薄暗い室内にあるモニターから光が漏れていた。照らし出すのは眼前に座る男だ。座椅子に深く腰掛けた男は、手元のコントローラーを小気味良く鳴らしていた。
少し余裕が出来たのか、男はモニターから目を離し、レースカーテンの先に広がる空を見つめた。重くて黒い雨雲が空を覆い、暴風がアパートを強く押し出そうとし、激しい雨粒が窓を叩く。男のいる町には、ちょうど台風がやってきていた。それも類を見ないほどに巨大な台風だ。外出自粛を促される程度には危険な存在で、雑に放られたスマートフォンには台風に関する通知がひっきりなしに届いていた。
外に興味を無くした男は、再びモニターに意識を向けた。そこにはボンキュッボンのナイスバディな爆美女が──露出度の高い防具を身に着けた、女性的な魅力に溢れた女ハンターが、こちらに向かって喜びを顕にしていた。男は自キャラたる〝紅蓮〟の屈託ない笑顔に小さく口角を上げると、再びクエストを受けようとした。
その時、耳を劈く破砕音が外から鳴り響いた。それだけではない。自動車の
目の前に軽自動車があった。男があっ、と思った時には窓が派手に突き破られ、室内に荒れ狂う暴風雨がなだれ込むように入り込んできた。室内にあった小物が、怒れる五歳児に荒らされるように揉みくちゃにされ、全身がびしょ濡れになるほどの豪雨に晒される。男は一瞬にして様々な感情が沸き立ったが、すぐに一つの感情だけになった。それは恐怖だ。
まるで吸い出されるように外へ放り出された男は、辛うじて手すりに捕まっていた。声にならない悲鳴を上げて、状況を把握しようとする。
足が浮いていた。地面が荒海となっていた。全身を打ち付ける雨粒が痛みを覚えるほどに強烈だった。目まぐるしく変化する雨雲は恐ろしさを覚えるほどに高速で渦を巻き、稲光が絶えず轟く。数多の自動車、数多の家屋の残骸、数多の草木。そして、数多の人らしき物体が空に巻き上げられていた。
激しい暴風雨によって耳も口も使い物にならない。もう腕が限界で、今にも手すりを離してしまいそうだったが、男は助けを呼べなかったし、誰かが助けてくれるような状況でもなかった。
やがて、限界が訪れる。男は人生で初めてこんなに声を張り上げたと思えるほどの絶叫を上げた。まるで空に落ちていくようだった。螺旋を描きながら、どんどんと空へ浮かび上がっていく。否が応でも上昇していく。洗濯機に閉じ込められたって、ここまで酷くはないと思えるほどに視界が回り、少し地面を捉えたかと思えば、それは遥か下だった。
──誰か! 誰か助けてくれ!
男は無我夢中で足掻き、何かに──たとえ無駄だったとしても──掴もうとした。そして、自らにぶつかってきた何かを必死に抱きとめた。それは男の部屋にあったゲーム機だった。
──こんなもので何になるんだ!
男はこらえ切れず涙を流し、自身の運命を呪った。何処までも上昇していく身体は何時しか星空を捉えていて、きっと大気圏まで、その果ての宇宙まで持ち上げられてしまうんだ!と咽び泣いた。
やがて、雲を突き抜けた男の視界には深淵が広がっていた。何かを思考しようとしても、身体が凍りついたように動かず、徐々に意識が闇の中へと沈んでいく。これで最後か、と男は諦めの境地に至った。人生を振り返る間もなく、男は全てを投げ捨てて、眠るように意識を手放したのだった。
⚔
押し寄せる波の音、涼やかな風の声、木々のざわめき。世界に満ち溢れた
男は仰向けだったため、両手を地面について、暴れる心臓を落ち着かせるようにと深呼吸を刻んだ。ほんの数秒で落ち着いてきたので、周囲を見渡してみる。
木、木、木。木しかない。より詳しく言えば、草木しかない。どうやらここは森のようだった。それも常夏の島を思わせるような密林だ。
少し開けた先には大海原が広がっていた。綺麗なターコイズブルーの海が陽の光に照らされてキラキラと輝き、沖合に進むほど、深く鮮やかなコバルトブルーへと変わっていく。地平線の彼方には何もなく、何処までも晴れ渡った青空が天上を包んでいた。
「これは一体……」男は違和感を覚えて、眉を顰めた。「なんか、声がハスキーだ!」
