無気力少女は満たされたい 作:書くマン
いつからここにいたかは、覚えていない。
物心ついた時には、ここにいた。
どこかの街の、暗く汚れた路地に、私は捨てられた。
私は、いわゆる孤児だった。
両親の顔なんて覚えていないし、捨てられた記憶もなかったが。
でもまあ、こんな場所にいるということは、捨てられたということなのだろう。
今思えば、私は随分と無気力な性格だったと思う。
特に将来について考えたこともないし、自分の過去も知りたいとも思わなかったし。
同居人たちから回ってきたご飯を食べて、それでも収まらない空腹感を耐えるべく、後はどこかの隅でじっとしているだけ。
それだけの日々だった。
なんとなく『ここでこのまま私は終わるんだろうな』と、思っていた。
あの瞬間までは。
ある日のことだ。
いつものように、ご飯を食べて、どこかの隅で座り込んだ。
「いつものように」と言ったが、その日はいつもとは少し違った。
簡単に言うと、吐いた。
なんてことはない、ただの食中毒だったのだろう。
お腹に激痛が走って、吐き気が喉奥にこみ上げてきて、私は嘔吐した。
私は倒れ込み、意識が朦朧としたまま、同居人たちに担がれどこかに運ばれていった。
同居人たちは私を運びながら、口々に言った。
──
なにが「また」なのかはその時は分からなかったが、後になって考えると、私はあの時ほぼ死んでいたんだろうし、死体として運ばれていたのだろう。
孤児が1人死ぬことなんて珍しくもない、そういう意味での「また」だったのだろう。
そうして何も分からぬまま運ばれている最中のこと。
一瞬だけ、不思議と何かが入り込んできた感覚があった。
ご飯を口に入れて飲み込んだ時の、お腹の中に入ってくる感覚に似てたような気がする。
そして、私は飛び起きた。
朦朧としていた意識ははっきりとしていて、少しの力も出なかった四肢には、ほんの少し力が入った。
私を運んでいた同居人たちはギョッとして、恐ろしいものを見るような目を向けてきたが、それは私にはさほど重要ではなかった。
声が聞こえた。
私の内側から、男性のものと思われる低い声音で。
『最悪だ……』
それが、私とその声の始まりだった。
***
黒髪の少女は1人、ボロボロの布切れを身に纏い、歩いていた。
その虚ろな眼は黒く濁り切り、まるで深淵のように、奥が見えない。
『人の少ない所に行け』
少女の頭の中で、低い声が聞こえる。
「……うん」
少女が倒れ、起き上がってからすぐに、頭の中、そのさらに奥から全身に響くようなその声は、人気の少ない場所へと彼女を誘導した。
『声』の意図は分からなくとも、少女に断る理由は無かった。
以前よりも力強く確かな足取りで、前へ前へと進む。
『ここら辺でいい』
足を止めて、少女は周囲を見渡す。
人気も少なく、いるとしても理性のない、正気を失った獣のような人間くらいしかいない。
彼女が何をしていようと、それを理解できるような者は、この場にはいないだろう。
『お前、名前は?』
「……名前」
はて、と。
名前を聞かれ、少女は首を傾げた。
『……名前、無いのか?』
「うん……」
『マジかよ、とことん運が悪いぜ俺はよ』
冷淡な態度で、『声』は深く溜息を吐く。
何故運が悪いのか、と尋ねるほどの理解力と気力は、少女には無かった。
「……」
『あー……もしかして壁と話してるのか? 俺は』
「……?」
何を言ってるのかわからない、と言った様子で少女は首を傾げる。
『声』がどれだけ皮肉を重ねても、相手が理解しなければそれに意味はなかった。
思ったような反応ではなかったのか、『声』は少女に少しの苛立ちを見せながら、静かに言った。
『……お前は、今からミランダだ。いいな?』
相談も無しの身勝手な物言いだが、当の本人は何も感じていないようで、小さく頷くだけだった。
それに対して『声』は、よし、と小さく呟く。
『ミランダ、俺とお前は最悪なことに今からしばらく運命共同体だ。互いに隠し事はナシにしよう』
「わかった」
ミランダは短くそう言って、小さく頷く。
言葉の意味を理解しているのかしていないのか分からない、とても素直な反応だった。
『──
なんの前触れもなく、『声』は呟くように言った。
そういう指示だろうか、とミランダが口を開こうとした瞬間、それは起こった。
ミランダの全身が、淡く発光し始める。
「!?」
ミランダは無表情のままだったが、驚いたように一瞬目を見開く。
ただ、発光する以外に特に何か起こるというようなこともなく、光はすぐに収まった。
「なにこれ」
『お前があまりにも汚ねえもんだから、少々
「?」
当然のことのように言う『声』に、ミランダは首を傾げる。
言われて確認してみると、先ほどまで汚れていた彼女の身体は、みすぼらしい格好のままではあるが、比較的綺麗になっていた。
