忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第十三話 エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン

 

 翌朝、公爵邸の鐘が三度鳴った。

 

 血統と名籍に関する審理の開始を告げる鐘だ。

 リディアは鏡の前で、青いリボンを髪へ結んだ。

 

 金色の印は、もう残っていない。

 エルゼが自分で切った今、それは誰の居場所も告げない、ただの布だった。

 

 だから、身につける。

 それもリディア自身の選択だった。

 机には、旧命名院で写した規定と、王立命名院の調査官任用書がある。

 

 昨夜まで、黒い帳面には今日の道筋が書かれていたかもしれない。

 今は白紙だ。

 

 リディア自身も、最後の答えまでは決めていない。

 それでも、中央紋章広間へ向かった。

 

     

 

 広間の床には、ヴァレンシュタイン家の主紋が刻まれていた。

 鷲と冠。

 長女へ伸びる枝。

 次女へ伸びる枝。

 そして、途中で削り取られた第三の枝。

 

 正面の長机には、王立命名院の銀章をつけたアーヴィンと、二人の書記官が座っている。

 

 右側に公爵。

 左側にクラリッサ。

 同じ家を支える柱のように立っている。

 

 北棟側の扉が開く。

 エルゼが、淡い灰色のドレスで入ってきた。

 

 装飾も拘束具もない。

 ただ、魔力が広間の外へ流れるのを防ぐ四本の封印杭が、彼女を囲んでいる。

 

 エルゼはリディアに気づいた。

 灰色の瞳が、青いリボンの上で一瞬止まる。

 それだけだった。

 

 近づかない。

 笑わない。

 来ると思っていたとも言わない。

 

「王立命名院の立会いにより、ヴァレンシュタイン公爵家第三子に関する名籍審理を開始します」

 

 アーヴィンの声が、石造りの広間へ響いた。

 おそらくは十年以上の空白を経て、エルゼの存在が公に認められた事を示している。

 第三子。まだ名前ではない。だが、存在を否定されることはない。

 

「公爵家から提出された申請は、対象者を『セレネ・フォン・ヴァレンシュタイン』として傍系登録するものです」

「相違ない」

 

 公爵が答える。

 

「本人の同意欄は空白です」

「家長権限で登録する」

「法的には可能です」

 

 アーヴィンは申請書を閉じなかった。

 

「ただし、本人の応答を伴わない強制登録として、王立記録へ残ります」

「名籍へ載れば結果は同じだ」

「紙の上では」

 

 アーヴィンは別の資料を開く。

 

「対象者は、すでにエルゼという名を自己名として認識しています。別名を強制した場合、名と自己認識が分裂する危険がある」

「仮の呼称へ固執しているだけだ」

「仮名か、削除された既存名か。それを本日確認します」

 

 アーヴィンは、三枚の書類を机へ並べた。

 

「制度上の選択肢は三つです」

 

 一枚目。

 

「セレネの名で、本家傍系へ登録する」

 

 二枚目。

 

「エルゼの名を回復し、本家第三女として名籍へ戻す」

 

 三枚目。

 

「エルゼの名を回復した上で本家継承権を放棄し、旧分流制度によって独立した分家を創設する」

 

 広間の空気が、枝分かれするように揺れた。

 

「第三案は成立しない」

 

 公爵が言う。

 

「分流制度は百年以上使われていない。原簿も閉鎖されている」

「廃止された記録はありません」

「条件が揃っていない」

「昨日までは」

 

 クラリッサが口を開いた。

 侍女から細長い箱を受け取り、長机へ置く。

 

「王立命名院の保全命令により、母上の遺品庫を開封しました」

 

 公爵の視線が鋭くなる。

 

「誰の許可で」

「名籍削除の疑いがある場合、王立命名院には関連資料を保全する権限があります」

 

 アーヴィンが答えた。

 

「こちらは公爵家の私物であると同時に、王国の名籍へ関わる証拠です」

 

 クラリッサが箱を開ける。

 最初に取り出したのは、焦げた白い布。

 銀糸で縫われた出生紋と、かろうじて残るEの一文字。

 次に、古びた乳母日誌。

 最後に、封蝋を切られた未送付の手紙。

 

「産着の一部です」

 

 クラリッサが言う。

 

「銀糸には、ヴァレンシュタイン家の出生紋が残っています」

「それだけでは、誰のものかわからない」

「ええ。ですから、日誌もございます」

 

