らいだ。
それぞれ、思い思いに注文を終え、空いている席についた。
「なんか……緊張したよ」
蒼太が、少し息を吐くように言う。
「僕、釜玉にしてみました」
「へえ」
青が覗き込むようにして聞く。
「青さんは、何にしたの?」
「ああ。俺は、しょうゆうどんだな」
「え? しょうゆ?」
蒼太が目を丸くする。
「しょうゆをかけて食べるみたいで。初めてだよ」
「俺は、ぶっかけだぜ」
俺は横から声を上げる。
「松ちゃんも、しょうゆ?」
「ああ。前から気になっててさ。
今日、ちょうどいい機会だと思って」
蒼太は順番に顔を見て、最後に蒼司へ視線を向ける。
「蒼司さんは?」
「俺は、普通にかけですね」
そう言って、蒼司は箸を取り、静かに一口すすった。
「……うん、美味しい」
その言葉につられるように、全員が一斉に箸を動かす。
「……う、うまい」
思わず漏れた誰かの声に、
テーブルの空気がふっと和らいだ。
「本当だ、このコシ?」
蒼太が目を丸くして、箸を止める。
「噛んだ瞬間、跳ね返ってくる感じがする」
「だな」
青が満足気にに笑う。
「柔らかいんじゃなくて、
芯がちゃんとあるんだよな」
「しかも、表面はつるっとしてて」
蒼太はもう一口すすり、ゆっくり噛みしめる。
「噛めば噛むほど、小麦の味が出てくる……」
「うどんと醤油って、こんなに合うんだな」
松本が頷く。
「むしろ、うどんそのものが主役って感じだな」
「釜玉もいいですよ」
蒼太が丼を見せる。
「卵が絡んで、コシは残ってるのに、
口当たりが一気にまろやかになる」
俺は一気に食べ終わり、蒼司に声をかけた。
「なあ、蒼司、さっきから気になってるだけど、あの……釜バターって、何なんだ?」
蒼司は一瞬きょとんとした顔をして、
それから少し笑う。
「ああ、あれ?簡単に説明すると‥‥」
「まず、茹でたての熱々のうどん。
そこに、生卵を落として」
「うん それは、釜玉だよな」
「そうだよ。その釜玉に、バターを乗せるだけ」
「……それだけ?」
思わず聞き返すと、蒼司はあっさり頷いた。
「あとは、醤油をほんの少し、仕上げに、黒胡椒」
「へえ……」
頭の中で想像してみる。
熱いうどん、卵、バター。
なんとなく、方向性は見えてきた。
「味は、どんな感じなんだ?」
「うーん、そうだね‥‥」
蒼司は少し考えてから言った。
「パスタのカルボナーラを、
うどんでやった感じに近いかな?
ただ、もっと軽いけどね」
「カルボナーラ……」
俺は、その言葉に反応する。
「え、それ、絶対うまいやつじゃん」
蒼司は小さく笑った。
「そうだね。カイトはカルボナーラ好きだから。きっと好きな味だと思うよ」
「ヤバ」
思わず変な声が出る。
「じゃあ俺、それ、注文してくるわ」
立ち上がろうとすると、すぐに突っ込まれた。
「え、まだ食べるの?」
「ああ。だってさ。
ここじゃないと、他じゃ食べられないだろ?」
「うん、まあ……多分そうだね」
一瞬の沈黙のあと、俺は気合を入れる。
「よし。じゃあ、取ってくるか」
すると、今度は青がさっと立ち上がった。
「あ、じゃあ俺も食べます」
蒼太も突っ込みを入れる。
「え、青さんも? まだ食べるの?」
そう聞くと、青は平然とした顔で言った。
「ああ。まだまだ全然、食べられるよ」
その余裕の表情に、思わず笑ってしまう。
——釜バター。
名前だけ聞くと変だけど、
今はもう、楽しみの方が勝っていた。
ここでしか食べられない味。
それを、みんなで並んで待っている。
その時間すら、悪くなかった。
やがて、フェリーの出発時刻が近づき、
俺たちは高松港へ戻った。
ターミナルを抜け、小豆島行きのフェリーに乗り込む。
今日もいい天気だ。
海は穏やかで、空と水面の境目がやけにくっきりしている。
「今日もいい天気でよかったな。風、気持ちいい」
甲板に出ると、潮の匂いを含んだ風が、
さっきまでの街の空気を洗い流していく。
俺と蒼司はフェリーの甲板に並んで立ち、
黙って海を眺めていた。
「……いやあ」
少し間を置いて、俺は言った。
「マジで、讃岐うどん、うまかったわ」
「でしょ」
蒼司が、どこか懐かしそうに笑う。
「蒼司、よく食べてたのか?」
「うん、そうだね」
「高松の人ってさ、朝からうどん食べるみたいで。本当、よくうどん食べてるよ」
「朝からはさすがにすごいな」
「まあ、俺も毎日ってわけじゃなかったけど」
蒼司は肩をすくめる。
「でも、昼と夜は、結構な頻度で食べてたかな」
「簡単だし。あと、安いしね」
その言い方が、やけに現実的で、
少しだけ教師だった頃の生活が透けて見える。
フェリーがゆっくりと岸を離れる。