はっきりしてきた意識が捉えたのは、自身の喉を抑える見慣れない手だった。
「なんだこれ、なんだこれは……⁉」
手も、足も、胴体も、髪も。何もかもが別人だった。男は激しく脈動する心臓を抑えようとして、豊満な胸に手を沈める。
「あっ、すみません!」
つい謝ってしまったが、それは自分自身の胸だった。男は盛大に顔を歪めて胸を観察するが、どこをどう見ても自身の肉体の一部であるし、どこをどう見ても巨乳を超えて爆乳だった。
見慣れないゴーグルが首に掛かっている。丸いレンズは緑色で、頑丈そうな外観だ。男はそっと手に取ってみるが、当たり前ながら本物だった。そしてその事実が、男をさらに混乱させた。
──これは、ゲームで見たことあるぞ。それも直前にも見てる。
男はあの恐ろしい台風で吹き飛ばされる前、『モンスターハンターワイルズ』というゲームを遊んでいた。そして、そのゲームの自キャラがこのゴーグルを首にぶら下げていたのだ。
あり得ないと分かっている。そんな馬鹿げた話があるわけないと理解している。しかし、現実はこれでもかと、あるがままの事実を映し出していた。
視界に映る白い髪と、前方に伸びた
はち切れんばかりの爆乳を辛うじて包み込んでいる、
手には先ほど驚いた、サイズ感ピッタリのグローブが嵌められている。(オメガアーム♂)
腰には細いベルトを身に付け、腰後ろには刃渡り二十センチほどの剥ぎ取り用ナイフがしっかりと固定してあった。(インナー2)
ベルトの下にはゴワゴワとした毛皮の腰蓑と、ピッチリした下着を身に着けており、膝から下は強大なモンスターの
全体的に
──いやいや、現実を見ろ!
おいおい、現実を見た結果がこれじゃないか。男は一人芝居を始める程度には再び混乱したが、ひとまず問題解決の優先順位を決めようと思った。
「オレは自キャラの〝紅蓮〟になった。男から女になったわけだが、そこは一旦置いておこう。ここは何処だろう? 太陽は頂点に近い。気温は高いが、海風が涼しいから不快感はない……」男──紅蓮はその場でうろうろと歩き回りながら、周りを観察して思考し続ける。「どうやらここはちょっとした崖上のようで、海へは行けない。なら、密林の中を進むしかない。オレは武器を持ってないぞ? あるのはこいつだけだ」
紅蓮は腰後ろから剥ぎ取り用ナイフを引き抜いた。左手で逆手に持つ。鞘の都合上、こういう持ち方になるのだ。
右手に持ち替えて、振ってみる。技もへったくれもないが、軽快にナイフが踊り、まるで体が羽根のように軽く感じた。紅蓮は胸元で暴れる爆乳に不快感を覚えつつも、鍛え抜かれた鋼の肉体──特に丸太のように太い太腿──が遺憾なく力を発揮していることに驚いた。
──凄い肉体だ! 色んな意味で!
紅蓮は喜びを顕にして、その場で跳躍をしたり、軽く走ったりしてみた。跳躍をすれば地面から二メートル近く跳べ、走ればアスリート顔負けの速度で爆走できる。今ならオリンピックで金メダルを取ることだって夢じゃない! 紅蓮はつい興奮してしまって、人生で一度もやったことがないバク転を大自然相手に披露してしまった。
「そんなことをしてる場合じゃない、場合じゃないぞ紅蓮!」
現実に戻ってきた紅蓮は己を戒めると、まずは密林の中を探索してみることにした。ナイフで生い茂る草木を切り拓き、先へと進む。身の丈を優に超える木々は陽の光を一身に浴びようと背を伸ばし、席取り合戦をするように大地に根ざす草たちは紅蓮の足を何度だって触れてきた。
潮の香りを運ぶ風の声や、木々の囁き声など、様々な声が鼓膜を震わす中、紅蓮は勢い込んで密林の探索を始めたのだった。
鬱蒼とした大自然は海辺を離れて奥へ進むほど、濃く、深くなっていった。紅蓮は帰り道が分かるように、一定間隔で近場の木に目印をつけて進んでいく。
姿は見えないが鳥の囀りが至るところから聞こえてきて、ここが
どれだけ進んだだろう? とっくの昔に後方は生い茂る木々に包まれていて、時折覗き見ていた太陽は、紅蓮から見て右側に移動していた。そこから推測するに、あの海辺は北を向いていて、今は南下していると考えてもいいかも知れない。
