蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第29章 夏、旅行編 Ⅳ 〜伝えたい言葉

 

旅行3日目。

 

 

直島で一泊した俺たちは、

 

朝の宮浦港からフェリーに乗り、

 

香川県高松の街を目指す。

 

フェリーでおよそ60分。

 

島を離れるには、長すぎず短すぎず、

 

ちょうどいい時間だ。

 

 

 

甲板に出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。

 

港がゆっくりと遠ざかり、

 

直島の岸が少しずつ小さくなっていく。

 

「直島、いいところでしたね」

 

青が、手すりに寄りかかりながら言った。

 

声の調子は穏やかで、名残惜しさが少し混じっている。

 

「そうだな、今日は高松に寄って、それから小豆島だな」

 

船内に戻ると、

 

エンジンの低い振動が床から伝わってくる。

 

客室では、観光客らしいグループが地図を広げ、次の予定を話していた。

 

直島で過ごした時間は、静かで、余白が多かった。

 

それに比べて、この船の進行方向には、

 

生活の匂いがある。

 

やがて、前方に高松の街並みが見えてくる。

 

 

ビルの輪郭がはっきりしてきて、港のクレーンやターミナルの屋根が目に入った。

 

「……あ、見えてきた、すごい、大きな街だよ!」

 

蒼太が目を輝かせる。

 

島から街へ。

 

その切り替わりを、

 

俺たちは同じ船の上で受け取っていた。

 

高松港のターミナルを出ると、

 

潮の匂いに混じって、街の空気が一気に広がった。

 

海がすぐそこにあるのに、ビルも多くて、

 

人の流れもはっきりしている。

 

「へえ……ここが高松か。結構都会だな」

 

俺はきょろきょろと辺りを見回す。

 

「ここ、ここで蒼司が働いてたんだな」

 

「うん、そうだね。

 

市内の私立高校。なんだか懐かしいよ」

 

港から少し目線を上げると、

 

高松駅とその周辺がすぐそこに見えた。

 

直島の、時間がゆっくり流れる感じとは、

 

また違うリズムだ。

 

「じゃあ、次は小豆島行きのフェリーだよな」

 

「そうですね、まだ時間に余裕ありますね」

 

青が腕時計を見る。

 

次の便までは、まだ一時間以上ある。

 

俺はみんなの顔を見回して言った。

 

「じゃあさ、次のフェリーまで、

 

ちょっと自由行動にしないか?」

 

青がすぐに頷く。

 

「そうですね。じゃあ、少しブラブラしますか」

 

そう言って、松本が俺の隣に来る。

 

声を落として、ちょっと照れたように続けた。

 

「海斗、俺さ……実は、讃岐うどんってやつ、

 

本場の、食べてみたいんだよな」

 

「へえ、讃岐うどんか」

 

「それ、結構楽しみにしててさ」

 

素直な言い方が、なんだか松本らしい。

 

それを聞いて、蒼司が小さくクスッと笑った。

 

「いいですね、高松駅の近くにも、美味しいうどんの名店、ありますよ」

 

「駅の近くで?」

 

松本が少し身を乗り出す。

 

「はい。歩いて行けます。

 

セルフの店もあるし、時間もそんなにかかりませんよ」

 

「セルフか……?初めてだな」

 

「大丈夫ですよ。見よう見まねで」

 

そう言って、蒼司は軽く肩をすくめた。

 

そして、高松駅から歩いてほんの数分で、

 

蒼司のおすすめの店に到着する。

 

「ここが、セルフうどんのお店ですね」

 

蒼司は列の先頭に立ち、後ろを振り返って静かに言った。

 

「店員さんがすべて用意してくれるわけではなくて、自分で順番に選んでいく方式なんです」

 

一歩進みながら、前方のカウンターを指す。

 

「まず、こちらでうどんを注文します。

 

かけうどんや、ぶっかけ、ざるなどを選んで、サイズも小・中・大から決めてください」

 

蒼太が頷きながら尋ねる。

 

「先に天ぷらを取るんじゃないんですね」

 

「ええ。うどんが先です。

 

