忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
翌朝、鏡の前から青色だけが消えていた。
櫛も、髪留めも、昨夜閉じた契約法の本も、母から届いた手紙も、机の上で眠ったままだ。
なくなったのは、細い青のリボンだけ。
高価な品ではなかった。宝石や銀糸があしらわれているわけでもない。
それでも、クロウ家を発つ朝、弟が結び直してくれたものだった。
『姉上は、すぐ緩く結びますから』
生意気な指が作った結び目を思い出す。高価でないことと、大切でないことは、同じではない。
窓は内側から閉まっている。扉にも荒らされた跡はない。
公爵邸へ来て以来、使用人が机の紙一枚を勝手に動かしたこともなかった。
リディアは黒い紐で髪を結ぶ。
指先が、いつもの青を一度だけ探した。
北の離れへ持ち込んではならないもの。
血。髪。署名した紙。個人的な装身具。
昨日、エルゼという名を呼び、北棟を出た後で髪を結び直した。あの時に落とした可能性はある。
だが、誰かが拾ったのなら、なぜ届けない。
細い布一本が、閉じた屋敷のどこかからこちらを引いているようだった。
「私の青いリボンを見ませんでしたか」
北棟へ続く廊下で尋ねると、グレアムの足が止まった。
「いいえ」
「昨日、北棟の前で落としたかもしれません」
「中へ持ち込みましたか」
「授業中は髪につけていました。出た後にも結び直しています」
グレアムの視線が、リディアの黒い紐へ向く。表情が固くなった。
「北の方へ確認します」
「私が尋ねます」
「お任せください」
「私の持ち物です」
「だからこそです」
グレアムは懐から血鍵を取り出した。
「身につける物には、名と体温が残ります。北の方が触れていた場合、通常の方法で取り返してはなりません」
「本人へ確かめる前に、危険物として扱うのですか」
「嘘をつかれる可能性もあります」
「その時は、嘘についても話します」
グレアムは納得していなかった。
それでも血鍵を差し込む。
一つ。
二つ。
三つ。
錠が落ちるたび、白い扉の向こうへ細い亀裂が走るようだった。
エルゼは窓辺に座っていた。昨日と同じ白いドレス。
膝には初級の契約文例集。
淡い金髪の端には、青いリボンが結ばれている。
リディアは敷居を越えたところで立ち止まった。
「おはようございます、先生」
「……おはようございます」
エルゼはリディアの髪を見る。
「今日は黒いのですね」
「紐が黒いだけです」
「昨日の方がきれいでした」
何事もなかったように教本へ視線を戻す。
窓から入る冬の光が、青い布のほつれを照らしていた。
「それは、私のものですね」
頁をなぞっていた指が止まる。
「はい」
「どこで拾いましたか」
「先生のお部屋です」
落としたのではなかった。
「客室へ入ったのですか」
「影に取ってきてもらいました」
エルゼは椅子の足元を見る。
朝の光の中、そこだけ夜をこぼしたような影がたまっていた。
昨日、名を呼ばれた時に起きた異変は、制御を失った余波に見えた。
今は違う。
エルゼは欲しいもののために、自分で力を使った。
「私の許可なく?」
「貸してくださらないと思ったので」
「だから黙って取った」
「はい」
返事は澄んでいた。
北の離れに鎖されていても、エルゼは驚く程に聡明だった。残された本からある程度の文字を学び、知識を得ている。当然、善悪についても。
わかった上で、自分の望みを優先した。
「返してください」
リディアが手を差し出す。
エルゼは髪のリボンへ触れた。
「嫌です」
「あなたのものではありません」
「はい、先生のものです」
「わかっているなら、返せるでしょう」
「先生のものだから、持っていたいのです」
青い布を撫でる指は、大切なものを扱うように繊細に動いた。
「これがあれば、先生が本当にいるとわかります」
「私は毎日、授業へ来ています」
「帰った後はいません」
「翌日には来ます」
「来ないかもしれません」
「契約があります」
「契約があっても、人はいなくなります」
恨みも涙もない声だった。
天気の話をするような一言の後ろに、いくつもの不在が並んでいる。
乳母。術師。教師。
北棟へ入り、二度と戻らなかった誰か。
その数を、リディアは知らない。
だが、不在を恐れることと、今いる人間から選択を奪うことは別だった。
「不安でも、人の物を勝手に取ってはいけません」
「返すつもりでした」
「いつ?」
エルゼは黙った。
「私が気づかなければ、返さなかったのですね」
「先生は気づきます」
「気づかなければ?」
「必要ではなかったということです」
割れた鏡の中では、筋が通っている。
気づかない。
使わない。
ならば必要ではない。
