俺たちの船は、小豆島の土庄港に着いた。
直島とは比べものにならないほど大きな港だ。
フェリーが岸壁に寄せられると、
甲板にいた乗客たちが一斉に動き出す。
スーツケースを引く音、子どもの声、
エンジンの低い振動。
「島に着いた」というより、
町に入ったという感覚に近い。
タラップが降りると、次々に人と車が船を降りていく。
その流れに押されるように、
俺たちも桟橋へ足を踏み出した。
「わあ……すごいな」
蒼太が目を丸くして周囲を見渡す。
「直島はさ、ちゃんと“島”って感じだったけどさ」
港の先に並ぶ建物や、
遠くまで続く道を見て、蒼太は続けた。
「ここは……なんていうか、本当に町だね。島なのに」
「そうですね」
隣で蒼司が頷く。
「小豆島は、香川県の中でも一番大きい島ですから。町も一つじゃないんですよ」
「なるほど……」
青は思わず声を漏らした。
港の向こうには、商店や住宅が連なり、
車も普通に走っている。
観光客だけじゃなく、明らかに生活の匂いがする風景だ。
俺たちはひとまず、
町の中にある一棟貸しの宿に向かった。
今回の宿は、いわゆる古民家宿だ。
昔この島で人が暮らしていた家を、そのまま活かして改装した一軒家を、まるごと借りる。
玄関を開けると、まず土間があって、
その先に広い居間が続いている。
天井は高く、太い梁がそのまま残されていて、
古い家特有の木の匂いがほんのりと漂っていた。
「うわ……広い」
誰かが素直に声を漏らす。
奥にはキッチンがあり、
冷蔵庫や調理器具も一通り揃っている。
食事は外に食べに行ってもいいし、
島のスーパーで食材を買ってきて、
料理を作ることもできるらしい。
寝室は全部で三つ。
それぞれ独立していて、
布団がきちんと敷ける造りになっている。
ホテルみたいに廊下で隣の部屋と区切られているわけ
じゃないのに、不思議と落ち着く空間だ。
「ここ、僕たちだけで使っていいんだよね」
蒼太が少し遠慮がちに聞く。
「一棟貸しだからな」
青は笑って答えた。
「他の客はいない。気を使わなくていい」
それを聞いて、全員の表情が一気に緩んだ。
ホテルやゲストハウスと違って、
誰かに気を遣う必要がない。
夜にリビングで話してもいいし、
朝は起きた順にコーヒーを淹れてもいい。
ここは、旅先の宿というより、
**数日だけ借りた“俺たちの家”**みたいな場所だった。
俺たちはこの古民家で、二泊する予定だ。
小豆島での時間は、まだ始まったばかりだった。
俺たちはそれぞれ荷物を各部屋に置き、リビングに集まった。
昔ながらの広い家のリビングだ。
畳と木の床が混じった空間で、
窓からはやわらかい午後の光が差し込んでいる。
俺はいつもより口数が少ない自分に気づきながら、それでも口を開く。
「……じゃあさ、これからどうする?」
最初に反応したのは青だった。
「じゃあとりあえず、買い出しに行きましょうか」
続けて蒼太が言う。
「近くにスーパーがあるらしいです。
食材とか、足りないものを買ってきましょう。
今日はどうします? 外で食べてもいいですし、
ここで作ってもいいですし」
「ちなみにここ、庭でバーベキューもできるみたいですよ」
青が楽しそうに付け加える。
「あ、それいいね」
すぐに蒼太の声が重なる。
「佐々木コーチ、バーベキュー好きですもんね」
「ああ……まあな」
答えた瞬間、自分でもわかった。
声に、いつもの張りがない。
みんなは気づいていないふりをしているのか、
それとも本当に気づいていないのか。
それでも会話は止まらず、
次の予定の話へと自然に流れていく。
この古民家の広いリビングに、
にぎやかな声が少しずつ戻ってくる。
その中で俺だけが、ほんの少しだけ、
輪の外に立っているような気がしていた。
会話も一通り落ち着いたところで、青が口を開いた。
「じゃあ、買い出しに行ってきますね」
