忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

2 / 9
第二話 名を問うことなかれ

 

 鍵の音が消えたあとも、リディアはしばらく扉を振り返らなかった。

 

 背後に閉じたものが、ただの扉ではないとわかっていた。外側から鍵をかけられた。おそらく、あの三つの鍵のうちのどれかで。あるいは、血鍵で動く封印ごと。

 

 だが、今さら扉に駆け寄って叩いたところで、得るものは少ない。

 怯えた姿を、この少女に見せるだけだ。

 

 リディアは静かに息を整え、窓辺の少女へ向き直った。

 

「待っていた、とおっしゃいましたね」

「はい」

「私が来ることをご存じだったのですか」

「先生が来ると、聞いていました」

「誰に?」

「扉の向こうの人たちから」

 

 嘘ではない。だが、すべてでもない。そんな答え方だった。

 リディアは、少女の声に耳を澄ませる。かすれてはいない。幼くもない。長く声を使っていない者にありがちなぎこちなさもない。

 

 それなのに、部屋はあまりに静かだった。

 白い花。凍った窓。薄い灰色の壁。磨かれた床。整いすぎた机。

 

 ここには、人が暮らしている気配がある。けれど、人と関わって生きている気配はない。

 

 空気は澄みすぎていて、鼻の奥がわずかに痛む。花の香りはあるはずなのに、どこか薄く、冷たい水の匂いに押し流されている。

 

「では、改めてご挨拶を」

 

 リディアは鞄を机の脇に置き、背筋を伸ばした。

 

「リディア・クロウです。本日よりあなたの家庭教師を務めます。まずは、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 

 その瞬間、空気がひやりと沈んだ。

 

 肌に触れる温度が一段落ち、指先からじわりと冷えが這い上がる。吐いた息が白く濁り、唇にかすかな乾きが走る。窓の霜が音もなく伸び、細い枝のように広がっていく。燭台の火はぱちりと小さく鳴り、色を失って青白く揺れた。花瓶の水面には、薄い膜が張るように静かに凍りつき、かすかな軋みが耳に触れる。

 

 少女は動かなかった。

 ただ、微笑みだけが消えた。

 

 扉の外で、何かが激しく叩かれる音がした。鈍い衝撃が木を震わせ、その振動が床を伝って足裏に届く。

 

「クロウ嬢、」

 

 グレアムの声だった。

 

「その問いはお控えください」

 

 リディアは扉を見ない。扉ひとつを隔てても、声は過不足なく通じた。

 

「授業を始めるにあたり、生徒の名前を確認するのは当然です」

「その方に、名はございません」

「名がない人間などいません」

「この屋敷では、そう扱われています」

「扱いの話をしているのではありません」

「では、扱いだけをなさってください。クロウ嬢」

 

 扉越しの声には、苛立ちよりも警戒が滲んでいた。

 

 リディアは少女を見ていた。

 少女は伏し目になり、閉じた本の表紙を指先で押さえている。細い指に力が入り、革がわずかに軋んだ。その音がやけに大きく、乾いた空気に響く。

 

「あなたは」

 

 リディアは声を和らげた。

 

「ご自分の名を、言いたくないのですか」

 

 少女の睫毛が震えた。

 答えはない。

 

「それとも、言えないのですか」

 

 燭台の火がふっと消えた。焦げた匂いが一瞬だけ鼻をかすめ、すぐに冷たい空気に飲み込まれる。部屋は窓からの白い光だけになるが、その光もどこか鈍く、温度を持たない。

 

「先生は」

 

 少女はゆっくりと顔を上げた。

 

「私に、名前が必要だと思いますか」

 

 奇妙な問いだった。

 リディアは慎重に答えた。

 

「必要です」

「どうして?」

「あなたを、あなたとして呼ぶために」

 

 少女の目がわずかに細くなる。

 

「北の方、ではいけませんか」

「それは場所です」

「あの子、では?」

「それは呼び名ですらありません」

「忌み子、では?」

 

 その言葉が発せられた瞬間、空気がわずかにざらついた。舌の上に鉄のような味がかすかに残る。

 

