忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
感想・評価・お気に入り等頂けますと幸甚です。
翌朝、リディアは本邸の客室で目を覚ました。
疲労とは裏腹に、眠りは浅かった。
窓の外には、まだ薄い霧が残っている。ヴァレンシュタイン公爵家の庭園は広く整えられていたが、灰色の朝の中では、どの木もどの噴水も沈黙しているように見えた。
寝台の脇には、昨日使った鞄が置かれている。
帳面。ペン。インク瓶。
欠けたものは一つ。
昨日、あの少女がリディアの名を書いた紙だ。
リディア・クロウ。
歪んだ文字。白く光った名。
少女はその紙を胸元に抱え、リディアが部屋を出るまで離さなかった。
思い出すと、指先に昨日の冷たさが戻ってくるようだった。
名前を尋ねると、部屋が凍った。
リディアの名を書けば、紙が光った。
扉の内側には、霜でリディアの名が浮かんだ。
命名官の家に生まれた以上、それがただの偶然でないことくらいはわかる。だが、わかるのはそこまでだった。職能が枯れた家系の娘に備わった知識では、まだ表面的な事象を読み取ることさえ覚束無い。
名前が魔力と結びつくことはある。正式な命名儀礼であれば、家名、血筋、魔力紋、証人の名まで絡む。けれど、昨日のあれは儀礼ではない。少女がただ、リディアの名を書いただけだ。
それなのに、魔力が反応した。
リディアは寝台から降り、冷たい水で顔を洗った。
考えるべきことは二つある。
あの少女は誰なのか。
そして、なぜ名を持たないのか。
朝食は客室に運ばれた。
薄切りのパン、卵、温めた果実、香草茶。どれも上等だったが、食器を置いた侍女の指はわずかに震えていた。
リディアは礼を言い、何気ない調子で尋ねる。
「北の離れには、昨日と同じ時刻に伺えばよろしいのかしら」
侍女の顔がこわばる。
「……はい。グレアム様より、そのように」
「では、授業に必要なものをいくつかお願いできますか。白紙の束と、初級の読本。できれば刺繍見本も」
「刺繍、ですか」
「文字の練習に使います。絵柄と文字を結びつけると覚えやすいので」
これは半分、本当だった。
もう半分は、別の目的だ。
あの部屋には、本があった。花もあった。古いドレスもあった。ならば、少女に与えられた品のどこかに、名の手がかりが残っているかもしれない。
名前は、完全には消せない。
どれほど忌避されても、誰かが一度でも呼んだなら、布の端、紙の切れ端、贈り物の裏、そういう場所に痕跡が残る。
侍女は視線を落とした。
「刺繍見本は、北の方のお部屋にあるかと」
「では、そちらを使います」
「……触れない方がよろしいものもございます」
「どれがそうか、教えていただけますか」
侍女は唇を噛んだ。
答えない。
この屋敷の者たちは、皆、同じ顔をする。知っている。けれど言えない。言えないことに慣れすぎて、沈黙が礼儀になっている。
リディアはそれ以上追及しなかった。
「ありがとう。読本だけ、お願いします」
侍女は頭を下げ、逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まる直前、廊下の向こうから別の使用人の声がかすかに聞こえた。
「……また北へ?」
「クロウ嬢が」
「名前を聞いたそうよ」
「やめて。聞こえるわ」
声とともに足音が遠ざかる。
リディアは香草茶に口をつけた。
温かいはずなのに、喉を通る頃には少し冷めている気がした。
北の離れへ続く扉の前で、グレアムは昨日と同じように待っていた。
「おはようございます、グレアム様」
「おはようございます、クロウ嬢」
彼の目元には疲れがあった。昨日より、ほんの少しだけ顔色が悪い。
「本日も授業を」
「予定通りです。ただし、昨日のような質問はお控えください」
「生徒の名前を尋ねることですか」
「その質問です」
「家庭教師に名を伏せる理由を、そろそろ教えていただきたいのですが」
「教える必要はありません」
「必要かどうかを判断する材料が、こちらにはありません」
グレアムは無言で鍵を取り出した。
一つ目。二つ目。三つ目。
金属音が渡り廊下に響く。
「クロウ嬢」
「はい」
「あなたは昨日、その方の名について問いました。その結果、部屋の温度が下がり、封印が反応した」
「ええ」
「それを理解した上で、なお続けますか」
「私は、何が危険なのかを知らされていません」
