忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第九話 公爵の提案

 

 翌朝、公爵の執務室には、二つの書類が並べられていた。

 

 一つは、クロウ家の債務再編案。

 もう一つは、ヴァレンシュタイン公爵家第三子の名籍登録草案。

 

 家族の未来と、エルゼの名前。

 本来なら別々の秤に載せるべきものが、同じ机の上で紙の角を揃えている。

 リディアは椅子へ座らなかった。

 

「同時にお示しになるのですね」

「どちらも、あなたが北棟へ勤めていることに関係する」

 

 公爵は、先に債務再編案を差し出した。

 

「内容を確認しなさい」

 

 公爵家がクロウ家の債権を買い取る。

 過剰な利息を止め、返済期間を十年へ延ばす。

 その代わり、クロウ家は公爵領内の名籍整理と封印台帳の修復を請け負う。

 抵当権は残るが、返済が続く限り屋敷の明け渡しは求められない。

 

 そのような内容だった。即座に借金が消えるわけではない。

 代わりに働いて返せる形へ、縫い直されている。

 

「慈善ではございませんね」

「当然だ。クロウ家には、仕事で家を立て直してもらう」

 

 条件は良い。

 破格と言ってよいほどだった。

 

 母の薬代も。弟たちの学費も。屋敷を手放さず、自分たちの手で支払えるかもしれない。

 

「……条件を伺います」

「北棟の家庭教師を辞任することだ」

 

 紙を持つ指へ、わずかに力が入る。

 

「エルゼ様との接触も?」

「終わらせてもらう」

「私的な面会は、」

「当然認めない」

 

 公爵は報告書を開いた。

 そこにはリディアが赴任して以降のエルゼの動向が書き込まれている。

 

「仮の名を得て以降、あれの力は北棟の外へ及んでいる。あなたの客室から物を取り寄せ、名前の印を刻み、主紋を用いた通行記録へも干渉した」

「最後のものは、クラリッサ様の招待状へ無断で追加されていた術式です」

「安全管理上の措置だ」

「差出人も受取人も知らされておりませんでした」

「結果として、あれは主紋の一部を破壊した」

「余分な銀線だけです」

「今は、な」

 

 公爵は次の頁をめくる。

 

「一方で、昨日は凍結も影の異常もなかった。あなたの指示にも、以前より従っている」

「改善を問題視なさるのですか」

「改善したからこそ、次の段階へ進める」

 

 二枚目の書類が、机の上を滑った。

 中央に、一つの名前が記されている。

 

セレネ・フォン・ヴァレンシュタイン

 

 美しく整った文字だった。

 寸法どおりに裁たれ、一分の皺もなく仕立てられた衣服のように。

 

「どなたがお決めになったのですか」

「王都の命名官と協議した」

「ご本人は?」

「まだ知らせていない」

「名前を着せられる本人だけを、採寸から外したのですね」

「本人へ選ばせれば、エルゼを選ぶ」

「当然ではございませんか」

「だから危険なのだ」

 

 公爵は淡々と答えた。

 

「エルゼという音は、出生時の主紋事故と結びついている。正式に復元すれば、本家の中央紋へ強く接続する可能性がある」

「お母上が呼んでいた名だから?」

 

 公爵の目が細くなる。

 

「どこで聞いた」

「焼け残った記録に、頭文字がございました」

「不確かな断片だ」

「不確かであれば、調べるべきです」

「調べることで完成する力もある」

 

 公爵は名籍草案を指した。

 

「セレネは、傍系登録用に調整された名だ。本家の娘として法的な身分を与えながら、中央紋への接続を避けられる」

「第三女としてではなく?」

「傍系令嬢としてだ」

「出生順位まで変えるのですか」

「継承争いを防ぐためでもある」

 

 公爵の言葉は、安全な理論で武装されている。より重要な誰かを守るため。より多数を守るため。社会において、それはほとんど常に正しい側に立つ。完全無欠の解決策を除いて。

 

「クラリッサ様のために?」

「家のためだ」

 

