その後の夕食は、賑やかだった。
外はまだ明るい。
食事を終えると、流星が俺に声をかけてきた。
「カイトさん、投球を見てもらえませんか?」
「投球?」
どうやら、自分のピッチングを見て欲しいらしい。
俺は竜司と顔を見合わせた。
「じゃあ、行くか」
俺と竜司、そして流星の三人で、昔からよく知っているあの公園へ向かった。
蒼司はついてこなかった。
「たまには両親とゆっくり話したいから」
そう言って、家に残った。
俺は、とくに気に留めなかった。
まさかこの年になって、竜司と、その息子と三人でこの公園に来ることになるなんて。
昔の俺には、想像もできなかった。
公園に着くと、竜司が俺に言った。
「カイト、監督として厳しく見てやってくれ」
「厳しく?」
「ああ。そうすれば、蒼陵高校を諦めると思うから」
竜司は冗談めかしていたが、俺には本気で言っていることが分かった。
どうやら流星の実力を見て、現実を教えてほしいらしい。
俺は苦笑しながら、ミットを構えた。
「流星くん。まずは好きな球を投げてみて」
「はい。なんだかセレクションみたいで緊張します」
流星は少し緊張した表情で、投球する位置についた。
そして、俺はふと気づいた。
「……ちょっと待って」
「はい?」
「まさか……左投げか?」
「はい。俺、左利きですから」
俺は一呼吸置いた。
左投げか。
高校野球では、左投手はそれだけで一つの武器になる。
俺はもう一度ミットを構えた。
「じゃあ、投げてみろ」
流星が振りかぶる。
そして――
一球目。
ストレート。
バシッ!
ミットに、気持ちのいい音が響いた。
俺はボールを返しながら言った。
「……悪くない」
中学生として考えれば、十分に合格点だ。
少なくとも、これなら投手として勝負できる。
「流星くん、変化球は投げられるか?」
「はい。スライダーなら、なんとか」
「じゃあ、投げてみて」
流星はもう一度構える。
そして――
バシッ!
ボールが、最後にクッと曲がった。
左投げのスライダー。
俺は思わず目を見開いた。
……これは。
俺の中で、何かが引っかかった。
ただの変化球じゃない。
左投手が投げるスライダー。
しかも、今の球なら――
(……武器になる)
思わず、心の中でそう呟いていた。
「竜司、悪いけどキャッチャーやってくれ」
「え、俺が?」
竜司が嫌そうな顔をする。
「俺、キャッチャー苦手なんだよな……」
そう言いながらも、竜司はミットを手に取り、流星の正面に座った。
俺は少し離れたところから、流星の投球を見守る。
「流星くん、もう何球か投げてみろ」
「はい!」
流星が構える。
そして――
バシッ!
「おい!」
竜司が思わず声を上げた。
「速いって!」
俺は何も言わず、流星を見つめる。
その後も、ストレートの勢い、コントロール、スライダーの曲がり方など、一通りチェックしていった。
しばらくして、投球を終える。
流星は少し不安そうな顔で俺を見る。
「……どうでしたか?」
俺は少し考えてから答えた。
「率直に言って、悪くはない」
流星の表情がわずかに動く。
「左投手は貴重だからな。十分、武器になると思う」
「えっ……本当ですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
だが、そこで言葉を止める。
「ただし――」
流星を見る。
「蒼陵は強豪だ」
俺は真顔で続けた。
「エースになれる保証はない。いや、レギュラーになれる保証だってない」
流星は黙って聞いている。
「下手をすれば、三年間、満足に試合にすら出られないかもしれない」
流星の顔から笑顔が消えた。
それでも、俺は言葉を続ける。
「それでも、本気で野球をやりたいなら、来ればいい」
「……」
「流星くんの覚悟次第だよ」
流星はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……わかりました。ありがとうございました」
その姿を見て、竜司が「あちゃー」という顔をする。
流星が歩いていったあと、竜司が俺を見る。
「おい、カイト。厳しくしてくれって言ったのに」
「俺は厳しくしたよ」
俺は苦笑する。
「でも――」
流星の背中を見る。
「さすが竜司の子どもだな」
「……」
「センスあるよ」
竜司は大きくため息をついた。
「はぁ……また母親と揉めるだろうな」
その顔には、もう半ば諦めたような表情が浮かんでいた。
*
流星は先に家へ帰っていった。
公園には、俺と竜司だけが残された。
さっきまで聞こえていたボールの音もない。
静かな公園。
俺たちは、二人きりだった。
不思議だった。
俺は、妙に落ち着いていた。
竜司と一緒にいるのに。
あの頃なら、胸が締めつけられていたはずなのに。
……なんでだ?