「……??」
再び、首を傾げる。
その反応を見て得心したのか、あー、と説明しづらそうに『声』は唸った。
『……
「わかった」
隠し事はナシ、と先ほど言っていたにも関わらず、『声』は適当に誤魔化した。
ただ、そのあまりに雑な説明とも言えない言葉にも、ミランダは『なるほど、
そういうものだと言われたのなら、そうなのだろうと。
その様子に『声』は多少不思議そうにはしていたが、さほど興味もないため、深く聞くことはなかった。
代わりに、ミランダへ一つの質問を投げかける。
『お前は、なんか聞きたいことあるか?』
「……え?」
『ゆっくり考えろ』
『声』の言うその行為は、ミランダにとって初めてのことだった。
今こうやって言われるまで、自我のない植物のような日々を過ごしてきた彼女にとっての。
今まで何も考えることなく、流されるまま生きてきた彼女にとっての、初めての
「……」
ミランダは俯いて、
『……』
『声』は何も言わない。
何も言わずに、ただ黙って待っていた。
そうしてしばらくの時間、ミランダは俯いていたが、ふと何か思いついたのか、顔を上げた。
「あなたは、誰?」
『……俺か』
飛び出したのは、至極当然の疑問だった。
あなたは誰か、何者なのか、どういう存在なのか。
『声』はそう聞かれているのだと考えた。
『俺は……なんつったらいいんだ、魂というか、存在そのもの? というか……説明が難しい……』
「……名前」
『あ?』
ああでもないこうでもないと悩む『声』に、ミランダは一言付け足した。
「……名前を……教えて」
『……ああ、名前ね』
それならそうと早く言え、そう言って『声』は溜息を息をつく。
『あー……』
「名前、ないの?」
『……待て、考えてるから』
ミランダは分かった、とだけ言って、黙った。
それほど時間がかかることもなく、少しして、その答えは返ってきた。
『ネイブ、と呼べ』
「ネイブ」
『よし』
満足気に『声』もといネイブは呟く。
『これから俺たちは隣人だ』
「にん、じん……?」
『り、ん、じ、ん、な?』
「隣人……分かった」
素直に頷くミランダに、ネイブはまた、満足気に『よし』と呟いた。
『よろしく、ミランダ』
「……よろしく」
隣人の意味などはよく分からないが、ミランダはとりあえずで頷いておく。
癖なのだろうか、ネイブは再び『よし』と呟いた。
***
ネイブとミランダが『隣人』という関係になった、その日の夜。
ミランダは頭の中で響く指示に従い、裏路地の外、街の大通りへと出ていた。
そして現在、その通りに並んでいた建物の一つに、侵入していた。
そう、ミランダは今、『盗み』をしていた。
正確には、させられていた、が正しいが。
「これ、食べていいの?」
『ああ、誰もいないからな。たらふく食え』
「分かった」
誰もいないひんやりとした倉庫の中で、ミランダはネイブに促されて近くのりんごを一つ手に取り、齧ってみる。
言われたことをそのまま鵜呑みにするというミランダの習性または純粋さは、彼女をいとも簡単に犯罪者へと仕立て上げた。
「おいしい……!」
とはいえ、これは彼女にとって初めての
りんごの甘さに目を輝かせて、何度も齧りつき、咀嚼して、その味を堪能する。
おいしい、おいしいと何度も口にするミランダを見て、ネイブは『よし』と満足気に呟く。
『だろ? あんなゲロみてーなもん二度と食うなよ』
「わかった……!」
ネイブの言葉にぶんぶんと首を縦に振り、ミランダはりんごに齧りこうとするが、既に手元にあったりんごは無くなっていた。
「あっ……」
『どうした?』
「なくなっちゃった……」
名残惜しそうに自身の指を舐めるミランダに、ハハ、と笑ってネイブは言った。
『
「……全部?」
『ああ』
何を言ってるんだと、不思議そうにネイブは言う。
ミランダは、今自分のいる場所を、もう一度見てみた。
果実や、野菜などの食材。
大量にあるそれが、棚や箱の中に並べられている。
それを見てミランダはそれに手を伸ばそうとしたが、ふと、裏路地にいた頃のことを思い出す。
ある日、食事の量を多めに誤魔化して、それがバレて、捕まえられた男がいた。
男は路地の住人たちから、死ぬまで殴られ、殺された。
『許してくれ』『痛い』『やめてくれ』
そんな叫び声が聞こえてきたのを、ミランダは微かに覚えていた。
そして、その男と、自分を重ねた。
「全部食べたら、捕まっちゃうかも」
『ん?』
罪の意識、とでも言うべきなのか、ミランダは躊躇っていた。
「捕まって、みんなに殺されるかも」
だから、と続けようとしたミランダに、ネイブは『あのな』と割って入る。
呆れたような声音で、ネイブは言った。
『その
「……え?」
『言っただろ?
