蒼の向こうでそれでも君を待つ   作:ハマジロウ

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第9章 海斗と竜司 前編

 

十二月。日曜日。

 

 

 

午前九時。

 

いつもの練習時間。

 

 

 

グラウンドに、全員が整列する。

 

冬の空気は冷たく、吐く息が白い。

 

 

 

その前に、監督が一歩、前に出た。

 

 

 

「今日はな」

 

 

短く、切り出す。

 

 

「特別に、野球部の練習を見学したいという方が、来ている」

 

 

その瞬間だった。

 

 

グラウンドの入り口から、一人の男が入ってくる。

 

背が高く、体格もいい。

 

歩き方に、無駄がない。

 

 

――えっ。

 

 

ざわ、と空気が揺れた。

 

 

「まさか……」

 

「え、あれ……」

 

「うそだろ」

 

小さな声が、あちこちから漏れる。

 

 

俺の視線も、無意識に、そちらへ向かっていた。

 

……竜司だった。

 

 

心臓が、一拍、遅れる。

 

 

俺は、何も聞かされていなかった。

 

監督は、そのまま話を続ける。

 

 

「元プロ野球選手の、青柳竜司さんだ」

 

 

ざわめきが、一段、大きくなる。

 

 

竜司は、一歩前に出て、帽子を取った。

 

「突然すみません」

 

低く、落ち着いた声。

 

「今日は一日、練習を見学させていただきます。よろしくお願いします」

 

 

その言葉が終わると同時に、小さなどよめきが、グラウンドを包んだ。

 

 

「おい……マジか」

 

「本物だよな……」

 

「やべえ……」

 

 

球児たちは声を潜めながらも、興奮を隠せずにいた。

 

 

その中で、俺だけが――

 

ただ、立ち尽くしていた。

 

 

* * *

 

 

笛が鳴り、練習が始まった。

 

球児たちは、いつもより声が出ている。

 

走りも、動きも、どこか一段、力が入っていた。

 

 

無理もない。フェンスの向こうに、

 

元プロ野球選手が立っている。

 

それだけで、空気は変わる。

 

 

俺も、平静を装いながら、必死で自分を保っていた。

 

 

ふと視線を向けると――

 

青が、竜司と話していた。

 

 

いつもは落ち着いている青が、

 

珍しく、少し興奮した様子で、

 

身振りを交えて話している。

 

 

 

竜司は、穏やかに頷きながら、時折、短く笑っていた。

 

しばらくして、青がこちらへ戻ってくる。

 

 

「……佐々木先生」

 

小声だった。

 

「うん?」

 

「すごいですね。やっぱり、雰囲気が違う」

 

「……そうだな」

 

それだけ答える。

 

青は、ちらっと俺の顔を見る。

 

 

探るような視線。でも、踏み込まない。

 

 

「佐々木先生の

 

高校時代の野球仲間‥‥、なんですね」

 

「……そう、だな」

 

 

 

少しだけ、間を置いて答える。

 

青は、それ以上聞かなかった。

 

青は、もう一度だけ俺を見る。

 

今度は、確信を含んだ目だった。

 

それでも、何も言わない。

 

 

 

「……じゃ、次、守備見てきます」

 

 

 

そう言って、青は軽く帽子を直し、

 

グラウンドへ戻っていった。

 

 

 

俺は、その背中を見送りながら、

 

小さく息を吐いた。

 

言われなかったことに、救われたのか。

 

 

 

それとも――

 

もう、気づかれていることに、

 

覚悟を決めるべきなのか。

 

 

俺は、無意識に竜司を見ていた。

 

その視線に、気づかれた。

 

 

 

目が合う。

 

 

 

一瞬。

 

 

 

――ニヤッと、

 

竜司が笑った。

 

 

昔と変わらない、少しだけ意地の悪い笑い方。

 

胸の奥が、ざわつく。

 

俺は、いたたまれなくなって、足を動かしていた。

 

 

フェンスの外。

 

竜司のもとへ。

 

