忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
クロウ家の食卓には、銀の燭台が一本だけ残っていた。
それも、もう半分は銀ではない。磨きすぎて薄くなった表面の下から、鈍い地金がところどころ覗いている。母はそれでも毎朝、まるで家の誇りまで磨き直すように、乾いた布で燭台を拭いた。
リディア・クロウは、その手元を見ないふりをして、テーブルの上に置かれた封書を読んでいた。
厚い羊皮紙。黒い蝋印。翼を広げた鷲と、その胸に刻まれた月桂冠。
わざわざ調べ直すまでもない。ヴァレンシュタイン公爵家の紋章だった。
「家庭教師、ですか」
リディアが言うと、母は布を畳む手を止めた。
「ええ。条件は悪くないわ」
悪くない、という言葉は正確ではなかった。
提示された報酬は、破格だった。三か月分で、クロウ家が抱える借財の利息を一年は凌げる。半年続けば、使用人をひとり戻せる。年を越せば、屋敷の一部を手放さずに済む。
問題は、条件の方だった。
リディアは封書の二枚目をめくった。そこには、雇用条件とは思えない文言が整然と並んでいる。
一、担当する生徒の名を、屋敷の外で口にしてはならない。
一、担当する生徒について、本邸の者に質問してはならない。
一、授業は北の離れに限る。
一、北の離れにおける言語反応および封印反応の観察補助を含む。
一、契約期間中、雇用主の許可なく職務を辞してはならない。
一、北の離れに髪・血・署名した紙・個人的な装身具を残してはならない。
一、命名に関わる旧儀礼を、雇用主の許可なく行ってはならない。
最後の一文に、リディアは目を止めた。
命名。
その言葉は、今の貴族社会では古臭い響きを持っている。
かつてクロウ家は、命名官の家だった。貴族の子が生まれた時、名を選び、家紋帳に記し、その名と血筋と魔力を結ぶ儀礼を司る役目を持っていた。
けれど、いまや命名官など半ば飾りだ。古い貴族はまだ形式として呼ぶが、本気でその力を信じる者は少ない。新興貴族に至っては、ただの時代遅れの礼法だと笑う。
クロウ家が没落した理由の半分は、戦争と投資の失敗だった。もう半分は、家業そのものが時代に置き去りにされたことにある。
「……お母様は、先方から何か聞いていますか」
「詳しくは何も。ただ、ヴァレンシュタイン公爵家は、あなたに来てほしいと」
「私に?」
「クロウ家の娘に、と」
母はそう言って、目を伏せた。
その言い方で、リディアは理解した。
ヴァレンシュタイン公爵家が欲しいのは、リディア個人ではない。没落していて、断れない程度に弱く、けれど命名官の血筋だけは持っている娘だ。
屈辱を感じるべきだった。
しかし、リディアは封書を畳み、静かに息を吐いた。
それだけでは冬は越せない。
「参ります」
母が顔を上げた。
「リディア」
「条件は妙ですが、報酬は必要です。クロウ家には、もう選り好みをする余裕はありません」
「……あなたを売るようなことは」
「売られるほど、私に値がついているなら結構です」
言ってから、少しだけ言い過ぎたかもしれないと思った。母の顔がわずかに歪んだからだ。
リディアは封書を胸元に寄せ、表情を整えた。
「大丈夫です。家庭教師でしょう。私は礼法と読み書きくらいなら教えられます」
「でも、あの公爵家よ」
「ええ。だからこそ、報酬が高いのでしょう」
母はそれ以上、止めなかった。
クロウ家には、止めるだけの余裕がなかった。
ヴァレンシュタイン公爵家の屋敷は、王都から馬車で半日ほど離れた丘陵地にあった。
灰色の石で組まれた城館は古く、重い。美しさよりも、荘厳さが先に立つ。門扉には鷲の紋章。外壁には蔦が這い、塔の細い窓はどれも深く影を落としている。
リディアが馬車を降りると、空は曇っていた。
雨は降っていないが、湿った冷気が手袋越しに指先に伝わる。
玄関ホールに通されると、背の高い家令が待っていた。
「リディア・クロウ嬢でいらっしゃいますね」
「はい。本日よりお世話になります」
リディアは深く礼をした。
家令は痩せた男だった。年齢は五十前後。隙のない黒衣をまとい、銀縁の眼鏡の奥から、こちらを品定めするように見下ろしている。
「私は家令のグレアムと申します。まず、契約書に署名を」
「公爵閣下にはご挨拶を」
「必要ございません。あなたの雇用は、家中の事務として処理されます」
家中の事務。
貴族の娘に対する扱いとしては、かなり冷たい。だが、没落した男爵家の娘なら、そういうものかもしれない。貴族位を持たない代官にさえ、クロウ家よりも良い暮らしをしている者は多くいるだろう。
リディアは表情を変えず、差し出された書類に目を通した。
封書と同じ内容が、より詳細に記されていた。違約金の額は、クロウ家の残った屋敷を売っても足りないほどだった。
「……契約期間中の辞職は、原則として認められないのですね」
「生徒の精神安定のためです」