 クラリッサは黄ばんだ頁を開いた。

 

第三のお嬢様、夜半にお生まれになる。

奥方様はお疲れの中、エルゼとお呼びになった。

正式な命名は、旦那様のご帰宅後に行う予定。

 

 次の行から、文字は乱れている。

 

奥方様が名をお呼びになった直後、主紋室の硝子が割れる。

北棟へ移すよう命じられる。

以後、この名を口にしてはならないとのこと。

 

 広間から、衣擦れの音さえ消えた。

 エルゼは日誌を見つめている。

 

 顔には何も浮かばない。

 ただ、指先だけが、寒さの中の小枝のように震えていた。

 

「母上が実家へ送ろうとして、出されなかった手紙です」

 

 クラリッサは全文を読まなかった。

 必要な箇所だけを、声にする。

 

あの子をエルゼと呼びました。

誰に許されなくても、私にとってはあの子の名です。

あの人は、名が力を完成させると言います。

けれど名を奪えば、力と一緒に子供まで消えてしまう。

 

「閉じろ」

 

 公爵の声が、初めて大きく揺れた。

 

「証拠保全中です」

 

 アーヴィンが制する。

 

「出生紋を持つ物証。立会記録。母親本人の書簡。既存名の存在を認める資料として十分です」

「正式命名は完了していない」

「既存名の回復に、正式儀礼の完了は必須ではありません。母親による呼称と、本人の継続的な応答が確認できれば、幼名として扱えます」

 

 アーヴィンが記録へ銀印を押す。

 乾いた音が、広間へ落ちた。

 消されていた名へ、最初の杭が打ち直された。

 

「名が存在したとしても、主紋への危険は変わらない」

 

 公爵が言う。

 

「そのとおりです」

 

 アーヴィンは認めた。

 

「本家第三女として回復すれば、主紋へ過剰接続する可能性が高い」

「ならば別名しかない」

「本家へ戻すのであれば」

 

 クラリッサが言った。

 公爵が娘を見る。

 

「私は、エルゼを本家の継承者へ加えることに反対します」

 

 エルゼの顔が、初めてクラリッサへ向いた。

 

「私は本家を継ぎます」

 

 クラリッサの声は静かだった。

 

「エルゼが本家へ戻れば、本人が望まなくても、主紋への適合を理由に担ぎ上げる者が現れます」

「私は本家を望んでおりません」

 

 エルゼが言う。

 

「あなたが望まなくても、利用する者はいます」

「姉上にも、私は邪魔なのですね」

「ええ」

 

 クラリッサは逃げなかった。

 

「私は、あなたへ本家を譲るつもりはありません」

 

 言葉は刃に似ていた。

 だが、その切先は境界を引くために使われている。

 

「ですが、家を持つ権利まで奪うつもりもありません」

 

 古い領地図が、長机へ広げられた。

 北方封印領。

 片翼の鷲。

 

「王立命名院に、分流制度原簿の複本が残っていました」

 

 アーヴィンが法文を示す。

 

本家主紋へ過剰に適合し、家督相続へ重大な争いを生じさせる者は、本人の同意、本家後継者の承認、王立命名官の立会いにより、分流創設を発議できる。

分流者は本家継承権を放棄する。

本家は、土地、記録および初期財産を分与する。

 

「家長の承認は」

 

 公爵が問う。

 

「発議条件にはありません」

「異議を申し立てる」

「可能です」

 

 アーヴィンは新しい書面を取り出した。

 

「その場合、第三子の名籍削除、長期隔離、本人の同意を欠く別名申請を含め、王立監査を開始します」

 

 公爵の表情が止まる。

 

「本日の証拠と議事録は、すでに複製されています」

 

 もう、暖炉へ投げ込める紙ではない。

 

「脅迫か」

「制度の説明です」

 

 アーヴィンの声は変わらなかった。

 公爵はクラリッサを見る。

 

「お前は、王立監査を招き入れてまで家を守るつもりか」

「ええ」

「それで守れると?」

「エルゼをもう一度消す方が、この家を長く壊します」

 

 クラリッサは主紋の長女の枝へ視線を落とす。

 

「私は本家を守ります」

 

 それから、エルゼを見る。

 

「あなたは、ご自分の家をお持ちください」

 

 和解ではない。

 姉妹の抱擁でもない。

 同じ幹へ無理に二本の枝を重ねず、それぞれが伸びる場所を分ける。

 

「北方封印領は、豊かな土地ではございません」

 

