九月の始業式を目前に控えた、八月最後の週末。
俺はこれまで暮らしていた独身用の職員宿舎から、
野球部寮にもっとも近い世帯用の宿舎へ引っ越すことになった。
理由は単純だった。
これから野球部の監督として、選手たちの近くにいる必要がある。
とはいえ、世帯用というだけあって、部屋は一人暮らしには少し広すぎるくらいだった。
二階の部屋。
そして、その上の階には佐伯青と岡谷蒼太が住んでいる。
引っ越し当日は、青と蒼太、それに松本まで手伝いに来てくれた。
「よいしょ……っと」
最後の段ボールを床に置く。
俺は部屋を見渡した。
まだ家具もまばらで、段ボールがあちこちに積まれている。
それでも、とりあえず生活できるところまでは持ってこられた。
「ふぅ。こんなもんか」
俺が腰を伸ばすと、三人がそれぞれ顔を上げた。
「ありがとな、みんな。手伝ってくれて」
青は冷蔵庫の位置を確認しながら、コンセントを差し込んでいる。
「俺引っ越しのバイトやってたんで、こういうの得意なんで。大丈夫です」
「さすがアオ」
その横で、蒼太が部屋の中を見回す。
「それにしても、一人で住むには広いですね」
「そうだな。俺一人にはちょっと広すぎるな」
「佐々木コーチ……」
蒼太が一瞬考えてから、
「あ、違った。佐々木監督。これからご近所ですね」
「そうだな。お前らからしたら、俺が近所って嫌じゃないのか?」
「いやいや、そんなことないですよ」
蒼太は笑った。
「でも、いくら監督だからって、一人でこんな広い部屋、どうするんですか?」
「どうするって言われてもな」
蒼太は突然、部屋の奥を指差した。
「じゃあ、ここが監督の部屋」
「うん」
「ここが監督の執務室」
「勝手に決めるな」
「で、ここがトレーニングルーム」
「おい」
俺が呆れていると、蒼太は楽しそうに続けた。
「監督専用トレーニングルーム。毎日ここで筋トレ」
「俺、毎日筋トレしないから」
「じゃあ、ゲストルームにでもしとくか」
松本が口を挟んだ。
「客なんかそんなに来ないだろ」
「いやいや」
松本がニヤリと笑う。
「同棲とか、普通にできそうだな」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……松ちゃん」
蒼太が笑いながら、
「確かに。僕たちも二人で住んでも全然余裕ありますもん」
「お前まで乗るな」
俺は苦笑した。
そんな俺たちのやり取りを、青は少し離れたところから黙って聞いていた。
やがて、冷蔵庫の設置を終えると、青が何気なく口を開いた。
「……今日、青柳先生は?」
俺は一瞬だけ動きを止めた。
「ああ……今日は用事があるって」
「そうなんですか」
青はそれだけ言った。
松本が段ボールを畳みながら、
「用事って?」
「え?」
「また個展とかか?」
「ああ……」
俺は少し言いにくそうに答えた。
「いや、とくに詳しくは聞いてない」
その瞬間、青の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
けれど、俺には分かった。
青が何かを考えている。
「……そうですか」
それ以上、青は何も言わなかった。
部屋の中に、ほんの少しだけ妙な沈黙が流れる。
俺はその空気を打ち消すように、手を叩いた。
「ま、とにかくだ」
三人を見る。
「今日は本当にありがとう。あとは俺一人でぼちぼち片付けるから」
俺は段ボールの山を指差した。
「今日は飯、俺が奢るわ」
蒼太の顔がぱっと明るくなった。
「やったー!」
「お前、そこだけ反応早いな」
「だって引っ越し手伝ったんですよ?」
「まあ、それはそうだけど」
「じゃあ、焼肉!」
「いきなり高いものを要求するな」
「えー」
蒼太が不満そうな顔をする。
松本が笑った。
「いいじゃん。監督の新居祝いってことで」
「新居祝いって、お前らが俺に祝われる側になってないか?」
青も小さく笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
俺は三人を見ながら笑った。