必要でないなら、自分が取ってよい。
「エルゼ様」
名を呼ぶと、灰色の瞳が明るくなった。
「私に必要かどうかは、私が決めます」
「私の方が大切にできても?」
「それでもです」
「捨てようとしていても?」
「捨てるかどうかも、私が決めます」
エルゼは納得していない。
瞳の奥で、いくつもの反論が組み上がっている。
それでもリディアは、差し出した手を引かなかった。
「返してください」
「一つだけ」
「何です」
「探している間、私のことを考えましたか」
「ええ」
「ずっと?」
「見つけるまでは」
エルゼの唇がほころぶ。
「では、持ってきてよかったです」
リディアは手を下ろした。
欲しかったのは布だけではない。
探させたかったのだ。
なくした理由を考えさせ、疑わせ、ここまで来させるために。
「よくありません」
「先生は私を考えました」
「盗まれたからです」
「理由は何でも」
「何でもよくありません」
リディアは言葉を切った。
「今日の授業は終わりです」
エルゼの微笑が消える。
「……まだ始まっていません」
「始められる状態ではありません」
「返せば?」
「返却は取引ではありません。返しても、今日は帰ります」
青い結び目をつまんだ指が固まった。
「返さなければ?」
「グレアム殿と術師を呼びます」
窓硝子が細く鳴る。
隅から生まれた霜が、白い枝を一本伸ばした。
「私より、リボンが大切なのですか」
「比べていません」
「私を置いて帰るのに」
「あなたと授業を続けるために、守らなければならない線があります」
「線?」
「私の客室へ影を入れない。私物へ無断で触れない。持ち出さない」
「先生と私の間に?」
「ええ」
「嫌です」
「それでも必要です」
エルゼがリボンを握る。
青い布が、白い指の中で潰れた。
「必要ありません。……先生は、私の名前を見つけました」
「あなたの名前です」
「先生のものでは?」
「違います」
間を置かずに答えた。
エルゼの表情が固まる。
窓に伸びた霜も、そこで止まった。
「私が呼んでも、あなたの名前はあなたのものです」
「では、先生の名前は?」
「私のものです」
「リボンも?」
「私のものです」
「先生ごと?」
幼い問いに似ていた。
だが、その瞳は笑っていない。
「先生ごと、先生のものなのですか」
「ええ」
リディアは答えた。努めて冷静に、感情の色を排して。
「私について決めるのは、私です」
長い沈黙が落ちる。
エルゼは、自分の知らなかった法則を信じるべきか測るように、リディアを見ていた。
やがて、髪からリボンをほどく。
青い布が金髪を滑り、細い水のように掌へ落ちた。
エルゼは立ち上がる。
一歩。
もう一歩。
リディアの前まで来たところで、手を止めた。
「触れてもよいですか」
「どこへ?」
「先生の手に」
初めて、先に許可を求めた。
リディアは掌を開く。
「渡すだけなら」
「はい」
青いリボンが置かれる。
エルゼの指先は触れなかった。
「返しました」
「ええ」
「授業は?」
「今日は終わりです」
灰色の瞳が曇る。
それでも、リボンを取り戻そうとはしない。
「明日は、来てくださいますか」
「影を客室へ入れないこと。持ち物へ無断で触れないこと。欲しい時は、先に尋ねること。それを守れるなら来ます」
「断られたら、どうすれば良いのですか」
「嫌だと言うことはできます。勝手に取ることはできません」
「もう一度お願いするのは?」
「相手を困らせるために繰り返すなら、お願いではありません」
「何回からですか」
「回数で抜け道を作らないでください」
エルゼは不満そうに唇を結んだ。
「難しいです」
「簡単な方法で、他人のものを取ろうとするからです」
リディアは受け取ったリボンを握る。
布の内側に、硬いものが触れた。縫い目や結び目ではない。
光へかざす。
青い繊維の間を、細い金色の線が這っている。
蔓のように絡まり、その端には文字の一部が沈んでいた。
リディア。
自分の名だった。
「これは何です」
「印です」
エルゼは目を逸らさない。
「何の印ですか」
「リボンの場所がわかります」
「私が持っていれば、私の動きも?」
「公爵邸の封印を通った時だけです」
「場所がわかるだけですか?」
「はい。……北棟から離れたこと。本邸へ入ったこと。邸の外へ出たこと。戻ったこと」
「部屋や会話は?」
「わかりません」
答えは明確だった。
名前の残響は、存在の気配だけ。
この印は、公爵邸の封印を通った痕跡だけを拾う。
心も読めない。
邸の外まで影が追うわけでもない。
それでも、無断で結ばれた線だった。
「消してください」
「消し方を知りません」
「つけられたのに?」
「影の中で、先生の名前を書きました」
「何が起きるかも知らずに?」