──焦ることはないさ。ここは
紅蓮は自分に言い聞かせるように心の中で反芻し、逸る気持ちを落ち着かせた。焦ったって結果は良くならない、今までだってそうじゃないか、と自分を納得させたのだ。
紅蓮は道中で見つけた木の実を掲げて、木漏れ日に照らしてみた。手のひらよりも大きい、真っ赤な果実。これは大きな常緑樹にぶら下がるように沢山実っていたので、一つ貰ったのだ。
ナイフで皮の一部を削ぎ落とし、果肉を露出させてみる。南国の風景を思い起こさせる、トロピカルな香りがふわりと漂った。紅蓮は少し舐めてみて、痺れや変な味がしないかと確かめてみた。だが、ただ濃厚な甘みしか感じ取れなかった。
──うぅん、オレはサバイバルなんてしたことないからなぁ。
食べていいものか。しかし、身体が喉の渇きと空腹を訴えかけている。紅蓮は意を決して皮を削ぎ落とすと、真っ赤な果実にかぶりついた。
口内で果汁が弾け、
いつしか果実は半分ほどになっていて、薄っぺらくも大きい種子が顔を出していた。紅蓮は食べ過ぎた……と後悔をするが、たとえ腹を壊しても後悔はない!と意気込む。ただの虚勢ではあったが。
「美味すぎる! 今日からお前はワイルドマンゴーだ!」
紅蓮は、この名もしれぬ真っ赤な果実に命名した。その名もワイルドマンゴー。野生のマンゴーだと、なんとなく思ったからだ。なんの捻りもないが、名前はわかりやすくて
早急に問題を解決したい、と紅蓮は思っていた。それはグローブと口周りについたベタつきを取ることである。ワイルドマンゴーは実に満足度が高かったが、あまりにも甘過ぎた。先ほどから真水が飲みたいと身体が訴えかけていたのだ。なんだか身体の燃費が悪いような。紅蓮はほんの僅かな違和感を抱きつつも、小川や河川がないかと探し回った。
しばらくすると、せせらぎの音が聞こえてきた。紅蓮は笑顔を浮かべて走り出す。森の中を縦横無尽に駆け抜けて──木の根を飛び越えたり、
そこは木々のトンネルを通る小川であった。トンネルは小川に沿って曲がりくねっており、横幅、高さともに三メートルほどだ。人一人通るのは訳ない広さだった。紅蓮は早速とばかりに小川にグローブを浸して、顔を洗う。
──冷たい! でもすごく気持ちがいい!
紅蓮はひと目も憚らず──ひと目はないのだが──思う存分はしゃいだ。しっとりと汗ばんだ身体を濡らして、気分転換を図った。ああ、楽しい! いつまでも続けばいいのに! 紅蓮はいつの間にか夕暮れが近づいていることに気づいて、寝床を探さなければならなくなった。
小川に近い所に大きな、それは大きな木が生えており、その大木の根本には比較的広い
ゆっくりと夜の世界が訪れてくる。密集した木々のせいで空は満足に見えないが、視界が暗く、狭まっていくのを認識していた。今が何時頃かは全く検討がつかないが、夜は活動する時間ではなく、休息を取る時間だ。朝日が昇る時にまた、活動を始めればいい。紅蓮はそう思った。
今宵は天気が良いようで、月明かりが木々の合間を縫って差し込んで来ていた。紅蓮は激動の一日を過ごしたなと耽った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきて、「今までずっと気を張ってたのか……」と呟いた。
──一体全体、何が起こっているのだろう? どうしてゲームのキャラになっていて、見知らぬ世界に放り出されているのだろう? あの台風はなんだったんだ? どうして、こんな目に合わなければいけないんだ?
紅蓮は見知らぬ土地で、月明かりしかない状況に
──希望は薄いけど、元の世界へ帰る方法を探してみよう。そのためにも、今いる土地について調べてみよう。でも、その前に。
紅蓮は寝転がり、睡眠の体勢を取った。
「火の起こし方を調べないといけないな……」
目標を掲げたところで、目下の問題は解決しない。地道に進んでいくしかなさそうだ。紅蓮は木々のざわめきや、カエルやコオロギの合唱に耳を傾けながら、静かな眠りについた。
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