忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第六話 見えざる手

 

 クラリッサの招待状は、朝のうちに届いていたらしい。

 リディアがそれを知ったのは、昼食を終えた後だった。

 

「本日の茶会には、こちらをお召しくださいませ」

 

 本邸から来た侍女が、淡い灰色の外套を差し出す。

 

「茶会、ですか」

「クラリッサ様より、ご招待状を差し上げたと伺っております」

 

 リディアは手を止めた。

 

「受け取っておりません」

 

 侍女の顔に、薄い戸惑いが差す。

 

「朝の鐘より前に、客室係へお渡ししております。温室の通行印がございますので、必ずクロウ様ご本人へ、と」

「客室にはありませんでした」

「ただちに確認してまいります」

 

 扉が閉じる。

 窓の外には、北の離れへ続く屋根が並んでいた。灰色の空の下、雪を待つ獣の背のように沈んでいる。

 

 昨日、エルゼは言った。

 

 招待状が届いた時、もう一度考えると。

 触れたくなれば、先に知らせると。

 守るとは約束しなかった。

 

 だが、約束できないことを、できるふりもしなかった。

 リディアは椅子を離れた。

 

     

 

 北棟へ向かう途中で、グレアムと行き会った。

 

「クラリッサ様からの招待状をご存じですか」

「今朝、客室へ届けられたはずですが」

「届いておりません」

 

 グレアムの目が、北へ続く廊下を測る。

 

「客室係を調べましょう」

「その前に、エルゼ様へ伺います」

「北の方をお疑いになるのですか」

「疑わずに済む材料がありません」

「影を使わないと約束されたのでは」

「私の客室には、という話でした。届く直前であれば、もしくは」

 

 グレアムの口元がわずかに硬くなる。

 

「同じ意味ではございませんか」

「エルゼ様にとって、言葉の境目は扉の隙間ほど重要です」

 

 詭弁を認めるつもりはない。

 ただ、していない約束を破ったことにはできない。

 

 三つの鍵が、順に外された。

 

     

 

 白い扉の向こうで、エルゼは机に向かっていた。

 紙には、家系記録で用いる敬称が整然と並んでいる。

 その隣だけが、不自然なほど空いていた。

 

「先生」

 

 エルゼはリディアの顔を見て、鉛筆を置いた。

 

「何かございましたか」

「クラリッサ様から、招待状が届いたそうです」

 

 エルゼは何も言わない。

 

「私の客室にはありませんでした」

「はい」

「お持ちですね」

「はい」

 

 否定はしなかった。

 エルゼは足元の影へ手を沈める。

 黒い水面から引き上げるように取り出したのは、白い封筒だった。

 

 青灰色の封蝋。

 クラリッサの鷲紋。

 縁には、温室区画へ入るための銀の通行印が走っている。

 

「返してください」

「その前に、こちらをご覧ください」

 

 エルゼは封筒を机へ置いた。

 銀線へ指を近づける。

 

 すると通行印の下から、髪の毛ほど細いもう一本の線が浮かび、濡れた灰のように黒ずんだ。

 

「重ねてあります」

「何の印ですか」

「先生が通った封印を記録するものです」

「……居場所を追うものでしょうか」

「正確な場所までは測れないと思います。客室を出たこと、温室へ入ったこと、本邸へ戻ったこと。ただその順番が残ります」

「精密な印ですね。よく隠されています。簡単に気づけるようなものではないように思えますが」

「ヴァレンシュタインの主紋で編まれているからです」

 

 エルゼの指先が、銀線の上をたどる。

 

「この離れも同じ紋につながっています。招待状が近くを通った時、余分な糸が触れました」

「客室から取ったのではないのですね」

「廊下で、影に拾わせました」

「私へ知らせずに」

「はい」

 

 客室には入っていない。まだリディアの手へ渡る前だった。

 言い逃れに使える違いを、エルゼは改めては口にしなかった。

 

