ニコニコ様『ハテ、なんのことでございましょう。』   作:瑠璃1

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前編

 

 

 ‥‥あの『ニコニコ』した顔が脳に焼き付いて離れない。

 

 それは、言葉では表現できない、‥‥いや‥表現してはいけないものだった。それほどまでに悍ましい何かを、俺達は見てしまった。

 

 

 

 

――すべては、あの猛烈な吹雪の日に始まったんだ。

 

「おい, しっかりしろ! 足元が見えねえ!」

 

 

 視界を完全に白く染め上げる、地獄のような大吹雪だった。

 とある大学の登山グループである俺たち三人は、冬の山を完全に舐めていた。

 

 外は命を奪うほどの吹雪が吹き荒れ、俺たちは皮膚が凍りつくほどの寒さでガタガタと震えていた。このままでは全滅する。

 

 そう確信したとき、奇跡的に目の前に真っ暗な岩の裂け目が現れた。

 

もはや、そこしか道はなかった。

 まるで暗闇の中、死を待つ虫が、偽りの光に吸い寄せられるように――俺たちは我先にと、その洞窟へと走り込んだ。

 

 雪崩れ込むようにして、冷たい岩肌の内側へと転がり込む。

 だが、安堵したのも束の間だった。暗闇に包まれた洞窟の、さらに奥深くから、ヒュウと嫌な音が響いた。

 

――風だ

 

 しかしその風は、雪山のそれとは全く違っていた。

 凍える俺たちの元へ、どこか生温かい、居心地がいい風が吹き抜けてきたのだ。あまりの寒さと疲労、工程の過酷さによる空腹のせいで、俺たちの思考はまともにまとまらなくなっていた。

 

「おい、奥に何かあるんじゃねえか? 行ってみようぜ!」

 

 グループ一のお調子者であるアイツが、ライトを片手に、暗がりの奥へと勝手に進み始めてしまう。引き止めるべきだった。だが、まともな判断力を失っていた俺たちは、アイツに引き寄せられるようにして、その生温かい風の後を追った。

 

 呆れ果てた俺が急いでアイツの後を追いかけ、洞窟の突き当たりにたどり着いた、その時だった。

 

 

「……おい、嘘だろ。ちょっと、こっち来てみろって!」

 

 奥から響いたアイツの声は、さっきまでの軽薄さが消え、驚きで激しく震えていた。俺と、いつも無表情で冷静な仲間が駆け寄ると、洞窟の先には不自然なほど真っ白な霧が立ち込めており、俺たちの足音が近づいた瞬間に、その霧がサーッと晴れたんだ。

 

 霧の向こう、開けた空間に、信じられない光景が姿を現した。

 

 そこには、人間の常識では到底『考えられない村』が広がっていた。

 

 引き返す背後では命を奪うほどの猛吹雪が吹き荒れているというのに、この広大な洞窟の内側には、ポツリポツリと奇妙な雨が降り、そして静かに止んだ。現世の気象ルールが完全に狂った、完全なる異界。

 

 周囲を不気味な絶壁に囲まれ、この真っ暗な洞窟だけが、外の世界とを繋ぐ唯一の出入り口になっている、外界から完全に隔離された蜘蛛の巣だ。

 

 「……おい、これ、何だよ」

 

 アイツが呆然と立ち尽くしている。驚きのあまり一歩を踏み出そうとした俺の足が、洞窟の出口の隅に転がっていた「何か」に引っかかった。ライトの光をそっと落とす。

 

 岩肌の陰、埃にまみれたその場所に、それはあった。

 何百年も前に書かれたかのように黒ずみ、掠れた、血の文字。

 

『笑』

 

 なぜ、こんな場所に。不吉な予感が背筋を駆け巡ったが、引き返す背後には地獄のような猛吹雪が吹き荒れている。俺たちはその警告を無視し、村へと足を踏み入れるしかなかった。

 

