忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第三話 仮名の宣告

 

 翌朝、リディアは本邸の客室で目を覚ました。

 

 疲労とは裏腹に、眠りは浅かった。

 窓の外には、まだ薄い霧が残っている。ヴァレンシュタイン公爵家の庭園は広く整えられていたが、灰色の朝の中では、どの木もどの噴水も沈黙しているように見えた。

 

 寝台の脇には、昨日使った鞄が置かれている。

 帳面。ペン。インク瓶。

 

 欠けたものは一つ。

 昨日、あの少女がリディアの名を書いた紙だ。

 

 リディア・クロウ。

 

 歪んだ文字。白く光った名。

 少女はその紙を胸元に抱え、リディアが部屋を出るまで離さなかった。

 

 思い出すと、指先に昨日の冷たさが戻ってくるようだった。

 

 名前を尋ねると、部屋が凍った。

 リディアの名を書けば、紙が光った。

 扉の内側には、霜でリディアの名が浮かんだ。

 

 命名官の家に生まれた以上、それがただの偶然でないことくらいはわかる。だが、わかるのはそこまでだった。職能が枯れた家系の娘に備わった知識では、まだ表面的な事象を読み取ることさえ覚束無い。

 

 名前が魔力と結びつくことはある。正式な命名儀礼であれば、家名、血筋、魔力紋、証人の名まで絡む。けれど、昨日のあれは儀礼ではない。少女がただ、リディアの名を書いただけだ。

 

 それなのに、魔力が反応した。

 リディアは寝台から降り、冷たい水で顔を洗った。

 

 考えるべきことは二つある。

 

 あの少女は誰なのか。

 そして、なぜ名を持たないのか。

 

 

 

 朝食は客室に運ばれた。

 薄切りのパン、卵、温めた果実、香草茶。どれも上等だったが、食器を置いた侍女の指はわずかに震えていた。

 

 リディアは礼を言い、何気ない調子で尋ねる。

 

「北の離れには、昨日と同じ時刻に伺えばよろしいのかしら」

 

 侍女の顔がこわばる。

 

「……はい。グレアム様より、そのように」

「では、授業に必要なものをいくつかお願いできますか。白紙の束と、初級の読本。できれば刺繍見本も」

「刺繍、ですか」

「文字の練習に使います。絵柄と文字を結びつけると覚えやすいので」

 

 これは半分、本当だった。

 もう半分は、別の目的だ。

 

 あの部屋には、本があった。花もあった。古いドレスもあった。ならば、少女に与えられた品のどこかに、名の手がかりが残っているかもしれない。

 

 名前は、完全には消せない。

 どれほど忌避されても、誰かが一度でも呼んだなら、布の端、紙の切れ端、贈り物の裏、そういう場所に痕跡が残る。

 

 侍女は視線を落とした。

 

「刺繍見本は、北の方のお部屋にあるかと」

「では、そちらを使います」

「……触れない方がよろしいものもございます」

「どれがそうか、教えていただけますか」

 

 侍女は唇を噛んだ。

 答えない。

 

 この屋敷の者たちは、皆、同じ顔をする。知っている。けれど言えない。言えないことに慣れすぎて、沈黙が礼儀になっている。

 リディアはそれ以上追及しなかった。

 

「ありがとう。読本だけ、お願いします」

 

 侍女は頭を下げ、逃げるように部屋を出ていった。

 扉が閉まる直前、廊下の向こうから別の使用人の声がかすかに聞こえた。

 

「……また北へ?」

「クロウ嬢が」

「名前を聞いたそうよ」

「やめて。聞こえるわ」

 

 声とともに足音が遠ざかる。

 

 リディアは香草茶に口をつけた。

 温かいはずなのに、喉を通る頃には少し冷めている気がした。

 

     

 

 北の離れへ続く扉の前で、グレアムは昨日と同じように待っていた。

 

「おはようございます、グレアム様」

「おはようございます、クロウ嬢」

 

