忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第七話 この人がよい

 

 温室の硝子を、細い雨が絶え間なく叩いていた。

 庭は水煙の向こうへ沈み、室内には濡れた土と柑橘の葉の匂いが満ちている。

 円卓の上に、白磁の茶器と招待状が並んでいた。

 封筒の縁には、エルゼが切った銀紋の痕が黒く残っている。

 

 クラリッサは裏表を確かめ、卓上へ戻した。

 

「私が封をした時には、ございませんでした」

「この術式には、お心当たりが?」

「通行印へ重ねる行程記録です。どの結界を通ったか、その順序を残します」

「クラリッサ様がお加えになったのは?」

「温室へ入るための印だけです」

 

 黒い切れ痕へ、クラリッサの指が近づく。

 

「投函した後、別の者が銀線を足したのでしょう」

「どなたが?」

「父上か、家令室の者かと」

「そこには、グレアム殿も含まれますか」

「ええ」

 

 答えに迷いはなかった。判別はつかない。

 直感はあれど、嘘を見抜くことは不可能だった。信じたいものを信じるしかない。或いは、疑いたくないものを。

 

「私の名で差し出した手紙が使われました。申し訳ございません」

「公爵閣下の代わりに謝罪なさるのですか」

「いいえ」

 

 クラリッサは静かに首を振る。

 

「私が、自分の手紙を確かめなかったことについてです。父上の行為まで私が引き受け、済んだことにするつもりはございません」

 

 葉の先から、水滴が落ちた。

 銀の匙が受け皿へ触れ、小さく鳴る。

 

「このお屋敷では、手紙にも見張りが必要なのですね」

「私の名があれば安全だとは、考えないようにしております」

「慣れていらっしゃるのですか」

「……ええ。しかし、受け入れることは別です」

 

 クラリッサは紅茶を口へ運んだ。

 所作は穏やかだが、カップの取っ手を押さえる指だけが白い。

 

「北の離れでも、同じなのでしょうか」

「何がでしょうか」

「守るという理由で、本人の意思を省くことが」

 

 クラリッサの視線が、砕かれた銀紋へ落ちる。

 

「エルゼ様は、私を印から守ったとおっしゃいました」

 

 リディアは続けた。

 

「同時に、こちらへ来させたくなかったとも」

「どちらも本心なのでしょう」

「驚かれないのですね」

「あの方は──」

 

 クラリッサは言いかけ、言葉を選び直した。

 

「エルゼ様は、感情と手段を離して考えることが、まだ不得手なのでしょう。怖ければ閉じる。大切なら、手元へ置こうとなさる」

「よくご存じなのですね」

「存じません」

 

 返答は早かった。

 

「想像しているだけです。私は、あの方とほとんど話したことがございませんから」

 

 ──姉妹でありながら。

 言葉にならなかった部分へ、雨音だけが入り込んだ。

 

「本日は、何をお聞きになりたかったのですか」

「……まずは、エルゼ様のご様子を」

 

 名前を口にする声は、まだ硬い。

 馴染まない靴で、一歩だけ踏み出したようだった。

 

「お食事は取っていらっしゃいますか。夜は眠れているのでしょうか。窓を凍らせることは?」

「食事は取っていらっしゃいます。眠りについてはわかりません。霜は以前より減りました」

「笑いますか」

 

 リディアは少し考えた。

 

「私が困った時には」

 

 クラリッサの唇が、わずかに動く。

 

「であれば、母上に似ています」

「お顔が?」

「人を困らせた時だけ、少し満足そうになさるところが」

 

 その表情は笑みに届かず、すぐに紅茶の湯気へ紛れた。

 

「……母上の遺品を調べます」

 

 クラリッサが言った。

 

「北の離れに関する記録を?」

「母上の私物は、亡くなってから封じられたままです。父上は、私にも開けることを許しませんでした」

「なぜ今になって?」

「私が、この家を継ぐからです」

 

 硝子を流れる雨粒を、クラリッサは目で追った。

 

「存在しなかったことにされた者がいる。その理由も知らずに家を受け取れば、嘘まで相続することになります」

「エルゼ様をお助けになりたいからでは?」

「それだけだと申し上げれば、聞こえがよすぎます」

 

