竜司は、代官山の家に一人でいた。
竜司はソファに腰を下ろし、
なんとなくテレビをつけている。
画面では、
自分のプロ野球引退会見の様子が流れていた。
帽子を取り、短く頭を下げる。
アナウンサーは淡々と原稿を読み上げ、
最後に、こう締めくくった。
「青柳選手、お疲れ様でした」
それで終わりだった。
特番はない。
特集もない。
繰り返し流されることもない。
竜司のプロ野球人生は、
驚くほど静かに、幕を閉じた。
* * *
竜司の息子、流星は、本当は野球をやりたがっていた。
父親の背中を見て育ったのだから、
それも当然だったのかもしれない。
けれど、妻はあまりいい顔をしなかった。
「野球より、勉強をさせた方がいい」
妻が望んだのは、
都内の私立中高一貫校だった。
将来のために、きちんと勉強をさせたい。
そういう考えだった。
竜司は、強く反対することができなかった。
自分自身、プロ野球選手として生きてきたからこそ、息子にも同じ道を歩ませることが、
必ずしも幸せだとは思っていなかった。
だから、「そうだな」と答えた。
息子は今、寮生活を送っている。
芸能活動で忙しい母親。
別居していた父親。
その環境を思えば、寮に入っている方が、よほど安心だった。
本人も、寮生活を楽しんでいるらしい。
親子関係も、悪くない。
――ただ。
いつからだっただろう。
妻とは、結婚したばかりの頃は、
もっとよく話していた。一緒に食事をして、
くだらないことで笑って。
野球の話をすれば、妻も楽しそうに聞いてくれた。
いつの間にか、そんな時間は減っていた。
今では、必要以上の会話をすることもない。
「おはよう」
「行ってきます」
「帰った」
「おやすみ」
それくらい。
喧嘩をしているわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、いつの間にか、二人の間にあるはずの会話が、少しずつ消えていった。
それが、いつからだったのか。
竜司には、もう分からなかった。
引退後、息子の流星から、一通のLINEが届いた。
《お疲れさま!親父は、俺の自慢だよ》
胸の奥が、ほんの少しだけ、熱くなった。
ある日。
竜司が一人で家にいると、久しぶりに妻が帰ってきた。
玄関のドアが開く音がする。
しばらくして、妻がリビングに入ってきた。
着飾った服。
年齢よりもずっと若く見られる、整った綺麗な顔立ち。
芸能活動をしているだけあって、外では、今でも人の目を引く。
「ただいま」
「……あら」
妻は、ソファに座っている竜司を見つける。
「あなた、いたのね」
「ああ」
竜司は、テレビから視線を外さない。
「仕事、忙しそうだな」
「そうなの。またコスメの案件があってね」
妻はバッグを置きながら、
何気なく答える。
「来週は韓国に行くから」
「そうか」
短い返事。
妻は、部屋を見渡す。
そして、
テーブルの上に置かれた弁当の空き容器に目を止めた。
「あなた、ご飯ちゃんと食べてる?」
「ああ」
「お弁当の容器、散らかってるじゃない」
「ああ……悪い。あとで片付けるから」
「……そう」
それ以上、妻は何も言わなかった。
少しの沈黙。
妻は、ふと思い出したように竜司を見る。
「あなた、これからどうするの?」
竜司は、答えなかった。
テレビの画面を見たまま、黙っている。
妻は、少し待ってから続けた。
「いろんなところから、
オファーもらってるんでしょ?」
「……ああ」
「タイミング逃したら、仕事なくなるわよ」
責めているわけではない。
心配しているのかもしれない。
でも、その言葉が妙に遠く聞こえた。
竜司は、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「俺さ」
妻が顔を向ける。
「しばらく、埼玉に帰るよ」
「……そう」
妻は、驚いた様子も見せなかった。
「いいんじゃない?」
そして、淡々と続ける。
「私もほとんど家にいないし」
「……」
竜司は、何か言おうとして、やめた。
それでも、もう一度だけ口を開く。
「今度さ……」
妻を見る。
「みんなで、俺の実家に帰らないか?」
「……」
「両親も、流星に会いたがってるし」
その瞬間。
妻の表情が、ほんの少し曇った。
「……それ」
妻は、少しだけ目を逸らす。
「私も一緒じゃなきゃダメ?」
竜司は、何も言わなかった。
妻は、少し困ったように笑う。
「私から、
今度あなたの実家に何か送っておくから」
「……わかった」
それ以上の言葉が、竜司から出てこなかった。
妻も、何も言わない。
しばらく、気まずい沈黙だけが流れる。
やがて妻が、時計を見る。
「じゃあ、私、明日早いから。先に寝るわね」
「ああ」
妻は、それだけ言うと、
足早にリビングを出ていった。
階段を上がる足音。
やがて、二階からドアが閉まる音がした。
竜司は、一人でソファに座ったまま、
テレビを見つめていた。
画面では、知らない芸能人が笑っている。
その笑い声だけが、広いリビングに響いていた。
竜司は、ふっと息を吐いた。
そして、そっとテレビを消した。
竜司は、重い腰を上げた。
誰もいないリビングを出て、
二階にある自室へと戻る。
部屋の明かりをつける。
静かな部屋の中で、
竜司はしばらく立ち尽くしていた。
ふと、
棚の奥にしまわれていた一冊のアルバムが目に入った。
高校の卒業アルバム。
竜司は、それを手に取った。
ページをめくる。
懐かしい写真が、次々と目に飛び込んできた。
「……懐かしいな」
高校時代の友人たち。
卒業してから、ほとんど会っていない。
それぞれが別の道を歩み、いつの間にか、
連絡を取ることもなくなっていた。
そして、
野球部のページ。
竜司は、指を止めた。
写真の中央に、自分が写っている。
その隣には、カイトがいた。
二人とも、満面の笑みを浮かべている。
あの頃は、何もかもが楽しかった。
野球をして、くだらないことで笑って。
毎日が、ずっと続くような気がしていた。
竜司は、写真を見つめたまま、
ふと息を止めた。
――いつからだろう。
カイトの笑った顔を、見られなくなったのは。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
俺のせいだ。
「……カイト」
竜司は、静かにその名前を呼んだ。
けれど。
返事はなかった。
部屋の中には、
時計の針が進む音だけが響いている。
竜司は、アルバムを閉じることができないまま、しばらく写真を見つめ続けていた。