 

「……竜司」

 

「おう」

 

軽い声。

 

「いきなり来て、びっくりしたぞ」

 

「すまん、すまん」

 

肩をすくめて笑う。

 

「いやさ」

 

竜司は、グラウンドをちらっと見渡す。

 

「学校に電話してな。

 

お前の元高校時代の野球部仲間だって言ったら、ぜひ見学に、ってなった」

 

「……なんで、

 

俺が蒼陵にいるって知ってるんだよ」

 

 

 

一瞬だけ、間。

 

 

 

「何でって」

 

竜司は、さらっと言った。

 

「蒼司から聞いた」

 

「……は?」

 

思わず、声が裏返る。

 

「蒼司からさ。学校、一緒だって聞いて、

 

 最初、俺も驚いたぞ」

 

「あ……」

 

 

そうか。

 

 

「高校野球の話、人から聞くよりさ」

 

竜司は、フェンス越しに練習を見ながら言う。

 

「直接、見た方が早いだろ」

 

 

それから、俺の方を見る。

 

「まあ、邪魔はしねえよ」

 

「今日は、見るだけだ」

 

 

そのときだった。

 

 

――ぽん。

 

 

肩に、何も言わず、ただ、軽く俺の肩を叩く。

 

 

それだけ。

 

でも、それで十分だった。

 

 

俺は、一瞬だけ、目を閉じて、小さく息を吐いた。

 

 

周囲では、球児たちが、ちらちらと

 

こちらを見ている。

 

 

声は出さない。

 

でも、確実に、見ている。

 

 

少し離れた場所で、青も、黙ってこの様子を見ていた。

 

 

誰も、何も言わない。

 

 

それなのに――

 

すべてが、見られている気がした。

 

 

* * *

 

 

午後十二時。

 

昼休み。

 

――やっと、昼か。

 

朝からずっと気を張っていたせいか、時計を見た瞬間、少しだけ安堵した。

 

竜司はというと、監督に連れられて、昼食を食べに行った。

 

どうやら、監督と昔の野球の話でもしながら、ゆっくり昼を過ごすらしい。

 

俺にとっても、ひとときの休息だった。

 

俺は、いつものように野球部寮の食堂へ向かった。

 

扉を開ける。

 

すると――

 

「やっぱ、青柳さん、オーラすごいよな」

 

「分かる。なんか、普通の人と違うよな」

 

「佐々木コーチと青柳さんが並んだら、絵になるよな」

 

「そうそう」

 

「二人とも甲子園行ったんだろ?」

 

「俺らも行きてーよな」

 

「絶対行くぞ」

 

「おう!」

 

いつも以上に、食堂が騒がしい。

 

聞こえてくるのは、当然、竜司の話ばかりだった。

 

 

俺は、聞こえていないふりをして、

 

いつもの席に座った。

 

……落ち着かない。

 

自分の昔の仲間が、今はこうして、俺の生徒たちの話題になっている。

 

そんな状況が、どうにも不思議だった。

 

「お疲れさまです」

 

声がして、顔を上げる。

 

青だった。

 

俺の隣に腰を下ろす。

 

「おう。お疲れ」

 

青は、いつもと変わらない様子で、

 

昼食を食べ始めた。

 

その落ち着いた姿を見ていると、

 

逆に俺の方が落ち着かなくなってくる。

 

しばらく、二人とも黙って食べていた。

 

やがて俺は、箸を置いた。

 

「……なぁ、佐伯」

 

「はい?」

 

青が顔を上げる。

 

「前にさ、俺が付き合っていた奴の話したの覚えてるか」

 

「……はい、よく覚えてます」

 

「ああ」

 

一度、言葉を飲み込む。

 

そして――

 

「……あいつなんだよ」

 

青の動きが止まった。

 

「え?」

 

「今日来てる、青柳竜司」

 

「……あいつなんだ」

 

数秒の沈黙。

 

青は驚いたように俺を見る。

 

でも、すぐに小さく頷いた。

 