「知れば扱えるとでも?」
「少なくとも、知らずに触るよりはましです」
グレアムは血鍵に指先を当てた。
封印紋が淡く光る。
「その考えが、もっとも危険です」
扉が開く。
白い渡り廊下の奥に、昨日と同じ扉がある。
リディアは歩き出した。グレアムは後ろからついてくる。彼の足音は正確で、冷たい廊下に等間隔で響いた。
扉の前で、リディアは足を止めた。
「昨日、彼女は私の名前を書きました」
「見ていました」
「紙が光りました」
「見ていました」
「説明は?」
「ありません」
「では、私が調べます」
グレアムの目が細くなる。
「契約書の第五項をお忘れですか」
命名に関わる旧儀礼を、雇用主の許可なく行ってはならない。
もちろんリディアは覚えている。
「旧儀礼は行いません。授業をするだけです」
「言葉遊びですね」
「貴族社会の契約に、言葉遊びでないものがあるのですか」
グレアムは何か言いかけ、やめた。深いため息が溢れる。
代わりに扉を叩く。
「クロウ嬢をお連れしました」
返事はない。
だが、内側で椅子の脚が床を擦る小さな音がした。
扉が開く。
昨日と同じ白い部屋が広がっている。
しかし、空気は少し違っていた。明らかに、昨日よりも温度が高い。窓の霜は薄くなり、燭台には最初から金色の火が灯っている。
少女は机の前に座っていた。
姿勢を正し、両手を膝に置いている。昨日よりずっと、授業を受ける令嬢らしい態度だった。
ただ、その膝の上には一枚の紙があった。
リディア・クロウ。
昨日の文字だ。
少女はそれを隠そうともしない。
「おはようございます、先生」
リディアは一瞬だけ間を置き、礼を返した。
「おはようございます」
名前を呼ばない。
少女の指が、膝の上の紙を軽く押さえた。
リディアは見ないふりをした。今ここで、彼女の表情を見すぎてはいけない。何を欲しがっているかが、わかってしまうからだ。
「本日は、昨日の続きです。文字の練習をしましょう」
「先生の名前を?」
「今日は、別の言葉から」
少女は少しだけ目を伏せた。
「別の」
「欲しいものや、嫌なことを言葉にする練習です。昨日、そうお話ししましたね」
「はい」
リディアは紙を広げる。
最初に書いたのは、花、窓、本、椅子、扉。
少女はそれを順に読んだ。読み間違いは少ない。やはり、まったく教育を受けていないわけではない。
「では、今度はあなたが選んでください。ここにあるものを一つ」
少女は部屋を見渡した。
花。窓。本。机。燭台。
そして、少し離れた棚の上に置かれた小箱に目を止める。
「あれでも?」
「構いません」
リディアは小箱を取ろうとして、ふと今朝の侍女の言葉を思い出した。
触れない方がよろしいものもございます。
しかし、少女は小箱を見ている。
怖がってはいない。むしろ、待っている。
リディアは棚へ近づいた。小箱は古びた白木でできていた。蓋には色褪せたリボンが巻かれている。子供用の宝石箱か、裁縫箱に見えた。
「開けても?」
「先生が、そうしたいなら」
「あなたのものでは?」
「わかりません」
リディアは蓋を開けた。
中には、刺繍糸、古い布切れ、小さな銀の鈴、そして何枚かの刺繍見本が入っていた。
幼い子供の練習用だろう。花や鳥、月の形が拙く縫われている。その中に一枚だけ、途中で糸が切れた布があった。
白い布に、淡い青の糸。
E。
その次の文字は、縫いかけで途切れている。
リディアの指が止まった。
「それ」
少女の声がした。
「読めますか」
リディアは顔を上げる。
少女はいつの間にか、机から立ち上がっていた。歩み寄ってはこない。ただ、じっとこちらを見ている。
「途中までなら」
「何と?」
「……まだ、わかりません」
嘘ではなかった。
Eから始まる名はいくらでもある。エレナ。エミリア。エリサ。エーファ。エルゼ。
だが、リディアの胸の奥で、小さな違和感が動いた。
この布は、偶然ここに入っていたのか。
それとも、見つけさせられているのか。
リディアは小箱の中をもう一度見る。
布切れの下に、紙片が挟まっていた。
古い命名記録の一部に見える。だが、端は焼け焦げ、中央は黒く滲んでいて、ほとんど読めない。
読み取れるのは、ほんの一部だけだった。
──第三子。
──女児。
──母君の希望により、幼名を。
──El……
そこで切れている。
リディアは紙片を戻した。
「先生」
少女の声が、近くなっていた。