「なぜ、先に知らせなかったのですか」

「お伝えしても、先生は姉上に確かめに行かれます」

「その可能性はあります」

「ですから、隠しました」

「私を守るために?」

「それもございます」

 

 事前に用意された理屈のようだった。

 そして用意していた言葉の奥には、別のものを残している。

 

「それだけではないのですね」

 

 エルゼの視線が、封蝋へ落ちる。

 

「先生に、姉上のところへ行っていただきたくありませんでした」

「昨日、伺いました」

「姉上は先生のお名前を呼びます。薔薇の香りもつけます」

 

 白い指が封筒の縁を押さえる。角はしっかりと立っている。

 

「ですが、招待状をお探しの先生は、私のことだけを考えてくださいます」

 

 声は静かだった。

 青いリボンの時と同じだ。

 

 なくした物を探す間。隠した者を疑う間。

 リディアの意識には、エルゼしかいなくなる。

 

「それが、お好きなのですか」

「はい」

「私を怒らせても?」

「後で、お許しいただけるのであれば」

「私が許すと、先に決めないでください」

 

 言葉が落ちると、エルゼの指が止まった。

 

「……いつ返すつもりでしたか」

「茶会の時刻が過ぎてからです」

「それでは、返すことになりません。分かりますね」

「はい」

 

 エルゼの正直さは、ときに閉じた扉より逃げ道がなかった。

 

「銀の印を見つけたことには感謝します」

 

 灰色の瞳に、かすかな光が差す。

 

「ですが、知らせることと、隠すことは別です」

 

 光は細くなった。

 

「危険を知らせるなら、私を守ることになります。手紙を隠し、行けないようにするなら、私の代わりに決めたことになります」

「危険な場所へ行く方を、止めてはいけないのですか」

「行かないでほしいと伝えることはできます」

「では、行かないでください」

「伺いました」

「それでも?」

「誰が印をつけたのか、確かめなければなりません」

「姉上かもしれません」

「だからこそ、ご本人へ伺います」

「嘘をつかれるかもしれません」

「その時に判断するのも、私です」

 

 エルゼは封筒を見つめた。

 霜は下りていない。

 

「先生は、姉上を信じていらっしゃるのですか」

「信じるかどうかを決めるために、会うのです」

「私よりも?」

「順位の話ではありません」

「私は、先生の一番になりたいのです」

 

 窓辺の薄い光が、灰色の瞳に沈んでいた。

 

「一番でなければ、嫌です」

「ほかの人を見えなくしても、一番にはなれません」

 

 道を一つずつ消し、最後に自分だけを残す。

 それは選ばれることではない。

 選択肢を埋めることだ。

 

 エルゼは反論しなかった。

 

「余分な印を外せますか」

 

 リディアが尋ねる。

 

「試すことはできます」

「危険は?」

「通行印へ触れなければ、大きな反動はないかと」

「確実ではないのですね」

「はい」

「では、グレアム殿へ渡します」

 

 封筒へ伸ばしたリディアの手を、エルゼの指が遮った。

 触れてはいない。

 ただ、行く先へ白い柵を置くように手を伏せた。

 

「家令へ渡せば、招待状ごと処分されるかもしれません」

「公爵家の後継者から届いたものを?」

「先生を温室へ行かせたくない方は、私だけではありません」

 

 昨日、公爵はリディアの客室へ防護紋を追加しようとした。

 説明より先に安全を置く者は、この屋敷に一人ではない。リディアは逡巡した。

 

「余分な線だけを外せるのですか」

「北の離れの中であれば、細い紋にも触れられます」

「私が許可するまで、始めないでください」

「はい」

 

 エルゼは手を引いた。

 影も動かない。

 

 今度は、先に待った。

 リディアは二本の銀線を見比べる。

 

 このまま持っていけば、通った道が記録される。

 グレアムへ渡せば、印をつけた側へ証拠が戻る可能性がある。

 