先に決めてしまった方が、流れが分かりやすいですよ」

 

蒼司は受け取った丼をそっと持ち上げて見せた。

 

「次に、こちらの天ぷらやおにぎりを取ります。

食べたいものを、お皿に乗せてください。

つい取りすぎてしまうので、その点だけご注意を」

 

 

少し微笑んで、先を促す。

 

「かけうどんを頼んだ人は、あちらで出汁を自分で注ぎます。

 

ネギや天かす、生姜などの薬味も、好みで加えて大丈夫です」

 

「最後に、レジでまとめて会計になります」

 

そう説明し終えると、蒼司は軽く視線を巡らせた。

 

「分からなければ、俺の後ろについて来てください。

 

一度やれば、すぐ慣れますから」

 

その穏やかな声に、皆の表情が少し和らいだ。

 

それぞれ、思い思いに注文を終え、空いている席についた。

 

「なんか……緊張したよ」

 

蒼太が、少し息を吐くように言う。

 

「僕、釜玉にしてみました」

 

「へえ」

 

青が覗き込むようにして聞く。

 

「青さんは、何にしたの?」

 

「ああ。俺は、しょうゆうどんだな」

 

「え? しょうゆ?」

 

蒼太が目を丸くする。

 

「しょうゆをかけて食べるみたいで。初めてだよ」

 

「俺は、ぶっかけだぜ」

 

俺は横から声を上げる。

 

「松ちゃんも、しょうゆ?」

 

「ああ。前から気になっててさ。

 

今日、ちょうどいい機会だと思って」

 

蒼太は順番に顔を見て、最後に蒼司へ視線を向ける。

 

「蒼司さんは?」

 

「俺は、普通にかけですね」

 

そう言って、蒼司は箸を取り、静かに一口すすった。

 

「……うん、美味しい」

 

その言葉につられるように、全員が一斉に箸を動かす。

 

「……う、うまい」

 

思わず漏れた誰かの声に、

 

テーブルの空気がふっと和らいだ。

 

「本当だ、このコシ?」

 

蒼太が目を丸くして、箸を止める。

 

「噛んだ瞬間、跳ね返ってくる感じがする」

 

「だな」

 

青が満足気にに笑う。

 

「柔らかいんじゃなくて、

 

芯がちゃんとあるんだよな」

 

「しかも、表面はつるっとしてて」

 

蒼太はもう一口すすり、ゆっくり噛みしめる。

 

「噛めば噛むほど、小麦の味が出てくる……」

 

「うどんと醤油って、こんなに合うんだな」

 

松本が頷く。

 

「むしろ、うどんそのものが主役って感じだな」

 

「釜玉もいいですよ」

 

蒼太が丼を見せる。

 

「卵が絡んで、コシは残ってるのに、

 

口当たりが一気にまろやかになる」

 

俺は一気に食べ終わり、蒼司に声をかけた。

 

「なあ、蒼司、さっきから気になってるだけど、あの……釜バターって、何なんだ?」

 

蒼司は一瞬きょとんとした顔をして、

 

それから少し笑う。

 

「ああ、あれ?簡単に説明すると‥‥」

 

「まず、茹でたての熱々のうどん。

 

そこに、生卵を落として」

 

「うん それは、釜玉だよな」

 

「そうだよ。その釜玉に、バターを乗せるだけ」

 

「……それだけ?」

 

思わず聞き返すと、蒼司はあっさり頷いた。

 

「あとは、醤油をほんの少し、仕上げに、黒胡椒」

 

「へえ……」

 

頭の中で想像してみる。

 

熱いうどん、卵、バター。

 

なんとなく、方向性は見えてきた。

 

「味は、どんな感じなんだ?」

 

「うーん、そうだね‥‥」

 

蒼司は少し考えてから言った。

 

「パスタのカルボナーラを、

 

うどんでやった感じに近いかな?