 返答にためらいはない。

 

「この名が定着すれば、北棟から出せる可能性がある。別邸での生活、正式な教育、相応の扶持も用意する」

 

 北棟の外。

 三つの鍵がない住居。

 教師も、本も、外気もある暮らし。

 

 提案は空の器ではない。

 エルゼが持たずに育ったものが、名前一つの向こう側に並んでいる。

 

「ご本人には、どのように説明なさるのですか」

「安全に生きるための名だと」

「エルゼを捨てれば?」

「捨てるのではない。公には用いないだけだ」

 

 公爵にとって、名前は封印をつなぐ金具なのだろう。

 危険な金具を外し、別のものへ付け替える。

 中にいる人間の形が変わるかどうかは、二の次だった。

 草案の欄外に、細い注記がある。

 

既存名の復元には、保証名または分離紋を要する可能性あり。

 

「こちらは?」

「古い規定だ」

「保証名。分離紋」

「既存の名を保ったまま主紋から切り離す方法とされている」

「それなら、エルゼ様の名を変えずに済むのでは?」

「保証を引き受けられる命名官がいない。分離紋の原簿も、北方の旧命名庫に封じられたままだ」

「存在はしているのですね」

「実行できないものは、存在しないのと同じだ」

「使われていないことと、使えないことは違います」

「言葉の問題ではない」

 

 公爵の声へ、初めて硬いものが混じる。

 

「北方封印領は荒廃している。封印塔も壊れ、領民も減った。古い制度を掘り返す間にも、主紋事故は起こり得る」

「だから、先に本人の名を替える?」

「もっとも確実な方法を選ぶ」

「安全になるのは、どなたですか」

「家全体だ」

 

 即答だった。

 エルゼ本人とは言わなかった。

 

「誰が、最初にこの名を呼ぶのですか」

 

 リディアが尋ねる。

 公爵は、わずかに間を置いた。

 

「……それを、あなたに任せたい」

 

 予想していた言葉だった。

 それでも、名籍草案の白さが急に冷たく見えた。

 

「お断りいたします」

「説明を最後まで聞け」

「ご本人が拒むとわかっている名を、私の声で定着させるのでしょう」

「あなたが呼べば、応答する可能性が高い」

「信頼を利用するのですか」

「信頼を、家を守るために用いる」

「言葉を仕立て直しても、行為は変わりません」

 

 リディアは机上の二枚を見た。

 

 クロウ家が再び働ける未来。

 エルゼが北棟を出られる未来。

 

 どちらも、悪い未来ではない。

 ただ、縫い目の裏側に条件が隠されている。

 

「二つの契約は別だ」

 

 公爵が言った。

 

「家庭教師を辞めれば、債務再編を受けられる。別名登録へ協力すれば、あなたを王都の名籍管理官として推薦する」

「別紙にすれば、交換条件ではないと?」

「私は、あなたの家へ再建の機会を与えている」

「同時に、エルゼ様へ別人の名を着せる役目も」

「別人にはならない」

「そう言い切れる根拠は?」

「王都の命名官が、安全性を確認している」

「ご本人に会わずに?」

「家系記録、血液、髪、主紋への適性があれば設計できる」

 

 血。髪。記録。

 北棟へ持ち込んではならないとされたものを、公爵家はすでに保管している。

 

「名前は、体に合わせて仕立てる衣服ではございません」

「衣服なら、危険なものは脱がせられる」

「皮膚まで一緒に剝がれる可能性を、考えていらっしゃらない」

 

 公爵は立ち上がった。

 窓辺の領地図へ近づく。

 北端に、片翼の鷲が薄く残っていた。

 

「私には、家全体への責任がある」

「エルゼ様も、その家の一人です」

「一人の望みのために、何千人を危険へさらすことはできない」

「そのために、十八年間、一人を閉じ込めた」

「そうだ」

 

 声は揺れなかった。

 正しいと誇る響きもない。

 必要なら、もう一度同じ扉を閉めると告げていた。

 

「今すぐ返答を求めるつもりはない」

 