「おや、よくぞこんな雪の中をおいでくださいました」

 

 村の入り口には、村長らしき老人が待っていた。顔中の皺を歪めてニコニコと目を細め、俺たち三人を歓迎する。その様子はまるで、ようやく獲物が巣にかかり、喜ぶ蜘蛛のようだった。

 

 老人の優しい言葉に促され、俺たちは集落の広場へと案内された。

 そこで、最初の異変が起きた。

 

 広場に着いた瞬間、お調子者のアイツの周りに、村の小さな子供たちが蟻のように一斉に群がったのだ。いつも無表情で冷静な仲間が、俺の横でボソリと呟く。

「あいつ、なんかめちゃくちゃ好かれてるな」「まぁ、同じようなガキの感性だからじゃねえの」

 俺は呆れ半分にそう返した。その直後だった。

 

「――キャアッ!」

 

 

 子供たちが、慌てた様子で蜘蛛の子を散らすようにこちらへ走ってきた。

「うぅ……う、ごめんなさい……っ」

 群れの中から、どこかあの村長に面影が似た子供が、ボロボロと涙を流しながら謝ってきた。アイツに怪我をさせてしまったらしい。

 

「あはは、いいんだって!気にすんなよ!」

 痛そうに笑うアイツの膝を見れば、ズボンが裂け、痛々しい擦り傷ができていた。

 

 だが――俺だけは、見てしまった

 

 泣きじゃくりながら頭を下げるその子供が、後ろに回した手に、赤黒い液体がこびりついた鋭い木の枝を隠し持っているのを。

 そして何より、俺の心臓を凍らせたのは、その顔だった。

 子供は目を真っ赤にして涙を流しているのに、その口元だけは、耳元まで引き裂けそうなほどの笑顔で、ニタリと口角を吊り上げていたのだ。

 

――わざと, やったのか?

 

 脳裏に、洞窟の隅にあったあの古い血文字がフラッシュバックする。

 『笑』――あの警告は、この笑顔のことだったのか。しかし、周囲 の村人たちがいつものニコニコとした笑顔で俺たちを囲むように集まってくる。その無言の圧力に圧殺され、俺は声を上げるタイミングを完全に失ってしまった。

 

「おやおや、大変だ。すぐに村の医者に診てもらいましょう。綺麗に治して差し上げますからね」

 

 

 村長がそう言ってニコニコと微笑み、アイツの肩を抱いて連れていこうとする。

「あ、すんません! お願いします!」とお調子者のアイツはのんきに頭を下げ、村人たちに連れられて広場の奥へと消えていった。

 

 

――それが、すべての終わりだったんだ

 俺たちの見えない場所で、医者と称する何者かに、アイツの傷口へ一体『何』を仕込まれたのか、当時の俺には知る由もなかった。

 

 しばらくして、膝に白い包帯を巻かれたアイツが、すっかり安心した顔で戻ってきた。

「いやあ、本当に親切な村だな!」

 

「さあさあ、手当ても終わりましたから、村の奥にある私の家へ行きましょう」

 

 村長に促され、俺たちは泥濘(ぬかるみ)の残る集落の細道を歩き出した。その時、広場で遊んでいた子供の一人が、タタタッと駆け寄ってきて、俺の腰のあたりにぎゅっと抱きついてきたんだ。

「お兄さん、遊ぼう! 後でいっぱーい遊ぼうね!」と。

 

 

 無邪気な声だった

 

 だが、抱きついた子供の小さな両手は、遊ぼうと言いながらも、なぜか俺の『お腹の回り』を執拗にさすり、肉の厚みを確かめるようにカサカサと撫で回していた。

 

 あまりの不気味さに耐えかねて、俺は引き攣った声を絞り出した。

「……ねぇ、何しているの?」

 

 すると、さっきまでのなにかを探るような冷たい目つきが一転し、子供はパッと無邪気な笑みでこう答えた。

 

