忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
クラリッサの招待状は、朝のうちに届いていたらしい。
リディアがそれを知ったのは、昼食を終えた後だった。
「本日の茶会には、こちらをお召しくださいませ」
本邸から来た侍女が、淡い灰色の外套を差し出す。
「茶会、ですか」
「クラリッサ様より、ご招待状を差し上げたと伺っております」
リディアは手を止めた。
「受け取っておりません」
侍女の顔に、薄い戸惑いが差す。
「朝の鐘より前に、客室係へお渡ししております。温室の通行印がございますので、必ずクロウ様ご本人へ、と」
「客室にはありませんでした」
「ただちに確認してまいります」
扉が閉じる。
窓の外には、北の離れへ続く屋根が並んでいた。灰色の空の下、雪を待つ獣の背のように沈んでいる。
昨日、エルゼは言った。
招待状が届いた時、もう一度考えると。
触れたくなれば、先に知らせると。
守るとは約束しなかった。
だが、約束できないことを、できるふりもしなかった。
リディアは椅子を離れた。
北棟へ向かう途中で、グレアムと行き会った。
「クラリッサ様からの招待状をご存じですか」
「今朝、客室へ届けられたはずですが」
「届いておりません」
グレアムの目が、北へ続く廊下を測る。
「客室係を調べましょう」
「その前に、エルゼ様へ伺います」
「北の方をお疑いになるのですか」
「疑わずに済む材料がありません」
「影を使わないと約束されたのでは」
「私の客室には、という話でした。届く直前であれば、もしくは」
グレアムの口元がわずかに硬くなる。
「同じ意味ではございませんか」
「エルゼ様にとって、言葉の境目は扉の隙間ほど重要です」
詭弁を認めるつもりはない。
ただ、していない約束を破ったことにはできない。
三つの鍵が、順に外された。
白い扉の向こうで、エルゼは机に向かっていた。
紙には、家系記録で用いる敬称が整然と並んでいる。
その隣だけが、不自然なほど空いていた。
「先生」
エルゼはリディアの顔を見て、鉛筆を置いた。
「何かございましたか」
「クラリッサ様から、招待状が届いたそうです」
エルゼは何も言わない。
「私の客室にはありませんでした」
「はい」
「お持ちですね」
「はい」
否定はしなかった。
エルゼは足元の影へ手を沈める。
黒い水面から引き上げるように取り出したのは、白い封筒だった。
青灰色の封蝋。
クラリッサの鷲紋。
縁には、温室区画へ入るための銀の通行印が走っている。
「返してください」
「その前に、こちらをご覧ください」
エルゼは封筒を机へ置いた。
銀線へ指を近づける。
すると通行印の下から、髪の毛ほど細いもう一本の線が浮かび、濡れた灰のように黒ずんだ。
「重ねてあります」
「何の印ですか」
「先生が通った封印を記録するものです」
「……居場所を追うものでしょうか」
「正確な場所までは測れないと思います。客室を出たこと、温室へ入ったこと、本邸へ戻ったこと。ただその順番が残ります」
「精密な印ですね。よく隠されています。簡単に気づけるようなものではないように思えますが」
「ヴァレンシュタインの主紋で編まれているからです」
エルゼの指先が、銀線の上をたどる。
「この離れも同じ紋につながっています。招待状が近くを通った時、余分な糸が触れました」
「客室から取ったのではないのですね」
「廊下で、影に拾わせました」
「私へ知らせずに」
「はい」
客室には入っていない。まだリディアの手へ渡る前だった。
言い逃れに使える違いを、エルゼは改めては口にしなかった。
「なぜ、先に知らせなかったのですか」
「お伝えしても、先生は姉上に確かめに行かれます」
「その可能性はあります」
「ですから、隠しました」
「私を守るために?」
「それもございます」
事前に用意された理屈のようだった。
そして用意していた言葉の奥には、別のものを残している。
「それだけではないのですね」
エルゼの視線が、封蝋へ落ちる。
「先生に、姉上のところへ行っていただきたくありませんでした」
「昨日、伺いました」
「姉上は先生のお名前を呼びます。薔薇の香りもつけます」
白い指が封筒の縁を押さえる。角はしっかりと立っている。
「ですが、招待状をお探しの先生は、私のことだけを考えてくださいます」
声は静かだった。
青いリボンの時と同じだ。
なくした物を探す間。隠した者を疑う間。
リディアの意識には、エルゼしかいなくなる。
「それが、お好きなのですか」
「はい」
「私を怒らせても?」
「後で、お許しいただけるのであれば」
「私が許すと、先に決めないでください」
言葉が落ちると、エルゼの指が止まった。
「……いつ返すつもりでしたか」