 公爵は席へ戻る。

 

「債務再編案は持ち帰りなさい。名籍草案は北棟へ持ち込むな」

「ご本人には知らせないと?」

「まだ決定事項ではない。無用な刺激を避ける」

「本人の名前について、本人だけを機密の外へ置くのですか」

「命令だ」

「家庭教師契約には、重要事項を隠す義務はございません」

「機密保持義務はある」

「エルゼ様は、機密ではありません」

 

 リディアは二枚の書類を重ねた。

 

「どちらも説明いたします」

「クロウ嬢」

「私の家族に関わる条件も。エルゼ様に関わる名も。私一人で決めることではございません」

 

 扉へ向かう。

 

「債務再編を失うことになるぞ」

 

 足が止まった。

 

 母の薬、弟たちの学費、抵当に入った屋敷。

 それらが、紙の重みとなって腕へかかる。

 

「あなたが正しさを守った代価を、家族に払わせるのか」

 

 公爵の言葉は、刃より秤に近かった。

 どちらが重いかを、リディア自身へ量らせる。

 

「正しいから拒むのではございません」

 

 リディアは扉へ手をかけた。

 

「私一人で、家族の未来も、エルゼ様の名前も決められないからです」

「セレネなら、北棟から出られる」

 

 振り返る。

 

「エルゼのまま出る道を、まだ調べておりません」

「存在しない道を探す間に、事故が起きる」

「存在しないと決めるには、早すぎます」

 

 

 

 執務室を出ると、クラリッサが窓辺に立っていた。

 偶然を装うつもりはないようだった。

 

「セレネの草案ですね」

 

 リディアが抱えた書類を見る。

 

「ご存じだったのですか」

「昨夜、父上から聞かされました」

「賛成なさった?」

「いいえ」

「では、反対は?」

 

 クラリッサは、すぐには答えなかった。

 

「その名であれば、エルゼ様を北棟から出せるかもしれません」

「だから迷っていらっしゃるのですね」

「ええ」

 

 窓硝子へ、淡い顔が重なる。

 

「エルゼの名が本家へ戻れば、あの方を当主に推す者が現れるかもしれません」

「……ご自身の継承権が脅かされる」

「ええ。恐ろしいと思っております」

 

 クラリッサは否定しなかった。

 

「主紋事故も。継承争いも。どちらも」

「それでも、お母上の遺品を調べられるのですか」

「恐れているものの正体も知らず、父上の判断だけを着るつもりはありません」

 

 クラリッサは小さな紙片を差し出した。

 

 遺品庫の外箱目録だった。

 

第三出産時記録箱

乳母日誌

産着

未送付書簡三通

北方紋照合票

公爵家当主印により封鎖

 

「北方紋照合票」

「母上が、別名ではなく紋を分ける方法を調べていた可能性があります」

「中を確認できますか」

「私の後継者印だけでは足りません。現当主印か、王立命名院の保全命令が必要です」

「照会なさるのですね」

「準備しております」

 

 クラリッサは紙片を見つめる。

 

「まだ、目録だけですが」

「エルゼ様へ話しても?」

「構いません」

「ご自身でなさった方が宜しいかと存じますが」

「私が北棟へ行けば、父上に止められます。手紙を出しても、また別の銀線が縫いつけられるでしょう」

「私を使うのですね」

「ええ」

 

 答えは静かだった。

 

「あなたなら、エルゼ様へ届きますから」

「目的は?」

「母上が何を残したか知りたい。エルゼ様へ名を返す道があるなら、確かめたい」

 

 一度、言葉を切る。

 

「同時に、私が本家を継ぐためでもございます」

 

 エルゼが本家へ戻るのか。

 別の家を持つのか。

 名を消されたまま残るのか。

 

 どの答えも、クラリッサの未来を縫い替える。

 

「すべて、ご本人へ説明します」

 

 リディアは言った。

 

「債務再編も、別名も、この目録も」

「父上はお怒りになるでしょう」

「すでに怒っていらっしゃいます」

「主紋が反応する危険もあります」

「それでも、ご本人の名前です」

 