「はい。先生が帰らないように」
「帰れなくする印なのですか」
「違います」
エルゼは首を振る。
「帰ったことを知るためです」
「知って、どうするつもりでした」
返事はない。
「影を向かわせる?」
「邸の外までは届きません」
「では、何を」
「待ちます」
エルゼは青いリボンを見る。
「戻ったことがわかれば、待った時間が無駄ではなくなります」
連れ戻すためではない。逃げ道を塞ぐためでもない。
戻ったという結果を知るために、リディアの名と持ち物を勝手に結んだ。
リディアにはそれが、いじらしさに見えていた。しかし、許してはならない。
「知りたいことと、知ってよいことは別です」
「別?」
「私がどこへ行き、いつ帰るか。それを知らせる相手は、私が決めます」
「先生は教えてくれません」
「尋ねましたか」
「帰ると言われるのが嫌でした」
「……だから、答えを聞かずに確かめる方法を作った」
「はい」
恐れた答えを聞かないために、相手の選択だけを覗く。
エルゼにとって、印はつながりなのだろう。
だが、その線を結ぶ手を選べるのは、彼女だけではない。
「このリボンは封印します」
エルゼの顔が曇る。
「髪につけないのですか」
「印が残っています」
「先生のお部屋へ?」
「グレアム殿へ預けます」
「嫌です。私の印です」
「私のリボンです」
エルゼが口を閉じる。
先ほど教えた境界へ、自分の言葉でぶつかった。
「解除方法を調べます」
「消したら、先生が戻ったこともわかりません」
「必要なら、私が伝えます」
「毎日?」
「約束はしません」
「では、明日だけ」
「今日決めたことを守れば、授業には来ます」
「先生として?」
「ええ」
「それ以外では?」
「今は、その話をしていません」
エルゼは眉を寄せた。
それでも問いを重ねず、リディアが扉へ向かうのを見ていた。
「先生」
「何です」
「そのリボンを、いつかいただけますか」
「これを?」
「はい。先生のものだから」
同じ理由だった。
だが今度は、手を伸ばす前に尋ねている。
「差し上げません」
落胆が、はっきりと顔へ出る。
「嫌です」
「嫌だと言うことはできます」
「では、先生が私へ何かをくださる日まで待ちます」
「それは、あなたが決めて構いません」
「同じ青色がよいです」
「勝手に品物まで決めないでください」
「交渉です」
「では、交渉は終わりです」
「……はい」
ようやく引いた。
リディアが扉を開ける。
廊下にはグレアムが立っている。
影は敷居を越えない。
エルゼも追ってこない。
「先生」
閉じかけた扉の奥から、声だけが届く。
「影を、もう先生のお部屋へ入れません」
「……許可なく持ち物へ触れることも」
「しません」
「印で確かめることも」
少しの間。
「リボンが封印されている間は、できません」
「できるかどうかではなく、しないでください」
「……はい」
「また明日」
エルゼはすぐには答えなかった。
授業には来る。
それ以上ではない。
言葉の範囲を測っているのだろう。
「はい」
やがて、白い扉の向こうで答えた。
「また明日、先生」
青いリボンを見るなり、グレアムは顔をしかめた。
「北の方が?」
「客室から持ち出し、名前の印をつけました」
「焼却します」
「解除方法を調べてください」
「布一本のために?」
「私のものです」
リディアが答えると、グレアムは黙った。
厚い灰色の封印布を広げ、青いリボンを中央へ置く。
銀糸で口を縫い閉じるたび、金色の線が布の奥でかすかに瞬いた。
「旧式の術です」
「今の術師団では消せませんか」
「リボンだけについているのではありません」
グレアムは封印袋を持ち上げる。
「北棟が記憶した、あなたの名へ絡んでいます」
「完全に切るには?」
「北の方本人か、旧命名施設の術式を理解する者が必要です」
「封印中の危険は」
「位置を読まれることはありません」
グレアムは袋を木箱へ収めた。
「本人が解除法を学べば、自分で切らせるのが最も確実でしょう」
「その方法を教えるのですか」
「あなたが教えるのでしょう」
皮肉か、事実か。
判然としない声だった。
リディアは、髪を結ぶ黒い紐へ触れる。
取り戻してなお、青いリボンはしばらく戻らない。
自分の意思で、線を切るまで封じた。
北の離れでは今日、教本が開かれることはなかった。
それでも、授業は行われた。
リディアのことは、リディアが決める。
エルゼの名前は、エルゼのもの。
二人の間に引かれる線は、どちらか一人の手だけでは結べない。
エルゼは、不満を抱いたままでもリボンを返した。
初めて許可を尋ねた。信頼にはまだ遠い。
境界を扉だとするならば。
エルゼは今日初めて、壊さずに取っ手へ触れたのだった。
リディアは深く息を吐いた。