ニコニコ様『ハテ、なんのことでございましょう。』 作:瑠璃1
アイツの膝から突き出た、あの蠢く蜘蛛の足。それを見た瞬間に、冷静なアイツも一瞬で総毛立ち、跳ね起きた。
「逃げるぞ……今すぐここから出るんだ!!」
俺たちは荷物も持たずに、部屋を飛び出して廊下をがむしゃらに走り、玄関へと向かった。
だが、引き戸の前に、あの影が立ちはだかる。
「――おや。もうお帰りでございましょうか」
村長は、至って普通に、親切なトーンで問いかけてきた。
全身から、止めどなく冷や汗が湧き出る。俺はアイツに気づかれないよう、必死に声を震わせずに嘘を紡ぎ出した。
「あ、あぁ……そうなんだ。急に、今日どうしても外せない用事があったのを思い出したんだ」
村長は細められた目の奥で俺たちをじっと見つめ、クシャリとさらに皺を深くした。
「……左様でございますか。それは、誠に残念です。では、気をつけてお帰りくださいな」
老人はそれ以上何も追及せず、すんなりと体をよけて、玄関の戸を開け放った。
外は、前編の夜から続く激しい土砂降りの雨と闇。
俺たちは荷物も持たずに、その生温かい豪雨の中へと飛び出した。
その時、背後で見送る村長が、不自然に長い腕を組み、人の原型を留めないほどにおぞましく歪んだ口元で、低く囁いたんだ。
「――それに。タネは、もう撒かれましたから」
心臓が凍りつくようなその言葉と同時に、村長の左右の暗闇から、カサカサと嫌な音を立てて、泥に塗れた『七つの人影』がぬうっと姿を現した。
彼らは全員、あの『ニコニコとした笑顔』のまま、全く同じタイミング、全く同じ速度で、機械のようにギチギチとこちらに向かって手を振っていた。
恐怖に背中を蹴飛ばされるようにして、俺たちは泥を撥ね散らし、必死に豪雨の山道を駆け上がった。背後に広がる、不気味なほど静まり返った集落。本当に逃げ切れたのか。堪えきれぬ恐怖に背中を押されるようにして、必死に走り続けた。
だが突如として、背中に背負っていたアイツが、俺の耳元で明確に呟いた。
「……俺を、置いていけ」
「――何言ってんだよ!」
何でそんなことを言うんだ。疑問に駆られ、走りながら必死に振り返る。その瞬間、俺は息を詰めた。
アイツの足は――ズタズタに裂けた皮膚の隙間から、ゴキゴキとあり得ない関節の曲がり方をした、黒く剛毛の生えた巨大な蜘蛛の足が突き出ていた。
怪物への変貌
だが、俺を見つめるアイツの瞳は、あの虚ろな闇ではなかった。自分の最期を悟り、仲間を絶対に巻き込まないという、狂気に抗う『覚悟を決めた人間の瞳』だった。
「行けっ……!」
突き飛ばされるようにして、俺たちはアイツをその場に置いていくしかなかった。
雨音だけが響く山道。残された俺と、隣を走る冷静なアイツの間に、重苦しい沈黙が広がる。
引き返したかった。だが、あの首が折れた能面の老人が、仲間を引きずっていった足音が聞こえたから、俺は恐怖を怒りで塗りつぶして進むしかなかったんだ。
その時だった。
「――あはははははは化ははははははははははははははははは!!」
はるか後方、アイツを置いてきた暗闇の奥から、雨音をすべて圧殺するような破裂した哄笑が響き渡った。
笑う、嗤う、嘲笑う。自らの口が耳元まで裂けることすら気にも留めずに、アイツは、村人たちは、ただただ狂ったように笑い続けている。
アイツの心はもうない。とっくに死んでいる。なのに、腹の中の『タネ』に操られた肉体だけが、人の原型を留めないほどに口元を歪め、あの村人たちと全く同じように、俺たちを地獄の奥へと誘うために、ギチギチと手を招いているのだ。
俺たちは涙で歪む視界のまま、泥を撥ね散らしながら、それでも前だけを向いて走り続けた。
前方に、ようやく見えてきた
ようやく見えてきた、あの全ての始まりである洞窟の入り口だ。