 クラリッサは頷いた。

 

「私も結果を引き受けます」

「……北棟の外から?」

 

 問いは少し鋭くなった。

 クラリッサの指が、袖口へ沈む。

 

「今日は、まだあの扉まで参れません」

「怖いからですか」

「はい」

 

 正直な返答だった。

 

「ですが、調査は始めます」

 

 いつか、とは言わなかった。

 

 

 

 リディアは一度客室へ戻り、母宛ての手紙を書いた。

 

 債務再編の条件。

 公爵家から提示された仕事。

 北棟を辞めることが条件であること。

 そして詳しくは書けないが、他人の意思に反する仕事を求められていること。

 

 家族のためだからと、家族へ尋ねずに決めるわけにはいかない。

 封を閉じた指に、赤い蝋が薄く残った。

 

 それから二枚の書類を抱え、北の離れへ向かった。

 

     

 

 白い扉の向こうで、エルゼは銀鈴草の発表文を書いていた。

 リディアが入ると、顔を上げる。

 

「おはようございます、先生」

「おはようございます」

「父上のお話は、終わりましたか」

「ええ」

 

 エルゼは机の上を片づけた。

 

「私に関係するお話でしょうか」

「関係します」

 

 リディアは向かいへ座る。

 

「隠さずにお話しします」

 

 エルゼは先を急かさず、両手を机の上へ置いた。

 

「まず、私の家のことです」

 

 債務再編案を差し出す。

 エルゼは紙を読む。数日前よりもずっと滑らかに視線が動いた。

 

「よい条件に見えます」

「ええ」

「先生のご家族は、今より楽になりますか」

「働いて返せるようにはなります」

「条件は?」

「北棟の家庭教師を辞め、あなたとの接触を終えることです」

 

 窓の端へ、薄い霜が浮いた。

 エルゼはそれを見た。

 

 銀鈴草の頁へ手を置き、息を一つ整える。

 霜は、細い縁のまま止まった。

 

「先生は、どのようになさりたいのですか」

「家族と話して決めます」

「私を選ぶとは、おっしゃらないのですね」

「……ええ。家族を捨てるとも申し上げません」

 

 エルゼは債務再編案から手を離した。

 

「もう一つございます」

 

 名籍草案を机へ置く。

 整えられた名前が、白い紙の中央に横たわる。

 エルゼの瞳から、動きが消えた。

 

「こちらは」

「公爵閣下が、王都の命名官と用意した名です。あなたを傍系令嬢として登録するための」

「読まないでください」

 

 リディアは、まだ音にしていなかった。

 

「読みません」

「先生が、最初に呼ぶのですか」

「そう求められました」

 

 机の下で、影が一度だけ揺れる。

 エルゼは両手を、さらに明るい場所へ置いた。

 

「お呼びになりますか」

「あなたの同意がなければ、呼びません」

「父上に命じられても?」

「ええ」

「先生のご家族が助かるとしても?」

 

 責める響きはなかった。

 ただ、同じ机に置かれた二枚を見ている。

 

「家族のために何を選ぶかは、家族とも話します」

 

 リディアは答えた。

 

「ですが、あなたの名を、私だけの交換材料にはいたしません」

 

 エルゼは名籍草案を見る。

 

「この名前なら、外へ出られるのですか」

「可能性があります」

 

 リディアは、公爵の提案を説明した。

 傍系としての身分。別邸。正式な教育。扶持。改めて口にしても、利があるように見える。

 

「北の離れより、自由な生活になるでしょう」

「先生もいらっしゃいますか」

「公爵閣下は、それを認めません」

「では、嫌です」

 

 返答は早い。

 

「私がいるかどうかだけで決めないでください」

「では、先生は」

 

 エルゼは紙の名へ視線を落としたまま尋ねる。

 

「この名前を、よいと思われますか」

 

 リディアは答えに詰まった。

 エルゼは北棟を出られる。身分を得られる。教育を受けられる。クロウ家の負担も軽くなる。

 