気づけば、彼女はリディアのすぐそばに立っている。足音はしなかった。
「何と書いてありましたか」
「読めるほど残っていません」
「少しも?」
「第三子。女児。母君の希望。幼名。その程度です」
少女は黙った。
表情は変わらない。
だが、燭台の火が少しだけ小さくなった。
リディアは布と紙片を小箱に戻そうとして、ふと思い直した。布だけを手に取り、机へ戻る。
「今日は、これを使いましょう」
「それを?」
「はい。途中の文字を見て、続きを考える練習です」
少女は椅子に座る。
リディアは紙に大きくEと書いた。
「この文字から始まる名前や言葉は、たくさんあります。エレナ、エミリア、エリサ、エーファ」
少女は黙って聞いている。
リディアはペンを止めた。
まだ言っていない名が、喉の奥で引っかかっている。
なぜ、それを言おうと思ったのかはわからない。
刺繍の糸の曲がり方か。紙片の滲み方か。あるいは、少女がこちらを見る目か。
リディアは静かに続けた。
「エルゼ」
ぱきり、と音がした。
窓ガラスが割れたわけではない。音の発生源は、壁だった。
白い壁に刻まれていた薄い封印紋の一部が、細く割れている。
扉の向こうで、グレアムが激しく動く気配がした。
「クロウ嬢」
少女は、息をしていなかった。
少なくとも、リディアにはそう見えた。
灰色の目を見開き、唇をわずかに開けたまま、リディアを見つめている。
リディアは、自分の声が部屋の中にまだ残っているように感じた。
エルゼ。
ただ、名前の候補の一つとして口にしたはずだった。
だが、部屋はそう扱わなかった。
燭台の火が揺れる。窓の霜が一斉にほどける。花瓶の白い花の縁から、凍っていた水滴が落ちた。
ぽたり、と机に音がする。
少女の目からも、同じように一粒、涙が落ちた。
リディアは動けなかった。
少女は泣いているのに、顔を歪めていない。声も上げていない。ただ、何か長いあいだ止まっていたものが、ようやく流れ出したように、静かに涙を落としている。
「……それ」
少女が言った。
「もう一度」
扉が強く叩かれる。
「クロウ嬢、やめなさい」
グレアムの声は、昨日より明らかに切迫していた。
リディアは答えない。
少女を見ていた。
「先生」
少女は、両手を机の上で握りしめている。
「もう一度だけ」
これは危険だ。
リディアの理性はそう告げていた。
名前を呼ぶだけで封印が割れた。部屋の魔力が動いた。グレアムが止めている。だが行き過ぎれば、契約書の項目にも触れるかもしれない。
それでも、リディアは思った。
この子は今、命令しているのではない。
乞うている。
リディアは、ゆっくりと口を開いた。
「エルゼ様」
今度は、部屋全体が震えた。
床の下から、低い音が響く。壁の封印紋に光が走り、いくつかの線が砕けるように消えた。燭台の火が高く伸び、それから穏やかな金色に戻る。
そして、ずっと白く塞がれていた窓の霜が、中央から溶けた。
初めて、外の庭が見えた。
灰色の空。濡れた木々。遠くの本邸の塔。
少女は椅子から立ち上がった。
ふらつくように一歩、窓へ向かう。リディアは思わず手を伸ばしたが、少女は倒れなかった。
彼女は窓の外を見た。
長い間、息を忘れたように。
それから、自分の手を見る。
「エルゼ」
少女が、自分でその音をなぞった。
その瞬間、空気が少し歪んだ。
少女は小さく息を呑み、喉を押さえる。自分で言うことは、まだ難しいらしい。名前そのものが、彼女の中で行き場を探して暴れているようだった。
リディアは近づきすぎない距離で立ち止まった。
「無理におっしゃらなくて結構です」
「でも」
「今は、私が呼びます」
言ったあと、リディアはその重さに気づいた。
今は、私が呼ぶ。
それは授業の一環ではなかった。慰めだけでもなかった。名を持たない少女に対し、仮の名を置く行為だ。
正式な命名儀礼ではない。
証人もいない。家長の承認もない。家紋帳への記載もない。
けれど、まったく何もないわけでもない。
命名官の血を引くリディアが、意思をもって、その名で呼んだ。名付けではない。だが、眠っていた名前を起こした。
少女は振り返った。
涙の跡が頬に残っている。
「先生は」
「はい」
「私を、そう呼んでくださるのですか」
「授業の間の仮の名として、です」
言いながら、リディアは線を引いた。
ここで曖昧にしてはいけない。
正式名ではない。解決ではない。これはまだ、授業のための仮の名だ。
