翌朝。
小豆島で迎える、二日目の朝だった。
朝食を終えたあと、簡単に話し合って、
今日は一日それぞれ自由行動にすることになった。
無理に予定を合わせるより、
行きたいところへ、行きたい人と行く。
島の時間には、その方が似合っている。
「松っちゃん、本当に今日ひとりでいいのか?」
玄関で、俺が声をかける。
「ああ」
松本は振り返って、軽く笑った。
「今日は俺、行きたいとこあるしな」
それから、少しだけ間を置いて続ける。
「ま、海斗はさ」
わざとらしく肩をすくめて。
「蒼司くんと、今日はゆっくりしてろよ」
「だってそうだろ」
にやっと笑う。
「お前ら、今回の旅行、ほとんど二人でゆっくりできてなかっただろ?」
「うん……まあ、そうかもな」
「だろ?」
松本は満足そうに頷いた。
「じゃあな」
そう言って、手を軽く振り、松本は先に出て行った。
少しして、青と蒼太も準備を終えて玄関に来る。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
二人は並んで外へ出て行き、
古民家の中には、俺と蒼司だけが残った。
「じゃあ、俺たちもそろそろ行くか」
「うん、そうだね」
玄関を出て、バス停まで歩く。
朝の島はまだ静かだった。
バスに揺られながら、窓の外を眺める。
オリーブ畑が増えてくると、蒼司がぽつりと言った。
「……なんか、景色が明るくなった」
「ああ」
俺は頷く。
「島の中でも、この辺は特にそうだな」
やがてバスは停まり、
俺たちはオリーブ公園に足を踏み入れた。
丘の斜面に広がるオリーブの木々。
白い建物と、遠くに見える瀬戸内の海。
昨日まで歩いていた町とは、
まるで別の場所みたいだった。
「わ……」
俺が思わず声を漏らす。
「本当に、海外みたいだな」
「だね」
蒼司は笑う。
「でも、不思議と落ち着くよ」
風が吹いて、オリーブの葉が擦れ合う音がする。
強すぎない光が、足元をやわらかく照らしていた。
丘を登る途中、白い風車が見えてくる。
丘の上に、白い風車が立っている。
「……あ、ここか」
俺は風車を見上げて言う。
「これ、風車の丘って言うんだな」
俺は少しだけ目を細める。
「SNSで見たことあるぜ。ここ」
「そうなんだ」
「ああ」
肩をすくめて続ける。
「なんかあれだろ。魔女みたいにホウキにまたがって、ジャンプして撮るやつ」
「ああ」
蒼司は笑う。
「定番だね」
風が吹いて、風車の羽根がゆっくり回る。
オリーブの葉が擦れる音が、静かに響いていた。
「やるか?」
俺が冗談半分で言うと、
蒼司は一瞬だけ考えるような顔をしてから、首を振る。
「いや、いいよ」
「そっか」
それだけ言って、俺は少しだけ視線を外す。
「カイト」
風車の丘の端で、蒼司が立ち止まった。
「俺、ちょっとここでスケッチしていいかな?」
スケッチブックを軽く掲げて、
少しだけ遠慮がちに言う。
「ああ」
俺は頷いた。
「俺は適当に散歩しとくから」
「うん、ありがとう」
蒼司はベンチに腰を下ろし、
鉛筆を取り出して、風車の方へ向き直る。
カリ、カリ、と
乾いた音が、風の音に混じって聞こえてくる。
俺はそれを邪魔しないように、
ゆっくりと丘の小道を歩き始めた。
オリーブの木の間を抜ける風。
葉の影が、足元で揺れる。
少し離れただけなのに、
さっきまで一緒にいた気配が、背中に残っている。
振り返ると、蒼司はもう紙に集中していて、
視線は完全に風車に向いていた。
——ああ、こういう時間も、悪くないな。
俺はポケットに手を突っ込んで、何も考えずに歩く。
観光らしいことをしているはずなのに、
気分は、ただの散歩だった。
少し早いが、俺たちは昼飯にすることにした。
園内のレストランは、
昼前だったこともあって、まだ空いている。
窓際の席に座ると、オリーブ畑と、
その向こうの海が見えた。
「何にする?」
「……オリーブそうめん、気になるな」
「だね」
メニューを覗き込みながら言う。
「せっかくだし、それにするか」
運ばれてきた皿を見て、蒼司が小さく声を上げた。
「……きれいだな」
淡い緑色のそうめん。
上にはオリーブオイルが軽く回しかけられていて、
小さな器に、透き通ったつゆが添えられている。
「いただきます」
箸を取って、ひと口。
「……あ」
蒼司が目を瞬かせる。
「思ったより、さっぱりしてる」
「だろ」
俺も頷く。
「オリーブって、もっと主張強いと思うよな」
「うん。でも、全然うるさくない」
そう言って、もう一口。
「なんか……落ち着く味だな」