「茶会の時刻が過ぎてからです」
「それでは、返すことになりません。分かりますね」
「はい」
エルゼの正直さは、ときに閉じた扉より逃げ道がなかった。
「銀の印を見つけたことには感謝します」
灰色の瞳に、かすかな光が差す。
「ですが、知らせることと、隠すことは別です」
光は細くなった。
「危険を知らせるなら、私を守ることになります。手紙を隠し、行けないようにするなら、私の代わりに決めたことになります」
「危険な場所へ行く方を、止めてはいけないのですか」
「行かないでほしいと伝えることはできます」
「では、行かないでください」
「伺いました」
「それでも?」
「誰が印をつけたのか、確かめなければなりません」
「姉上かもしれません」
「だからこそ、ご本人へ伺います」
「嘘をつかれるかもしれません」
「その時に判断するのも、私です」
エルゼは封筒を見つめた。
霜は下りていない。
「先生は、姉上を信じていらっしゃるのですか」
「信じるかどうかを決めるために、会うのです」
「私よりも?」
「順位の話ではありません」
「私は、先生の一番になりたいのです」
窓辺の薄い光が、灰色の瞳に沈んでいた。
「一番でなければ、嫌です」
「ほかの人を見えなくしても、一番にはなれません」
道を一つずつ消し、最後に自分だけを残す。
それは選ばれることではない。
選択肢を埋めることだ。
エルゼは反論しなかった。
「余分な印を外せますか」
リディアが尋ねる。
「試すことはできます」
「危険は?」
「通行印へ触れなければ、大きな反動はないかと」
「確実ではないのですね」
「はい」
「では、グレアム殿へ渡します」
封筒へ伸ばしたリディアの手を、エルゼの指が遮った。
触れてはいない。
ただ、行く先へ白い柵を置くように手を伏せた。
「家令へ渡せば、招待状ごと処分されるかもしれません」
「公爵家の後継者から届いたものを?」
「先生を温室へ行かせたくない方は、私だけではありません」
昨日、公爵はリディアの客室へ防護紋を追加しようとした。
説明より先に安全を置く者は、この屋敷に一人ではない。リディアは逡巡した。
「余分な線だけを外せるのですか」
「北の離れの中であれば、細い紋にも触れられます」
「私が許可するまで、始めないでください」
「はい」
エルゼは手を引いた。
影も動かない。
今度は、先に待った。
リディアは二本の銀線を見比べる。
このまま持っていけば、通った道が記録される。
グレアムへ渡せば、印をつけた側へ証拠が戻る可能性がある。
どちらにも、誰かの手が道の先で待っていた。
「余分な印だけです」
リディアが言った。
「通行印を壊さないこと。異常を感じたら、すぐに離すこと。私が止めた時も同じです」
「承知いたしました」
エルゼは封筒へ手を伸ばしかけ、止める。
「触れてもよろしいですか」
「ええ」
人差し指が、銀の糸へ触れた。
床の影がさざめき、封蝋の鷲が淡く光る。
重ねられた細線が紙から浮き上がった。
エルゼはそれを指先へ巻き、通行印から少しずつ剝がしていく。
半ばを過ぎたところで、白い頬が強張った。
「離してください」
「もう少しです」
「エルゼ様」
銀線が鳴いた。
細い硝子が折れたような音とともに、余分な印が切れる。
正規の通行印だけが封筒に残った。
エルゼが手を引く。
人差し指の腹が白く曇り、薄い霜に覆われていた。
「見せてください」
「大丈夫です」
「先ほどの指示は?」
エルゼは霜のついた指を見る。傷は無いように見えた。エルゼの予測に誤りがなかったことは確かだった。
「守れませんでした」
「なぜです」
「途中で離せば、招待状が使えなくなるかもしれなかったからです」
「それでも、離すよう言いました」
「先生が茶会へ行けるようにしたかったのです」
リディアは机の布を取り、冷えた指を包んだ。
直接触れないよう、手首だけを支える。
「行ってほしくないのでしょう」
「はい」
「それでも、道を残した?」
「私が隠したままでは、先生は行かないのではなく、行けないだけですから」
その言葉に、リディアの指が一瞬止まる。
昨日まで、エルゼ自身が消していた違いだった。
「今は、先生ご自身に決めていただきたいと思います」
細い声だった。
保護と支配の境目を、まだまっすぐ歩けてはいない。
招待状を隠した。
止められても力を使い続けた。
──それでも、塞いだ道を自分の手で開け直した。
「……自分を傷つければ、私が残るとも思いましたか」
エルゼの睫毛が下がる。
「少しだけ」
「傷を使って、私の答えを得ようとしないでください」
「では、言葉で尋ねれば答えてくださいますか」
「答えないこともあります」
「難しいです」
「わからないまま待つことも、必要です」
布を結ぶ。
指先には、ゆっくりと薄い赤みが戻ってきていた。