「病や事故の場合は?」
「医師が判断します」
「私ではなく?」
「ええ、医師が判断します」
グレアムの声に揺れはない。
リディアはペンを取った。
一瞬だけ、母の磨いていた燭台が脳裏をよぎる。薄くなった銀と、何も言わずに見守る母の目。
リディアは署名した。
リディア・クロウ。
黒いインクが紙に沈むと同時に、どこか遠くで小さな鐘が鳴ったように思えた。
リディアは顔を上げる。
「今、鐘が?」
グレアムは答えず、契約書を回収した。
「授業は本日より開始していただきます」
「本日からですか」
「先方が待っていますので」
先方。
生徒、とは言わなかった。
リディアはその違和感を胸に留めた。
北の離れへ向かう道は、本邸の奥からさらに伸びていた。
長い廊下の壁には歴代公爵の肖像画が並び、どの視線もこちらを追ってくるようだった。
途中で出会う使用人たちは礼をしたが、「北の離れへ」と聞いた途端、空気がわずかに変わる。盆を持つ手が揺れ、視線が床に落ちる。
「私の担当する方は、体が弱いのですか」
「質問は控えるよう、契約書にあったはずです」
「本邸の者に質問してはならない、とありました。グレアム様は説明する立場でしょう」
グレアムがわずかに目を細めた。
「家庭教師として必要な情報はお伝えします」
「では、お名前を」
廊下の空気が張り詰める。
燭台の火が青く揺れた。
「……北の方、とお呼びください」
「それは称号ですらありません」
「この屋敷では、そう呼ばれています」
「ご本人は、それで納得を?」
「クロウ嬢」
グレアムの声が冷たくなる。
「この仕事を長く続けたいのであれば、同情はなさらないことです」
「同情をするには、まだ何も知りません」
「知らない方がよろしい」
北の離れへ続く扉の前で、グレアムは立ち止まった。
古い鉄の鍵が三つ。さらに銀色の封印紋が重ねられている。
その形は、外からの侵入を防ぐものではなく、内側を閉じ込めるものだった。
グレアムが鍵を外す。
一つ、二つ、三つ。
最後に指先を切り、血を紋に触れさせると、淡く光が走った。
「血鍵ですか」
「命名官の家らしい知識です」
「普通の病人の部屋には使いません」
「では、普通ではないのでしょう」
説明はないまま、扉が開かれる。
冷気が流れ出した。
渡り廊下は白く、窓は閉ざされているのに隅には霜が降りている。足音だけがやけに響いた。
突き当たりに、もう一つ扉があった。
白い扉。取っ手の周囲には細かな傷が無数に刻まれている。
「こちらです」
「グレアム様は入らないのですか」
「私は外で待機します」
「初回の授業ですよ。紹介くらいは」
「必要ありません」
グレアムは鍵を渡さず、短く言った。
「中にいる方を、令嬢だと思って接してください」
「令嬢なのですね」
「……接してください、と申し上げました」
リディアは手袋を整えた。喉が少し乾く。逃げたいとは思わない。ただ、何も知らされないことが気にかかった。
扉の向こうは静まり返っている。
それでも、視線を感じたような気がした。
「最後に一つだけ」
「何でしょう」
「私は、相手を名前で呼ばずに授業をする趣味はありません」
「では、その趣味は改めたほうがよろしい」
グレアムは扉を二度叩いた。
「クロウ嬢をお連れしました」
返事はない。
だが、内側で何かが動いた気配がした。
扉が開く。
部屋は想像より明るかった。
大きな窓は霜に覆われ、外は見えない。淡い灰色の壁、簡素な家具、凍りかけた白い花。
窓辺に、少女がいた。
淡い金の髪、雪のような肌。古い型のドレスをまとい、本を開いているが、視線は文字を追っていない。歳は幾分、リディアとは離れているように見えた。
リディアが入ると、少女は顔を上げた。
澄んだ灰色の瞳。
驚きや恐れといったものは見えず、ただこちらを確かめるような目だった。
リディアは一歩進む。カーペットに左足が僅か沈みこんだ。
「本日より、あなたの授業を担当いたします。リディア・クロウと申します」
礼をする。
「読み書き、歴史、礼法、必要であれば簡単な紋章学も。至らぬ点はあるかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
少女は本を閉じた。
乾いた音が響き、窓の霜がかすかに震える。
扉の外で、グレアムが息を呑む気配がした。
少女は黙ってリディアを見つめる。髪、手袋、胸元の古いブローチへと視線が移る。
やがて立ち上がった。
足音はない。
白い部屋の中で、彼女だけが現実から少し離れているように見えた。
「リディア・クロウ」
少女は名を呼んだ。
丁寧で、迷いのない発音。
リディアの背筋にわずかな違和感が走る。
名乗ったばかりのはずなのに、慣れ親しんだかのように響く。
少女は微笑む。
整った、静かな笑み。
「待っていました、先生」
その瞬間、背後で扉が閉まった。
鍵の落ちる音が、やけに大きく響いた。