忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
青いリボンを封じた翌朝、リディアは本邸へ呼び出された。
差出人はヴァレンシュタイン公爵。
契約書と北の離れの錠前では、何度も目にした名だった。本人に会うのは初めてである。
リディアは黒い紐で髪を結んだ。
用は足りている。
それでも鏡の中には、青色の抜けた場所だけが妙に明るく見えた。
本邸の廊下には厚い絨毯が敷かれ、窓辺には季節外れの薔薇が飾られていた。北棟にはない香りだった。
「リディア・クロウ嬢をお連れいたしました」
グレアムが執務室の扉を開く。
机の向こうに、鉄灰色の髪をした男が座っていた。
装飾らしいものは、右手の当主印だけ。細身の顔には、刃物を使い続けて薄くなったような静けさがある。
ヴァレンシュタイン公爵だった。
窓辺には、銀色のドレスをまとった若い女性が立っている。
灰金色の髪。胸元には、家督を継ぐ長女の紋章。
クラリッサ・フォン・ヴァレンシュタイン。
その灰色の瞳だけが、北棟の少女を思わせた。
「お掛けなさい」
公爵が言った。
リディアが席へ着くと、机上の報告書が一枚めくられた。
「あれが、あなたの客室から私物を持ち出したそうだな」
「エルゼ様、とお呼びしております」
紙を押さえていた指が止まる。
「正式な名ではない」
「ご本人が応答なさいます」
「だから問題なのだ」
公爵の声は低いままだった。
「名を呼ばれて以降、北棟の外へ力が届いている」
「……以前は、影を使えなかったのでしょうか」
グレアムが答える。
「北棟内では確認されております。本邸の客室へ干渉した記録はございません」
「印からわかるのは、リボンが邸内の封印を通ったかどうかだけです」
「その説明を信じるのか」
「確かめられないため、封印しました」
公爵の視線が、リディアの黒い髪紐へ移る。
「かばうのか、警戒するのか。どちらだ」
「どちらも必要と存じます」
「器用な答えだな」
「危険であることと、言葉を聞かなくてよいことは別です」
「ふん。家庭教師が板についている」
暖炉の熱で、薔薇の香りが濃くなった。
公爵は反論の代わりに皮肉を零し、古い記録を開いた。
「五歳の時、乳母が辞職を申し出た。病気の子供を看病するためだ」
視線を記録に落としたまま、公爵が息を吐く。つかの間の沈黙は、躊躇に似ていた。
「別れを告げた夜、北棟が凍った。乳母と使用人二名は朝まで出られず、乳母は指を二本失った」
「意図して?」
「本人は、帰ってほしくなかったとだけ話した」
頁の端には、長い年月を吸った黒い染みがあった。日焼け、カビ、湿気、垢。
「その後、力の扱いを教えたのですか」
「術師をつけた」
「では、別れ方を教える者は?」
公爵が顔を上げる。
「名も定まらない子供へ、通常の教育ができたと思うのか」
「できないと決めたのですね」
返事はわかっていた、とばかりに公爵は口を噤む。
次の頁が開かれた。
「十歳の時、記録官が削除前の資料を見つけた。残された頭文字を読もうとした瞬間、主紋室の硝子が割れ、西側の封印が止まった」
「エルゼ様ご自身は何処に?」
「北棟にいた」
焼けた記録に残っていた、Eの文字。
音になりかけただけで、本邸の紋章が応じた。
「ヴァレンシュタインの封印は、血と名につながっている」
公爵は記録を閉じた。
「血だけでも強すぎた。名まで完成すれば、何が起きるかわからない」
「そのために、第三子の記録を削除したのですか」
「主紋への接続を防ぐためだ」
「存在まで隠して?」
「家を守るために必要だった」
公爵の声には、弁明らしい揺れがなかった。
正しかったと言っているのではない。
もう一度同じ夜が来れば、同じ扉を閉めると言っていた。
「十五年間も、でしょうか」
窓辺から、初めてクラリッサの声がした。
静かな声だったが、薔薇の茎を切る鋏のようによく通った。
「ほかの方法は、一度も見つからなかったのですか」
「お前は当時を知らない」
「覚えていないだけです」
クラリッサの指が、袖口で重なる。
「母上の遺品まで封じる必要があったことも、私は知りません」
「今は関係がない」
「名前を調べるのであれば、母上の記録も必要ではありませんか」
「……許可しない」
「次期当主である私にも?」
「だからこそだ。どうしてもと言うのなら、私を席から退かすことだな」
それきり、クラリッサは黙った。
リディアは机の脇に広げられた領地図へ目を向けた。
