忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第十話 エルゼとしか呼べない部屋

 

 北の離れへ続く廊下を、リディアは三度歩いた。

 一度目、亀裂の入った窓を右に見た。

 二度目にも、同じ窓が右にあった。

 三度目には、窓枠の真鍮燭台から垂れた蝋まで、先ほどと同じ形で固まっていた。

 

 足を止める。

 

「これ以上は進めません」

 

 背後で、グレアムが言った。

 二人の紋章術師とともに、廊下の角に立っている。誰も傷ついてはいないが、血鍵の先まで白く曇っていた。

 

「いつからですか」

「夜明け前からでございます」

 

 一人の術師が銀杖を構えた。

 淡い光が廊下を走る。

 だが、光は北へ届かず、術師の背後から戻ってきた。

 

「空間そのものが折り返されています」

「力ずくで破れますか」

「おそらく、可能ではあります。しかし、北棟全体が古い術式へ接続しています。反動が内部へ返るでしょう」

 

 北の離れは、初めから牢として建てられたのではない。

 かつては、ヴァレンシュタインの血と名を照合する施設だった。

 昨夜、床下から響いた音を思い起こす。エルゼは眠っていた古い部屋を起こしたのだ。

 

「私なら入れるかもしれません」

「安全の保証はできません」

「北棟は、私を入室者として記憶しています」

 

 初めて名を呼んだ日から、この部屋はリディアの存在をかすかに覚えている。

 

 居場所を知らせるほどではない。

 ただ、誰を扉の内側へ通したかという、古い記録だけが残っている。

 

「お一人で入れるわけにはまいりません」

「術師は入れないのでしょう」

「外側から結界を崩します」

「エルゼ様ごと?」

 

 グレアムは答えなかった。

 沈黙だけで十分だった。

 

 リディアは窓枠の燭台へ触れた。

 冷たい真鍮へ、指先で名を書く。

 

「リディア・クロウ」

 

 声にした途端、廊下が薄くほどけた。

 窓も燭台も霧へ沈み、白い扉が目の前に現れる。

 三つの錠前は消えていた。中央には銀文字が浮かんでいる。

 

入室を認められた者のみ、名をもって扉を開く。

 

「先生」

 

 内側から声がした。

 いつもより、ひどく掠れている。

 

「聞こえますか」

「はい」

「扉を開けてください」

「開いております」

 

 取っ手へ手をかける。

 扉は、待っていたように軽く開いた。

 

     

 

 部屋の中央に、見慣れない机があった。

 黒ずんだ銀板へ、家紋と名前を刻む細い溝が幾重にも走っている。

 

 普段の学習机ではない。床下に封じられていた旧命名机だった。

 その周囲を、光る文字が輪になって巡っている。

 

名の主が認めぬ呼称は、この室に定着しない。

 

 同じ一文が、床を渡り、壁を上り、天井から再び机へ戻っていた。

 エルゼは、その中心に立っている。

 唇は色を失い、指先には霜がまとわりついていた。

 

「何をなさったのですか」

 

 リディアが室内へ入る。

 背後で扉が閉じた。

 取っ手を引く。

 動かない。

 

「開けてください」

「お話が終わりましたら」

「今すぐです」

「嫌です」

 

 拒絶へ応じるように、床の文字が強く輝いた。

 同時に、エルゼの身体がわずかに傾く。

 

「その術式は、あなたを削っているのですね」

「大丈夫です」

「そのお声では、信じられません」

 

 窓の外に、庭はなかった。

 古びた食卓が見える。欠けた皿。薬瓶。

 顔のない女の影と、二人の少年らしい人影。

 

『姉上』

『お気をつけて』

『無理をなさらず』

 

 同じ言葉だけを、同じ声で繰り返している。

 母の薬瓶には、リディアが書いた「朝」と「夜」の札。

 弟たちの言葉は、手紙にあった文面そのままだ。

 

「私の記憶を読んだのですか」

「読めません」

 

 エルゼは窓を見る。

 

「先生がお話しくださったこと。お持ちになった手紙。青いリボンに残っていたもの。それだけです」

 

 記憶ではない。

 こぼれた断片を拾い集め、部屋の形へ縫い合わせたのだ。

 顔のない母が薬瓶へ手を伸ばす。途中で動きが切れ、また最初へ戻る。

 