「痛みますか」
「少し」
「今日は影を使わず、手を休めてください」
「授業もお休みですか」
「招待状を隠したことと、指を傷めたこと。その両方のためです」
「左手なら書けます」
「休むことも授業です」
エルゼの顔に、雲の影が差した。
リディアは招待状を手に取る。
宛名も封蝋も、正規の通行印も損なわれていない。
「茶会へ行かれるのですね」
「この印について、クラリッサ様へ伺います」
「行っていただきたくありません」
「ええ」
「姉上が先生のお名前を呼ぶことも、薔薇の香りをつけることも嫌です」
「伺いました」
エルゼは包まれた手を胸元へ寄せる。
影は動かなかった。
「それでも、止めません」
「ええ」
「手紙も隠しません。先生の後を追いません」
そこで言葉を切る。
「戻ってきてください、とお願いすることはできますか」
「できます」
リディアは白い扉を見る。いつも通りに閉ざされている。
エルゼは毎日、この扉を眺めながら過ごしている。
「では、茶会が終わったら、この扉の前まで戻ります」
「中へは?」
「入りません」
「お顔も見られませんか」
「扉は開けません」
エルゼの瞳に不満がよぎる。
それでも、口を挟まず聞いている。
「私は扉の前で『戻りました』と言います。それ以上は約束しません」
「何時まででしょう」
「時刻は決めません」
「遅ければ、確かめたくなります」
「影も、名前の残響も、持ち物の印も使わないでください」
エルゼは、ひとつずつ言葉を飲み込む。
「扉を開けることも?」
「しないでください」
「先生が、本当にいらっしゃるか見えません」
「声を信じてください」
それは、エルゼにとって最も不得手なことだった。
姿も。印も。
つながった糸もないまま、相手が告げた言葉を受け取ること。
「……わかりました」
かすかな返事だった。
「食事を取ること。指の感覚が戻らなければ、グレアム殿を呼ぶこと」
「はい」
「もう一つ、お願いしてもよろしいですか」
「伺います」
「姉上へ私のことを話す時、怖いだけの人だとはおっしゃらないでください」
リディアはエルゼを見る。
「クラリッサ様にどう思われてもよいのでは?」
「構いません」
「では、なぜです」
「先生まで、そう思っているように聞こえるのが嫌なのです」
エルゼは包帯の上へ視線を落とした。
「私は手紙を隠しました。先生を行かせたくなかったからです」
「ええ」
「銀の印から守りたかったことも、本当です」
「わかっています」
「どちらも、お話しください」
きれいな理由だけを残してほしいとは言わなかった。
「そのつもりです」
エルゼの肩から、張りつめていた糸が一本だけほどけた。
「昨日より、私をお嫌いになりましたか」
「その答えを得る前に、今日したことを書いてください」
「先生がお喜びになる答えを?」
「事実を」
「はい」
「招待状を見つけた場所。隠した理由。何をすべきだったと思うか」
エルゼは左手で鉛筆を取った。
白紙の上へ日付を書く。
文字はいつもより歪み、細い枝が風に揺れたようだった。
「書き終えたら、銀鈴草を読んでください」
「先生がお戻りになるまで?」
「私のためではなく、ご自分のために」
「難しいです」
「練習です」
リディアは扉へ向かう。
「行ってまいります」
左手の鉛筆が止まった。
エルゼは顔を上げる。
「行ってらっしゃいませ、先生」
リディアが境界を渡り、白い扉が閉じる。
三つの鍵が、順に二人の間へ下りた。
廊下で招待状を開く。
クラリッサの筆跡は、細く癖がない。
──午後の鐘が二度鳴った後。
──本邸東温室。
──北棟の処遇と、母の遺品について相談したい。
内側に、別の印は見当たらなかった。
リディアは、切れた銀線の残滓をグレアムへ示す。
「この印をご存じですか」
「通行経路を記録する術式に見えます」
「クラリッサ様が加えたものでしょうか」
「私には判断いたしかねます」
「公爵閣下、あるいは家令室のものでは?」
「茶会の場で、直接お確かめになるのがよろしいでしょう」
否定はなかった。
「エルゼ様が外しました。指を冷やしていますので、感覚が戻らなければ術師を」
「ご自分を傷つけてまで、あなたを行かせたのですか」
「先に手紙を隠したのも、エルゼ様です」
「どちらを信じるおつもりです」
「どちらも事実です」
リディアは招待状を外套の内側へ収めた。
同じ手が、道を塞いだ。
同じ手が、その道を開けた。
守る手と、閉じ込める手は、別々の腕から伸びてくるとは限らない。
だからこそ、何をしたかを一つずつ分けなければならない。
リディアは本邸へ向かった。
茶会の後には一度、閉じた扉の前へ戻る。
本邸へ近づくにつれ、冷たい廊下へ甘い香りが混じり始める。
温室の薔薇が、見えないところから道を知らせていた。