「おまじないだよ!、『幸運』を呼び込むためのね!」

 

――それは、俺たちからした幸運じゃない。お前たちにとっての『幸運』なんじゃないのか。そんな言葉が脳裏によぎる。だが、相手は子供だ。ただの風変わりな遊びだろうと、俺は無理やり自分を納得させた。

 

 道の脇の畑でクワを振るっていた老人が、ピタリと動きを止めた。

 道端で群れて楽しげに話し込んでいた主婦たちが、いきなり声を失った。

 

 そして彼らは全員、まるでスイッチを切り替えられたように、首だけをギチリとこちらへ巡らせると、一斉に、ニコニコと目を細めて俺たちを見つめてきたのだ。

 

 すれ違う住民、全員が同じ顔、同じタイミングの笑顔。

 声のない、引き攣った包囲網。その視線の冷たさに足がすくみそうになった、その時だった。

 

「……なんかさ、やけに歓迎されてる感じ? 有名人にでもなった気分だわ」

 

 隣を歩くお調子者のアイツが、のんきに笑いながらそう言った。

 

 アイツのその言葉を聞いて、俺は凍りつきかけていた思考を無理やり宥(なだ)めた。

 

――あぁ、そうか。こんな地図にも載っていない田舎の村だ。外から来た人間が珍しくて、みんなで物珍しそうに歓迎してくれているだけなんだ。

 そう思うことにした。そう思わなければ、立っていられなかった。

 

 だが、俺たちが通り過ぎた後も、老人や主婦たちの首は、ずっとニコニコとした笑顔のまま、俺たちの背中をじっと見つめ続けていた。

 

 案内された奥の広間には、驚くほどの御馳走が並べられていた。

「一日泊まるだけですから、こんなに用意してもらうのは悪いです」

流石に恐縮して俺が言うと、村長は顔中の皺をさらに歪めて笑った。

「いいえ、いいえ。久しぶりの客人なんだ。盛大に『お祝い』させておくれ」

 

 蜘蛛が獲物を前に喜ぶような、あのニコニコとした笑顔

 

 脳裏には、さっきの子供の歪んだ口角や、血塗られた『笑』の文字が張り付いて離れない。警戒すべきだ、何かが絶対におかしい。

 

 だが、俺たちはあの猛吹雪の山で遭難してから、ずっと何も食べていなかった。

 悪いと思っていても、美味そうな匂いに胃袋が激しく悲鳴を上げる。涎が垂れ、何度も喉を鳴らして生唾を飲み込んでしまう。

 

 理性など、本能の飢えの前には何の役にも立たなかった。俺たちは完全に油断し、泥のように深い眠りへと落ちていった。

 

         深夜

 

 柱時計の秒針の音だけが響く静寂の中、かすかに「ぶつぶつ」と低く蠢くような声が聞こえてきた。

 それは隣の部屋から漏れ聞こえていた。俺は音を立てないように布団を抜け出し、声が響く襖の前で息を殺した。

 

指先に力を込め、そっと数ミリだけ襖を引く

 

 隙間から覗いた暗がりの部屋。そこに、昼間の住民たちがいた。

 

 だが、そこにはあの不気味な『仮面の笑み』は微塵もなかった。

 剥ぎ取られたかのように笑顔は消え去り、あるのは、感情を完全に失った能面のような無表情。

 

 彼らは部屋の中心に座る村長を、まるで肉の壁のように、ぐるりと囲むようにして座っていた。

 

 中心に座る『頭』と、それを取り囲む『足』

 

 彼らは光の宿らない虚ろな瞳でただ中心の一点だけを見つめて、ぶつぶつと言葉を零し合っている。

 

 ゾッとして背筋が凍りつき、俺が慌てて物陰に姿を隠そうとした、その時だった。

 

 ぶつぶつという声がピタリと止まり、中心にいた村長と、周りを囲んでいた村人たちが、一斉にこちらへと首を巡らせた。

 

 

ガシャァン!