「私の家族を、何になさるおつもりですか」

「先生が帰りたい場所にいたします」

「これは帰る場所ではありません」

「足りないものは、教えていただければ」

「教える?」

「お顔も。お声も。お部屋の形も」

 

 エルゼの口調は穏やかだった。

 だからこそ、部屋の歪みが深く見える。

 

「先生に必要なものを、すべてここへ置きます」

「私に必要なものを、あなたが決めるのですか」

「ご家族は必要でしょう」

「ええ」

「私も」

 

 自分を食卓の空いた席へ並べる。

 ためらいはなかった。

 

「父上は、先生にご家族と私を選ばせようとなさいました」

 

 旧命名机の上には、昨夜の名籍草案が置かれている。

 別名の部分だけ、厚い霜に覆われていた。

 

「ここなら、選ばなくて済みます」

「偽物の家族と、この部屋で暮らせと?」

「初めは、落ち着かないかもしれません」

「初めは?」

「長くいれば、こちらを帰る場所だと思えるようになります」

 

 リディアは閉ざされた扉へ目を向けた。

 

「思えるまで、出さないのですね」

「はい」

 

 エルゼは嘘をつかなかった。

 

「よいことだと思っているのですか」

「よいとは思っておりません」

「それでもなさる?」

「あの名前になるよりは」

 

 机の霜が白く軋んだ。

 

「この部屋では、私が認めない名は、私のものになりません」

「それを確かめるために、部屋を閉じたのですか」

「先生が、呼べないようにするためでもあります」

 

 リディアは名籍草案へ近づいた。

 

「触れないでください」

「確認するだけです」

「読まないで」

 

 リディアは、霜の下の文字へ視線を落とした。

 

「セレ──」

 

 音が途中で消えた。

 

 喉は動いた。

 だが、部屋が残りの音を飲み込んだ。

 同時に、エルゼが激しく咳き込む。

 旧命名机へ手をつき、身体を折った。

 

「エルゼ様」

 

 思わず名を呼ぶ。

 床の文字が一斉に明るくなる。

 エルゼの呼吸はわずかに整ったが、霜は手首へ達していた。

 この部屋は、エルゼの名を守っているのではない。

 別の名を拒むたび、その本人を薪にしている。

 

「術式を止めてください」

「嫌です」

「このままでは、あなたが壊れます」

「名前を失うよりは、ましです」

「名だけが残って、あなたがいなくなっては意味がありません」

 

 エルゼの口元が歪む。

 

「先生が教えてくださいました」

「何をですか」

「名前を奪われても、私は私だと」

「ええ」

「ですが、先生は別の名前を呼ぶかもしれません」

「まだ、何も決めていません」

「ですから、決めなくてよいようにしたのです」

 

 エルゼは机を押さえる指へ力を込める。

 

「別の名がなくなるまで、こちらにいてください」

「公爵閣下が提案を撤回しなければ?」

 

 返事はない。

 窓の向こうで、弟たちの影がまた口を開く。

 

『姉上』

『お気をつけて』

 

 時間の進まない家だった。

 

「あなたは、私を守っているおつもりなのですね」

「先生は、苦しまなくてよくなります」

「家族を捨てずに済む」

「はい」

「あなたへ別の名を着せずに済む」

「はい」

「何も選ばずに済む」

 

 エルゼは頷いた。

 リディアは窓の食卓を見る。

 

 母の薬。弟たちの本。

 戻りたい家の、形だけを借りたもの。

 偽物だとわかっている。

 

 それでも一瞬、ここへ座ればよいのではないかと思った。

 公爵の机に置かれた二枚の紙も。

 

 母への返事も。

 エルゼの名前も。

 

 決めずに、明日へ送れる。

 

 顔のない母へ表情を教え、弟たちへ新しい言葉を足し。

 部屋が本物に似るまで、選択を眠らせればよい。

 その甘さに気づき、リディアは窓から目を離した。

 

「消してください」

「嫌です」

「私も、少しだけこの部屋を望みました」

 

 エルゼの瞳へ光が差す。

 

「でしたら、」

「だからこそ、消してください」

 

 表情が固まる。

 