新しい部屋。
そして、これから始まる監督としての新しい生活。
この部屋で、俺はどんな日々を過ごすことになるのだろう。
そんなことを考えながら、俺は最後の段ボールを壁際へと移動させた。
焼肉店を出ると、夜の街には少しだけ涼しい風が吹いていた。
夏の終わりを感じさせる風だった。
店の前で、青が俺に頭を下げる。
「佐々木監督、ごちそうさまでした」
蒼太も続く。
「ごちそうさまでした!」
「いや、いいよ」
俺は苦笑しながら蒼太を見る。
「しかし岡谷、めっちゃ食ったな」
「だって、お祝いですから」
「お祝いってただの引っ越しだろ」
「だからですよ」
蒼太は満足そうにお腹をさすった。
「しっかり働いたんで、しっかり食べました」
「まあ、いいけどな」
その様子を見ていた松本が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、蒼司くんも来ればよかったのにな」
「ああ」
俺は何気なく答えた。
「でも、明日の夕方から蒼司に会うから」
「そうなんだ」
松本が俺を見る。
「蒼司の実家のリフォーム、完成したから」
「ああ!」
松本が頷いた。
「竜司がリフォームしたってやつか」
「そうそう」
俺も頷く。
「結構時間かかったみたいだけど、やっと完成したらしい」
松本は少し笑うと、俺の肩をぽんと叩いた。
「……海斗、明日頑張れよ」
「……?」
俺は松本を見る。
「何を?」
「あの放送以来始めて会うんだろ」
「まあ、そうだけど……」
俺は何を頑張るのか、よく分からなかった。
けれど、とりあえず頷く。
「おぅ。しっかりやってくるわ」
「それでいい」
松本は満足そうに笑った。
その横で、青が静かに口を開く。
「じゃあ、僕たちはこれで」
「うん。今日は本当に助かった」
「もし、また何かお手伝いがあれば、いつでも呼んでください」
「ああ、頼むよ」
蒼太が手を振る。
「さようなら、佐々木監督!」
「おう。気をつけて帰れよ」
青たちの車が出ていく。
少しして、松本が振り返った。
そして、また俺の肩をぽんと叩く。
「青くんか……」
「ん?」
「海斗、モテ期だな」
俺は思わず顔をしかめた。
「松ちゃん、冗談でもよしてくれよ」
「悪い悪い」
松本は笑った。
「海斗、しっかりな」
「……何だよ、それ」
俺も笑いながら手を上げた。
「わかった。じゃあな」
「じゃあな」
松本の車が、少しずつ遠ざかっていく。
俺はその場に一人残った。
明日の夕方には、蒼司に会う。
リフォームが完成した実家を見に行く。
ただ、それだけのことだと思っていた。
少なくとも、このときの俺は――
松本がなぜあんなことを言ったのか、まだ分かっていなかった。
*
翌日。
昼過ぎ。
俺は蒼司と一緒に、新しくリフォームされた蒼司と竜司の実家へ向かった。
車を降りて、家を見上げる。
俺は思わず言葉を失った。
「……すごいな」
それが、一番最初に出てきた言葉だった。
以前の家の面影は、ほとんど残っていない。
外壁も、玄関も、窓も。
まるで別の家に建て替えたように見える。
「すごいな」
隣で蒼司が笑う。
俺たちは玄関に向かった。
チャイムを鳴らしドアを開ける。
「おっ」
中から声が聞こえた。
「やっと来たな」
玄関に竜司が立っていた。
「竜司、久しぶり」
竜司の隣には、もう一人いた。
「海斗さん」
「ん?」
「お久しぶりです」
「流星くん」
俺は笑って声をかけた。
「元気そうだな」
「はい!」
流星は嬉しそうに笑った。
「海斗さんも元気そうですね」
「俺は元気だよ」
「監督になったんですよね?」
「ああ。」
流星の目が輝く。
「俺、海斗さんが監督って聞いて、すごく嬉しかったです」
「そうか?」
「はい!」
竜司が苦笑する。
「最近そればっかりだからな。
とりあえず、上がれよ」
「お邪魔します」
俺と蒼司は玄関を上がった。
廊下を抜けてリビングへ入る。
「おお……」
思わず、また声が出た。
広い。
そして明るい。
以前の家を知っているだけに、余計にその変化が分かる。