 

ただ、もっと軽いけどね」

 

「カルボナーラ……」

 

俺は、その言葉に反応する。

 

「え、それ、絶対うまいやつじゃん」

 

蒼司は小さく笑った。

 

「そうだね。カイトはカルボナーラ好きだから。きっと好きな味だと思うよ」

 

「ヤバ」

 

思わず変な声が出る。

 

「じゃあ俺、それ、注文してくるわ」

 

立ち上がろうとすると、すぐに突っ込まれた。

 

「え、まだ食べるの?」

 

「ああ。だってさ。

 

ここじゃないと、他じゃ食べられないだろ?」

 

「うん、まあ……多分そうだね」

 

一瞬の沈黙のあと、俺は気合を入れる。

 

「よし。じゃあ、取ってくるか」

 

すると、今度は青がさっと立ち上がった。

 

「あ、じゃあ俺も食べます」

 

蒼太も突っ込みを入れる。

 

「え、青さんも? まだ食べるの?」

 

そう聞くと、青は平然とした顔で言った。

 

「ああ。まだまだ全然、食べられるよ」

 

その余裕の表情に、思わず笑ってしまう。

 

——釜バター。

 

名前だけ聞くと変だけど、

 

今はもう、楽しみの方が勝っていた。

 

ここでしか食べられない味。

 

それを、みんなで並んで待っている。

 

その時間すら、悪くなかった。

 

やがて、フェリーの出発時刻が近づき、

 

俺たちは高松港へ戻った。

 

ターミナルを抜け、小豆島行きのフェリーに乗り込む。

 

今日もいい天気だ。

 

海は穏やかで、空と水面の境目がやけにくっきりしている。

 

「今日もいい天気でよかったな。風、気持ちいい」

 

甲板に出ると、潮の匂いを含んだ風が、

 

さっきまでの街の空気を洗い流していく。

 

 

俺と蒼司はフェリーの甲板に並んで立ち、

 

黙って海を眺めていた。

 

「……いやあ」

 

少し間を置いて、俺は言った。

 

「マジで、讃岐うどん、うまかったわ」

 

「でしょ」

 

蒼司が、どこか懐かしそうに笑う。

 

「蒼司、よく食べてたのか?」

 

「うん、そうだね」

 

「高松の人ってさ、朝からうどん食べるみたいで。本当、よくうどん食べてるよ」

 

「朝からはさすがにすごいな」

 

「まあ、俺も毎日ってわけじゃなかったけど」

 

蒼司は肩をすくめる。

 

「でも、昼と夜は、結構な頻度で食べてたかな」

 

「簡単だし。あと、安いしね」

 

その言い方が、やけに現実的で、

 

少しだけ教師だった頃の生活が透けて見える。

 

フェリーがゆっくりと岸を離れる。

 

高松の街が、また少しずつ遠ざかっていく。

 

俺と蒼司は、一旦、船内に戻った。

 

客室に入ると、青と蒼太と松本が、

 

テレビの前に並んで座っている。

 

三人とも、妙に真剣な顔だ。

 

「おっ、三人とも。

 

何、そんな真面目な顔して見てんだ?」

 

画面に目をやって、すぐに分かった。

 

「あ、甲子園か」

 

青が短く頷く。

 

「あ、はい。そうですね。今日は準決勝ですから」

 

テレビの音だけが、船内に静かに響いている。

 

実況と、バットの乾いた音。

 

その横で、松本が、少しだけ居心地悪そうに、俺に近づいてきた。

 

「……なあ、海斗」

 

声を落として、続ける。

 

「解説に、竜司、出てるぞ」

 

「えっ?」

 

思わず声が裏返る。

 

俺はもう一度、テレビを見る。

 

画面の端、解説席。

 

そこに映っているのは、間違いなく竜司だった。

 

「あ……」

 

思わず、息が漏れる。

 

——そうだ。

 

前に会ったとき、確か言ってた。

 

野球の解説の仕事、声がかかってるって。

 

「すげえな」

 

甲子園。

 

高校野球の、あの舞台の解説だ。

 

気づけば、俺は黙ったまま、テレビを見つめていた。

 

視線を外せない。

 

 

画面の中で、竜司の声が、淡々と試合を読み解いていく。

 

冷静で、でも、野球への熱がちゃんと伝わってくる。

 

