俺はいつも朝5時半には目を覚める。
ただ、今日は起きられなかった。
目を覚まして、枕元の時計を見る。
5時45分。
――やばい。
グラウンド集合時間は朝6時。
胸が一気にざわつく。
俺は布団を蹴飛ばすように起き上がり、
顔もろくに洗わず、急いで着替えた。
スパイクとグローブを掴み、家を飛び出す。
外はまだ薄暗く、空気がひんやりとしている。
息が白くなるほどではないが、寝起きの身体にはやけに冷たい。
全力でグラウンドへ向かった。
――間に合え。
息を切らしながら到着したのは、6時ちょうど。
グラウンドに入ると、すでに青が先に来ていて、黙々と準備をしていた。
朝六時。
簡単な朝礼を済ませ、練習が始まる。
今日も、球児たちはランニングから。
号令と同時に、グラウンドを駆け出していく球児たちの背中を横目に、俺は先に、黙々と準備をしていた青のところへ向かった。
「……佐伯」
声を落として呼ぶ。
「悪い。今日、寝坊した」
青は一瞬だけ手を止めて、こちらを見た。
「佐々木先生が寝坊、ですか。珍しいですね」
冗談めいた口調。
けれど、その目は、どこか探るようだった。
「やっぱり……最近、何かありました?」
「いや」
俺は首を振る。
「なんでもねえよ」
そう言ったつもりだった。
それ以上、踏み込まれるのを避けるように。
けれど、青は引かなかった。
「……佐々木先生」
静かに、名前を呼ばれる。
「なんかあったら……
俺でよければ、話、聞きますから」
俺は思わず、青を見る。
「俺、佐々木先生に、今まで……いっぱい助けてもらいました」
そう言って、青は少し照れたように視線を外す。
「だから……俺にできることがあったら。
何でも、言ってください」
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
守る側のはずだった。
導く側のはずだった。
なのに――
いつの間にか、こんなふうに、
背中を支えられる立場になっていた。
「……ありがとな」
俺はそれだけ言って、青の頭を、軽く叩いた。
* * *
昼休み。
チャイムが鳴ると、俺は体育準備室へ戻った。
青は、いつものように作ってきた弁当を机に広げていた。
「佐々木先生。今日は昼、買ってないんですか?」
「あっ……あぁ」
俺は、とっさに答える。
「忘れた。学食行くわ」
青は「そうですか」と小さくうなずいた。
「いってらっしゃい」
「おう」
俺は準備室を出た。
……気のせいか。
振り返った青が、少しだけ残念そうな顔をしているように見えた。
そのことが、なぜか胸に引っかかった。
* * *
俺は学食でささっと飯をかき込み、
そのまま美術準備室へ向かった。
「……青柳先生?」
おそるおそる、扉を開ける。
「カイト。いま、誰もいないよ」
中から聞こえた声に、ほっとする。
「そっか。蒼司、お疲れ」
「お疲れ」
キャンバスの前に立つ蒼司は、筆を持ったまま、振り返った。
「絵、描いてたのか?」
「そうだよ」
目を向けると、キャンバスいっぱいに、青と蒼の海。
深さの違う青が重なり合っていて、見ているだけで、胸の奥が静かになる。
その手前に、妙に丸くて、派手な色の物体が描かれていた。
「……かぼちゃみたいなやつ」
思わず言うと、蒼司が小さく笑った。
「かぼちゃ?」
そう言って、スマホを取り出し、写真を見せてくる。
「これ。**直島**って島にある、有名なオブジェ」
画面には、海沿いに置かれた、黄色と黒の水玉のかぼちゃ。
「……マジでかぼちゃじゃん」
「でしょ。でも、これが有名なんだよ」
蒼司は少し楽しそうに説明を続けた。
「直島は、香川県にある小さな島でさ。
島全体が、現代アートの美術館みたいな場所なんだ」
「島、全部?」
「そう。港を降りた瞬間から、もう作品。
建物も、景色も、アートの一部みたいになってる」
「このかぼちゃは、直島の象徴みたいな存在なんだ」
「へえ……」
「海と人工物が一緒にあっても、
不思議と、ちゃんと馴染んでるんだよ」
蒼司は、もう一度キャンバスを見る。
「自然の中に、ぽつんとあるのに。
邪魔じゃなくて……
そこに“あるべきもの”みたいに見える」
その言葉を聞いた瞬間、俺は、なぜか胸がざわついた。
「……それ、好きなんだな」
「うん。たぶん」
蒼司は、少し照れたように笑う。
蒼司は、さらに写真をスクロールして見せてくる。
「これは――**小豆島**だよ」
画面には、穏やかな海と山。
どこか時間がゆっくり流れているような景色。
「へぇ……いいな」
「で、これ」
次に出てきた写真は、海の中に、細い道が一本、伸びていた。
「……道?」
「これはエンジェルロードだよ」
「干潮のときだけ、海の中から砂の道が現れるんだ」
蒼司は、少し嬉しそうに説明する。
「一日に二回くらいかな。
潮が引いた短い時間だけ、
向こうの島まで歩いて渡れる」
「へえ……期間限定みたいな感じか」
「うん。それでね、恋人同士で手をつないで渡ると、願いが叶うって言われてる」