「じゃあ、今日はバーベキューだね。楽しみだな」
蒼太が、いつもの調子で続ける。
「じゃあ、俺も手伝います。一緒に行きます」
蒼司もそう言って立ち上がった。
「じゃあ、俺も」
俺が続いて名乗り出る。
「大丈夫です」
青が即座に答える。
「俺たち三人で大丈夫ですから」
蒼太も頷く。
「三人でちょうどいいですよ」
「でも‥‥」
一瞬、間が空く。
蒼太は悪気ない声で続けた。
「年長者の方たちは、のんびりしててください」
――年長者。
その言葉に、胸のどこかが小さく引っかかった。
けれど、俺は何も言わなかった。
指摘するほどのことじゃない。
そう自分に言い聞かせて、口をつぐむ。
その代わりに、青がやんわりと割って入る。
「蒼太‥‥」
少しだけ苦笑いを浮かべて、言った。
「お前、もう少し言葉の選び方、勉強しような」
「え?」
蒼太はきょとんとした顔で、青を見る。
自分が何を言ったのか、まだ分かっていないらしい。
リビングには、ほんの一瞬だけ、妙な沈黙が落ちた。
古民家には、俺と松本だけが残された。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、
家の中が静かになる。
松本が、ぽつりと口を開いた。
「……年長者、か。まあ、その通りだけどな」
苦笑いを浮かべて、続ける。
「あれ、悪気はないと思うよ。
たぶん、岡谷君なりに気を使ってくれたんだろ」
「……そうだな」
俺はちらっと松本を見る。
「海斗、お前、わかりすぎ」
松本は肩をすくめた。
「さっきのフェリーのテレビさ」
松本は視線を外しながら言う。
「明らかに動揺してただろ」
「……うん」
正直に頷く。
「あんまり、心配かけたくなかったんだけどさ」
「無理だよ」
即答だった。
「お前、普段が明るいからな。
ちょっとでも動揺すると、すぐわかる」
……反論できない。
「まあ」
俺は息を吐く。
「心当たりは、あるよ」
松本はそれ以上、踏み込まなかった。
代わりに、軽く言う。
「じゃあさ、ちょっと気分転換に散歩でもしようか」
「……そうだな」
俺たちは古民家を後にした。
外に出ると、古くから続く街並みが広がっていた。
低い家並みと、細い路地。
道は迷路みたいに入り組んでいて、
どこか時間が止まったようだ。
「なんか……風情あるな」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
松本はスマホを見ながら歩いていた。
地図アプリを確認しつつ、迷いなく路地を進んでいく。
まるで、最初から目的地が決まっていたみたいだ。
数分歩いたところで、松本が足を止める。
「お、ここだな」
「……松っちゃん、なんだよ、ここ」
俺は周囲を見回す。
「ただの普通の橋じゃねえか」
「いいから、あれ見てみな」
指さされた先に、小さな案内板が立っていた。
――土渕海峡
――世界一狭い海峡
――ギネス世界記録認定
「……へえ」
思わず、間の抜けた声が出る。
「これが海峡?」
橋の下を覗き込む。
水は静かに流れていて、どう見ても川みたいだった。
「ただの川だよな」
「ああ」
松本はあっさり頷く。
「見た目はな」
俺たちは並んで、しばらくその“海峡”を眺めた。
島と島のあいだ。
境目のはずなのに、簡単に跨げてしまいそうな距離。
「……世界一、か」
俺はぽつりと呟く。
「狭いってのも、悪くないだろ」
松本が言う。
「渡ろうと思えば、すぐ向こうだ」
その言葉が、妙に胸に残った。
「なあ、松っちゃん」
「ん?」
橋の欄干に肘をついたまま、俺は水面を見つめる。
「さっきのさ……竜司の言ってた“大事な人”って」
少し間を置いて、続けた。
「……あれ、やっぱり俺のことなのかな」
言葉にした途端、胸の奥がざわつく。
「いや」
すぐに首を振る。
「自意識過剰か。きっと、他の誰かのことだよな」
松本は、すぐには答えなかった。