 彼の目元には疲れがあった。昨日より、ほんの少しだけ顔色が悪い。

 

「本日も授業を」

「予定通りです。ただし、昨日のような質問はお控えください」

「生徒の名前を尋ねることですか」

「その質問です」

「家庭教師に名を伏せる理由を、そろそろ教えていただきたいのですが」

「教える必要はありません」

「必要かどうかを判断する材料が、こちらにはありません」

 

 グレアムは無言で鍵を取り出した。

 一つ目。二つ目。三つ目。

 金属音が渡り廊下に響く。

 

「クロウ嬢」

「はい」

「あなたは昨日、その方の名について問いました。その結果、部屋の温度が下がり、封印が反応した」

「ええ」

「それを理解した上で、なお続けますか」

「私は、何が危険なのかを知らされていません」

「知れば扱えるとでも?」

「少なくとも、知らずに触るよりはましです」

 

 グレアムは血鍵に指先を当てた。

 封印紋が淡く光る。

 

「その考えが、もっとも危険です」

 

 扉が開く。

 白い渡り廊下の奥に、昨日と同じ扉がある。

 

 リディアは歩き出した。グレアムは後ろからついてくる。彼の足音は正確で、冷たい廊下に等間隔で響いた。

 扉の前で、リディアは足を止めた。

 

「昨日、彼女は私の名前を書きました」

「見ていました」

「紙が光りました」

「見ていました」

「説明は?」

「ありません」

「では、私が調べます」

 

 グレアムの目が細くなる。

 

「契約書の第五項をお忘れですか」

 

 命名に関わる旧儀礼を、雇用主の許可なく行ってはならない。

 もちろんリディアは覚えている。

 

「旧儀礼は行いません。授業をするだけです」

「言葉遊びですね」

「貴族社会の契約に、言葉遊びでないものがあるのですか」

 

 グレアムは何か言いかけ、やめた。深いため息が溢れる。

 代わりに扉を叩く。

 

「クロウ嬢をお連れしました」

 

 返事はない。

 だが、内側で椅子の脚が床を擦る小さな音がした。

 

 扉が開く。

 昨日と同じ白い部屋が広がっている。

 

 しかし、空気は少し違っていた。明らかに、昨日よりも温度が高い。窓の霜は薄くなり、燭台には最初から金色の火が灯っている。

 

 少女は机の前に座っていた。

 姿勢を正し、両手を膝に置いている。昨日よりずっと、授業を受ける令嬢らしい態度だった。

 

 ただ、その膝の上には一枚の紙があった。

 

 リディア・クロウ。

 

 昨日の文字だ。

 少女はそれを隠そうともしない。

 

「おはようございます、先生」

 

 リディアは一瞬だけ間を置き、礼を返した。

 

「おはようございます」

 

 名前を呼ばない。

 少女の指が、膝の上の紙を軽く押さえた。

 リディアは見ないふりをした。今ここで、彼女の表情を見すぎてはいけない。何を欲しがっているかが、わかってしまうからだ。

 

「本日は、昨日の続きです。文字の練習をしましょう」

「先生の名前を?」

「今日は、別の言葉から」

 

 少女は少しだけ目を伏せた。

 

「別の」

「欲しいものや、嫌なことを言葉にする練習です。昨日、そうお話ししましたね」

「はい」

 

 リディアは紙を広げる。

 最初に書いたのは、花、窓、本、椅子、扉。

 少女はそれを順に読んだ。読み間違いは少ない。やはり、まったく教育を受けていないわけではない。

 

「では、今度はあなたが選んでください。ここにあるものを一つ」

 

 少女は部屋を見渡した。

 花。窓。本。机。燭台。

 そして、少し離れた棚の上に置かれた小箱に目を止める。

 

「あれでも?」

「構いません」

 

 リディアは小箱を取ろうとして、ふと今朝の侍女の言葉を思い出した。

 

 触れない方がよろしいものもございます。

 しかし、少女は小箱を見ている。

 