 灰色の瞳がリディアへ戻る。

 投げかけた言葉は、リディアの願望でもあった。

 

「私は、自分まで何も知らなかったことにされたくありません」

「ご自分のために?」

「はい」

 

 迷いのない返答だった。

 

「その結果、エルゼ様の役に立つものが見つかればよいとも思っております」

「利用だと受け取られるかもしれません」

「自分の都合を隠して、善意と呼ぶよりはましでしょう」

 

 リディアは、白い扉の向こうで聞いた言葉を思い出した。

 

 守りたかった。

 行かせたくなかった。

 

 どちらかだけを残せば、きれいな話になる。

 姉妹は二人とも、きれいな理由だけでは動いていなかった。

 

「お母上の遺品に、名前の記録があるとお考えですか」

「可能性はございます」

 

 クラリッサは席を立ち、温室の隅に置かれた細長い箱を開けた。

 取り出した古い領地図には、川と山脈に沿って公爵領が描かれている。

 

 北端には、本家の鷲と冠から枝分かれした片翼の鷲。

 その周囲に、薄れた文字が残っていた。

 

──北方封印領

──旧命名庫付属地

 

「母上が生前、私へ預けた地図です」

「北方封印領とは?」

「百年以上前に閉鎖された土地です。古い命名記録庫と封印館が残っていると聞いております」

「現在の領主は?」

「本家の直轄ですが、実際には管理人がいるだけです」

「閉鎖の理由は」

「封印事故。それ以上は、私も存じません」

 

 クラリッサは片翼の鷲へ指を置く。

 

「母上が、なぜこの地図を私に残したのかも」

「エルゼ様との関係は?」

「まだ、わかりません」

 

 まだ、分からない。だが、分かる可能性は高い。

 クラリッサの答えには、空白が空白のまま残されていた。

 

「北方領と、お母上の記録をお調べになるのですね」

「ええ」

 

 地図を箱へ戻す。

 

「その前に、クロウ嬢へお見せしたいものがございます」

 

     

 

 本邸西側の記録室には、雇用簿や契約書が年代順に収められていた。クラリッサに続いてリディアが足を踏み入れると、インクの匂いが鼻をくすぐった。

 

 クラリッサは扉を閉じる。

 鍵はかけない。

 

「こちらへ入ったことは、父上には伏せていただけますか」

「秘密を共有しろ、と?」

「お断りになるのであれば、今からお戻りください」

 

 退路は残されていた。

 その点だけでも、昨日の招待状とは違う。

 

「拝見します」

 

 リディアに躊躇はなかった。

 

 クラリッサは棚の下段から、濃紺の紐で綴じられた記録を取り出した。

 表紙には、事務的な文字がある。

 

 ──北棟教育係候補者記録

 

「私以外にも、候補者が?」

「七名おりました」

 

 命名官家の出身者が二人。

 封印術に通じる家系が五人。

 

 名前の横には、公爵家の所見が並んでいる。

 

王立術院元講師。

学識十分。北棟を研究対象として扱うおそれあり。除外。

 

伯爵家傍流。

命名儀礼の知識あり。実家との連絡が多く、機密保持に難あり。

 

地方神殿所属。

封印術適性あり。北棟対象者を悪霊として扱う懸念。除外。

 

「ほとんど、公爵閣下が退けたのですね」

「ええ。一人を除いて」

 

 その人物の欄には、面談前辞退とある。

 

「理由は?」

「事前面談のため本邸に滞在した夜、北棟の夢を見たそうです」

「それは、どのような」

「白い扉の向こうから、ご自分の名を呼ばれ続けたと」

 

 屋敷の中。

 北棟の影と主紋が届く範囲だった。

 

「エルゼ様の仕業だと?」

「断定はできません。本人へ尋ねたこともございません」

 

 最後の頁に、リディアの名があった。

 

リディア・クロウ

十九歳。旧命名官家直系。正式任官なし。

家産悪化。複数の債務あり。

高額契約を拒否する可能性は低い。

 

 予想していた文字だった。

 その下へ、さらに所見が続いている。こちらは予想の外にあった。

 