「なぜですか」

「ここは、私の代わりに答えを作ってしまいます」

 

 リディアは扉へ掌を当てた。

 

「この中で何を答えても、私があなたを選んだことにはなりません」

「先生は、私を選ぶかもしれない」

「ええ」

 

 否定しなかった。

 期待が、エルゼの顔へ浮かびかける。

 

「ですが、扉を閉じている限り、その可能性もあなたが奪っています」

「外へ出せば、選ばれないかもしれません」

「そうです」

「別の名を選ぶかもしれない」

「その可能性もあります」

「私を、間違いだったと思うかもしれません」

「それが怖いのですね」

「はい」

 

 エルゼは胸元を押さえる。

 

「先生が外へ出れば、私は答えを決められません」

「決めてはいけないのです」

「嫌です」

「存じています」

「先生は、私の嫌なことばかり必要だとおっしゃいます」

「私の答えより先に、結末を閉じようとなさるからです」

 

 エルゼの声が、かすかに尖る。

 

「私は、先生が私を選ぶ結末が欲しいのです」

「結末だけなら、この部屋でも作れます」

「はい」

「ここで私が、あなたを選ぶと申し上げれば満足ですか」

 

 窓の幻が揺れた。

 食卓の上から薬瓶が消え、また現れる。

 

「満足すると思います」

 

 エルゼは正直に答えた。

 

「ですが」

「ですが?」

「後になれば、先生がおっしゃったのか、部屋に言わされたのか、わからなくなります」

 

 灰色の瞳が、旧命名机へ落ちる。

 

「きっと、また確かめたくなります」

「そのために、さらに閉じ込める?」

「……はい」

 

 一度閉じた扉は、答えを得ても開けられない。

 閉じた中で得た言葉は、閉じ続けなければ信じられないからだ。

 

「エルゼ様」

 

 名を呼ぶ。

 部屋が喜ぶように光り、霜がエルゼの肩へ這い上がる。

 リディアはその光を見つめた。

 

「この部屋では、今ので最後です」

 

 エルゼが顔を上げる。

 

「何がですか」

「あなたの名前を呼ぶことが」

 

 室内の温度が落ちた。影が差す。

 

「罰でしょうか」

「違います」

 

 リディアは答える。

 

「閉じ込められたまま呼べば、私はこの部屋を認めたことになります」

「認めずに、呼ぶこともできます」

「その違いを、あなたはご自分に都合よく使います」

 

 エルゼが言い返そうとする。

 だが、掠れた喉から音が出ない。

 

「扉を開けるまでは、授業もいたしません」

「お話も?」

「必要なことだけです」

「私を見てくださいますか」

「ええ」

「ここにいてくださいますか」

「扉が開くまでは」

 

 エルゼの目に、薄い安堵が浮かぶ。

 閉じ込めれば、少なくともリディアはここにいる。

 リディアは、その安堵を見逃さなかった。

 

「ですが、あなたを安心させるために残るのではありません」

 

 安堵が消える。

 

「扉を開けてください」

 

 エルゼは動かない。

 

「私が帰った後でも、ご自分で開けられますか」

「帰るのですか」

「ここでは決めません」

「また、お答えにならない」

「この部屋の中で決めれば、部屋が選んだ答えになります」

 

 リディアは扉を示す。

 

「外へ出られる状態で考えます」

「戻らないかもしれない」

「ええ」

 

 エルゼは目を閉じた。

 窓の中で、顔のない母が薬瓶へ手を伸ばす。

 

『姉上』

『お気をつけて』

『無理をなさらず』

 

「怖いです」

 

 飾りのない声だった。

 

「存じています」

「先生に選ばれないことが」

「ええ」

「私の名前を捨てられることが」

「ええ」

「扉を開ければ、どちらも起こるかもしれません」

「そうかもしれません」

 

 エルゼは、かすかに笑った。

 

「先生は、お優しくありませんね」

「今ここで優しくすれば、この部屋の壁を厚くするだけです」

「先生のためにも?」

 

 リディアは、窓の偽物の家を見る。

 

「私のためにも、開けてください」

 

 長い沈黙が落ちた。

 旧命名机の文字が、エルゼの呼吸に合わせて明滅する。

 

「開ければ」

 

 掠れた声が落ちる。

 