 怖がってはいない。むしろ、待っている。

 

 リディアは棚へ近づいた。小箱は古びた白木でできていた。蓋には色褪せたリボンが巻かれている。子供用の宝石箱か、裁縫箱に見えた。

 

「開けても?」

「先生が、そうしたいなら」

「あなたのものでは?」

「わかりません」

 

 リディアは蓋を開けた。

 中には、刺繍糸、古い布切れ、小さな銀の鈴、そして何枚かの刺繍見本が入っていた。

 

 幼い子供の練習用だろう。花や鳥、月の形が拙く縫われている。その中に一枚だけ、途中で糸が切れた布があった。

 白い布に、淡い青の糸。

 

 E。

 

 その次の文字は、縫いかけで途切れている。

 リディアの指が止まった。

 

「それ」

 

 少女の声がした。

 

「読めますか」

 

 リディアは顔を上げる。

 少女はいつの間にか、机から立ち上がっていた。歩み寄ってはこない。ただ、じっとこちらを見ている。

 

「途中までなら」

「何と?」

「……まだ、わかりません」

 

 嘘ではなかった。

 Eから始まる名はいくらでもある。エレナ。エミリア。エリサ。エーファ。エルゼ。

 

 だが、リディアの胸の奥で、小さな違和感が動いた。

 この布は、偶然ここに入っていたのか。

 それとも、見つけさせられているのか。

 

 リディアは小箱の中をもう一度見る。

 

 布切れの下に、紙片が挟まっていた。

 

 古い命名記録の一部に見える。だが、端は焼け焦げ、中央は黒く滲んでいて、ほとんど読めない。

 

 読み取れるのは、ほんの一部だけだった。

 

 ──第三子。

 ──女児。

 ──母君の希望により、幼名を。

 ──El……

 

 そこで切れている。

 リディアは紙片を戻した。

 

「先生」

 

 少女の声が、近くなっていた。

 気づけば、彼女はリディアのすぐそばに立っている。足音はしなかった。

 

「何と書いてありましたか」

「読めるほど残っていません」

「少しも?」

「第三子。女児。母君の希望。幼名。その程度です」

 

 少女は黙った。

 

 表情は変わらない。

 だが、燭台の火が少しだけ小さくなった。

 

 リディアは布と紙片を小箱に戻そうとして、ふと思い直した。布だけを手に取り、机へ戻る。

 

「今日は、これを使いましょう」

「それを?」

「はい。途中の文字を見て、続きを考える練習です」

 

 少女は椅子に座る。

 リディアは紙に大きくEと書いた。

 

「この文字から始まる名前や言葉は、たくさんあります。エレナ、エミリア、エリサ、エーファ」

 

 少女は黙って聞いている。

 リディアはペンを止めた。

 

 まだ言っていない名が、喉の奥で引っかかっている。

 なぜ、それを言おうと思ったのかはわからない。

 刺繍の糸の曲がり方か。紙片の滲み方か。あるいは、少女がこちらを見る目か。

 

 リディアは静かに続けた。

 

「エルゼ」

 

 ぱきり、と音がした。

 窓ガラスが割れたわけではない。音の発生源は、壁だった。

 

 白い壁に刻まれていた薄い封印紋の一部が、細く割れている。

 扉の向こうで、グレアムが激しく動く気配がした。

 

「クロウ嬢」

 

 少女は、息をしていなかった。

 少なくとも、リディアにはそう見えた。

 

 灰色の目を見開き、唇をわずかに開けたまま、リディアを見つめている。

 リディアは、自分の声が部屋の中にまだ残っているように感じた。

 

 エルゼ。

 

 ただ、名前の候補の一つとして口にしたはずだった。

 だが、部屋はそう扱わなかった。

 

 燭台の火が揺れる。窓の霜が一斉にほどける。花瓶の白い花の縁から、凍っていた水滴が落ちた。

 

 ぽたり、と机に音がする。

 

 少女の目からも、同じように一粒、涙が落ちた。

 