「現実的な利点はございます」

 

 言葉を置いた瞬間、室内が少し広くなったように感じた。

 エルゼが遠ざかったのだ。

 椅子から動いてはいない。

 ただ、二人の間に白い紙が一枚増えた。

 

「検討する価値はあると?」

「あなたを外へ出す機会ではあります」

「安全になるのは、どなたでしょう」

 

 エルゼが顔を上げる。

 

「私ですか。父上ですか。この家ですか」

「家全体にとっては──」

「私にとっては?」

 

 リディアは答えられなかった。

 公爵と同じ順序で考えかけていた。

 

 危険を減らす。外へ出す。生活を整える。

 そのためなら、名前を一枚着替えさせてもよいのではないかと。

 

「申し訳ありません」

 

 リディアは言った。

 

「今、あなたの名前を、外へ出るための道具として見ました」

 

 エルゼの指が、名籍草案の端へ近づく。

 だが、触れない。

 

「きれいな名前です」

「ええ」

「きれいな扉もついています」

 

 閉ざされた北塔。その向こうへ続く扉。

 

「ですが、内側から開く取っ手が、私の手にありません」

 

 エルゼの声は穏やかだった。

 

「私の寸法を測らずに仕立てた服を着て、外へ出たとしても」

 

 灰色の瞳が、紙の名を映す。

 

「中にいるのは、誰なのでしょう」

 

 リディアは何も言わなかった。

 

「私は、エルゼでいたいです」

「……なぜですか」

「先生が呼んでくださったから」

 

 一度、言葉を切る。

 

「それだけではありません」

 

 銀鈴草の頁へ手を置く。

 

「母上が、そう呼んだかもしれないから。焼かれても、頭文字が残っていたから」

 

 エルゼは自分の胸元へ触れた。

 

「そして、先生がいらっしゃらない時にも、私はエルゼだと思いました」

 

 以前なら、リディアの声だけを理由にした。

 今は、自分の内側から名を拾い上げている。

 

「記録されていなくても?」

「登録されていないだけです」

「北棟から出られないとしても?」

 

 エルゼの瞳は揺れなかった。

 

「それでも、別の人として出るよりは」

 

 リディアは、名籍草案を見た。

 きれいに仕立てられた名前。

 着せれば、外へ出られるかもしれない。

 

 だが、本人は袖を通さないと決めている。

 

「別の命名官が、強制的な登録を試みる可能性もあります」

「私の髪や血を使って?」

「その可能性はございます」

「その方は、私の名前を知りません」

「ええ」

「私も、その方を知りません」

「ええ」

「先生にも」

 

 エルゼは一度、息を止める。

 

「その名では呼ばれたくありません」

「わかりました」

「……本当に?」

「あなたの同意がない限り、呼びません」

 

 エルゼはリディアの顔を見る。

 嘘ではなく、言葉の縫い目を確かめている。

 

「エルゼとは?」

「必要な時に呼びます」

「必要がない時にも、呼んでいただきたいです」

「名前を、不安のたびに確かめる薬にはいたしません」

「ですが」

「今、ご自分でエルゼだと言えました」

 

 エルゼは口を閉じる。

 

「私が呼ばない時にも、あなたの名です」

「先生がいらっしゃらなくても?」

「ええ」

「別の命名官が来ても?」

「あなたが手放さない限り」

 

 エルゼは名籍草案を見下ろす。

 

「では、手放しません」

 

 紙を凍らせもしない。破りもしない。

 自分の名ではないものとして、ただ机の上へ置いている。

 

「クラリッサ様が、お母上の遺品目録を確認なさいました」

 

 リディアは紙片を取り出した。

 

「第三出産時の記録箱。乳母日誌、産着、未送付書簡。それから、北方紋の照合票です」

 

 エルゼの瞳が見開かれる。

 

「私のものですか」

「可能性がございます」

「姉上が見つけたのですね」

「ええ。王立命名院へ、開封のための照会を準備しています」

「姉上は、私を助けたいのでしょうか」

「それだけではありません」

 