「……そうですか」

 

そして、少しだけ笑う。

 

「なんとなく、そうなんじゃないかなって思ってました」

 

「……やっぱり?」

 

「はい」

 

青は、食事に視線を戻す。

 

「最初に見たときから、

 

佐々木先生の様子がいつもと違いましたから」

 

「……そんなに分かりやすかったか?」

 

「ちょっとだけ」

 

「マジかよ……」

 

思わず、苦笑する。

 

青も少し笑った。

 

「でも、聞かない方がいいのかなって」

 

「……」

 

その言葉に、俺は一瞬黙った。

 

「いきなり来てさ。俺も、びっくりしたよ」

 

「そうですよね」

 

青は頷く。

 

「何も聞かされてなかったんですか?」

 

「ああ」

 

「朝、いきなり監督から紹介されて、

 

 見たら、あいつが立ってた」

 

「それは……驚きますね」

 

「だろ?」

 

俺は小さく笑った。

 

けれど、胸の奥には、

 

まだ朝から消えないざわつきが残っていた。

 

青は、そんな俺をしばらく見ていた。

 

そして、静かに言った。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「佐々木先生、少し嬉しそうですよ」

 

「……え?」

 

思わず顔を上げる。

 

青は、いつもの穏やかな顔で笑っていた。

 

「青柳さんに会えて」

 

「……」

 

何も言えなかった。

 

そうなのか?

 

懐かしい。

 

会いたかった。

 

でも、怖かった。

 

そんな感情が、

 

自分の中で入り混じっている。

 

「……そう見えるか?」

 

「はい」

 

青は、あっさり答えた。

 

「少なくとも、俺にはそう見えます」

 

俺は返す言葉が見つからず、

 

もう一度、箸を手に取った。

 

「……飯、食おうぜ」

 

「はい」

 

青は笑って、また食事に戻った。

 

食堂の向こうでは、

 

まだ球児たちが竜司の話をしている。

 

「午後、青柳さん、また見てくれるかな」

 

「何か教えてもらえたら最高だよな」

 

そんな声が聞こえてくる。

 

俺はそれを聞きながら、

 

ふと、食堂の窓の外を見た。

 

冬の空は、相変わらず冷たそうだった。

 

でも――

 

朝より少しだけ、

 

胸の奥の何かが軽くなっている気がした。

 

* * *

 

昼練。

 

俺はプルペンに入った。

 

いつも通り、フォームを確認し、

 

一球一球、声をかける。

 

「今のはいい」

 

「力、抜けてる」

 

自分でも分かる。

 

言葉は冷静でも、どこか落ち着かなかった。

 

視線の端で、竜司が立っているのが分かる。

 

 

 

――見られている。

 

 

 

でも、午前中に感じていた重苦しさとは、

 

少し違っていた。

 

今は、

 

気恥ずかしさと――

 

野球部のコーチとして仕事をしている自分を、

 

竜司に見てもらえている嬉しさが、

 

入り混じっていた。

 

昔の俺しか知らない竜司に、

 

今の俺を見てもらっている。

 

そう思うと、不思議と悪い気はしなかった。

 

むしろ――

 

もう少し、見ていてほしい。

 

そんなことを思ってしまう自分に、

 

俺は小さく苦笑した。

 

 

* * *

 

 

午後四時。

 

 

笛が鳴り、練習が終わる。

 

球児たちは整列し、監督の合図で声を揃える。

 

 

「ありがとうございました!」

 

 

竜司は一歩前に出て、軽く頭を下げた。

 

 

「こちらこそ、ありがとう」

 

 

穏やかな声。

 

「これからも、頑張ってください」

 

「はい!」

 

そのやり取りを見届けながら、俺は思った。

 

 

――今日は、やけに疲れた。

 

 

いつもより、ずっと。

 

 

片付けに入ろうとした、そのとき。

 

 

「カイト」

 

 

呼ばれて、肩が跳ねた。

 

振り向くと、竜司が立っていた。

 