 リディアは動けなかった。

 

 少女は泣いているのに、顔を歪めていない。声も上げていない。ただ、何か長いあいだ止まっていたものが、ようやく流れ出したように、静かに涙を落としている。

 

「……それ」

 

 少女が言った。

 

「もう一度」

 

 扉が強く叩かれる。

 

「クロウ嬢、やめなさい」

 

 グレアムの声は、昨日より明らかに切迫していた。

 リディアは答えない。

 少女を見ていた。

 

「先生」

 

 少女は、両手を机の上で握りしめている。

 

「もう一度だけ」

 

 これは危険だ。

 リディアの理性はそう告げていた。

 

 名前を呼ぶだけで封印が割れた。部屋の魔力が動いた。グレアムが止めている。だが行き過ぎれば、契約書の項目にも触れるかもしれない。

 

 それでも、リディアは思った。

 この子は今、命令しているのではない。

 

 乞うている。

 

 リディアは、ゆっくりと口を開いた。

 

「エルゼ様」

 

 今度は、部屋全体が震えた。

 床の下から、低い音が響く。壁の封印紋に光が走り、いくつかの線が砕けるように消えた。燭台の火が高く伸び、それから穏やかな金色に戻る。

 

 そして、ずっと白く塞がれていた窓の霜が、中央から溶けた。

 

 初めて、外の庭が見えた。

 

 灰色の空。濡れた木々。遠くの本邸の塔。

 

 少女は椅子から立ち上がった。

 

 ふらつくように一歩、窓へ向かう。リディアは思わず手を伸ばしたが、少女は倒れなかった。

 

 彼女は窓の外を見た。

 

 長い間、息を忘れたように。

 

 それから、自分の手を見る。

 

「エルゼ」

 

 少女が、自分でその音をなぞった。

 その瞬間、空気が少し歪んだ。

 少女は小さく息を呑み、喉を押さえる。自分で言うことは、まだ難しいらしい。名前そのものが、彼女の中で行き場を探して暴れているようだった。

 

 リディアは近づきすぎない距離で立ち止まった。

 

「無理におっしゃらなくて結構です」

「でも」

「今は、私が呼びます」

 

 言ったあと、リディアはその重さに気づいた。

 今は、私が呼ぶ。

 

 それは授業の一環ではなかった。慰めだけでもなかった。名を持たない少女に対し、仮の名を置く行為だ。

 

 正式な命名儀礼ではない。

 証人もいない。家長の承認もない。家紋帳への記載もない。

 

 けれど、まったく何もないわけでもない。

 命名官の血を引くリディアが、意思をもって、その名で呼んだ。名付けではない。だが、眠っていた名前を起こした。

 

 少女は振り返った。

 涙の跡が頬に残っている。

 

「先生は」

「はい」

「私を、そう呼んでくださるのですか」

「授業の間の仮の名として、です」

 

 言いながら、リディアは線を引いた。

 ここで曖昧にしてはいけない。

 正式名ではない。解決ではない。これはまだ、授業のための仮の名だ。

 

「仮の名」

「はい。あなたが嫌なら、別の名を考えます」

「嫌ではありません」

 

 答えは早かった。

 

「嫌では、ありません」

 

 少女はもう一度言った。

 大事なものを両手で包むように、言葉は繰り返された。

 

 扉が乱暴に開いた。

 グレアムが入ってくる。顔色は蒼白だった。後ろには侍女が二人、さらに年配の男が一人。おそらく屋敷付きの術師だろう。全員が部屋の壁と窓を見て、言葉を失っている。

 

 窓の霜が溶けている。

 封印紋が一部、消えている。

 

 そして少女が、立っている。

 リディアは少女の前に出ることはしなかった。守るように立てば、かえって刺激する。今は、何も隠さない方がいい。

 

 グレアムが低い声で言った。

 

「クロウ嬢。あなたは、何をなさった」

「授業です」

「命名に関わる旧儀礼は禁止されています」

「儀礼は行っていません。候補の名を読んだだけです」

「その結果がこれです」

「私にも予想外でした」

 