引き受けた役目を途中で放棄しない。

家族への責任感が強い。

名札、戸籍、紹介状等、他者の名を軽視する行為に強く反発。

弱い立場の者に対しては、規則より本人の尊厳を優先する傾向あり。

 

 借金は金額で書ける。

 しかし、性格まで記録されるとは思わなかった。

 

「どなたが、ここまで調べたのですか」

「公爵家の調査員です。過去に関わった者へ聞き取りを行ったのでしょう」

「本人の知らないところで」

「候補者調査として、珍しくはございません」

「珍しくなければ、正当なのですか」

「いいえ。しかし不当だとも思いません。……私がエルゼ様について尋ねることも、正当ではないと考えられますか?」

「……いえ、失礼致しました」

「気にしません。良い気がしないだろうということは、分かりますから」

 

 参考資料の欄には、リディアが忘れかけていた出来事が並んでいた。

 

 不当に解雇された使用人の紹介状。

 身元札をなくした子供の届け出。

 名義を消された小作人の契約異議。

 

 見つけたから直した。

 それだけの行為が拾い集められ、一人の人間の輪郭に仕立てられている。

 

 頁の余白に、別の筆跡があった。

 細く、整った文字。

 

──この人がよい。

 

 その下へ続いている。

 

──名前を、ただの音だと思っていないから。

 

 さらに、小さく。

 

──見捨てた人を、あとで忘れられない。

 

 紙の上の自分が、リディア本人より先に北の離れへ入っていた。

 

「この筆跡は、エルゼ様ですね」

「おそらく」

「どのように、この記録を?」

「候補者の名と主紋を照合するため、一度北棟の旧命名机を通したそうです」

「その時に読んだ?」

「すべてではないでしょう」

 

 クラリッサは余白の文字を見る。

 

「名前と、その近くへ強く記された事柄だけ。借金や性格に関する所見は、主紋と結びつきやすい情報です」

 

 エルゼは顔も声も知らないうちから、リディアの輪郭へ触れていた。

 名前の周囲に、他人が書き込んだ輪郭へ。

 

「公爵閣下は、この書き込みをご存じなのですか」

「ええ」

「それでも、私を雇った」

「父上の条件にも合っておりましたから」

「命名官家の血。借金。途中で辞めにくい性格」

「そして、北棟の主が強く拒まなかった」

 

 クラリッサは、選んだとは言わなかった。

 拒まなかった、とも言い切らない。

 事実は、その中間の余白にあった。

 

「なぜ、これを私へ?」

 

 リディアは記録を閉じた。

 

「エルゼ様を恐れさせたいのですか」

「警戒はなさるべきだと思います」

「確かに、作為は感じますが」

「あの方を、何もできない被害者だとは思わないでください」

 

 静かな声だった。

 

「父上は、エルゼ様から名と自由を奪いました。その事実は変わりません」

 

 クラリッサの手が、濃紺の表紙へ置かれる。

 

「ですが、奪われた者が、ほかの人から何も奪わないとも限りません」

 

 影から現れた招待状。青いリボン。名前を記した金色の印。すべてが、記録の余白へつながっている。

 

「私は、エルゼ様を罰してほしいわけではありません」

 

 クラリッサは一度、言葉を切った。

 

「あなたを間へ置けば安全になると、まったく考えていないとも申し上げられませんが」

「正直ですね」

「嘘をついても、クロウ嬢はいずれ記録を見つけるでしょう」

 

 薄い笑みが浮かび、すぐ消えた。

 

「私は、あの方を恐れております。私の継承権を脅かす可能性も考えています。それでも」

 

 表紙を押さえる指が止まる。

 

「存在しない妹を持ったまま、当主にはなりたくありません」

 

 妹。

 

 初めて、その呼び方が落ちた。

 クラリッサ自身も気づいたらしく、しばらく指を動かさなかった。

 

 リディアは意味を問いたださない。

 初めて呼ばれた名や関係は、すぐに説明を求めれば、口の中へ戻ってしまうことがある。

 

「母上の記録を探します」

 

 またもクラリッサが言う。

 