海峡の向こうを一度だけ見てから、静かに言う。
「まあ……そう思いたい気持ちも、わからなくはないけどな」
俺は何も言わず、続きを待つ。
「でもさ」
松本は、はっきりとした声で続けた。
「竜司は、はっきり言ってたぜ。“エース”って」
その一言で、逃げ場がなくなる。
「……それ、まず間違いなくお前のことだろ」
しばらく、言葉が出なかった。
「……そっか」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「……困るよ」
思わず、正直な気持ちがこぼれた。
「そんなこと、今さら言われてもさ」
松本は、少しだけ間を置いた。
珍しく言葉を選ぶみたいに、
視線を落としてから、ゆっくりと口を開く。
「大丈夫だよ」
静かな声だった。
「竜司もさ……たぶんだぞ?」
念を押すように続ける。
「お前と寄りを戻したいとか、どうにかなりたいとか、
そういうつもりじゃないと思うぜ」
「……え?」
「ただな」
松本は肩をすくめた。
「竜司は、素直に伝えたいことを口にしただけじゃないかな」
俺は何も言えず、黙って聞いていた。
「だからさ、海斗」
松本は俺の方を見て、はっきりと言う。
「お前は、それをそのまま受け取ってればいいんじゃねえの?」
重たい言葉じゃない。
でも、逃げ道を塞ぐ言葉でもない。
『感謝でも、戸惑いでもいい』
そう言われている気がした。
「……うん」
短く頷く。
「そうだな」
「なあ、松っちゃん」
「ん?」
歩きながら、俺はふと足を止めた。
「このこと……蒼司に、何か言った方がいいのかな」
松本は少し考えるように、
視線を前に向けたまま答える。
「うーん……、何も言わなくていいんじゃないか?」
「……そっか」
「うん」
松本は軽く頷く。
「それよりさ、普段通りにしとけばいいんだよ」
「普段通り?」
「そう。それで、いいんじゃね?」
その言葉に、胸の奥がすっと軽くなる。
「……そうだな」
俺は小さく笑った。
「ありがとう、松っちゃん」
「ん? 何が?」
少しだけ間を置いて、俺は言った。
「俺さ、松っちゃんと親友で、本当に良かった」
「……感謝してる」
松本は一瞬、驚いた顔をしたあと、
すぐにいつもの表情に戻る。
「今さらかよ」
照れ隠しみたいに、ぶっきらぼうに言う。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
でも、それで十分だった。
俺と松本は、そのまま周囲を少し散策してから、
古民家へと戻った。
玄関を開けると、すでに中はにぎやかだった。
青たちは買い出しから帰ってきていて、
庭ではバーベキューの準備が着々と進んでいる。
飲み物、食材の袋、
テーブルの上に並び始めた紙皿や箸。
さっきまで静かだった家が、
もうすっかり“生活の音”で満ちていた。
俺たちに気づいた青が、顔を上げる。
「あ、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
口に出してから、ふと違和感を覚える。
「……っていうか、なんか変な感じだな」
「そうですよねー」
そう答えたのは蒼太だった。
「不思議なんですよ。ここ。
実家みたいな安心感っていうか」
「わかる」
松本が笑いながら頷く。
そのとき、蒼司が俺の方を見て、自然に言った。
「おかえり、カイト」
「……おう」
一瞬だけ、その呼び方に引っかかりそうになって、
でもすぐにそれを飲み込む。
「ああ、ただいま、蒼司」
蒼太が、買い物袋を持ったまま駆け寄ってくる。
「ねえ、飲み物もいっぱい買ってきたんですよ!もう始めましょうよ。お腹空いちゃって」
「準備、早いな」
「バーベキューですから!」
その勢いに、自然と笑ってしまう。
「松本さん、お酒飲みますか?」
蒼太がそう言って、飲み物を差し出す。
「あ、岡谷くん、ありがとう」