そうめんは、つるっと喉を通る。
ほんのりとした油の香りが残るけど、重さはない。
「島の昼飯って感じだな」
「そうだね」
蒼司は笑う。
「観光地の料理っていうより、普通に食べやすい」
二人とも、あまり会話を挟まずに食べ進める。
窓の外では、
風に揺れるオリーブの葉が、きらきらと光っていた。
「……こういうの、いいな」
不意に、蒼司が言う。
「何が?」
「ゆっくり飯食うの」
少しだけ照れたように。
「時間気にしないでさ」
「そうだな」
昨日までの慌ただしさが嘘みたいだった。
食べ終わって、アイスコーヒーを一口。
「腹、ちょうどいいな」
「うん」
蒼司も頷く。
「午後、まだ歩けそうだ」
皿が下げられ、テーブルの上には、静かな余韻だけが残る。
昼飯を終えると、蒼司はまた、さっきのベンチに戻っていった。
スケッチブックを開き、今度は迷いなく鉛筆を走らせ始める。
さっきよりも、筆が早い。
もう、この景色の中に入ってしまっている感じだった。
小豆島には、まだ見ていない場所もたくさんある。
回れば、きっと次の風景にも出会える。
でも、俺は――
今日は、あまり動きたくないと思っていた。
無理に予定を詰めなくてもいい。
名所を全部回らなくてもいい。
風に揺れる木の音と、
紙を擦る鉛筆の音だけを聞きながら、
その場にいる。
それだけで、十分だった。
ベンチの端に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。
――こんなひととき、いいな。
そう、素直に思った。
しばらくして、
俺たちは土庄方面へ戻るバスに乗り込んだ。
昼過ぎの車内は、観光客もまばらで、静かだった。
エンジンの低い音と、窓の外を流れていくオリーブ畑。
隣に座った蒼司が、
少し迷うような素振りを見せてから、
スケッチブックを差し出す。
「……よかったら、見る?」
「ああ」
受け取って、ページをめくる。
「……へえ」
思わず声が漏れた。
「やっぱ、すごいな。蒼司」
風車の丘。
オリーブの木。
ベンチの影。
どれも、さっきまで俺たちがいた場所だった。
「ていうかさ」
ページをめくりながら続ける。
「これ、今日だけじゃないだろ」
「うん」
蒼司は少し照れたように頷く。
「いろんなところで描いてた」
「いつの間に?」
「時間あるとき」
少しだけ声を落として。
「こっそり」
その言い方が可笑しくて、俺は笑った。
「気づかなかったな」
「カイト、案外そういうとこ鈍いから」
「言うな」
そう言い返しながら、もう一度スケッチを見る。
線はラフなのに、空気とか、距離感とか、
ちゃんと残っている。
「……いいな、これ」
そう言うと、
蒼司はほんの少しだけ、胸を張った。
「ありがとう」
自慢するほどじゃない、って顔をしながら、
でも、どこか得意げで。
バスは、ゆっくりと坂を下っていく。
窓の外の景色と、スケッチブックの中の景色が、静かに重なっていった。
*
土庄の町に戻ってから、俺たちはそのまま歩いてエンジェルロードへ向かった。
港の方へ抜ける道を、十五分ほど。
潮の匂いが、少しずつ強くなってくる。
「あ……見えてきたな」
海の向こう、
さっきまで水に覆われていたはずの場所に、
細い道がうっすらと浮かび上がっていた。
「よし」
俺はスマホを見て言う。
「もう、干潮の時間だな」
蒼司も足を止めて、前を見つめる。
「……ほんとだ」
少し驚いたように。
「海の中に、道がある‥‥、実際見るのは初めてだよ」
足元の砂地を指して。
「たしか、干潮の前後、だいたい二時間くらいだけ、
道が出るんだ」
「じゃあ……」
蒼司が続ける。
「それ以外の時間は、全部海なんだね」
「ああ」
頷く。
「潮が満ちると、また消える」
目の前の道は、
島から島へと、一直線に伸びているわけじゃない。
ところどころ細くて、少し心許ない。
「天使の散歩道、って呼ばれてるらしい」
「……名前、きれいだな」
「まあな」
俺は苦笑する。
「恋人と渡ると、願いが叶うとか、よくあるやつだ」
蒼司は黙って、その道の先を見つめている。
波はもう、ほとんど足元まで引いていて、
砂がきらきらと光っていた。
俺は続ける。
「じゃあさ、一緒に渡ろうぜ、
見た目より、結構戻るの早いからな」
蒼司は不安そうに言う
「大丈夫かな、俺泳げないし‥‥」
俺は冗談めかして言う。
「タイミング大事」
蒼司は、少しだけ笑った。
「なるほど」
そして、静かに。
「……今しかない道、ってことか」
「ああ」
俺は短く答える。