「……へぇ、いいな」
そう言いながらも、俺はもう一度、写真に目を落とす。
海に挟まれた、細くて心もとない一本道。
でも、確かに――綺麗だった。
「カイト、こういうの……好きだよね」
不意に言われて、俺は一瞬、言葉に詰まった。
「はっ……ま、まぁ」
視線を逸らす。
「嫌いじゃねぇけど」
自分でもわかるくらい、不自然な照れ隠しだった。
蒼司は何も言わず、
ただ小さく笑って、スマホを伏せる。
しばし、沈黙。
美術準備室に、時計の秒針の音だけが響く。
蒼司が、ゆっくりと口を開いた。
「……カイト」
名前を呼ばれて、自然と顔を上げる。
「一緒に、行く?」
一瞬、意味がわからなかった。
「えっ……」
間の抜けた声が出る。
蒼司は、こちらを見ていた。
逃げ場のない、まっすぐな目で。
「あ……あぁ」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「行こうぜ」
自分でも驚くくらい、その言葉は、すっと出た。
蒼司は、少しだけ目を細めて、うなずく。
「うん」
そして、静かに。
「……約束」
その一言が、胸の奥に、確かに残った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
「カイト、戻らないの?」
蒼司が、少し不思議そうに言う。
「あぁ。次、授業ねぇから」
それは事実だった。
でも――それだけじゃない。
俺はもう、この胸の奥で膨らみ続ける気持ちを、抑えることができなかった。
一歩、近づく。
蒼司は、逃げなかった。
その瞳を見た瞬間、もう抑えられなかった。
蒼司が何か言う前に、俺はそっと、その唇にキスをした。
一瞬だけ、時間が止まったみたいだった。
蒼司は驚いたように目を見開いたあと、
何も言わず、そのまま受け入れた。
離れたとき、俺の心臓は、うるさいくらいに鳴っていた。
「……好きだ」
声が、少し震える。
「返事はすぐしなくていいって、言ったけどさ」
一度、息を吸う。
「……ダメだ」
もう、逃げられなかった。
「俺、蒼司のことが好きだ」
真っ直ぐ、伝える。
「この気持ちは……ずっと変わらない」
蒼司は、何も言わない。
ただ、黙って、俺の言葉を受け止めている。
「だから……」
喉が鳴る。
「俺と、付き合ってほしい」
沈黙が落ちる。
長く感じたその時間のあと、蒼司が、ゆっくりと口を開いた。
「……うん」
小さく、でもはっきり。
「付き合う」
その瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどけた。
俺は蒼司を、強く抱きしめる。
「やっと……やっとだ」
声が、かすれる。
「もう、離さないからな」
蒼司は、俺の背中にそっと手を回して、
「……うん」
それだけ答えた。
短い言葉。
でも、それで全部、伝わった。
* * *
俺は体育準備室に戻った。
中では、青が机に向かって、黙々と事務作業をしていた。
「あっ、佐々木先生」
顔を上げた青が、一瞬、きょとんとしたような表情になる。
「あれ……どうしたんですか?」
俺の顔を、まじまじと見る。
「なんか……顔色、良くなりましたね」
「えっ……そうか?」
無意識に頬に触れる。
青は、少し口角を上げて言った。
「はい。それに……なんか、ニヤついてますよ」
「えっ……」
慌てて表情を引き締める。
「ま、まぁな。ちょっと……いいことがあってさ」
それ以上は、言わなかった。
言えなかった。
「よっし」
俺は、無理やり明るい声を出す。
「六限の用意、ちょっくら行ってくるわ」
そう言って、準備室を出ようとすると、
青が、ふっと息を吐くのが、背中越しに伝わった。
振り返ると、そこには――少し肩の力が抜けた、安堵したような青の顔があった。
俺は何も言わず、軽く手を上げて、準備室を後にした。
胸の奥は、驚くほど、静かだった。
* * *
19時、野球部の練習は終わった。
蒼司は、もう帰ったあとだった。
俺は手早く片付けを済ませる。
「佐伯、お疲れ」
「はい、お疲れさまです」
短いやり取りを終えて、部屋に戻る。
簡単に食事を済ませ、ふと鏡を見た。
――俺、そんなにニヤけてたか?
思わず頬が緩む。
ヤバ。
スマホを手に取り、蒼司にLINEを送る。
『お疲れ。明日、昼一緒に食べよ』
……高校生か、俺は。
しばらくして、返事が来た。
『わかった』
それだけ。
いかにも蒼司らしい。
その画面を眺めてから、はっと思い出す。
――そうだ、竜司のLINE。返事、してなかった。
どうする。
俺は、なんて返事をすればいいのか考える。
……わからない。
『竜司、俺は――』
ここで、指が止まる。
この先、なんて書けばいい。
迷っているうちに、間違えてそのまま送信してしまった。
すぐに、既読がつく。
……早いな。
たまたまスマホを見てただけか?
俺は、このとき。
竜司が何を考えていたのか――
知る由もなかった。