「北方封印領についても」

「公爵閣下はよく思われないのでは?」

「叱責では済まないかもしれません」

「それでも?」

「何もしなければ、父上と同じ方法で家を守ることになります」

 

 クラリッサは記録を棚へ戻し、扉を開けた。

 

「だとしても。その前に、一度くらいは、自分で選ばなければなりません」

 

     

 

 温室を出る頃には、雨が上がっていた。

 濡れた石の匂いが、開いた窓から廊下へ流れ込んでいる。

 北の離れの白い扉の前には、グレアムが立っていた。

 

「本日の授業は、すでに終了しております」

「はい。開けなくて結構です」

 

 リディアは扉の前へ立った。

 

 中へ入らない。

 姿を見せない。

 影にも、名前にも確かめさせない。

 昨日、自分で決めた約束どおり、声だけを置く。

 

「戻りました」

 

 ただちに返事はない。

 扉の向こうには、衣擦れさえ聞こえなかった。

 やがて、ごく近くから声が届く。

 

「お帰りなさいませ、先生」

 

 取っ手は動かない。

 影も敷居を越えない。

 

「約束どおりです」

「はい」

「それだけです」

「……はい」

 

 エルゼは、茶会の内容を尋ねなかった。

 

 クラリッサが何度リディアの名を呼んだかも。

 薔薇の香りが増えたかも。

 

 聞きたい言葉を、扉の向こうへ留めている。

 

「また明日」

 

 リディアが言う。

 小さく息を吸う音がした。

 

「はい、先生」

 

 数歩進んでも、声は追ってこなかった。

 その自制を認めるべきだと思う。

 同時に、記録の余白にあった文字が、頭から離れなかった。

 

──見捨てた人を、あとで忘れられない。

 

     

 

 夕食後、リディアは再び北の離れを訪れた。

 グレアムの眉間に、はっきりと皺が寄る。

 

「本日は、もうお戻りにならないお約束では?」

「扉を開けないと約束したのは、茶会の後に戻った時だけです」

「言葉の隙間をお使いになるのですね」

「この屋敷で学びました」

 

 リディアは白い扉を見る。

 

「候補者記録を拝見しました」

 

 グレアムの目から、わずかに温度が消えた。

 

「クラリッサ様が?」

「今は、私が質問しております」

「明日の授業でなさっては」

「授業の話ではありません」

「では、何のお立場で?」

「選ばれた本人としてです」

 

 沈黙の後、グレアムは血鍵を取り出した。

 

「十五分でお願いいたします」

 

 三つの錠が、順に開いた。

 

     

 

 エルゼは鏡台の前に座っていた。

 淡い金髪を半分ほどき、片手に櫛を持っている。

 

 授業中よりも幼く見えた。

 リディアを見ると、灰色の瞳が大きくなる。

 

「先生」

「お話があります」

 

 エルゼは櫛を置いた。

 

「お怒りですか」

「先に、私の質問へ答えてください」

「はい」

 

 リディアは扉を閉めなかった。

 廊下の光が、細い帯となって室内へ伸びている。

 

「家庭教師の候補者記録を読みましたか」

 

 エルゼの視線が、一度だけ机へ向いた。

 

「読みました」

「どこまで?」

「名前と、その近くに強く書かれていたことを」

「私の家の借金も?」

「はい」

「家族を置いて、仕事を辞めにくいことも?」

「はい」

「名前を奪われた人を、放っておけないことも」

 

 短い沈黙。

 

「そう考えました」

「記録だけで?」

「先生が、解雇された使用人へ書いた紹介状がありました」

 

 リディアは思い出す。

 雇い主の失敗を押しつけられ、「不実」とだけ記された女中。

 事情を調べ、紹介状を書き直した。

 

「名前が汚されていました」

 

 エルゼが言う。

 

「先生は、それを元へ戻しました」

「それで、私を選んだのですか」

「それだけではありません」

「ほかには?」

「引き受けたことを、途中で捨てない方でした」

「借金があれば、高額な仕事も断りにくい」

「はい」

 

 エルゼは目を逸らさない。

 

「北の離れへ来れば、自分を見つけると思いましたか」

「はい」

「見つければ、置いていけなくなる」

「はい」

 