「先生が私を選ぶ可能性は、残りますか」

「わかりません」

「なくなるとは、おっしゃらないのですね」

「申し上げません」

 

 希望も、約束も、それ以上は渡さなかった。

 エルゼは目を閉じる。

 

 霜に覆われた掌を、旧命名机の中央へ置いた。

 

「この室の確認を解除します」

 

 巡っていた文字が止まる。

 

「名の主は、ほかの者の呼称を拒みません」

 

 声が震える。

 

「選ばれなかった時も、呼ぶ者を閉じ込めません」

 

 最後の言葉とともに、エルゼの膝が揺らいだ。

 リディアは手を伸ばしかけ、止める。

 

「触れてもよろしいですか」

 

 エルゼが目を開き、わずかに頷いた。

 

「はい」

 

 腕を支える。

 冷たい。

 だが、まだ人の体温が残っている。

 

 窓の幻が、食卓の端から崩れ始めた。

 

 顔のない母。

 同じ言葉を繰り返す弟たち。

 薬瓶。欠けた皿。

 

 すべてが淡い欠片となり、窓の向こうへ灰色の庭が戻ってくる。

 床の文字も薄れていく。

 最後に残った一文が、静かに消えた。

 

名の主が認めぬ呼称は、この室に定着しない。

 

 背後で金属音がした。

 扉へ三つの錠前が戻っている。

 エルゼはリディアの腕から離れ、自分の足で扉へ向かった。

 

 一つ目の錠を外す。

 二つ目。

 三つ目。

 取っ手へ手を置いたまま、動きを止める。

 

「私が開けなければ、先生はまだこちらにいらっしゃいます」

「ええ」

「開ければ、お帰りになれます」

「ええ」

 

 エルゼは取っ手を押した。

 白い扉が開く。

 廊下には、グレアムと二人の術師が待っていた。

 銀杖が上がる。

 

「お待ちください」

 

 リディアが前へ出る。

 

「結界は、エルゼ様がご自分で解きました」

「安全を確認いたします」

「必要です。ですが、攻撃はなさらないでください」

 

 エルゼは扉の内側に立っている。

 逃げない。扉を閉め直そうともしない。

 

「エルゼ様」

 

 今度は、床も壁も光らなかった。

 ただ名前だけが、開いた部屋へ届く。

 エルゼは目を閉じ、短く息をした。

 

「はい、先生」

「本日は授業をいたしません」

「お怒りだからですか」

「怒っております」

「私を、お嫌いに、」

 

 問いの途中で、エルゼは口を閉じた。

 

「今の質問は取り消します」

「そうしてください」

「先生は、お帰りになるのですね」

「ええ」

 

 白い指が、リディアの袖へ伸びかける。

 空中で止まった。

 

「お止めいたしません」

「ええ」

「影も使いません」

「ええ」

「お戻りになるとも、決めつけません」

 

 最後の言葉だけが、細く震えた。

 リディアは何も約束しなかった。

 

「扉は開けておいてください」

「術師が確認するために?」

「それもございます」

 

 エルゼは、その先を待つ。

 

「閉めたいと思った時にも、すぐには閉めない練習のためです」

 

 灰色の瞳が、開いた扉を見た。

 

「……はい」

 

 リディアは廊下へ出た。

 グレアムと術師たちが道を空ける。

 

 数歩進み、振り返る。

 エルゼは白い扉の内側にいる。

 

 手を伸ばせば、いつでも閉められる距離。

 それでも、扉は開いたままだった。

 窓から入った冷たい風が、廊下と部屋の間を自由に通っている。

 

 リディアは歩き出す。

 背後から名を呼ぶ声は来なかった。

 角を曲がる直前まで、白い扉は開いていた。

 

 結界の中で見た食卓が、まだ目の奥に残っている。

 

 不完全で。

 時間が止まり。

 何も選ばずに済む部屋。

 

 あそこへ残りたいと思ったのは、エルゼだけではなかった。

 

 ほんの一瞬でも、その甘さに手を伸ばした自分がいる。

 だから、すぐには戻れない。

 

 次にあの扉をくぐる時は、閉じ込められたからでも、帰る場所を用意されたからでもなく。

 自分で、開いた扉の向こうを選んだ時でなければならなかった。

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