 リディアは黙った。

 その言葉だけ、少女は少し楽しむように言った。

 

 窓の霜が細く鳴る。きし、と乾いた音が耳に残る。

 

「その言葉を、あなたがご自分に使う必要はありません」

「扉の外の人たちは、そう呼びます」

「私の授業では呼びません」

「先生は、まだ何も知らないのに?」

「知らないからこそ、最初に呼ぶ言葉を選びます」

 

 少女は瞬きをした。

 そして、ほんの少し首を傾けた。

 

「先生は、変わっていますね」

「よく言われます」

「本当に?」

「いいえ。今、初めて言われました」

 

 少女は小さく笑った。

 

 その瞬間、空気がわずかに緩む。凍りついていた感覚がほどけ、燭台に薄い金色の火が戻る。火は柔らかく揺れ、かすかな温もりが頬に触れた。冷えきっていた指先に、ほんのわずかな血の巡りが戻る。

 

 リディアはそれを視界の端で捉えながら、胸の内で線を引いた。

 

 この少女の魔力は、感情に反応する。

 

 だが今は口に出さない。

 リディアは鞄から帳面とペンを取り出した。

 

「本日は確認をしましょう。何を知っていて、何を知らないか」

「私が、知らないこと」

「ええ。読み書き、歴史、礼法、紋章学。必要なら算術も」

「礼法も?」

「令嬢には必要です」

 

 少女はゆっくり繰り返した。

 

「令嬢」

「はい」

「私が?」

「そう接するように言われました」

 

 少女は再び笑った。

 

「それは、おかしいです」

「何がでしょう」

「扉の外の人たちは、私を令嬢だと思っていません」

 

 リディアはペン先を帳面に置いたまま、少女を見た。

 

「あなたは、ご自分をどう思っていますか」

 

 少女はすぐには答えなかった。

 窓の霜が形を変え、花の模様が崩れていく。ぱきり、と細い音が連なり、耳に残る。

 

「わかりません」

 

 やがて言った。

 

「誰も教えてくれませんでした」

 

 リディアは帳面に何も書かず、ペンを置いた。

 

「では、今日から一緒に考えましょう」

「何を?」

「あなたが何者かを」

 

 少女はリディアを見つめた。

 

 澄んだ灰色の瞳。白い部屋。金色の火。

 綺麗で、同時に危うい。

 

 それでも目を逸らす理由はなかった。

 

「まず、文字は読めますか」

「少し」

「書く方は」

「もっと少し」

「では、今日は文字にしましょう。必要な言葉を、綴るために」

「必要な言葉」

「ええ。欲しいものや、嫌なこと、知りたいこと」

 

 リディアは紙を置き、ペンを差し出した。

 

「書いてみてください」

 

 少女はペンを見てから、リディアを見る。

 

「先生の名前でも?」

「少し長いかもしれません」

「覚えています」

「そうでしょうね」

「リディア・クロウ」

 

 丁寧に名をなぞるように呼ばれ、リディアはわずかに落ち着かなさを覚えた。呼ばれた音が、空気に溶けずに残るような感覚があった。

 

「……では、書いてみてください」

 

 少女はペンを取った。

 

 持ち方は不慣れだが、まったく知らないわけでもない。リディアが手を伸ばすと、少女は反射的に指を引いた。

 

「触れても?」

 

 リディアは動きを止める。

 

「嫌なら、言ってください」

「嫌と言ったら?」

「触れません」

「扉の外の人たちは、聞きません」

「私は違います」

 

 少女はしばらく見つめ、それからわずかに力を抜いた。

 

「……少しなら」

「では、少しだけ」

 

 リディアは横に立ち、逃げ場を塞がないようにして指に触れ、ペンの角度を直す。

 

 指先は雪のように冷たかった。触れた瞬間、皮膚の奥まで冷気が染み込むようだった。

 少女の肩が小さく震える。

 

「痛みますか」

「いいえ」

「では?」

「人に触られたのは、久しぶりです」

 