確かに、とミランダは思った。
ここには自分と不思議な隣人しかいないではないか、と。
『バレなきゃいいんだよ……
「……うん、わかった」
そうして、すっかり不安ごとを取り除いたミランダは、躊躇うことなく部屋の食べ物に手をつけていった。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
誰もいない、しーんと静まりかえった薄暗い倉庫の中、ミランダの小さな咀嚼音のみが、もぐもぐと鳴り響く。
「あれっ?」
何かに気づいたように、ミランダはせっせと動かしていた手と口を停止させる。
『どうした?』
「えっと」
ミランダはぐるりと部屋を見回してみる。
倉庫の中にあった食料は、いつの間にか
「すごく、減ってる……?」
『あ? 何言ってんだ……
そう言われて、ミランダはやっと理解した。
この量を食べたのは自分なのだと。
「流石に、お腹いっぱい……かも?」
ミランダはそう言うものの、彼女には不思議と、満腹感はなかった。
彼女がお腹いっぱいと言った理由は、ただ『こんなにたくさん食べてしまったら、お腹を壊してしまうかもしれない』と思ったから。
それだけの理由だった。
『
「……!」
強い口調で、ネイブが言う。
図星をつかれたかのように、ミランダの瞳孔が開く。
『ゆっくり考えろ、今1番、お前がしたいことはなんだ?』
「……」
諭すような口調で聞かれて、ミランダは言われた通りに、ゆっくりと考える。
そうして少し経って、答えた。
「もっと、食べたい」
ポツリと、呟く。
『じゃあ、そうしろ』
「……分かった」
そう頷くと、ミランダは再び食べ物に手を伸ばして、食事を再開した。
黙々と食べる。
咀嚼し、飲み込むという一連の動作を、繰り返す。
やがて段々と、その速度は増していった。
『うまいか』
「うん」
『味わって食え』
「わかった」
ネイブに言われて、ミランダは咀嚼の回数を増やしてみたものの、煩わしかったのか忘れたのか、すぐに飲み込むような食べ方に戻った。
しばらくすると、暗い空にはうっすらと朝日が昇ってくる。
『全部食べたら「ごちそうさまでした」だ』
「ごちそうさまでした……?」
確かめるように言うミランダに、ネイブはよし、と満足気に言った。
既に倉庫の中は空っぽになっていて、あるのは空の木箱と、食べ物の残骸のみだった。
『行くぞ、ミランダ』
「ん……眠い……」
『少し我慢しろ』
急かすように言うネイブに、ミランダは眠そうに目蓋を擦りながら頷いて、建物の外へと出た。
朝なこともあってか、街の住人たちはちらほらと家から出てきているようで、大通りには人が数えるほどに歩いている。
ミランダが大通りに出ると、前を向いていた通行人たちの視線は、すぐに彼女の方へと向いた。
皆一様に訝しむような表情をしている。
「……こっち見てる?」
『まあ、そりゃあな』
ミランダの格好は、汚れた布切れのようなものを纏っているだけで、お世辞にも服と言えるものではなかった。
普通ならホームレスや孤児の集まる裏路地に住んでそうな格好をした少女が、急に大通りに現れ、しかもそこの建物から歩いて出てきたのだ。
全員が怪しむのも、当然のことだった。
『お前の格好……浮いてるからな』
「……どうゆうこと?」
結論として、彼女の身なりは、悪い意味でとても目立っていた。
『行くぞ、ここにいたら捕まる』
ネイブがそう言うが、ミランダは動かない。
彼女は立ち止まって何かを考えるような仕草を見せ、そして尋ねる。
「……行くって、どこに?」
『あ? そりゃあここじゃないとこに決まってるだろ』
「わかんない……」
ここじゃないところと言われても、ミランダは首を横に振るしかなかった。
今まで薄暗い裏路地で過ごしてきた彼女にとって、その外なんて考えることもなかったからだ。
だから、その更に外と言われても、どう行けばいいのかなんて知る由もなかった。
ネイブは『お前……』と何かを言おうとして、途中で言葉を呑み込み、黙り込んだ。
「ネイブ……?」
さっきまでのように指示をくれない隣人に、ミランダは無意識に不安を感じたのか、小さな声で名前を呼ぶ。
呼ばれて無視するわけにもいかなかったのか、ネイブは溜息を吐いて話し出した。
『……とりあえず歩け。まっすぐ歩けば、向こうに見える外壁に辿り着く。あとは壁沿いに歩いて近くの門から出ればいい』
ひと息にそう言って、ネイブは『分かったか?』と確認する。
ミランダはちょっとだけ考えて、分からなかったので「うん」と頷くだけしてから、歩き出した。
『本当に理解してんのか……? まあ流石にそこまでバカじゃないだろうが、分からなかったら言えよ? 軽い説明ならしてやる』
「がいへきって何?」
『ごめん、やっぱ無しで』
まず最初に隣人の教育からしなければいけないと、ネイブは心の底から思った。
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