 どちらにも、誰かの手が道の先で待っていた。

 

「余分な印だけです」

 

 リディアが言った。

 

「通行印を壊さないこと。異常を感じたら、すぐに離すこと。私が止めた時も同じです」

「承知いたしました」

 

 エルゼは封筒へ手を伸ばしかけ、止める。

 

「触れてもよろしいですか」

「ええ」

 

 人差し指が、銀の糸へ触れた。

 床の影がさざめき、封蝋の鷲が淡く光る。

 重ねられた細線が紙から浮き上がった。

 

 エルゼはそれを指先へ巻き、通行印から少しずつ剝がしていく。

 半ばを過ぎたところで、白い頬が強張った。

 

「離してください」

「もう少しです」

「エルゼ様」

 

 銀線が鳴いた。

 細い硝子が折れたような音とともに、余分な印が切れる。

 正規の通行印だけが封筒に残った。

 

 エルゼが手を引く。

 人差し指の腹が白く曇り、薄い霜に覆われていた。

 

「見せてください」

「大丈夫です」

「先ほどの指示は?」

 

 エルゼは霜のついた指を見る。傷は無いように見えた。エルゼの予測に誤りがなかったことは確かだった。

 

「守れませんでした」

「なぜです」

「途中で離せば、招待状が使えなくなるかもしれなかったからです」

「それでも、離すよう言いました」

「先生が茶会へ行けるようにしたかったのです」

 

 リディアは机の布を取り、冷えた指を包んだ。

 直接触れないよう、手首だけを支える。

 

「行ってほしくないのでしょう」

「はい」

「それでも、道を残した?」

「私が隠したままでは、先生は行かないのではなく、行けないだけですから」

 

 その言葉に、リディアの指が一瞬止まる。

 昨日まで、エルゼ自身が消していた違いだった。

 

「今は、先生ご自身に決めていただきたいと思います」

 

 細い声だった。

 保護と支配の境目を、まだまっすぐ歩けてはいない。

 

 招待状を隠した。

 止められても力を使い続けた。

 ──それでも、塞いだ道を自分の手で開け直した。

 

「……自分を傷つければ、私が残るとも思いましたか」

 

 エルゼの睫毛が下がる。

 

「少しだけ」

「傷を使って、私の答えを得ようとしないでください」

「では、言葉で尋ねれば答えてくださいますか」

「答えないこともあります」

「難しいです」

「わからないまま待つことも、必要です」

 

 布を結ぶ。

 指先には、ゆっくりと薄い赤みが戻ってきていた。

 

「痛みますか」

「少し」

「今日は影を使わず、手を休めてください」

「授業もお休みですか」

「招待状を隠したことと、指を傷めたこと。その両方のためです」

「左手なら書けます」

「休むことも授業です」

 

 エルゼの顔に、雲の影が差した。

 リディアは招待状を手に取る。

 宛名も封蝋も、正規の通行印も損なわれていない。

 

「茶会へ行かれるのですね」

「この印について、クラリッサ様へ伺います」

「行っていただきたくありません」

「ええ」

「姉上が先生のお名前を呼ぶことも、薔薇の香りをつけることも嫌です」

「伺いました」

 

 エルゼは包まれた手を胸元へ寄せる。

 影は動かなかった。

 

「それでも、止めません」

「ええ」

「手紙も隠しません。先生の後を追いません」

 

 そこで言葉を切る。

 

「戻ってきてください、とお願いすることはできますか」

「できます」

 

 リディアは白い扉を見る。いつも通りに閉ざされている。

 エルゼは毎日、この扉を眺めながら過ごしている。

 

「では、茶会が終わったら、この扉の前まで戻ります」

「中へは?」

「入りません」

「お顔も見られませんか」

「扉は開けません」

 

 エルゼの瞳に不満がよぎる。

 それでも、口を挟まず聞いている。

 

