思わぬところで、竜司と再会した。
俺は言葉も出せず、その場に立ち尽くしていた。
何年ぶりだろう。
あの別れの日から、まともに顔を合わせることなんて、一度もなかった。
目の前にいる竜司は、あの頃より少し大人びていた。
それでも、真っ直ぐな眼差しも、穏やかな表情も、何ひとつ変わっていない。
時間だけが、俺たちの間を通り過ぎていったようだった。
そんな静かな沈黙を破ったのは、竜司だった。
「……カイト」
低く、懐かしい声。
「久しぶりだな」
「……ああ」
喉が詰まって、それ以上、言葉が出てこない。
「すげぇ偶然だな」
「……そうだな」
沈黙が落ちる。
「ちょっと、話せるか?」
一瞬、気後れした。
でも――断る理由も、見つからなかった。
「……わかった」
「じゃあ、あの公園まで行こうぜ」
そう言って、竜司は歩き出す。
俺は、少し遅れて、その背中についていった。
この道を、一緒歩くのは――高校以来だ。
胸の奥が、静かにざわついていた。
いつもの公園。
ベンチに腰を下ろす。
少しの沈黙のあと、
俺はうつむいたまま、静かに口を開いた。
「……竜司。引退するんだな」
「ああ」
竜司は、少し寂しそうに笑った。
俺は膝の上で手を組み、視線を落とす。
「……あのさ」
「ん?」
「この前のLINE……」
竜司は黙って俺を見る。
「俺……書いてる途中で、間違えて送っちまってさ」
一瞬、沈黙が流れる。
「なんて送ればいいか、ずっと考えてて……」
俺は思わず視線を逸らした。
「考えてる途中で、間違えて送信押しちゃったんだ」
「……ははっ」
突然、竜司が笑い出した。
「な、なんだよ」
「いや」
竜司は笑いながら首を振る。
「ありがとな」
「……え?」
「それだけ、俺のこと気にかけてくれてたってことだろ」
俺は返事に詰まる。
「……まぁ」
それしか言えなかった。
竜司は少しだけ空を見上げる。
「その気持ちだけで、十分嬉しい」
少し間を置いて、静かに続けた。
「みんな、お疲れさまとか、言ってくれるんだけどさ」
苦笑いを浮かべる。
「正直、まだ実感なくてな」
「……うん」
「だから、ああいうLINEの方が、カイトらしいっていうか」
照れくさそうに笑って、
「なんか、嬉しかった」
「……うん」
俺はなんとなく、角が取れたように穏やかに笑う竜司を、久しぶりに見た気がした。
「……悪い」
思わず口を開く。
「言いたいこと……うまく言えなくて」
竜司はゆっくり首を振る。
「ううん。ちゃんと伝わってる」
その一言に、胸の奥の力が少しだけ抜けた。
そして、優しく笑う竜司の姿に、どこか懐かしさを感じていた。
「……ところで竜司。今日は、一人か?」
「ああ。実家には一人で来た」
少し間を置いて、竜司が続ける。
「俺さ……嫁と息子はいるけど、かなり前から別居してるんだ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「俺は福岡だろ。嫁の仕事が、順調でな」
その名前を、俺は知っていた。
フリーアナウンサーに転向し、料理研究家、タレント活動、SNSではインフルエンサー。
今じゃ、“ママタレ”の代表みたいな存在だ。
「いまじゃ、俺より稼いでるよ」
竜司は、苦笑いを浮かべた。
「息子もな。
都内の私立に通わせたいってことで、
嫁と息子はいま、代官山に住んでる」
「……じゃあ、竜司は」
「一人で福岡に暮らしてる」
短く、そう言った。
「……そうだったんだ」
胸の奥が、じわりと痛む。
知らなかった。
知る必要もなかった。
でも――聞いてしまった。
「あ、でもな」
竜司は慌てたように付け足す。
「仲が悪いってわけじゃない。
今日はこのあと、代官山に行くし」
「あと……先の話だけどさ」
一瞬、言葉を選ぶように視線を落とす。
「息子が大学を卒業したら……
離婚する予定になってる」
「……え?」
声が、うまく出なかった。
「ま、円満離婚ってやつだな」
軽く言ったつもりなんだろう。
でも、その言葉は――重かった。
「……そんな」
思わず漏れた声に、竜司がこちらを見る。
「なんで、お前がそんな悲しそうな顔してんだよ」
そう言われて、俺は初めて、自分の顔に触れた。
――ああ。
俺は、悲しかった。