「今だけだ」
目の前にあるのは、
渡れる道。
でも同時に、すぐに消えてしまう道でもある。
周りでは、同じように道を渡るカップルや観光客で賑わっていた。
笑い声やシャッター音が、
潮の引いた浜に混じっている。
俺は、その中でふっと蒼司を見る。
そして、何の前触れもなく、手を差し出した。
「じゃあ、一緒に行こうぜ」
蒼司は一瞬だけ目を瞬かせて、
それから、何も言わずにその手を取った。
「……うん」
小さく頷いて。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
歩き出そうとした、その瞬間。
「よし」
俺は言った。
「走ろう!」
「え?」
蒼司が、少し戸惑った声を出す。
「なんで?」
首を傾げて。
「ちょっとぐらいなら、歩いても大丈夫だよ」
「いや」
俺は前を見たまま言う。
「なんか、走りたい気分なんだ」
理由は、自分でもよく分からなかった。
「……わかった」
蒼司は、少し諦めたように笑って、
それでも、俺の手を離さなかった。
そして俺たちは、
手をつないだまま、走り出した。
足元の砂が跳ね、
周囲の声が一瞬、遠ざかる。
潮の匂いと、風と、
つないだ手の温度だけが、はっきりしていた。
ただ渡るだけの道なのに、
なぜか、今だけは急ぎたかった。
——消えてしまう前に。
そんな気がして。
俺たちはそのまま、
笑いもせず、言葉も交わさず、
手をつないで、エンジェルロードを駆け抜けた。
エンジェルロードを渡り切った俺たちは、
そのまま丘を登り、展望台――約束の丘へ向かった。
息を整えながら、振り返る。
高い位置から見るエンジェルロードは、
さっき歩いたときとは、まるで別のものみたいだった。
「……あ」
蒼司が、小さく声を漏らす。
潮が戻り始めていて、
さっきまで確かにあった道は、
もう半分ほど、海に沈んでいた。
波がゆっくりと覆っていく。
跡形もなく、というほどじゃないけど、
確実に、消えていく。
「ほんと……」
蒼司は手すりに手を置いたまま言う。
「ちょっとの時間だったね」
「ああ」
俺は、さっき走った方向を見つめる。
「道……」
間を置いて、続ける。
「そうだな」
下から見たときは、
渡るか、渡らないかだけの道だった。
でも、上から見ると、あんなに細くて、
あんなに心許ない。
「渡れたの、ギリギリだったな」
「うん」
蒼司は頷く。
「もう少し遅かったら、無理だった」
風が吹いて、展望台の鐘が、かすかに揺れた。
「……鐘、あるな」
俺が言うと、蒼司も頷いた。
「そうだね」
少し考えるようにしてから、ふっと笑う。
「江の島にも、鐘あったよね」
「そうだな」
俺も思い出す。
「懐かしいな」
一瞬、過去の景色がよぎって、
でもすぐに、今の風景に戻る。
「……なあ」
俺は、鐘の方を見ながら言った。
「この鐘、鳴らさないか。一緒に」
蒼司は少しだけ間を置いてから、うんと頷く。
「うん、いいね」
二人で並んで、鐘の前に立つ。
「もう旅行終わっちゃうね」
蒼司が、名残惜しそうに言う。
「そうだな、なんかあっという間だったな」
俺は空を見上げて返す。
「カイトは秋から監督か」
「しばらくは野球に専念したいんだ。だから、ごめん」
「何で謝るの?」
だってさ、時間とか――
言いかけた俺の言葉を、蒼司は遮るように話す。
「俺は、海斗が野球頑張ってるところ、見てるの好きなんだ」
そのまっすぐな言葉に、俺は一瞬言葉を失う。
無言になった俺を見て、蒼司は少しだけ息をつき、静かに続ける。
「俺は、常勤の話断わろうと思う。
俺はやっぱり絵描くの好きだから、だから、これからも絵に専念したいんだ」
「そっか」
胸の奥が熱くなるのを感じながら、俺は頷く。
「いいと思う」
そして、自然と笑みがこぼれた。
「俺も、蒼司が絵を描いてるところ見るの好きだから」
蒼司の目が、驚いたように見開き、それから柔らかく細
められる。
「じゃあ、約束」
「ああ、約束だ」
俺たちは顔を見合わせて、
同時に、鐘の紐に手を伸ばした。
『カーン、カーン』
澄んだ音が、丘の上から、静かに広がっていく。
消えてしまった道の上を越えて、
その音は、海の方へ流れていった。
約束の丘に、小さな余韻だけを残して。
何を約束するのか、言葉にはしなかった。
でも、
今この場所で、
この鐘の前に立って、
同じ景色を見ている意味は――
たぶん、同じ。
そう思っているのは、俺だけだった。
蒼司が、この時、何を考えていたかなんて、
俺にはわかるはずもなかった。