 弁明のない返事が、余白を狭めていく。

 

「私があなたを好きになるとは、思わなかったのですね」

 

 灰色の瞳が、初めて揺れた。

 

「思っておりませんでした」

「では、何を?」

「私を見捨てられなくなるとは思いました」

 

 正確な言葉だった。

 

 家族への責任。

 名前に対する倫理。

 去った後も、自分の選択を責め続ける性格。

 

 エルゼは好意より先に、そこへ印をつけた。

 

「私の罪悪感を選んだのですね」

「先生ご自身も選びました」

「同じものとして並べないでください」

「同じではございません」

「どう違うのですか」

 

 エルゼは少し考えた。

 

「罪悪感だけなら、先生でなくてもよかったからです」

「私である必要があった?」

「名前を、見なかったことにしない(かた)がよかったのです」

 

 借金があり。

 辞めにくく。

 それでも名前をただの音として扱わない。

 

「ずいぶん、都合のよい人間ですね」

「はい」

 

 自嘲混じりのリディアの言葉に、エルゼは頷いた。

 

「私にとっては」

「ほかの候補者へ、夢を見せましたか」

「お一人だけ」

「本邸に泊まった夜に?」

「はい」

「どのような夢を?」

「白い扉の向こうから、ご自分のお名前を呼ばれる夢です」

「辞退させるために?」

「来ていただきたくなかったので」

「その方が辞退すれば、私が選ばれるとご存じでしたか」

「いいえ。ほかにも候補者がいらっしゃいました」

 

 エルゼは膝の上で指を重ねる。

 

「私は、先生がよいと書いただけです」

「一人を遠ざけたのも、私のためですか」

「私自身のためです」

 

 そこだけは、言い換えなかった。

 

「先生を選んだことも、初めは私のためでした」

「今は違うと?」

「今は、先生にとってもよかったと思っています」

「何がですか」

「こちらへいらしたことが」

「私の家に借金があるから?」

「違います」

「あなたに必要とされるから?」

「はい」

 

 迷いはなかった。その事実が、悍ましいようにも痛ましいようにも思われた。

 

「先生は、必要とされることをお嫌いではありません」

「必要とされることと、逃げ道を狭められることは別です」

「存じています」

「いいえ」

 

 リディアは静かに否定した。

 

「あなたは今、ようやく知り始めたところです」

 

 エルゼの表情が固くなる。

 

「私の家族も、責任感も、名前を見捨てられない性格も、私を動かすための取っ手ではありません」

「先生を道具だとは思っておりません」

「思いではなく、行動の話をしています」

 

 エルゼはしばらく黙った。

 やがて、真剣な顔で答える。

 

「道具より、ずっと大切にしております」

 

 冗談ではない。

 本気で、それが違いになると思っている。

 

「大切なら、相手の選択を省いてもよいのですか」

 

 返事はなかった。

 机には明日の教本と、削られた鉛筆が整えられている。

 リディアが来ることを、疑わず用意された席だった。

 

「私が、この仕事を辞めると言えば?」

 

 エルゼの顔から色が薄れる。

 

「今夜のお話ですか」

「仕事そのものです」

「契約がございます」

「契約がなければ?」

 

 言葉が出てこない。

 

「考えなくて済むように、辞めにくい人間を選んだのでしょう」

「契約を作ったのは父上です。先生の借金も、私が作ったものではありません」

「それを利用したのは、あなたです」

 

 エルゼは目を伏せた。

 

「先生が来なければ、私はまだ名前を持っておりませんでした」

「そうでしょうね」

「ですから、すべてが間違っていたとは思えません」

「よい結果が出れば、方法まで正しくなるのですか」

「先生は、こちらへいらっしゃいました」

「来させられました」

「ですが、私の名前を呼んだのは先生です」

「それは私が選びました」

「でしたら、すべてが私の計画ではありません」

 

 エルゼは顔を上げる。そこに灯る光が何を意味するのか、リディアには判りかねた。

 

「先生がお選びになったものもございます」

「それで、あなたが選択肢を狭めたことは消えません」

「消したいとは申し上げておりません」

「では、どうしたいのですか」

 