「私は扉の前で『戻りました』と言います。それ以上は約束しません」

「何時まででしょう」

「時刻は決めません」

「遅ければ、確かめたくなります」

「影も、名前の残響も、持ち物の印も使わないでください」

 

 エルゼは、ひとつずつ言葉を飲み込む。

 

「扉を開けることも?」

「しないでください」

「先生が、本当にいらっしゃるか見えません」

「声を信じてください」

 

 それは、エルゼにとって最も不得手なことだった。

 姿も。印も。

 つながった糸もないまま、相手が告げた言葉を受け取ること。

 

「……わかりました」

 

 かすかな返事だった。

 

「食事を取ること。指の感覚が戻らなければ、グレアム殿を呼ぶこと」

「はい」

「もう一つ、お願いしてもよろしいですか」

「伺います」

「姉上へ私のことを話す時、怖いだけの人だとはおっしゃらないでください」

 

 リディアはエルゼを見る。

 

「クラリッサ様にどう思われてもよいのでは?」

「構いません」

「では、なぜです」

「先生まで、そう思っているように聞こえるのが嫌なのです」

 

 エルゼは包帯の上へ視線を落とした。

 

「私は手紙を隠しました。先生を行かせたくなかったからです」

「ええ」

「銀の印から守りたかったことも、本当です」

「わかっています」

「どちらも、お話しください」

 

 きれいな理由だけを残してほしいとは言わなかった。

 

「そのつもりです」

 

 エルゼの肩から、張りつめていた糸が一本だけほどけた。

 

「昨日より、私をお嫌いになりましたか」

「その答えを得る前に、今日したことを書いてください」

「先生がお喜びになる答えを?」

「事実を」

「はい」

「招待状を見つけた場所。隠した理由。何をすべきだったと思うか」

 

 エルゼは左手で鉛筆を取った。

 白紙の上へ日付を書く。

 

 文字はいつもより歪み、細い枝が風に揺れたようだった。

 

「書き終えたら、銀鈴草を読んでください」

「先生がお戻りになるまで?」

「私のためではなく、ご自分のために」

「難しいです」

「練習です」

 

 リディアは扉へ向かう。

 

「行ってまいります」

 

 左手の鉛筆が止まった。

 エルゼは顔を上げる。

 

「行ってらっしゃいませ、先生」

 

 

 リディアが境界を渡り、白い扉が閉じる。

 三つの鍵が、順に二人の間へ下りた。

 

 廊下で招待状を開く。

 

 クラリッサの筆跡は、細く癖がない。

 

──午後の鐘が二度鳴った後。

──本邸東温室。

──北棟の処遇と、母の遺品について相談したい。

 

 内側に、別の印は見当たらなかった。

 リディアは、切れた銀線の残滓をグレアムへ示す。

 

「この印をご存じですか」

「通行経路を記録する術式に見えます」

「クラリッサ様が加えたものでしょうか」

「私には判断いたしかねます」

「公爵閣下、あるいは家令室のものでは?」

「茶会の場で、直接お確かめになるのがよろしいでしょう」

 

 否定はなかった。

 

「エルゼ様が外しました。指を冷やしていますので、感覚が戻らなければ術師を」

「ご自分を傷つけてまで、あなたを行かせたのですか」

「先に手紙を隠したのも、エルゼ様です」

「どちらを信じるおつもりです」

「どちらも事実です」

 

 リディアは招待状を外套の内側へ収めた。

 

 同じ手が、道を塞いだ。

 同じ手が、その道を開けた。

 守る手と、閉じ込める手は、別々の腕から伸びてくるとは限らない。

 

 だからこそ、何をしたかを一つずつ分けなければならない。

 

 リディアは本邸へ向かった。

 茶会の後には一度、閉じた扉の前へ戻る。

 

 本邸へ近づくにつれ、冷たい廊下へ甘い香りが混じり始める。

 温室の薔薇が、見えないところから道を知らせていた。

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