公爵領の北端だけが灰色に塗られている。
そこには本家の鷲と冠ではなく、片翼の鷲が描かれていた。
北方封印領。旧命名庫付属地。
「こちらは?」
「百年以上前に閉鎖された土地だ」
「片翼の鷲は、傍系紋でしょうか」
「途絶えた家のものだ」
「閉鎖の理由をお尋ねしても?」
「封印事故だ」
「主紋との接続が原因ですか」
公爵は答えず、地図を畳んだ。
「関係のない記録を探るべきではない」
「関係がないかどうかは、調べなければわかりません」
「あなたは家庭教師だ」
「命名官家の者でもございます」
「正式な任官はない」
「知識まで失ったわけではありません」
公爵はしばらくリディアを見た。
「あなたを雇ったのは、失敗だったかもしれないな」
「分かっていたのでは? わざわざ、クロウ家の娘を呼び立てたのは閣下です」
「あれが、ほかの候補者を拒んだからだ」
「候補者を?」
リディアは身を動かさなかった。
だが、机上の薔薇の香りが、一段濃くなったように感じた。
「エルゼ様は、私が来る前から私を知っていたのですか」
「強く拒まなかっただけだ」
「同じことではありません」
「あれに選ばれたからといって、自分だけは制御できると思うな」
公爵が口を閉じる。
クラリッサの視線が、父へ向いた。
「選ばれた、とは?」
「本日の議題ではない」
「私の仕事に関わります」
「必要なら後日、記録を見せる」
公爵はグレアムへ顔を向けた。
「北棟へ持ち込む物品の検査を増やせ。クロウ嬢の客室にも防護紋を追加する」
「内容を確認してからにしてください」
リディアが言った。
「安全のためだ」
「私の名や私物へ作用するのであれば、事前に説明を」
「ここはヴァレンシュタイン公爵邸だ」
「契約中、客室は私へ貸与されています」
リディアは黒い髪紐へ触れた。
「所有者へ黙って印をつけてはならないと、私は昨日エルゼ様へ教えました」
机の向こうの公爵を見る。
「公爵家だけを例外にはできません」
短い沈黙の後、公爵がグレアムへ命じた。
「……機能を文書にし、署名を得てから設置せよ」
「承知いたしました」
譲歩というより、損失を避ける判断だった。
それでも、同意は残った。
「北棟の授業は続けます」
「名を呼ぶ回数は控えなさい」
「授業上の必要に応じて判断いたします」
「力を強めるかもしれない」
「名前を褒美や罰にはいたしません」
公爵は、それ以上何も言わなかった。
執務室を出たところで、リディアは肺から息を吐き出した。男爵令嬢が公爵家当主に取っていい態度ではない。全く冷静を保てなかった己に呆れ返る。無礼討ちされても驚きはなかった。
廊下を歩き始めたところで、クラリッサが追いついてきた。
「クロウ嬢」
近くで見ると、エルゼとの類似は瞳だけではなかった。
口元も、相手との距離を測るような立ち方も似ている。
「先ほどは、ご挨拶もできませんでした」
クラリッサは一礼した。
「クラリッサ・フォン・ヴァレンシュタインと申します」
「リディア・クロウです」
「存じております」
「私の記録を?」
「家庭教師が決まった際、概要だけ確認しました」
「エルゼ様もご覧になったのでしょうか」
「わかりません。父上からは、あの方が候補者を拒んだとだけ」
「あの方、とお呼びになるのですね」
クラリッサの視線が、廊下の先へ逃げた。
「名前を口にするなと教えられてきましたので」
「妹君の名前でも?」
「一度も姉であったことのない人間に、何を名乗れとおっしゃるのですか」
言葉は冷たかった。
ただ、刃先はリディアではなく、クラリッサ自身へ向いているように見えた。
「母君が何と呼んでいたか、知りたくはありませんか」
「知りたいとは思います」
その答えだけは早かった。
「私と次女の出生記録は、母上の遺品にあるはずです。三人目のものも、残っているかもしれません」
「お調べになるのですか」
「まだ、決めておりません」
窓の向こうに、硝子張りの温室が見えた。
整えられた赤い薔薇が、遠目には一つの大きな傷のように並んでいる。
「近いうちに、あちらでお茶をご一緒いただけませんか」
「私と?」
「父上の執務室では、話しにくいこともございます」
クラリッサの目が、リディアの黒い髪紐へ下りる。
「青いリボンの件も、詳しく伺いたいのです」
「報告書をお読みになったのですか」
「机に開かれておりました」
「公爵家では、私物の話がよく共有されるのですね」
「ですからこそ、別の場所でお話ししたいのです」
クラリッサは薄く笑った。