「すごいな、竜司」
「だろ?」
「本当に全部やったんだな」
「まあな。せっかくなら、ちゃんと住みやすくしたかったから」
リビングには、竜司の両親もいた。
「おかえり、蒼司」
「ただいま」
「海斗くんも、いらっしゃい」
「あっ、どうも。お久しぶりです」
「元気そうね」
「はい。元気です」
母親が蒼司をじっと見る。
「蒼司……」
「ん?」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「また痩せてない?」
「え?」
蒼司が苦笑する。
「そんなことないって」
「ちゃんと食べなさいよ」
「はいはい」
俺は思わず笑ってしまった。
「相変わらずだな」
蒼司が俺を見る。
「カイトまで笑わないでよ」
「いや、いいなと思って」
「何が?」
「こういうの」
俺がそう言うと、蒼司は少し照れたように笑った。
その横では、流星が俺のすぐそばに立っていた。
さっきからずっと俺の近くにいる。
「流星くん」
「はい?」
「どうした?」
「いや……」
流星は少し照れながら言った。
「海斗さんと話したかったんです」
「そうなのか?」
「はい。高校の話です。
俺も蒼陵高校に行きたいなって」
その言葉に、竜司が困ったような顔をした。
「最近、流星はそのことばっかり話すんだよ」
「だって……」
「あんなに勉強して中高一貫校に入ったってのに……」
「でも、蒼陵高校で野球やりたい」
「流星、お前なぁ……」
「だって海斗さんが監督なんだよ?」
「それは分かるけど」
「カイト、流星に高校野球の厳しさ教えてやって」
「わかった、わかった」
俺は笑った。
流星がすかさず口を挟む。
「俺が勝手に行きたいって思ったんです」
「まあ、嬉しいけどな」
俺が流星を見る。
「俺が監督になったからって、それだけで高校を決めるのはやめとけよ」
「……はい」
「ちゃんと考えて決めるんだぞ」
「でも……」
「でも?」
「海斗さんが監督なら、絶対行きたいって思うんです」
俺は思わず笑った。
「でもな、高校野球はそんなに甘くないから」
「厳しいですか?」
「そりゃ厳しいよ」
「じゃあ、もっと頑張らないと」
流星は真剣な顔をした。
竜司が頭を抱える。
「ほら……またやる気になってる」
「いいじゃん」
俺は笑った。
「目標があるのはいいことだろ」
「まあ、そうだけどな」
そのとき、竜司の母親が声をかけた。
「蒼司、海斗くん」
「はい」
「今日はご飯食べていってね、せっかく来たんだから」
父親も頷く。
「そうだ。今日は新しい家のお披露目も兼ねてるんだから」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「じゃあ、ご馳走になります」
蒼司も続ける。
「わかったよ」
「よかった」
母親が嬉しそうに笑った。
竜司が立ち上がる。
「じゃあさ。家の中、案内するよ」
「いいのか」
「せっかくリフォームしたんだから、見ていってくれ」
俺と蒼司は顔を見合わせた。
「じゃあ、お願いします」
「行こうか、蒼司」
「うん」
竜司は先に歩き出した。
「まずは一階からな」
流星もすぐに立ち上がる。
「俺も行く!」
「お前は何回も見てるだろ」
「いいじゃん!」
「はいはい」
俺たちは笑いながら、竜司の後をついていった。
新しく生まれ変わった家。
そこには、以前とは少し違う空気が流れていた。
竜司の案内で、俺たちはまず一階を見て回った。
「ここが両親の部屋」
「へぇ、一階になったんだ」
「キッチンも新しくしたんだな」
「もちろん」
キッチンには収納も多く、動線もよく考えられている。
「かなり機能的だな」
「母さんが料理するからな。使いやすいほうがいいだろ」
「なるほど」
その隣にはリネンスペースまであった。
「リネン?」
「タオルとか、まとめて収納できるようにした」
「ホテルみたいだな」
さらに浴室を見せてもらう。
「風呂も広くなったな」
「バリアフリーにした」
「両親のためか」
「ああ。これから年を取っていくからな」