松本が受け取ろうとした瞬間、俺は思わず言った。
「おい、松っちゃん。飲むのはほどほどにしとけよ」
「なんでだよ」
即座に返ってくる不満そうな声。
そのやり取りに、みんながくすっと笑う。
夕方の光が庭に差し込み、
炭の匂いが少しずつ漂い始める。
さっきまで胸に残っていた重さが、
このにぎやかさの中で、
ほんの少しだけ、溶けていく気がした。
そのまま、楽しい雰囲気のまま、
バーベキューが始まった。
炭に火が入り、鉄板の上で肉が音を立てる。
夕方の空気に、煙とタレの匂いが混じっていく。
気づけば俺も、いつもの調子を取り戻しつつあった。
「おい、蒼司。その肉、まだだぞ」
「え、もう食べられそうだけど」
「ダメダメ」
俺はトングを構えたまま言う。
「それはな、じっくり、じっくり焼いてからだ」
「ほら、かぼちゃも」
鉄板の端を指して続ける。
「もうちょっと火を通さないとダメだからな」
「はいはい」
蒼司は素直に頷きながら、肉をひっくり返す。
それを見て、松本が笑った。
「あ、海斗。
お前、相変わらず焼き肉番長だな」
「うるせえ」
俺は即座に返す。
「焼き肉はな、芸術なんだよ」
「出た」
松本が肩をすくめる。
「佐々木コーチ、もう酔ってます?」
蒼太がからかうように言う。
「酔ってねえよ」
俺は即答する。
「まだ全然だ」
「怪しいなあ」
その横で、蒼太が肉ばかり取ろうとするのを見て、俺は言った。
「おい、岡谷」
トングを軽く振る。
「お前、野菜もちゃんと食えよ」
「えー」
蒼太が露骨に嫌そうな顔をする。
「今、肉のターンですよ」
「バランスが大事なんだよ、バランスが」
そんな会話が、あちこちで同時に飛び交う。
誰かが笑って、誰かが突っ込んで、
話題があちこちに“飛び火”していく。
五人分の声が、庭いっぱいに広がっていた。
日はすっかり落ち、あたりはもう暗くなっていた。
さっきまでのにぎやかさが嘘みたいに、
庭もリビングも、どこか静まり返っている。
みんな、笑い疲れたんだろう。
青は黙々と片付けをしていた。
使い終わった皿を重ね、ゴミをまとめ、
テーブルを拭いている。
「……アオ」
俺も立ち上がって声をかけた。
「悪いな。俺も手伝うよ」
「あ、ありがとうございます」
短くそう言って、青は作業を続ける。
ふと、リビングの方を見る。
ソファーには、松本と蒼太が並んでぐっすり眠っていた。
松本は少し口を開けて、蒼太は変な体勢のまま。
その少し離れたところで、蒼司も横になっている。
疲れが溜まっていたんだろう。
「……松本さん、結構、酒癖悪いんですね」
青が、苦笑いを浮かべて言う。
「まあな」
俺は小さく息を吐く。
「だから飲むのは控えろって言ったんだけどな」
「蒼太、だいぶ絡まれてましたよね」
「まあな」
「アオは、今日飲まなかったんだな」
「なんかそんな気分じゃなくて……」
「えっ?」
俺は予想外の返答に、調子が崩れる。
「あっ、みんな酔い潰れたら困るじゃないですか」
青は、慌てて言い直したように振る舞った。
しばらく無言で片付けを続けていると、
青がふと思い出したみたいに言った。
「カイトさん、お酒、強いですね」
「え? そうか?」
「はい」
青は頷く。
「結局、残ったお酒ほとんどカイトさんが
飲んじゃったじゃないですか」
「うーん……」
俺は首をかしげる。
「普通に飲んでたつもりなんだけどな」
「いや、いつもよりよく飲んでましたよ」
「…よく見てんのな?」
「‥‥あ、はい」
少し間を置いて、青は続けた。
「‥‥いつも、見てますから」
「えっ?」
俺は一緒言葉に詰まる。
淡々と青はゴミ袋をまとめて、軽く息をついた。
「……ふぅ。こんなもんかな」
「……悪いなほとんど片付けてさせちゃって」
「いえ」
俺は少し間を置いてから、何気ない調子で言った。
「なあ、ちょっと散歩しねぇか」