「温室へ入るには通行印が必要です。正式な招待状をお送りします」
「日時を確認してから、お返事いたします」
一瞬だけ意外そうな顔をした後、クラリッサは頷いた。
「承知いたしました」
彼女が去った後にも、薔薇の香りが残った。
北の離れへ入ると、エルゼは最初にリディアの髪を見た。
「今日も、青くないのですね」
「リボンは封印中です」
「グレアムが持っているのですか」
「ええ」
「ほかの方に触れさせたのですね」
「持ち主は私です」
昨日の言葉を返すと、エルゼは口を閉じた。
「影は、先生のお部屋へ入れておりません」
「持ち物にも?」
「触れていません」
「では、私の名前を探ることは」
「屋敷にいらっしゃる気配は、少し感じました」
エルゼは正直に答えた。
「ですが、追ってはいません」
「わかりました」
リディアが向かいへ座ると、エルゼがわずかに身を乗り出した。
「先生から、薔薇の香りがいたします」
「本邸に飾られていました」
「どなたとお会いになったのですか」
「公爵閣下と、クラリッサ様です」
「父上と、姉上」
二つの呼び名を、エルゼは静かに転がした。
「先生のお名前を、お呼びになりましたか」
「ええ」
「何度でしょう」
「覚えていません」
「思い出していただけませんか」
「なぜです」
「知りたいのです。多いほど、嫌ですから」
リディアは記憶をたどった。
「クラリッサ様は、二度ほどでしょうか」
「二度」
エルゼは鉛筆を取り、紙へ二本の線を引いた。
「私の名前は?」
「最初は『あの方』と。その後は、名前を避けていました」
エルゼは二本の線を見下ろす。
「先生のお名前は二度。私の名前は、一度も」
「呼ぶことを禁じられて育ったそうです」
「先生は、すぐにお呼びくださいました」
「私は姉ではありません」
「姉なら、もっと簡単なはずです」
「血縁が、必ず人を近づけるわけではありません」
「私が怖いのでしょうか」
「そうかもしれません」
「嫌いだから?」
「ご本人にしかわかりません」
鉛筆の先が、二本目の線をなぞった。線が太くなる。
「私は、姉上が嫌いです」
「そうですか」
「いけないとは、おっしゃらないのですね」
「感情を禁止することはできません」
「では、もう姉上とはお会いにならないでください」
「それはお断りします」
エルゼが顔を上げる。
「なぜですか」
「誰と会うかは、私が決めます」
「私は嫌です」
「そのお気持ちは伺いました」
「それだけですか」
「聞くことと、従うことは別です」
エルゼは紙の端を押さえた。
「姉上は、先生を連れていきますか」
「私は持ち物ではありません」
「ですが、温室へ行かれるのでしょう」
「招待状が届く予定です。行くかどうかは、その後で決めます」
机の下の影が、墨を一滴落としたように濃くなった。
それ以上は広がらない。
「行っていただきたくありません」
「ええ」
「姉上が先生のお名前を呼ぶことも、知らないお話をなさることも」
エルゼはリディアの袖を見る。
「その香りをつけてお戻りになることも、嫌です」
「言葉で伝えられましたね」
「伝えれば、行かないでくださいますか」
「お約束はできません」
灰色の瞳を、薄い翳りが横切る。
「招待状へは触れないでください」
リディアが言った。
「まだ届いておりません」
「届いた後もです。異常を感じた時は、先に知らせてください」
「お知らせすれば、渡してくださいますか」
「内容によります」
「お断りになるかもしれない」
「ええ」
「難しいです」
「昨日も聞きました」
「今日も難しいのです」
エルゼは二本線の紙を裏返した。
消したのではない。
見えなくしただけだった。
「先生」
「何ですか」
「私の名前を呼んでいただけませんか」
「なぜでしょう」
「姉上が、先生のお名前を二度お呼びになったからです」
「名前は交換するものではありません」
「では、私が嫌だから」
「不満を鎮めるための褒美にもいたしません」
リディアは教本を開き、最初の行を示した。
「授業には必要です」
それから、少女を見る。
「エルゼ様。こちらを読んでください」
灰色の瞳から、薄い翳りが引いていく。
「はい、先生」
エルゼは鉛筆を持ち直した。
裏返された紙には、二本の線が残っている。
忘れたわけではない。許したわけでもない。
それでも、今は影ではなく文字へ手を伸ばしている。
北の離れに薔薇はない。
だが、本邸から持ち帰った香りは、まだリディアの袖に残っていた。
名前なら線を引いて数えられる。
香りには、まだ数え方がなかった。