浴室の入口には段差がなく、手すりも設置されている。
「すごいな」
俺は改めて家の中を見渡した。
「ちゃんと先のことまで考えてるんだな」
竜司は少し照れくさそうに、
「まあな」
と答えた。
そして俺たちは二階へ上がった。
階段を上がると、竜司が一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここは蒼司の部屋な」
「え?」
蒼司が少し驚いた顔をする。
「俺の部屋なんか、いいのに」
「まあ、いいじゃねぇか」
竜司がドアを開ける。
「前の部屋より一回り大きくなってる」
蒼司が中を覗く。
「結構広いね」
「絵も余裕で描けるだろ」
「……うん」
蒼司は部屋を見渡した。
どこか素っ気ない返事だった。
「休みの日とかさ」
竜司が言う。
「気軽に帰ってこいよ」
「……分かった」
蒼司は少し間を置いて、
「たまにはね」
と答えた。
その言い方は、どこか妥協しているようにも聞こえた。
竜司もそれ以上は何も言わなかった。
俺は二階の廊下を見渡す。
「すごいな……二階にもトイレと洗面所作ったんだな」
「それだけじゃないぞ」
竜司が別のドアを開ける。
「シャワー室まである」
「え?」
俺は思わず笑ってしまった。
「二階にシャワー室まで作ったのかよ」
「まあな」
竜司が少し得意げに笑う。
「これは俺のこだわり」
「いや、こだわりすぎだろ」
「いいだろ別に」
「確かに便利だけどな」
「だろ?」
次に竜司が向かったのは、別の部屋だった。
「ここが流星の部屋な」
「えっ」
竜司がドアを開けようとすると、流星が慌てて前に出てきた。
「あっ、中はダメだよ!」
「少しくらいいいだろ?」
「ダメ!」
「なんで?」
「散らかってるから!」
「ははっ」
俺は思わず笑った。
「中学生らしいな」
「笑わないでくださいよ」
流星が少し恥ずかしそうにする。
「ちゃんと片付けろよ」
「分かってるって!」
竜司も笑っている。
「夏休みの間はほとんどこっちに来てたんだよ」
「そうなのか?」
俺が流星を見る。
「はい」
流星は嬉しそうに頷いた。
「新しい部屋、気に入った?」
「はい!だって、自分の部屋ですよ?」
「そりゃそうだな」
「寮と違ってちゃんと個室だし」
「よかったな」
「はい!」
流星は満面の笑みを浮かべた。
竜司はそんな流星を見て、少し嬉しそうだった。
「で、次」
竜司が廊下の先へ進む。
「ここが俺の部屋」
「竜司の?」
「ああ」
ドアが開く。
俺は少し中を覗いた。
そこには大きめのデスクがあり、その上にはノートパソコン。
さらに隣には、何台かのデスクトップまで置かれていた。
「へぇ……」
俺は思わず声を漏らす。
「俺の知ってる竜司の部屋じゃないな」
「なんだよ、それ」
「もっとこう……」
俺は少し考える。
「雑然としてたイメージがある」
「失礼だな」
竜司が笑う。
「ちゃんと社会人してるだろ?」
「まあ、確かに」
「仕事、ここでやってるからな」
「なるほど」
机の上には仕事関係の資料も並んでいる。
「ちゃんと仕事場になってるな」
「だろ?」
竜司は少し得意げだった。
「で、最後」
廊下の一番奥にある部屋の前で、竜司が立ち止まる。
「ここはゲストルームだな」
「ゲストルーム?」
「ちょっと狭いけど」
竜司がドアを開ける。
「急な来客とか、荷物置きとかにも使える」
俺は部屋の中を見る。
ベッドを置くには十分な広さ。
必要最低限の家具なら置けそうだった。
「なるほどな」
俺が頷く。
そのときだった。
竜司と俺の目が合った。
ほんの一瞬。
けれど、竜司の視線が妙に意味ありげに感じられた。
――まるで、この部屋について俺に話しているような。
俺は何となく、その視線から逃げるように目を逸らした。
「……まあ、こんな感じだな」
竜司が何事もなかったかのように言った。
「うん」
俺もそれ以上は何も言わなかった。
新しくなった家。
きれいになった部屋。
そして、以前にはなかった「ゲストルーム」。
俺はその部屋を、もう一度だけ振り返った。