 これは正直だった。

 グレアムの視線が、リディアから少女へ移る。

 

「北の方」

 

 その呼び方を聞いた瞬間、少女の肩がわずかに強張った。

 リディアはそれを見た。

 だから、静かに言った。

 

「授業中は、エルゼ様とお呼びします」

 

 部屋が、再び低く震えた。

 

 今度は凍るような震えではない。閉じ込められていたものが、内側から返事をしたような感覚だった。

 グレアムの顔がさらに白くなる。

 

「あなたは意味を理解していない」

「理解したいので、ご説明を」

「説明する前に、撤回なさい」

「何をですか」

「その名を」

 

 リディアは少女を見た。

 エルゼは黙っている。だが、灰色の目はリディアから離れない。先ほどの涙はもう止まっていた。代わりに、ひどく静かな集中が宿っている。

 

 まるで、リディアが次に何を選ぶかを見届けようとしているように。

 リディアはグレアムへ向き直った。

 

「撤回はしません」

「クロウ嬢」

「ただし、正式な命名ではありません。授業中の仮名です。契約に触れるというなら、公爵閣下に確認を取ってください」

 

 グレアムは唇を引き結んだ。

 怒りよりも、恐怖に近い表情だった。

 

「……本日の授業は中止です」

「まだ時間が残っています」

「中止です」

 

 リディアは反論しようとして、やめた。

 今、押し切っても得るものは少ない。これ以上グレアムを追い詰めれば、明日から離れに入れなくされるかもしれない。

 

 鞄を手に取る。

 エルゼが一歩、こちらへ出た。

 

「先生」

 

 初めて、彼女が声に縋るような響きを混ぜた。

 リディアは振り返る。

 

「明日も参ります」

「本当に?」

「ええ」

 

 エルゼは唇を震わせた。

 

「名前は」

「授業の間は、エルゼ様とお呼びします」

 

 エルゼは一度だけ、目を閉じた。

 それは祈りのようにも、約束を飲み込むようにも見えた。

 

「待っています」

 

 昨日と同じ言葉だった。

 だが、意味は少し違って聞こえた。

 

 リディアは礼をして、部屋を出た。

 白い廊下に出た瞬間、背後で扉が閉じられる。鍵がかかる。血鍵の封印が再び淡く光る。

 

 だが、完全には閉じていない。

 扉の下の隙間から、細い金色の光が漏れていた。

 

 リディアはそれを見つめる。

 グレアムが低く言った。

 

「あなたは、取り返しのつかないことをしたかもしれません」

「それなら、何を取り返せなくしたのか教えてください」

「名を与えるというのは、ただ呼ぶことではありません」

「ええ。知っています」

「いいえ。あなたは知らない」

 

 グレアムは離れの扉へ向かって歩き出した。

 リディアも続く。

 

 渡り廊下を戻る途中、背後から音が聞こえた。

 かすかな声。

 

 扉の向こう。白い部屋の奥。

 エルゼが、自分の名を練習している。

 

「エルゼ」

 

 声は震え、途中で途切れた。

 もう一度。

 

「エルゼ」

 

 まだ不安定だった。

 それでも彼女は、諦めなかった。

 リディアは足を止めかけたが、止めなかった。

 

 今戻れば、グレアムに遮られるだけだ。

 だから歩き続ける。

 背後で、また一つ、封印紋がひび割れるような音がした。

 

 グレアムが肩を震わせる。無言のまま、ただ足を前に突き出している。

 リディアは振り返らず、胸の奥でその音を覚えた。

 

 自分は今日、ただ名を呼んだだけではない。

 

 閉ざされていた何かを開いた。

 まだ、それが扉なのか、檻なのか、傷口なのかはわからない。

 

 けれど、白い部屋の中で少女が初めて泣いたことだけは、確かだった。

 そしてリディアはもう、彼女を「北の方」と呼ぶことはできない。

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