 

「お疲れ」

 

 

いつもの調子で言う。

 

 

「このあと、時間あったらさ」

 

 

一拍、間。

 

 

「飯、行こうぜ」

 

 

――まずい。

 

 

ここ、グラウンドだ。

 

周りには、球児たちがいる。

 

視線が、一斉に集まるのが分かる。

 

 

恥ずかしさが先に立って、頭が回らない。

 

 

「……あ、ああ」

 

 

気づいたときには、そう答えていた。

 

 

「分かった」

 

勢いだった。

 

 

完全に。

 

 

竜司は満足そうに、「よし」とだけ言った。

 

その背中を見送りながら、

 

俺は深く息を吐く。

 

 

背後で、小さな声が聞こえた。

 

「なあ、今の聞いたか?」

 

「名前呼びだぜ」

 

「仲、良いんだな……」

 

「佐々木コーチ、すげえ」

 

 

ひそひそと、でも確実に、広がっていく。

 

 

俺は何も言えず、帽子のつばを少し下げた。

 

教師としての顔と、

 

一人の人間としての過去が、

 

今、同じ場所に立っている。

 

 

片付けに戻ろうとしたとき、

 

背後から声がかかった。

 

 

「佐々木先生」

 

 

振り向くと、青が立っていた。

 

 

「あと、俺が片付け見ますんで」

 

 

一瞬、言葉に詰まる。

 

 

「え、でも……」

 

 

青は、フェンスの外にちらっと視線をやる。

 

「青柳さん、待ってますよ」

 

それから、少しだけ口角を上げた。

 

「……頑張ってくださいね」

 

「えっ」

 

思わず、間の抜けた声が出る。

 

「あ、ああ……」

 

何と言っていいか分からず、

 

曖昧にうなずいた。

 

 

「じゃあ、悪い。先、上がるわ」

 

「はい」

 

 

青は、いつも通りの返事をして、

 

もう一度グラウンドに戻っていった。

 

 

その背中を見送りながら、

 

俺は帽子をかぶり直す。

 

 

――何だよ。

 

青のやつ。

 

 

絶対、何か勘違いしてるだろ。

 

 

そう思うのに、否定する言葉も、

 

今さら見つからなかった。

 

 

フェンスの向こうでは、竜司が腕を組んで、

 

こちらを見ている。

 

 

逃げ場は、もう、なかった。

 

 

俺は普段着に着替えて、竜司のもとへ向かった。

 

 

「待たせたな」

 

「ん。大丈夫」

 

 

短いやり取り。

 

 

竜司は鍵を鳴らし、顎で助手席を示す。

 

 

「乗れよ」

 

高級車だと分かって、一瞬だけ、足が止まった。

 

 

俺は意を決して、竜司の車に乗り込んだ。

 

ドアが閉まる。

 

ふわっと、高級車特有の匂いがした。

 

竜司がエンジンをかける。

 

「よし、行くか」

 

「……どこに行くんだよ」

 

竜司は少し考えるように前を向いた。

 

「そうだな」

 

「せっかくだしな……」

 

「このあたりじゃあ、あまり店ないよな」

 

そして、ニヤッと笑う。

 

「お前、何食べたい?」

 

「え?」

 

思わず、竜司を見る。

 

「今日、食べに行くつもりなかったからな」

 

「いきなり言われても……」

 

竜司は、また笑った。

 

「じゃあ、俺がカイトの好きそうなところ、連れてってやるよ」

 

「……じゃあ、期待するよ」

 

「ははっ」

 

竜司は楽しそうに笑った。

 

「じゃあ、大宮行くか」

 

車がゆっくりと動き出す。

 

俺は助手席から、前を向いた。

 

この、ちょっと強引なところ。

 

昔から変わらない。

 

俺はそんな竜司に、

 

懐かしさを覚えていた。

 

そして――

 

竜司の、そういうところが、

 

俺は嫌いではなかった。

 

 

車はもう、走り出していた。

 

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