いつの間にか嵐は去り、そこには白々と開けていく眩しい日の光が差し込んでいた。あそこへ行けば助かる。元の世界へ帰れる。死を待つ虫が、まばゆい光に吸い寄せられるように、俺たちは最後の力を振り絞って洞窟へと走った。
だが――
なぜだろう。
その救いであるはずの日の光が昇ると同時に、洞窟の入り口の地面に、長々と不気味な『影』が伸びて、俺たちの目の前に立ちはだかったんだ。
逆光の中に浮かび上がる、村長と村人たちの人影。
そして――その中には、間違いなく、さっき山道に置いてきたはずの『アイツ』の影もあった。
立ち尽くす俺たちの前で、光を背負った村長の人影が、あの原型を留めないほど歪んだ口元をさらにニタリと広げた。
そして――昼間と同じ、親切で楽しげな声色をさせながら、囁いたんだ。
「――おや、こんなところで何をしているのですか。あなた達が帰るところは、こちらではないはずですよ」
その村長の言葉を合図に、洞窟の入り口を塞ぐ逆光の中で、世界が完全に崩壊を始めた。
――そして、俺たちはとうとう、見てしまったんだ
昼間、あれほど無邪気に笑っていた子供たちも、道端で井戸端会議をしていた主婦たちも、畑仕事の老人も、全員の口が耳元までビリビリと裂け、真っ赤な血がドロドロと滴り落ちるのも気にせずに、狂ったように嗤い出したのを。
彼らは嬉しそうに両腕を天へと掲げ、呪詛のような歓声を上げる。その瞬間、村人たちの影がドロリと溶け、歪みながら、猛烈な勢いで村長の後ろへと伸びて這い寄っていく。
違う。こいつらは人間なんかじゃない。村人たち全員が、あの村長という怪物が獲物を捕らえるために放っていた、血塗られた『蜘蛛の糸』そのものだったのだ。
「あはははははははははは!」
その糸の最深部、村長の後ろで、引き潰されるような肉の音が響く。
そこには、俺たちと同じようにこの網に絡め取られた、過去の被害者たち七人がいた。彼らは目からドクドクと血を流し、世界への怒りと呪いを滾らせながら、人間の原型を何一つ留めないほどに無理やり押し潰され、一本一本の『巨大な足』として結合されていた。
そして今、山道に置いていかれたあのアイツが、『八人目』の極上の贄として、その地獄の肉塊の中へと引きずり込まれていく。骨が砕け、肉が融け、アイツの『覚悟を決めた瞳』が狂気に染まっていく。
ゴキゴキとあり得ない音を立てて完成する、親友の肉体でできた八本目の足。
村長という頭。そして、絶叫する八人の人間の肉で作られた、
八本の足。目の前に現れたのは、神話に出てくるような、おぞましき蜘蛛の軍勢の完全体だった。
圧倒的な絶望の中、化け物となった村長は、歪んだ口元をさらに広げて楽しげに囁いた。
「――さあ、一緒に帰りましょう」
俺たちは、その悍ましいものを見た恐怖で、視界が真っ白になっていた――
カサカサと蠢く、八つの歪な影
逃げ道を完全に塞がれたその瞬間、俺の胸の奥からも、そして隣で絶望に目を見開いているアイツの身体からも、カサカサと無数の足が皮膚を突き破ろうと這い回る音が、ハッキリと聞こえ始めていた――。
洞窟の隙間には、一冊の血濡れた日記があった
異形の軍勢に包囲され、肉体を内側から引き裂かれながら、狂乱の中で慌てて書き殴ったのだろう。
乱雑な文字で書かれたその大半は、べっとりと付着した血に汚れて読むことはできない。
だが――この一文だけは、震える筆跡のまま、正確に読み取ることができる。
『‥‥言葉では表現できない‥‥いや表現してはいけない』
その村では笑顔が絶えません。
今、仲間に加わった彼らも、心底楽しそうにしています。
――あなたもこちらで、笑顔で過ごしませんか♪
人は、笑顔を見るとつい嬉しくなってしまう。だが、本当にそれは正解なのだろうか。
そもそも笑顔とは、相手を噛み殺すための「威嚇」から生まれたのだ。