高松の街が、また少しずつ遠ざかっていく。
俺と蒼司は、一旦、船内に戻った。
客室に入ると、青と蒼太と松本が、
テレビの前に並んで座っている。
三人とも、妙に真剣な顔だ。
「おっ、三人とも。
何、そんな真面目な顔して見てんだ?」
画面に目をやって、すぐに分かった。
「あ、甲子園か」
青が短く頷く。
「あ、はい。そうですね。今日は準決勝ですから」
テレビの音だけが、船内に静かに響いている。
実況と、バットの乾いた音。
その横で、松本が、少しだけ居心地悪そうに、俺に近づいてきた。
「……なあ、海斗」
声を落として、続ける。
「解説に、竜司、出てるぞ」
「えっ?」
思わず声が裏返る。
俺はもう一度、テレビを見る。
画面の端、解説席。
そこに映っているのは、間違いなく竜司だった。
「あ……」
思わず、息が漏れる。
——そうだ。
前に会ったとき、確か言ってた。
野球の解説の仕事、声がかかってるって。
「すげえな」
甲子園。
高校野球の、あの舞台の解説だ。
気づけば、俺は黙ったまま、テレビを見つめていた。
視線を外せない。
画面の中で、竜司の声が、淡々と試合を読み解いていく。
冷静で、でも、野球への熱がちゃんと伝わってくる。
船は静かに揺れている。
外では、島へ向かって、海を進んでいるはずなのに。
俺の意識は、しばらくの間、
甲子園の、その画面に釘付けになっていた。
試合は後半に入り、選手たちは給水のため、少し長めの休憩に入った。
その間、画面は解説席に切り替わる。
「さて、ここで一息、といったところですが——」
アナウンサーが、横に座る竜司の方を向いた。
「青柳さん。そういえば、高校野球時代、
本当に大活躍でしたよね。
二年連続で甲子園出場。三年生のときは、
甲子園準優勝。今でも記憶に残る名試合でした」
船内が、さらに静かになる。
テレビの前にいる全員が、画面に集中していた。
竜司は、表情を変えずに答える。
「はい、そうですね。
あのときのことは、今でも、
昨日のことのように覚えています」
一拍置いて、続けた。
「でも、俺一人の力で勝ち上がってきたわけじゃありません。
支えてくれたチームメイトがいましたし。
何より、エースに、本当に助けてもらいました」
落ち着いた声だった。
「今の俺があるのも。そのときの仲間、そしてエースのおかげです」
「うん……いい話ですね」
アナウンサーが、少し和らいだ声で相槌を打つ。
「本当に、高校野球って、いい話がたくさんありますよね」
「はい」
竜司は一度、短く頷いた。
けれど、そこで言葉を切らず、続けた。
「……でも、俺、一つだけ。
今でも心残りで、後悔していることがあって」
アナウンサーが、わずかに間を置く。
「えっ……それは?」
竜司は、目線を落とさず、淡々と話す。
「俺には、支えてくれた本当に大事な人がいました。でも、俺はその人を、ひどく傷つけてしまいました」
船内の空気が、わずかに張りつめる。
「今でも、本当に悪かったって思っています」
アナウンサーは、一瞬、言葉に詰まったようだった。
「あ……そうなんですね」
「はい」
竜司は、静かに続ける。
「でも、俺は‥‥。
その人のことを‥‥。
今でも、とても大事に思っています」
短い沈黙。
アナウンサーは、画面の進行を意識したように、少し声色を変えた。
「あ、ええ……。あ、どうやら、試合再開の準備が整ったようですね」
画面は、再びグラウンドへ切り替わる。
実況の声が戻り、歓声が重なる。
——けれど。
俺は、しばらく、テレビから目を離せなかった。
竜司の、最後の言葉が、胸の奥に、静かに残り続けていた。
テレビでは、まだ試合が続いている。
だが、テレビの前に集まった五人は、
誰一人として声を発しなかった。
ふと、視線を感じた。
顔を上げなくても分かる。
みんなが、俺を見ている――そんな気がした。
沈黙を破ったのは、松本だった。
「海斗、大丈夫か」
「……海斗?」
「ごめん。何?」
慌てて顔を上げる。
「大丈夫だよ」
そう答えたものの、自分の声がひどく遠く感じた。
「悪い……ちょっと、一人にしてくれ」
俺はそう言い残し、駆け足で客室を出る。
甲板へ向かうと、海と潮の匂いと風が一気に肌に当たった。
目の前には、暗い海と、その向こうに浮かぶ大きな影。
きっと、あれが小豆島なのだろう。
「……クソ」
なんでだよ。
あんな態度を取るつもりじゃなかった。
変に思われる。
蒼司だって、困るだろう。
分かっているのに――
それでも、体は勝手に動いていた。
島が、ゆっくりと大きくなっていく。
確実に、こちらへ近づいてくる。
甲板には、俺一人だけだった。
誰も、俺を追いかけては来なかった。