 クラリッサは続ける。

 

「旧館は荒れ、封印塔も橋も修繕が必要です」

「ずいぶん質素な手切れ金ですね」

 

 エルゼの言葉に棘が混じる。

 

「よい土地を差し上げるとは申し上げておりません」

 

 クラリッサも引かなかった。

 

「ただし、本家からの創設資金、旧命名庫の管理権、不干渉条項を用意します」

「私を北へ追い出す代金ですか」

「財産を渡さず追い出せば、そうでしょう」

 

 財産目録が示される。

 

「これは、あなたへ支給されるはずだった養育費と持参財産の未払い分です。父上からの贈与ではありません」

 

 監禁された年月の分だけ、使われずに残された財産。

 

「全額を、分家創設資金へ移します」

「クラリッサ」

 

 公爵が制する。

 クラリッサは父を見なかった。

 

「本家後継者として承認します」

 

 床の長女の枝が、淡く光る。

 アーヴィンがエルゼへ向き直った。

 

「三案を確認しました」

 

 別の名で、本家の傍らへ置かれる道。

 エルゼとして、本家へ戻る道。

 エルゼとして、本家を離れ、自分の家を作る道。

 

「ご本人の選択を伺います」

 

 エルゼは、床の削られた第三の枝を見た。

 十八年間、存在しなかったことを示してきた傷だった。

 

「セレネという名は選びません」

 

 声は明瞭だった。

 

「本家第三女として、姉上と家督を争うつもりもございません」

 

 公爵へ顔を向ける。

 

「私をいなかったことにした家を、欲しいとは思いません」

 

 公爵は何も返さない。

 

「北方封印領を受けます」

 

 エルゼは言った。

 

「本家の継承権を放棄し、分家の創設を申請いたします」

「見たこともない土地だ」

 

 公爵が言う。

 

「はい」

「封印事故が残っている」

「調べます」

「領民がお前を拒むかもしれない」

「その方々がお決めになることです」

「失敗するぞ」

 

 エルゼは少し考えた。

 

「そうかもしれません」

 

 以前なら、失敗しない道だけを残そうとしただろう。

 拒む者を遠ざけ、望む答えへ続く扉だけを開けた。

 今は、失敗する未来を消さない。

 

「ですが」

 

 エルゼは公爵を見る。

 

「私が失敗する可能性まで、父上に奪われる理由はございません」

 

 リディアは、その横顔を見つめた。

 黒い帳面には、この答えも書かれていなかった。

 

「本人の分流意思を確認しました」

 

 アーヴィンが記録へ印を押す。

 

「本家後継者は、承認しますか」

「承認します」

「王立命名院は、分流創設の申請を受理します」

 

 銀章が光った。

 床の削られた枝へ、細い線が戻り始める。

 だが、主紋の中央へ触れる直前、黒い亀裂が走った。

 窓硝子が鳴り、封印杭から火花が上がる。

 

「先に、既存名を回復する必要があります」

 

 アーヴィンが言う。

 

「分流者には、正式な名籍が要る」

「結局、主紋が耐えられない」

 

 公爵の声は低い。

 

「回復には、本人の応答、血縁者の証言、命名官の確認が必要です」

 

 アーヴィンは広間へ向け、保証名制度を説明した。

 

「エルゼの名は、分家紋が完成するまで本家主紋へ過剰接続します。その反動と責任を一時的に分有する保証者が必要です」

「期間は?」

 

 リディアが尋ねる。

 

「分家紋成立後、七日間の安定確認までです」

「その後は?」

「保証を受けた本人が、一方的に解除できます」

 

 エルゼが顔を上げる。

 

「私が、保証者を解放できるのですか」

「ええ。解除後も、回復した名は残ります。双方が望む場合のみ、相互誓約へ移行できます」

 

 保証は鎖ではない。

 枝が自分の重さを支えられるまで添える、仮の支柱だった。

 

「資格を持つ者は?」

 

 公爵が問う。

 

「王立命名官、または能力を認められた命名官家の直系です」

 

 広間の視線が、リディアへ集まる。

 

「認めん」

 

 公爵が言う。

 

「あなたの承認事項ではありません」

 

 アーヴィンは淡々と返す。

 

「リディア・クロウには血統閲覧権があり、既存名を確認した実績もある。立会人として、保証資格を認めます」

「本人は申請していない」

 

 そのとおりだった。

 リディアは、まだ何も申し出ていない。

 エルゼもこちらを見なかった。

 

