忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
鍵の音が消えたあとも、リディアはしばらく扉を振り返らなかった。
背後に閉じたものが、ただの扉ではないとわかっていた。外側から鍵をかけられた。おそらく、あの三つの鍵のうちのどれかで。あるいは、血鍵で動く封印ごと。
だが、今さら扉に駆け寄って叩いたところで、得るものは少ない。
怯えた姿を、この少女に見せるだけだ。
リディアは静かに息を整え、窓辺の少女へ向き直った。
「待っていた、とおっしゃいましたね」
「はい」
「私が来ることをご存じだったのですか」
「先生が来ると、聞いていました」
「誰に?」
「扉の向こうの人たちから」
嘘ではない。だが、すべてでもない。そんな答え方だった。
リディアは、少女の声に耳を澄ませる。かすれてはいない。幼くもない。長く声を使っていない者にありがちなぎこちなさもない。
それなのに、部屋はあまりに静かだった。
白い花。凍った窓。薄い灰色の壁。磨かれた床。整いすぎた机。
ここには、人が暮らしている気配がある。けれど、人と関わって生きている気配はない。
空気は澄みすぎていて、鼻の奥がわずかに痛む。花の香りはあるはずなのに、どこか薄く、冷たい水の匂いに押し流されている。
「では、改めてご挨拶を」
リディアは鞄を机の脇に置き、背筋を伸ばした。
「リディア・クロウです。本日よりあなたの家庭教師を務めます。まずは、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
その瞬間、空気がひやりと沈んだ。
肌に触れる温度が一段落ち、指先からじわりと冷えが這い上がる。吐いた息が白く濁り、唇にかすかな乾きが走る。窓の霜が音もなく伸び、細い枝のように広がっていく。燭台の火はぱちりと小さく鳴り、色を失って青白く揺れた。花瓶の水面には、薄い膜が張るように静かに凍りつき、かすかな軋みが耳に触れる。
少女は動かなかった。
ただ、微笑みだけが消えた。
扉の外で、何かが激しく叩かれる音がした。鈍い衝撃が木を震わせ、その振動が床を伝って足裏に届く。
「クロウ嬢、」
グレアムの声だった。
「その問いはお控えください」
リディアは扉を見ない。扉ひとつを隔てても、声は過不足なく通じた。
「授業を始めるにあたり、生徒の名前を確認するのは当然です」
「その方に、名はございません」
「名がない人間などいません」
「この屋敷では、そう扱われています」
「扱いの話をしているのではありません」
「では、扱いだけをなさってください。クロウ嬢」
扉越しの声には、苛立ちよりも警戒が滲んでいた。
リディアは少女を見ていた。
少女は伏し目になり、閉じた本の表紙を指先で押さえている。細い指に力が入り、革がわずかに軋んだ。その音がやけに大きく、乾いた空気に響く。
「あなたは」
リディアは声を和らげた。
「ご自分の名を、言いたくないのですか」
少女の睫毛が震えた。
答えはない。
「それとも、言えないのですか」
燭台の火がふっと消えた。焦げた匂いが一瞬だけ鼻をかすめ、すぐに冷たい空気に飲み込まれる。部屋は窓からの白い光だけになるが、その光もどこか鈍く、温度を持たない。
「先生は」
少女はゆっくりと顔を上げた。
「私に、名前が必要だと思いますか」
奇妙な問いだった。
リディアは慎重に答えた。
「必要です」
「どうして?」
「あなたを、あなたとして呼ぶために」
少女の目がわずかに細くなる。
「北の方、ではいけませんか」
「それは場所です」
「あの子、では?」
「それは呼び名ですらありません」
「忌み子、では?」
その言葉が発せられた瞬間、空気がわずかにざらついた。舌の上に鉄のような味がかすかに残る。
リディアは黙った。
その言葉だけ、少女は少し楽しむように言った。
窓の霜が細く鳴る。きし、と乾いた音が耳に残る。
「その言葉を、あなたがご自分に使う必要はありません」
「扉の外の人たちは、そう呼びます」
「私の授業では呼びません」
「先生は、まだ何も知らないのに?」
「知らないからこそ、最初に呼ぶ言葉を選びます」
少女は瞬きをした。
そして、ほんの少し首を傾けた。
「先生は、変わっていますね」
「よく言われます」
「本当に?」
「いいえ。今、初めて言われました」
少女は小さく笑った。
その瞬間、空気がわずかに緩む。凍りついていた感覚がほどけ、燭台に薄い金色の火が戻る。火は柔らかく揺れ、かすかな温もりが頬に触れた。冷えきっていた指先に、ほんのわずかな血の巡りが戻る。
リディアはそれを視界の端で捉えながら、胸の内で線を引いた。
この少女の魔力は、感情に反応する。
だが今は口に出さない。
リディアは鞄から帳面とペンを取り出した。
「本日は確認をしましょう。何を知っていて、何を知らないか」
「私が、知らないこと」
「ええ。読み書き、歴史、礼法、紋章学。必要なら算術も」
「礼法も?」
「令嬢には必要です」
少女はゆっくり繰り返した。
「令嬢」
「はい」
「私が?」
「そう接するように言われました」
少女は再び笑った。
「それは、おかしいです」
「何がでしょう」
「扉の外の人たちは、私を令嬢だと思っていません」
リディアはペン先を帳面に置いたまま、少女を見た。
「あなたは、ご自分をどう思っていますか」
少女はすぐには答えなかった。