 エルゼは初めて、答えを持たない顔をした。

 

「わかりません」

 

 声が小さくなる。

 

「先生に帰っていただきたくありません」

「ええ」

「ですが、そう申し上げることも、先生を動かす手になるのでしょうか」

「望みを言葉にすることは悪くありません。私が従うと決めつけなければ」

 

 エルゼは息を整えた。

 

「帰らないでいただきたいです」

 

 泣きもせず。

 命じもせず。

 

 ただ、望みだけを置いた。

 

「生憎、今夜は帰ります」

 

 重ねられた指に力が入る。

 影は動かない。

 

「明日の授業には来ます」

「契約があるからですか」

「今日の話を、あなたがどう受け取ったか確かめるためです」

「先生は、私を嫌いになりましたか」

 

 いつもの問いだった。

 リディアは答えず、エルゼを見る。

 

「明日の授業では、その質問をしないでください」

「なぜでしょう」

「私に好かれているかを確かめ続ければ、自分がしたことを考えられません」

「ですが──」

「私の持ち物へ触れない。名前で居場所を探らない。返答を急かさない」

「はい」

「そして、私の顔を見て、好かれる答えを作らないこと」

 

 エルゼは視線を落とす。

 

「何をすればよいのでしょう」

「普通に授業を受けてください」

「普通、とは?」

「わからない時は、わからないと答えることです」

「それで先生は残ってくださいますか」

 

 言ってから、エルゼ自身が口を閉じた。

 

「今の質問も、同じですね」

「質問より、目的が問題です」

「先生に残っていただくために、よい生徒になってはいけませんか」

「よい生徒になる必要はありません」

「では、何になれば?」

「まずは、正直な生徒でいてください」

 

 エルゼは、その言葉を口の中で確かめた。

 

「正直に、先生に帰ってほしくないと申し上げました」

「伺いました」

「正直に、先生が私をお好きになる方法を知りたいです」

「それも伺いました」

「教えてはいただけませんか」

「人の心を得るための授業はいたしません」

「では、自分で考えます」

 

 灰色の瞳へ、細い光が戻る。

 

「何を考えるのですか」

「先生が、ご自分から残りたいと思う生徒になる方法を」

「今の話を聞いていましたか」

「選べなくすることは、いけない」

「ええ」

「選びたくなるようにすることまで、いけないとは伺っておりません」

 

 理解した言葉を、すぐに新しい手段へ組み替えようとしている。

 反省していないのではない。

 反省まで、策の材料にするのだ。

 

「エルゼ様」

 

 名を呼ぶと、少女の顔がわずかにほどけた。

 

「相手のために変わることと、自分を相手の好みへ作り替えることは違います」

「まだ、違いがわかりません」

「では、明日から考えましょう」

「ご一緒に?」

「授業としてです」

 

 エルゼは、ほんの少し笑った。

 

「はい、先生」

 

 リディアは扉へ向かう。

 呼び止められると思った。

 

 だが、声はない。

 

 振り返ると、エルゼは椅子へ座ったまま、両手を膝に置いていた。

 

 追わない。

 明日を確約させない。

 

 教えられたばかりのことを、もう試している。

 

「何か言いたいことがあるのですか」

 

 エルゼは小さく頷いた。

 

「ですが、明日まで考えます」

「何を?」

「正直な生徒と、よい生徒の違いを」

「そうしてください」

「それから、先生がお好みになるのは──」

「そこは考えなくて結構です」

「難しいです」

「存じています」

 

 リディアは部屋を出た。

 三つの鍵が、順に扉を閉じる。

 

 記録の余白に残っていた文字が、再び浮かんだ。

 

──この人がよい。

 

 エルゼは紙の中から、リディアを選んだ。

 借金も、責任感も、見捨てた人間を忘れられない性格も含めて。

 

 だが、明日ここへ来ることまで、余白の文字に決めさせるつもりはない。

 

 リディアは、自分の足で廊下を戻った。

 

 扉の向こうから、かすかな鉛筆の音が聞こえている。

 

 正直な生徒について書いているのか。

 よい生徒になる方法を考えているのか。

 

 おそらく、同じ頁の上に、二つを並べているのだろう。

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