「保証者は、リディアでなければなりませんか」

 

 エルゼがアーヴィンへ尋ねる。

 

「いいえ」

「王立命名院から、別の方を出せますか」

「適性を持つ者が見つかれば」

 

 エルゼは一度、息を吸う。

 

「では、リディアが望まないのであれば、別の方を」

 

 声は震えていた。

 それでも、リディアへ顔を向けない。

 

「私の名のために、リディアの名を使うことはいたしません」

 

 家族の借金も。

 三日後に戻ったことも。

 青いリボンも使わない。

 

 断る道を、リディアの前へ残した。それは成長だ、とリディアは考えた。その忍耐に打算が含まれていようとも、称えるべきことだ。

 

「エルゼ様」

 

 リディアが呼ぶ。

 灰色の瞳が、ようやくこちらを向いた。

 

「制度の危険は理解しています」

「はい」

「七日後には、解除できることも」

「はい」

「これは、あなたに求められたから行うのではありません」

 

 主紋へ向かって歩く。

 

「公爵家との契約のためでも、クロウ家の借金のためでもございません」

 

 公爵が何か言おうとした。

 リディアは、その前に言葉を続ける。

 

「あなたがご自分で選んだ名を、制度の都合に奪わせない。その責任を、私自身の名で引き受けます」

 

 エルゼの唇が、わずかに開く。

 恋を告げたわけではない。生涯を約束したわけでもない。

 今この場で、エルゼの名を別人の手へ渡さないためだけに、リディアは宣言した。

 

「本当に?」

「ええ」

「後悔なさいませんか」

「するかもしれません。けれど、私がいたします」

 

 エルゼは、泣く代わりに少し笑った。

 

「はい」

 

     

 

 クラリッサが乳母日誌へ手を置いた。

 

「血縁者として証言します」

 

 声はわずかに硬い。

 

「母上は、第三子をエルゼと呼びました」

 

 床の削られた枝へ、銀の光が戻る。

 エルゼは封印杭の内側から主紋へ進み、中央へ手を置いた。

 

「本人の応答を」

 

 アーヴィンが言う。

 黒い光が主紋から立ち上がり、エルゼの腕へ絡んだ。

 窓に霜が走る。

 それでも手を引かない。

 

「私の名は」

 

 声が一度止まる。

 これまでは、リディアに呼ばれることで確かめていた名。

 今は、自分の口で選ぶ。

 

「エルゼ」

 

 小さく。

 だが、広間の隅まで届いた。

 

「エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン」

 

 主紋が激しく震える。

 第三の枝が中央へ伸び、長女の枝と触れた。

 

 火花が散る。

 本家へ戻ろうとする血と、北へ分かれようとする意思が、一つの紋の中で軋んだ。

 

「保証名を」

 

 アーヴィンが告げる。

 リディアはエルゼの隣へ立った。

 

「リディア」

 

 エルゼが名を呼ぶ。

 一人の保証者の名として。

 

「触れてもよろしいですか」

 

 苦しみの中でも、先に尋ねた。

 

「はい」

 

 エルゼの手へ、自分の手を重ねる。

 冷たい魔力が、腕を駆け上がった。

 皮膚の下へ、見えない文字を刻まれるような痛みが走る。

 

「保証者の名を」

「リディア・クロウ」

 

 自分の名を口にする。

 

「この名を、エルゼ・フォン・ヴァレンシュタインの既存名回復と、分家紋成立までの仮保証として記します」

 

 主紋の外側へ、青銀の線が現れた。

 第三の枝を縛るのではなく、折れないよう、その隣を走る。

 

「確認者。復元名を」

 

 リディアはエルゼを見る。

 北の離れで、自分の名すら知らずに待っていた人。

 

 扉を閉じ。

 人の未来を書き。

 最後には、その頁を白く戻した人。

 

「エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン」

 

 正式に呼ぶ。

 

「ヴァレンシュタイン公爵家第三女」

 

 窓の霜が一斉に砕けた。

 

「母君よりエルゼの幼名を受け」

 

 クラリッサの証言が、銀の光となる。

 

「本人の応答によって、その名を選び」

 

 エルゼの声が、文字へ変わる。

 

「命名官リディア・クロウの仮保証をもって」

 

 青銀の線が、枝を支える。

 

「削除された既存名として、ここに回復します」

 