 その言葉とともに、かすかに息が揺れ、冷たい空気が頬を撫でた。

 リディアは何も言わず、ただ頷いた。

 

「ゆっくり書きましょう」

 

 少女は頷き、紙に線を引く。

 

 リ。

 

 デ。

 

 ィ。

 

 ア。

 

 一画ごとに集中があった。二人で書いたせいか、文字が歪む。ペン先が紙を擦る音が、静かな部屋に細く響く。

 

 クロウのクでペンが止まる。

 

「疲れましたか」

「いいえ」

「では、なぜ」

「先生の名前は」

 

 少女は紙を見たまま言った。

 

「書いても、消されませんか」

 

 リディアは一瞬迷い、別の答えを選んだ。

 

「私が消しません」

 

 少女の指が再び動く。

 

 ク。

 

 ロ。

 

 ウ。

 

 紙の上に名が完成した。

 

 その瞬間、文字がわずかに白く光る。光は冷たく、しかし目に刺さるような鋭さはなく、静かに滲むように広がった。耳の奥で無音が鳴る。

 

 リディアは息を止めた。

 

 少女はそれを見ていたが、驚いてはいなかった。

 むしろ確かめるように目を開いていた。

 

「今のは」

 

 言いかけたとき、扉の向こうでグレアムが咳払いをした。その音がやけに現実的で、冷えた空気を切り裂く。

 

「クロウ嬢。初日はその程度で」

「まだ始めたばかりです」

「その方を疲れさせてはなりません」

「疲れているようには見えません」

「判断するのはあなたではありません」

 

 リディアは扉を睨んだ。

 この屋敷では、外にいる者がすべてを決める。

 

 少女は紙を見つめている。

 リディアの名前を、宝石のように。

 リディアは帳面を閉じた。

 

「では、本日はここまでにいたしましょう」

 

 少女の目が上がる。

 

「もう帰るのですか」

「初日ですから。明日、また参ります」

「本当に?」

「契約がありますので」

 

 言ってから、リディアは少し後悔した。

 少女の瞳がわずかに曇ったからだ。空気もまた、ほんのわずかに重くなる。

 

「契約があるから、来るのですか」

 

 リディアは手を止めた。

 

「契約があるから、この屋敷に来ました」

 

 少女は黙っている。

 

「けれど、明日ここで授業をするのは、私がそうすると決めたからです」

 

 少女の指が紙の端を押さえる。その動きに合わせて、紙がかすかに鳴る。

 

「先生は、決めることができるのですね」

「できないことも多いです」

「でも、できることもある」

「ええ」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「では、明日も来てください」

「参ります」

「名前を」

 

 リディアは動きを止めた。

 

「何でしょう」

「明日も、先生の名前を書いてよろしいですか」

 

 リディアは少し考えた。

 

「授業の中でなら」

「授業の中で」

「ええ」

「では、授業をたくさんしてください」

 

 少女はそう言って微笑んだ。

 

 今度の笑みは、ほんの一瞬だけ年相応だった。その瞬間、空気が柔らかくなり、冷たさの奥にかすかな温もりが混じる。

 

 リディアは礼をして扉へ向かう。

 外側から鍵が回り、扉が開く。金属が擦れる音が、冷えた空気に鋭く響く。

 

 グレアムが立っていた。

 

「初日は以上です」

「明日も同じ時刻に参ります」

「その必要は」

「契約書には、私が授業を担当するとあります」

 

 グレアムは反論しなかった。

 リディアは部屋を出る。

 

 白い廊下の冷気が頬に触れる。部屋の中とは違う、乾いた冷たさだ。扉が閉じられる直前、リディアは一度だけ振り返った。

 

 少女は窓辺に立ち、紙を胸元に寄せていた。

 

 扉が閉まる。

 鍵が落ちる。

 

 その一瞬、白い扉の内側に霜が走るのが見えた。ぱきり、と細い音が連なり、冷気が隙間から漏れ出す。

 

 細い線が絡み合い、文字を形作る。

 

 リディア・クロウ。

 

 まるで、部屋そのものがその名を覚えようとしているかのように。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。