竜司が独りでいることが。家庭を持ちながら、どこにも居場所がないみたいな顔をしていることが。
そして、もっと正直に言えば――
今さら、こんな話を聞いてしまった自分の立場が。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
同情なのか。後悔なのか。
それとも――まだ残っている、感情なのか。
自分でも、うまく言葉にできなかった。
そのとき、少し離れたところから、ひそひそと声が聞こえてきた。
「ねえ……あそこにいるの、もしかして
福岡フェニックスの青柳竜司じゃない?」
「え、ほんと?」
「じゃあ……隣にいる人は?」
「私、知ってる。
高校のとき、男の恋人がいたって、
結構有名だったもん」
「え……じゃあ、禁断の恋ってやつ?」
言葉が、一つひとつ、耳に刺さる。
視線を向けると、少し離れた場所で、数人の人影がこちらを見ていた。
竜司は、ゆっくりとベンチから立ち上がる。
そして――
穏やかな声で言った。
「こんにちは」
たったそれだけ。
声をかけられた途端、彼女たちは顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らしながら、そそくさと立ち去っていった。
残ったのは、風の音と、沈黙だけ。
「……まだ、俺たちの噂してるやつ、いるんだな」
竜司が、苦笑する。
「……そうだな」
短く答えたけれど、胸の奥は、ざわついたままだった。
「いいんだよ」
竜司は、空を見上げる。
「これも、俺の大切な思い出だから」
「……え?」
思わず、聞き返す。
「嫁さ、俺の地元とか、昔のこととか、
全然、興味ないんだ」
少しだけ、肩をすくめて。
「でもさ……それで、いい」
竜司は、こちらを見る。
「俺と、カイトとの思い出は――
俺だけのもんだから」
その表情は、驚くほど、優しかった。
まるで、過去を手放すんじゃなく、
そっと胸の奥に仕舞い直しているみたいで。
俺は――
何も言えなかった。
喉が詰まって、言葉が、見つからない。
嬉しいのか。
切ないのか。
安心なのか。
それとも――まだ、痛いのか。
感情が、追いつかない。
ただ、竜司のその顔が、あまりにも穏やかで。
俺は、目を逸らすことしか、できなかった。
俺は、何とか話題を探して口を開いた。
「……竜司さ。
引退したら、こっちに帰ってくるのか?」
「そうだな……」
少し、間が空く。
「球団に残って、指導者をやらないかって
声をかけてもらってはいる」
一度、言葉を切って。
「でも――」
竜司は、はっきりと言った。
「帰るよ」
その一言を聞いただけなのに、胸のどこかが静かに波立った。
「帰って、何するかな」
どこか他人事みたいな口調で、竜司は続ける。
「しばらくは、何もせずに過ごすのも悪くないかもしれない」
そう言ってから、
何か思い出したように、こちらを見る。
「あ、そうだ」
「カイト。俺がこっちに帰ったら……また、会えないか?」
「……え?」
思わず、声が裏返る。
「野球部の話、聞かせてくれよ」
冗談めかした笑いを浮かべながら。
「俺さ。野球に関わる仕事、やるかもしれないし」
一瞬、迷った。
今の自分は、どこまで踏み込んでいいんだろう。
でも――
野球の話なら。
「……わかった」
短く、そう答えた。
その瞬間、竜司の顔がぱっと明るくなる。
「本当か!」
子どもみたいな笑顔だった。
「カイト。楽しみにしてる」
「じゃあな。また近いうちに」
「……ああ。またな」
竜司と別れてから、どうやって帰ったのか、
あまり覚えていない。
気がつけば、俺は自分の部屋に戻っていた。
ベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。
画家として、着実に認められつつある蒼司。
プロ野球選手としての人生に区切りをつけ、帰ってくる竜司。
二人とも、それぞれの道を歩いている。
その姿を思い浮かべるたび、
胸の中で、いろんな感情が静かにざわついた
気づけば俺は、また蒼司と竜司のことを考えていた。
それぞれ違う場所で、それぞれの人生を歩いている二人。
それなのに、不思議なくらい、その存在は少しずつ俺の心を引き寄せていく。
目には見えない、静かな引力。
その力に、まだ俺は気づかないふりをしていた。