 

 と、乱暴に襖が開け放たれる。俺は両手で必死に口を塞ぎ、物陰で気配をかき消した。

 

 「どこだ」  「どこへ行った」

 

 感情の消え失せた能面の顔のまま、無言のまま畳を激しく踏み鳴らし、無数の村人たちがドタドタと荒々しい足音を立てて俺を探し回っている。畳を激しく踏みつける音が、すぐ耳元まで迫ってくる。見つかれば終わる。

 

 その時、まるで世界の時間が止められたかのように、ドタドタという足音がピタリと完全に静止した。

 俺の隠れる物陰のすぐ前。村人たちの隙間からぬうっと滑り込んできたのは、やはりあの村長の能面のような顔だった。

 

 そいつは、ゴキリ、と骨の砕けるような音を立てながら、首をあり得ない角度に曲げて、物陰の奥にいる俺の目をじっと覗き込んできた。

 

 

 恐怖が限界を超え、脳の回路がショートしそうになった次の瞬間だった。

 

 村長の顔の皺が、クシャリと歪んだ。何事もなかったかのように足音もなく廊下の奥へと去っていった。

 

 生きた心地がしなかった。狂乱状態のまま物陰を飛び出した俺は、暗い廊下の向こうへ去ろうとしていたあの村長の背中に向かって走り出していた。

 

「おい! 待て! さっきのあれは、一体なんだったんだ……!」

 

 闇を切り裂くような叫び声。俺は、去っていく村長を必死に形相で呼び止めた。恐怖とパニックで喉が引き攣る。

 

 村長はゆっくりとこちらへ振り返り、顔中の皺を歪めて目を細めた。

「――ハテ、なんのことでございましょう」

 

昼間と全く同じ、親切な声音

「それより、夜更かしは体に毒です。早く寝床に戻って、温かい布団でお休みになりなさいな……」

 

 怪物に完全に泳がされている。その圧倒的な悪寒に背中を押されるようにして、俺は這うようにして自分たちの部屋(寝床)へと戻り、襖を閉めた。

 

 仲間を叩き起こさなきゃいけない。今すぐここを脱出するんだ。

「おい! 起きろ! 帰るぞ!」

 

 俺は震える手で、お調子者のアイツの布団を激しくひっぺがした。

 飛び起きたアイツは、しかし、いつもと全く違う、光の消え失せた虚ろな瞳で俺をじっと見つめてきた。

 

「……んでだよ。帰るって、どこへだよ。こんなにいい村じゃないか、なぁ……」

 

 感情の起伏がない、粘着質で白々しい声。恐怖に心臓が跳ね上がり、俺はアイツの視線の先――昼間に包帯を巻かれた膝へとライトの光を落とした。

 

 包帯を引きちぎる。赤黒く腫れ上がった傷口の皮膚の下で。

 カサカサと、何か無数の細い足のようなものが、波打つように蠢いていた。

 

   ――あぁ、もはや逃げられない

 

 絡みついた蜘蛛の糸が剥がれず、ただじっと捕食される運命を待つ虫のように。

 俺たちは最初から、一歩も――逃がされてなどいなかったんだ。

 

 その瞬間、古びた障子の向こうから、世界を圧殺するような激しい重低音が響いてきた。

 

         雨だ

 

 村に入った時はポツリポツリと降ってすぐに止んでいたそれが、今、滝のような「土砂降りの雨」となって、轟々とこの考えられない村を叩きつけ始めている。

 

 引き返す背後(洞窟の外)には猛烈な吹雪が吹き荒れているはずなのに、この障子の一枚向こうでは、生温かい豪雨がすべてを塗りつぶしていく。

 

 この現世のルールが完全に狂った異界の雨音は、救いなどではない

 

 俺たちの身体に撒かれた『タネ』がいよいよ完全に目覚める――最悪の夜の始まりを告げる、地獄の雨音だった。

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