 鐘に似た音が鳴った。

 公爵邸全体へ、遠く長く響いていく。

 主紋の上へ、文字が浮かんだ。

 

エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン

第三女子

生存

名籍回復

 

 生存。

 

 エルゼは、その一語を長く見つめた。

 

 やがて主紋から手を離す。

 リディアの手からも、自分で離れた。

 

「私は、死んでおりません」

 

 広間へ向き直る。

 

「存在しなかったことにもなりません」

 

 第三の枝が、その声へ応じて光る。

 

「私の名は、エルゼ・フォン・ヴァレンシュタインです」

 

 誰も否定しなかった。

 もう、否定できなかった。

 

    

 

「続いて、分家紋を成立させます」

 

 アーヴィンが北方封印領の地図を、主紋へ重ねた。

 片翼の鷲へ向かって、第三の枝が北へ伸びる。

 

「分流者は、本家継承権を放棄しますか」

「放棄します」

「北方封印領の権利と責任を受けますか」

「受けます」

「本家後継者は、財産分与および不干渉条項を承認しますか」

「承認します」

 

 クラリッサが答えた。

 

「まだ私が署名していない」

 

 公爵の声が割って入る。

 

「異議を申し立てますか」

 

 アーヴィンが問う。

 申し立てれば、王立監査が始まる。

 

 名籍削除も。

 隔離も。

 強制登録申請も。

 すべて公の記録になる。

 

 公爵は長く黙った後、書記官から書類を受け取った。

 

「創設資金は、未払い財産の範囲内とする」

「異議ございません」

 

 クラリッサが言う。

 

「本家の軍事封印に関する命令権は残す」

「領域全体へ危険が及ぶ緊急時に限定してください」

「クラリッサ」

「それ以外へ干渉できるなら、分家ではございません」

 

 父と後継者の視線がぶつかる。

 公爵は文言を書き直した。

 

王国または公爵領全体に対する緊急の封印災害を除き、本家は北方分家の内政、名籍および人事へ干渉しない。

 

 署名する。

 公爵の名が紙へ記された瞬間、北へ伸びた枝が片翼の鷲へ接続した。

 新しい紋が光る。

 リディアの腕を走っていた痛みが、わずかに薄れた。

 

「北方分家紋の仮成立を確認しました」

 

 アーヴィンが宣言する。

 

「七日間の安定確認後、正式成立となります。それまでは保証名が継続します」

 

 エルゼがリディアを見る。

 

「七日後に」

「ええ」

「選び直すのですね」

「お互いに」

 

 リディアは答えた。

 エルゼは、そこへ望む意味を足さなかった。

 

「はい」

 

     

 

 審理後、証拠は王立命名院の封印箱へ収められた。

 

 乳母日誌。

 母の手紙。

 削除前の記録。

 複製は王都へ送られ、公爵家による名籍処理には正式な監査が入る。

 

 公爵がただちに地位を失うわけではない。

 

 だが、監査が終わるまで、名籍管理権の一部はクラリッサと王立命名院の共同管理となった。

 

 エルゼだけを北へ送り、公爵が何も失わずに済む形ではない。

 長机では、クラリッサが次々と書類へ署名している。

 エルゼは少し離れた場所から、その姿を見ていた。

 

「姉上」

 

 クラリッサの筆が止まる。

 

「何でしょう」

「本家を守ることができて、よかったですね」

 

 棘のある声だった。

 

「ええ」

「私を北へ送ることもできました」

「それも、否定はいたしません」

 

 エルゼの目が細くなる。

 

「本当に正直ですね」

「あなたに好かれるためにしたことではありませんから」

「私も、姉上を許すために北へ行くのではありません」

「承知しています」

 

 二人の間には、十八年分の空白がある。

 

 恐怖も、嫉妬も、罪悪感も。

 一日の審理で埋めるには深すぎる。

 

「ですが」

 

 クラリッサが顔を上げる。

 

「北方領へ着いたら、正式な書状をお送りください」

「監視のためですか」

「外交のためです」

「返事をしないかもしれません」

「受領確認をお送りします」

「姉上は、面倒ですね」

「あなたに言われたくはありません」

 

 一瞬だけ、二人の口元が同じ形になった。

 笑みになる前に消えたが、リディアは見逃さなかった。

 

     

 

「腕を拝見します」

 

 アーヴィンに呼ばれ、リディアは小部屋へ入った。

 保証名の反動は、右腕へ赤い文字のような痕を残している。

 