 

船は静かに揺れている。

 

外では、島へ向かって、海を進んでいるはずなのに。

 

俺の意識は、しばらくの間、

 

甲子園の、その画面に釘付けになっていた。

 

 

試合は後半に入り、選手たちは給水のため、少し長めの休憩に入った。

 

その間、画面は解説席に切り替わる。

 

「さて、ここで一息、といったところですが——」

 

アナウンサーが、横に座る竜司の方を向いた。

 

「青柳さん。そういえば、高校野球時代、

 

本当に大活躍でしたよね。

 

二年連続で甲子園出場。三年生のときは、

 

甲子園準優勝。今でも記憶に残る名試合でした」

 

船内が、さらに静かになる。

 

テレビの前にいる全員が、画面に集中していた。

 

竜司は、表情を変えずに答える。

 

「はい、そうですね。

 

あのときのことは、今でも、

 

昨日のことのように覚えています」

 

一拍置いて、続けた。

 

「でも、俺一人の力で勝ち上がってきたわけじゃありません。

 

支えてくれたチームメイトがいましたし。

何より、エースに、本当に助けてもらいました」

 

落ち着いた声だった。

 

「今の俺があるのも。そのときの仲間、そしてエースのおかげです」

 

「うん……いい話ですね」

 

アナウンサーが、少し和らいだ声で相槌を打つ。

 

「本当に、高校野球って、いい話がたくさんありますよね」

 

「はい」

 

竜司は一度、短く頷いた。

 

けれど、そこで言葉を切らず、続けた。

 

「……でも、俺、一つだけ。

 

今でも心残りで、後悔していることがあって」

 

アナウンサーが、わずかに間を置く。

 

「えっ……それは?」

 

竜司は、目線を落とさず、淡々と話す。

 

「俺には、支えてくれた本当に大事な人がいました。でも、俺はその人を、ひどく傷つけてしまいました」

 

船内の空気が、わずかに張りつめる。

 

「今でも、本当に悪かったって思っています」

 

アナウンサーは、一瞬、言葉に詰まったようだった。

 

「あ……そうなんですね」

 

「はい」

 

竜司は、静かに続ける。

 

「でも、俺は‥‥。

 

その人のことを‥‥。

 

今でも、とても大事に思っています」

 

 

短い沈黙。

 

 

アナウンサーは、画面の進行を意識したように、少し声色を変えた。

 

「あ、ええ……。あ、どうやら、試合再開の準備が整ったようですね」

 

画面は、再びグラウンドへ切り替わる。

 

実況の声が戻り、歓声が重なる。

 

 

——けれど。

 

 

俺は、しばらく、テレビから目を離せなかった。

 

竜司の、最後の言葉が、胸の奥に、静かに残り続けていた。

 

テレビでは、まだ試合が続いている。

 

だが、テレビの前に集まった五人は、

 

誰一人として声を発しなかった。

 

 

ふと、視線を感じた。

 

顔を上げなくても分かる。

 

みんなが、俺を見ている――そんな気がした。

 

沈黙を破ったのは、松本だった。

 

「海斗、大丈夫か」

 

「……海斗?」

 

「ごめん。何?」

 

慌てて顔を上げる。

 

「大丈夫だよ」

 

そう答えたものの、自分の声がひどく遠く感じた。

 

「悪い……ちょっと、一人にしてくれ」

 

俺はそう言い残し、駆け足で客室を出る。

 

甲板へ向かうと、海と潮の匂いと風が一気に肌に当たった。

 

 

目の前には、暗い海と、その向こうに浮かぶ大きな影。

 

きっと、あれが小豆島なのだろう。

 

「……クソ」

 

なんでだよ。

 

あんな態度を取るつもりじゃなかった。

 

変に思われる。

 

蒼司だって、困るだろう。

 

分かっているのに――

 

それでも、体は勝手に動いていた。

 

島が、ゆっくりと大きくなっていく。

 

確実に、こちらへ近づいてくる。

 

 

甲板には、俺一人だけだった。

 

誰も、俺を追いかけては来なかった。

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