 クラリッサの恐れも。継承権も。本家を自分で継ぎたいという望みも。

 リディアは隠さず伝えた。

 

「姉上も、ご自分のためなのですね」

「その面もございます」

「先生も?」

「何がでしょう」

「私がエルゼでいる道を探したいのは、私のためだけですか」

 

 命名官家の倫理。公爵への反発。

 消された名前を見過ごせない性格。

 それから、別の誰かがエルゼへ名を着せることへの、説明しにくい嫌悪。

 

「まだ、わかりません」

 

 リディアは答えた。

 

「では、先生もお調べください」

「私の理由を?」

「はい」

「課題を出す側は私です」

「今は、私からの課題です」

 

 エルゼの口元へ、ごく薄い笑みが浮かぶ。

 すぐに消えた。

 

「家族と、私の名前を、同じ机へ置かれて」

 

 二枚の書類を見る。

 

「お苦しいですか」

「ええ」

「どちらかを選ばなければならないから?」

「選ばずに済むとは思っておりません」

 

 エルゼは白い壁を見回した。

 封じられた窓。

 三つの鍵。

 北棟そのものが、一つの大きな箱の内側だった。

 

「選ばなくても、両方がここにあればよいのに」

 

 静かな言葉だった。

 リディアの背を、冷たい糸が一本なぞる。

 

「何をお考えですか」

「まだ、何も」

「まだ?」

 

 エルゼは名籍草案へ目を戻す。

 

「先生が選ばなくて済む場所があれば、と考えただけです」

「私の代わりに、道を消さないでください」

「消しません」

「隠すことも。閉じることも」

 

 灰色の瞳がわずかに揺れる。

 

「先生は、私を疑いすぎです」

「これまでの行動を考えてください」

「……はい」

 

 エルゼは名籍草案へ手を伸ばしかけ、止める。

 

「こちらを、お預かりしてもよろしいですか」

「何のために?」

「私の名前ではないと、自分で確かめるためです」

「凍らせたり、隠したりしませんか」

「お約束は──」

 

 言いかけて、エルゼは考え直した。

 

「破りません。先生の許可なく、書類を傷つけません」

 

 リディアは草案を机へ残した。

 

「明日、返してください」

「明日もいらっしゃるのですか」

「家族からの返事次第です。まだ約束はできません」

「はい」

 

 エルゼは、それ以上求めなかった。

 

「今日は、授業を続けますか」

「銀鈴草の発表を伺います」

「名前のお話は?」

「終わっておりませんが、一度保留です」

「保留ですか」

「ええ」

 

 エルゼは発表文を手に取る。

 

「表題は?」

「呼ばれなくても残るものについて、です」

 

 銀鈴草の根。雪の下で過ごす冬。

 誰にも見つけられず、それでも春になれば自ら芽を出すこと。

 エルゼは、自分の言葉で読み上げた。

 

 名籍草案は、机の端に置かれている。

 その名前は、最後まで声にならなかった。

 

     

 

 授業を終え、リディアは扉へ向かった。

 

「先生」

「何でしょう」

「私がエルゼでいる道を、探していただけますか」

 

 要求でも。縋る声でもなかった。

 

「探します」

 

 リディアは答える。

 

「見つからなくても、あるとは申し上げません」

「はい」

「ですが、調べ終えるまでは、別の名を呼びません」

 

 その約束だけは、迷わなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 白い扉が閉じ始める。

 細くなった隙間の向こうで、エルゼは名籍草案を見ていた。

 

 破らない。

 隠さない。

 傷つけない。

 

 そう約束した紙へ、指先を触れさせる。

 

「この部屋では」

 

 エルゼの声が、閉じる扉の隙間から届いた。

 

「私が認めない名前は、入れません」

「エルゼ様?」

 

 床の奥で、重いものが動いた。

 古い机の脚を、長い眠りから引き起こすような音だった。

 

 扉が閉じる。

 三つの鍵が落ちても、床下の響きはしばらく消えなかった。

 

 

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