「分家紋が安定すれば、数日で薄くなります」

 

 アーヴィンは薬を塗り、包帯を巻いた。

 

「安定しなければ?」

「再審理です。ただし、回復した名籍は消えません」

 

 今日刻まれた生存の文字は、もう公爵の都合では削れない。

 

「無謀でしたね」

「資格を認めた方がおっしゃるのですか」

「資格があることと、勧めることは別です」

「必要でした」

「本人のために?」

 

 リディアは包帯を見る。

 

「本人の意思を、制度の都合に負けさせたくありませんでした」

「それだけでしょうか」

「あなたは、その質問がお好きですね」

「保証者の動機は、後の解除判断に関わります」

 

 命名官としての責任。

 

 エルゼの名を他人へ渡したくないという感情。

 

 そして、まだ口にするには形の定まらないもの。

 

「それだけではございません」

「七日後までに、少なくともご本人には説明できるようになさってください」

「努力いたします」

 

 アーヴィンは新しい書面を差し出した。

 

「北方旧命名庫の臨時調査官任用については?」

「お受けします」

「北方分家へ仕えるかどうかとは別に?」

「別です」

 

 リディアは明確に答えた。

 

「私は、王立命名院の調査官として北方へ参ります」

 

 公爵家に雇われなくても。

 エルゼの家庭教師でなくても。

 

 クロウ家の借金を、リディアは働いて返すことが可能だ。

 北へ行く理由は、エルゼだけではない。

 だからこそ、エルゼのそばへ残るかどうかを、別の理由として選べる。

 

     

 

 小部屋を出ると、エルゼが廊下で待っていた。

 

「痛みますか」

「少し」

「私の、名のために」

「私が選びました」

 

 エルゼは頷いた。

 

「はい」

 

 罪悪感を糸にして引き寄せる言葉を、飲み込んだようだった。

 

「北方領へ移るのは、いつ頃ですか」

「正式成立まで七日。その後、引き渡しと準備に二月ほどかかるそうです」

「すぐではないのですね」

「先生は、来てくださいますか」

 

 尋ねた後、エルゼの表情がわずかに硬くなる。

 答えを急かしたと気づいたのだろう。

 

「北方旧命名庫の調査官として参ります」

 

 リディアは答えた。

 エルゼの顔に、喜びと落胆が同時に差した。

 

「調査官として」

「ええ」

「それ以外は?」

「七日後に考えます」

 

 以前なら、その言葉へ希望を継ぎ足しただろう。

 エルゼは何も足さなかった。

 

「承知しました」

 

 少し迷ってから、別の問いを置く。

 

「家庭教師の契約は、どうなりますか」

 

 北棟へ隔離された、名のない生徒。

 その前提は、今日なくなった。

 

「公爵家との家庭教師契約は終了します」

「終了」

「今後、教育が必要であれば、北方分家の当主として正式な教師を雇うことになります」

「先生ではなく?」

「私は、専属の家庭教師には戻りません」

 

 エルゼの顔へ影が差す。

 それでも、拒絶とは違う。

 

 古い関係へ戻らないための線だった。

 

「では、何になってくださいますか」

「まだ決めておりません」

「命名官は?」

「契約条件によります」

 

 灰色の瞳へ、細い光が戻る。

 

「条件書を作ります」

「辞められなくする条項は禁止です」

「まだ一文字も書いておりません」

「先に申し上げておきます」

「同じ屋敷に住んでいただくことは?」

「七日後に協議します」

「他家の依頼は?」

「協議です」

「婚姻なさった場合は?」

「なぜ任用条件へ婚姻が出てくるのですか」

 

 エルゼは真剣な顔で答えた。

 

「重要ですから」

 

 名を取り戻し、自らの家を得ても、すべてが一度に変わるわけではないらしい。

 

「まずは、北方領をご覧になってください」

「先生もご一緒に?」

「そうですね。調査官として」

「はい」

 

 今度は、そこへ別の意味を足さなかった。

 広間の主紋には、二本の枝が光っている。

 

 本家を継ぐクラリッサの枝。

 北へ伸び始めたエルゼの枝。

 

 同じ幹から生まれ。

 

 同じ場所に重ならず。

 

 それぞれの家を作ろうとしている。

 

 二本の間を支える青銀の線は、七日後には外れる。

 残すと決めれば、別の形へ結び直すこともできる。

 

 リディアにはそれが少し恐ろしく感じられていた。

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