俺は自分の気持ちが分からなかった。
ただ懐かしいだけじゃない。
きっと、それだけじゃない。
俺たちは、あの時、別れたときの二人じゃない。
時間が流れて、いろんなものが変わった。
俺も変わった。
竜司も変わった。
それなのに――
俺の中には、まだ何かが残っている。
この気持ちは……なんなんだ。
「カイト?」
竜司の声で我に返った。
「どうした?」
竜司が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「疲れたか?」
「いや……大丈夫」
そう答えたものの、何を話せばいいのか分からない。
この沈黙が、妙に気まずかった。
俺は、とにかく何か話そうと思った。
そして、ふと思い出したことを口にした。
「なぁ」
「ん?」
「この前、野球の解説の仕事してただろ」
竜司の表情が止まった。
「……えっ?」
驚いたように俺を見る。
「見たよ」
「そっか……」
竜司は少し照れたように笑った。
「まぁ、カイトがきっと見てるだろうなって思って、あえて言ったんだけどな」
「……そうだったのか」
また静かになる。
公園の木々が、風でわずかに揺れていた。
竜司が俯く。
「……ごめんな」
「え?」
「あんなこと言って」
竜司の声が低くなる。
「カイトを困らせるだけなのに……」
俺は黙って聞いていた。
「俺、本当に最低なことしたと思ってる」
その言葉を聞いた瞬間、俺は反射的に答えた。
「もう謝らなくていい」
竜司が顔を上げる。
「もう、いいんだ」
俺は竜司を見た。
「お前の気持ちは分かった」
言葉を選びながら続ける。
「だから、その気持ちは、そのまま受け取っておくよ」
竜司の目が揺れた。
そして――
一歩、俺に近づいた。
「カイト」
「……ん?」
「それって……」
竜司が俺を見る。
「俺にも、まだ……望みはあるってことか?」
「えっ?」
俺は戸惑った。
「ちょっと待ってくれ」
その瞬間だった。
竜司が俺の腕を掴んだ。
「竜司……」
思ったより強い。
「こんな俺だけど……」
竜司の声が震えている。
「お前のこと、大切にする」
「竜司、ちょっと痛いって……」
そう言った俺の声は、もう届いていなかった。
竜司の顔が近づいてくる。
近い。
近すぎる。
「俺さ……」
竜司が呟く。
「この気持ち、ずっと胸の中にしまうって決めてた」
「竜司?」
「もう、カイトを困らせたくないって」
竜司の目が、まっすぐ俺を捉える。
「でも……」
一瞬、言葉が途切れる。
そして――
「好きだ。カイト」
胸の奥が、ドクンと鳴った。
「好きなんだ……」
その言葉を聞いた瞬間だった。
時間が止まったような気がした。
目の前にいる竜司が、今の竜司じゃなくなる。
あの日の竜司。
俺が好きだった竜司。
別れた日の記憶。
あの頃の声。
あの頃の笑顔。
全部が一気に蘇ってくる。
やめろ。
もう、終わったことだ。
そう思っているのに。
胸の奥が、勝手に反応する。
俺は何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からない。
竜司の顔が、さらに近づく。
俺は逃げなかった。
逃げられなかった。
そして――
気がついたときには、俺は竜司とキスをしていた。
唇が触れた瞬間、胸の奥にしまい込んでいた何かが、一気に弾けた。
竜司の熱が伝わってくる。
俺は息をするだけで精一杯だった。
俺はふと松本の言葉を思い出す。
『海斗が幸せになるのが、一番いいと思っているよ』
これが俺の望む幸せなのか?
わからない。
もう、何も考えれない。
ただ、目の前にいる竜司の熱を受け止めていた。
蒼の向こうでそれでも君を待つ 一完一