青は一瞬だけ考えるようにしてから、頷く。
「はい。そうですね」
「そこのコンビニまで行こうぜ」
二人で古民家を出る。
夜の小豆島は、昼間とは別の顔をしていた。
街灯は少なく、道は静かで、
聞こえるのは自分たちの足音だけだ。
コンビニで、アイスと飲み物を買う。
店を出たところで、俺は少しだけ方向を変えた。
「そうだ。ちょっと、こっち」
「……?」
昼間、松本と来た道。
俺は自然と、青を土渕海峡の方へ誘っていた。
「へえ……」
青は足を止めて、案内板を見上げる。
「これが、海峡ですか」
「ああ。な、すごいだろ」
橋の下を流れる水は、夜のせいか、
さらに静かに見えた。
近くのベンチに並んで腰を下ろす。
「バーベキューの後のアイスって、格別ですよね」
「だな」
短い会話のあと、また沈黙が戻る。
でも、不思議と居心地は悪くなかった。
何も話さなくてもいい、そんな静けさだった。
やがて、青が静かに口を開く。
「……カイトさん」
「ん?」
「元気になって、よかったです」
「ああ……」
俺は少しだけ視線を逸らす。
「すまんな。せっかくの旅行なのに」
「ううん」
青はすぐに首を振った。
「全然、そんなことないです」
少し間を置いてから、続ける。
「……カイトさんが元気ないとき」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと。
「俺、いつも、何もしてあげられないのが……
結構、辛くて」
思いがけない言葉だった。
「……え?」
青はアイスを持ったまま、視線を落とす。
「俺が辛いとき」
静かな声で言う。
「いつも、カイトさんに助けてもらいました」
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
「だから」
青は続ける。
「俺も、いつか力になりたいって思ってて」
一瞬、言葉に詰まってから。
「でも……」
俺は、考えるより先に言っていた。
「大丈夫だよ」
青の言葉を遮るみたいに、でも強くはなく。
「大丈夫‥‥。大丈夫だ」
青は何も言わず、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
夜の海峡は、変わらず静かにそこにあった。
青は、海峡を眺めたまま、静かに言った。
「……俺、この旅行、すごく楽しかったです」
夜の水面に視線を落としたまま、続ける。
「みんなの、いろんな顔が見れて」
「そうだな」
短く返す。
「また、機会があればさ」
俺は軽い調子で言った。
「みんなで行こうぜ」
「はい」
「近場なら、キャンプでもいいし」
「……はい」
青は小さく頷きながら、もう一度、海峡の先を見つめた。
それから、ぽつりと。
「……カイトさん」
「ん?」
「いつか二人で、行きませんか?」
「……えっ?」
一瞬で、頭の中が真っ白になる。
「お、おい、アオ」
慌てて言う。
「お前、酔ってるだろ」
青は首を振った。
「さっき言いましたよ。今日は飲んでないって……」
言われて思い出す。
「……あっ、そうだったな」
青は、ほんの少しだけ笑った。
「ふふ」
その笑顔は、どこか申し訳なさそうだった。
「冗談ですよ」
「……え?」
「いつもの仕返しです」
少し間を置いて。
「すみません」
「お、おい……」
俺は思わず声を上げる。
「普段、冗談言わない奴が言ったら、動揺するだろ」
青は、くすっと笑ってから、視線を外す。
「……帰りましょうか」
「そ、そうだな」
青は、海峡を渡ることなくその場で振り返った。
何も言わず、先に歩き出す。
その背中を見送りながら、俺は、さっきの青の表情を思い出していた。
――本当に、冗談だったのか。
独り言みたいに、つぶやく。
「……本当に、冗談だよな」
答えは、どこにもない。
俺たちは、その橋を渡らなかった。
小豆島の夜は、何も言わずに、静かに更けていった。