窓の霜が形を変え、花の模様が崩れていく。ぱきり、と細い音が連なり、耳に残る。
「わかりません」
やがて言った。
「誰も教えてくれませんでした」
リディアは帳面に何も書かず、ペンを置いた。
「では、今日から一緒に考えましょう」
「何を?」
「あなたが何者かを」
少女はリディアを見つめた。
澄んだ灰色の瞳。白い部屋。金色の火。
綺麗で、同時に危うい。
それでも目を逸らす理由はなかった。
「まず、文字は読めますか」
「少し」
「書く方は」
「もっと少し」
「では、今日は文字にしましょう。必要な言葉を、綴るために」
「必要な言葉」
「ええ。欲しいものや、嫌なこと、知りたいこと」
リディアは紙を置き、ペンを差し出した。
「書いてみてください」
少女はペンを見てから、リディアを見る。
「先生の名前でも?」
「少し長いかもしれません」
「覚えています」
「そうでしょうね」
「リディア・クロウ」
丁寧に名をなぞるように呼ばれ、リディアはわずかに落ち着かなさを覚えた。呼ばれた音が、空気に溶けずに残るような感覚があった。
「……では、書いてみてください」
少女はペンを取った。
持ち方は不慣れだが、まったく知らないわけでもない。リディアが手を伸ばすと、少女は反射的に指を引いた。
「触れても?」
リディアは動きを止める。
「嫌なら、言ってください」
「嫌と言ったら?」
「触れません」
「扉の外の人たちは、聞きません」
「私は違います」
少女はしばらく見つめ、それからわずかに力を抜いた。
「……少しなら」
「では、少しだけ」
リディアは横に立ち、逃げ場を塞がないようにして指に触れ、ペンの角度を直す。
指先は雪のように冷たかった。触れた瞬間、皮膚の奥まで冷気が染み込むようだった。
少女の肩が小さく震える。
「痛みますか」
「いいえ」
「では?」
「人に触られたのは、久しぶりです」
その言葉とともに、かすかに息が揺れ、冷たい空気が頬を撫でた。
リディアは何も言わず、ただ頷いた。
「ゆっくり書きましょう」
少女は頷き、紙に線を引く。
リ。
デ。
ィ。
ア。
一画ごとに集中があった。二人で書いたせいか、文字が歪む。ペン先が紙を擦る音が、静かな部屋に細く響く。
クロウのクでペンが止まる。
「疲れましたか」
「いいえ」
「では、なぜ」
「先生の名前は」
少女は紙を見たまま言った。
「書いても、消されませんか」
リディアは一瞬迷い、別の答えを選んだ。
「私が消しません」
少女の指が再び動く。
ク。
ロ。
ウ。
紙の上に名が完成した。
その瞬間、文字がわずかに白く光る。光は冷たく、しかし目に刺さるような鋭さはなく、静かに滲むように広がった。耳の奥で無音が鳴る。
リディアは息を止めた。
少女はそれを見ていたが、驚いてはいなかった。
むしろ確かめるように目を開いていた。
「今のは」
言いかけたとき、扉の向こうでグレアムが咳払いをした。その音がやけに現実的で、冷えた空気を切り裂く。
「クロウ嬢。初日はその程度で」
「まだ始めたばかりです」
「その方を疲れさせてはなりません」
「疲れているようには見えません」
「判断するのはあなたではありません」
リディアは扉を睨んだ。
この屋敷では、外にいる者がすべてを決める。
少女は紙を見つめている。
リディアの名前を、宝石のように。
リディアは帳面を閉じた。
「では、本日はここまでにいたしましょう」
少女の目が上がる。
「もう帰るのですか」
「初日ですから。明日、また参ります」
「本当に?」
「契約がありますので」
言ってから、リディアは少し後悔した。
少女の瞳がわずかに曇ったからだ。空気もまた、ほんのわずかに重くなる。
「契約があるから、来るのですか」
リディアは手を止めた。
「契約があるから、この屋敷に来ました」
少女は黙っている。
「けれど、明日ここで授業をするのは、私がそうすると決めたからです」
少女の指が紙の端を押さえる。その動きに合わせて、紙がかすかに鳴る。
「先生は、決めることができるのですね」
「できないことも多いです」
「でも、できることもある」
「ええ」
少女は小さく頷いた。
「では、明日も来てください」
「参ります」
「名前を」
リディアは動きを止めた。
「何でしょう」
「明日も、先生の名前を書いてよろしいですか」
リディアは少し考えた。
「授業の中でなら」
「授業の中で」
「ええ」
「では、授業をたくさんしてください」
少女はそう言って微笑んだ。
今度の笑みは、ほんの一瞬だけ年相応だった。その瞬間、空気が柔らかくなり、冷たさの奥にかすかな温もりが混じる。
リディアは礼をして扉へ向かう。
外側から鍵が回り、扉が開く。金属が擦れる音が、冷えた空気に鋭く響く。
グレアムが立っていた。
「初日は以上です」
「明日も同じ時刻に参ります」
「その必要は」
「契約書には、私が授業を担当するとあります」
グレアムは反論しなかった。
リディアは部屋を出る。
白い廊下の冷気が頬に触れる。部屋の中とは違う、乾いた冷たさだ。扉が閉じられる直前、リディアは一度だけ振り返った。
少女は窓辺に立ち、紙を胸元に寄せていた。
扉が閉まる。
鍵が落ちる。
その一瞬、白い扉の内側に霜が走るのが見えた。ぱきり、と細い音が連なり、冷気が隙間から漏れ出す。
細い線が絡み合い、文字を形作る。
リディア・クロウ。
まるで、部屋そのものがその名を覚えようとしているかのように。