「仮の名」
「はい。あなたが嫌なら、別の名を考えます」
「嫌ではありません」
答えは早かった。
「嫌では、ありません」
少女はもう一度言った。
大事なものを両手で包むように、言葉は繰り返された。
扉が乱暴に開いた。
グレアムが入ってくる。顔色は蒼白だった。後ろには侍女が二人、さらに年配の男が一人。おそらく屋敷付きの術師だろう。全員が部屋の壁と窓を見て、言葉を失っている。
窓の霜が溶けている。
封印紋が一部、消えている。
そして少女が、立っている。
リディアは少女の前に出ることはしなかった。守るように立てば、かえって刺激する。今は、何も隠さない方がいい。
グレアムが低い声で言った。
「クロウ嬢。あなたは、何をなさった」
「授業です」
「命名に関わる旧儀礼は禁止されています」
「儀礼は行っていません。候補の名を読んだだけです」
「その結果がこれです」
「私にも予想外でした」
これは正直だった。
グレアムの視線が、リディアから少女へ移る。
「北の方」
その呼び方を聞いた瞬間、少女の肩がわずかに強張った。
リディアはそれを見た。
だから、静かに言った。
「授業中は、エルゼ様とお呼びします」
部屋が、再び低く震えた。
今度は凍るような震えではない。閉じ込められていたものが、内側から返事をしたような感覚だった。
グレアムの顔がさらに白くなる。
「あなたは意味を理解していない」
「理解したいので、ご説明を」
「説明する前に、撤回なさい」
「何をですか」
「その名を」
リディアは少女を見た。
エルゼは黙っている。だが、灰色の目はリディアから離れない。先ほどの涙はもう止まっていた。代わりに、ひどく静かな集中が宿っている。
まるで、リディアが次に何を選ぶかを見届けようとしているように。
リディアはグレアムへ向き直った。
「撤回はしません」
「クロウ嬢」
「ただし、正式な命名ではありません。授業中の仮名です。契約に触れるというなら、公爵閣下に確認を取ってください」
グレアムは唇を引き結んだ。
怒りよりも、恐怖に近い表情だった。
「……本日の授業は中止です」
「まだ時間が残っています」
「中止です」
リディアは反論しようとして、やめた。
今、押し切っても得るものは少ない。これ以上グレアムを追い詰めれば、明日から離れに入れなくされるかもしれない。
鞄を手に取る。
エルゼが一歩、こちらへ出た。
「先生」
初めて、彼女が声に縋るような響きを混ぜた。
リディアは振り返る。
「明日も参ります」
「本当に?」
「ええ」
エルゼは唇を震わせた。
「名前は」
「授業の間は、エルゼ様とお呼びします」
エルゼは一度だけ、目を閉じた。
それは祈りのようにも、約束を飲み込むようにも見えた。
「待っています」
昨日と同じ言葉だった。
だが、意味は少し違って聞こえた。
リディアは礼をして、部屋を出た。
白い廊下に出た瞬間、背後で扉が閉じられる。鍵がかかる。血鍵の封印が再び淡く光る。
だが、完全には閉じていない。
扉の下の隙間から、細い金色の光が漏れていた。
リディアはそれを見つめる。
グレアムが低く言った。
「あなたは、取り返しのつかないことをしたかもしれません」
「それなら、何を取り返せなくしたのか教えてください」
「名を与えるというのは、ただ呼ぶことではありません」
「ええ。知っています」
「いいえ。あなたは知らない」
グレアムは離れの扉へ向かって歩き出した。
リディアも続く。
渡り廊下を戻る途中、背後から音が聞こえた。
かすかな声。
扉の向こう。白い部屋の奥。
エルゼが、自分の名を練習している。
「エルゼ」
声は震え、途中で途切れた。
もう一度。
「エルゼ」
まだ不安定だった。
それでも彼女は、諦めなかった。
リディアは足を止めかけたが、止めなかった。
今戻れば、グレアムに遮られるだけだ。
だから歩き続ける。
背後で、また一つ、封印紋がひび割れるような音がした。
グレアムが肩を震わせる。無言のまま、ただ足を前に突き出している。
リディアは振り返らず、胸の奥でその音を覚えた。
自分は今日、ただ名を呼んだだけではない。
閉ざされていた何かを開いた。
まだ、それが扉なのか、檻なのか、傷口なのかはわからない。
けれど、白い部屋の中で少女が初めて泣いたことだけは、確かだった。
そしてリディアはもう、彼女を「北の方」と呼ぶことはできない。